第八章 敵は本能寺にあり
六月一日の夜。
明智勢一万三千は、松明を絞って老ノ坂を登っていた。
空には雲がかかり、月はときおり隙間から白い光を落とす。
馬の鼻息。甲冑の擦れる音。誰かが咳を押し殺す気配。
一万を超える軍勢とは思えぬほど、道は静かであった。
夜行軍である。珍しいことではない。昼に大軍で京を抜ければ道が塞がる。だから夜のうちに坂を越え、朝には桂川を渡る。
誰もが、そう聞かされていた。
光秀自身も、亀山を出るまではそのつもりであった。
少なくとも、そう思おうとしていた。
懐に、一枚の紙がある。
昨夜、自分で書いた。
破らなかった。燃やさなかった。
その事実だけが、他のすべてより重かった。
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坂を越えた。
丹波が終わり、山城が始まる。
国境である。
振り返れば、闇の中に自分の国があった。
もう見えない。
沓掛に着いたのは、夜半を回った頃であった。
ここから道が分かれる。
西へ行けば西国街道。摂津、播磨、そして備中。
東へ折れれば、京。
「休ませる」
光秀が言った。
「一刻」
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「殿」
斎藤利三が幕の内へ入ってきた。
「先陣の支度、整うております」
「座れ」
利三が正面に腰を下ろした。
しばらく、光秀は何も言わない。
幕の外を兵が通る。遠くで馬がいなないた。
「利三」
「は」
「上様が今夜死ねば」
利三の顔から表情が消えた。
「殿」
「天下はどうなる」
「何を仰せに」
「答えよ」
利三は光秀を見つめた。
「……信忠様がおられます」
「信忠殿も京だ」
「では」
利三は、その先を言わなかった。
光秀が続けた。
「柴田は北陸。滝川は関東。羽柴は備中で堤を守っている。丹羽は摂津だが、兵は船に分けてある。徳川殿は堺、供は数十」
「殿」
「細川は丹後。筒井は大和。高山は摂津」
利三は理解した。
主君が何を考えているのかを。
「いつから」
低い声であった。
「分からぬ」
それは本当であった。
「誰かに」
「何だ」
「誰かに、勧められましたか」
光秀はゆっくり首を振った。
「誰にも」
「本当に」
「誰にもだ」
利三は目を伏せた。
しばらくして、顔を上げた。
「ならば、殿ご自身のお考えということにございますな」
光秀は答えなかった。
その沈黙が、答えであった。
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「わしは」
光秀が口を開いた。
「上様を憎んでおるのだろうか」
利三は答えない。
「饗応で叱られた。中国へ行けと言われた。腹も立った。それだけで主君を討つほど、わしは愚かか」
「殿はそうではありますまい」
「ならば、なぜだ」
光秀は自分に問うように言った。
「瓦礫のごとき身を拾われた。領地をいただいた。丹波を任された。いまの明智光秀があるのは、あの御方のおかげだ」
「はい」
「恩がある」
「はい」
「それでも」
膝の上の手が固くなった。
「この先を、あの御方お一人に委ねてよいのかと思う」
「天下を、でございますか」
「この国をだ」
光秀は静かに言った。
「天下を取った後も戦い続けるなら、何のために天下を取る」
「……」
「上様が正しいのかもしれぬ。わしが臆病なのかもしれぬ。老いたのかもしれぬ。変わってゆくものに、ついてゆけぬだけかもしれぬ」
光秀は自嘲した。
「分からぬ」
「ならば」
利三が慎重に言った。
「今夜、お決めにならずとも」
光秀の目が利三へ向いた。
「中国へ行けばよいと申すか」
「はい。羽柴様を助け、毛利を破り、それからまたお考えになれば」
「その時も、本能寺に上様が少数でおられると思うか」
利三は黙った。
「柴田が北陸におるか」
「……」
「滝川が関東におるか」
「……」
「羽柴が身動きできぬほど、毛利と向き合っておるか」
「……」
「これほどの時が」
光秀は声を落とした。
「二度あると思うか」
利三の背に、冷たいものが走った。
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光秀は立ち上がり、幕の外へ出た。
夜空がある。
道が二つに分かれている。
西と、東。
距離にすれば、京まで大したことはない。
利三も外へ出てきた。
「殿」
「何だ」
「細川様は」
その名で、光秀の視線が動いた。
「どうなさると思われます」
「藤孝か」
「はい」
光秀は少し考えた。
「分かってくれる」
迷いのない声であった。
だからこそ、利三はむしろ不安になった。
「確かでございますか」
「確かとは」
「事前にお話は」
「しておらぬ」
「では」
「藤孝はわしの友だ」
「それだけで」
「それだけではない」
光秀は少し強く言った。
「忠興殿は玉の夫。両家は血で結ばれている。藤孝は上様を知らぬ男ではない。天下の先が読めぬと、あの男自身が言うていた」
利三は黙って聞いている。
「必ずわしにつく」
光秀が言った。
その言葉を、光秀は藤孝から一度も聞いたことがない。
誰からも、聞いたことがない。
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「筒井様は」
「順慶も動く」
「高山様は」
「右近も」
「なぜ」
「他に何がある」
光秀は地面へ視線を落とした。
「上様と信忠殿が同時におられなくなれば、織田の中心は消える。柴田も羽柴も遠い。畿内で兵を持つ者が集まれば、京は押さえられる」
「その後は」
「……」
「殿」
利三が問うた。
「その後、誰を天下人になさいます」
光秀は答えなかった。
「殿ご自身で」
「分からぬ」
「では、信忠様の御子を」
「三法師」
「はい」
光秀は目を細めた。
三法師。上様の孫。信忠殿の子。まだ幼い。
「織田家を滅ぼす必要はない」
「なら」
「上様お一人を除けば」
言ってから、光秀は自分の口から出た言葉に沈黙した。
除く。
あまりに簡単な言葉であった。
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「三法師様を立てる」
利三が言う。
「細川、筒井、高山を味方につける」
「朝廷にも働きかける」
光秀が続けた。
「上様の天下を壊すのではない」
「……」
「行き過ぎたものを、戻すのだ」
自分に言い聞かせるように言った。
「天下を乱すのではない。守るのだ」
利三は何も言わなかった。
――先に理屈をお作りになります。
死んだ妻の声が、ふと浮かんだ。
光秀は、それも聞かなかったことにした。
議論はもう、そこまで進んでいる。
謀反をするかどうかではない。
謀反の後、天下をどう整えるか。
光秀自身が、それに気づいた。
奇妙であった。
誰かと相談した覚えはない。何ヶ月もかけて練った覚えもない。
それなのに、答えが揃っている。
柴田は北。滝川は東。羽柴は西。細川は味方。筒井も、高山も。上様は少数。信忠殿も京。朝廷は近い。三法師を立てれば、織田の大義も使える。
一つ一つは、以前から知っていた事実である。
ただ今夜、それらが一つの形になった。
――どうする、ではなく。どうされるかを考える者も、おりましょうな。
安土で聞いた商人の言葉が、ふと浮かんだ。
光秀は少し眉を寄せ、すぐに忘れた。
あれは南蛮人の話であった。今夜のこととは関わりがない。
これは自分が見て、自分で考え、自分でたどり着いたものである。
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「利三」
「は」
「お前は反対か」
利三は長いあいだ答えなかった。
「反対なら、いまここで申せ」
「……」
「まだ戻れる」
利三に言っているようで、自分に言っているようでもあった。
まだ西へ行ける。中国へ。命の通りに。羽柴を助け、毛利を攻め、いつものように功を立てて帰る。
それで何も起きない。
利三がゆっくり口を開いた。
「一つだけ」
「何だ」
「殿は」
光秀を見る。
「上様を討たれた後も、いまの殿でおられますか」
光秀は答えられなかった。
「私は」
利三は続けた。
「天下がどうなるかなど分かりませぬ。南蛮も、明も、朝鮮も、私には遠すぎます」
「そうだな」
「ただ」
利三は一度、息をついた。
「殿が中国へ行かれた後、いつか悔やまれるのなら」
「……」
「今夜のことを、生涯お考えになるのなら」
利三は頭を下げた。
「私は、お供いたします」
光秀は何も言わなかった。
ただ、長く仕えた家臣を見た。
「そうか」
それだけであった。
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明智秀満、溝尾茂朝、藤田行政が呼ばれた。
幕の中に、五人。
「軍路を変える」
光秀が言った。
「どちらへ」
秀満が問うた。
簡単な問いであった。
光秀は、すぐには答えなかった。
西。中国。
東。京。
ほんの数息のあいだに、多くの顔が浮かんだ。
妻。玉。藤孝。忠興。上様。
そして、丹波。城下。道。田。村。
この国を戦のない国にしたい。
それは嘘ではない。
上様を恐れている。
それも嘘ではない。
自分が天下を取りたい。
その思いがまったくないかと問われれば、光秀は自分の胸の中を否定できなかった。
野心もある。
それも嘘ではない。
ならば、すべてを綺麗な大義にする必要はない。
光秀は深く息を吸った。
「京へ向かう」
秀満が光秀を見た。
意味を理解するまで、少し間があった。
「京へ」
「ああ」
「中国ではなく」
「京だ」
光秀はもう一度言った。
「本能寺へ行く」
秀満の顔が変わった。
溝尾が息を呑む。
藤田は動かなかった。
利三は目を閉じている。
「上様がおられる」
光秀が言った。
「供は多くない。信忠殿は妙覚寺のあたりだ。手を分けて、同時に当たる」
誰も口をきかなかった。
やがて藤田行政が、低い声で言った。
「兵には、何と」
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光秀は答えた。
「言うな」
「は」
「桂川までは、何も言うな」
「ですが、道が違いまする。兵は気づきましょう」
「気づく前に渡る」
光秀は地図を指した。
「どうしても問う者には、上様が軍勢を上覧なさる、と申せ」
秀満が顔を上げた。
「上覧」
「中国へ発つ前に、上様が我らの備えをご覧になる。だから京へ回る」
誰も何も言わない。
そのうち、溝尾茂朝が小さく言った。
「……筋は通りまする」
「通る」
光秀は言った。
「上様なら、なさりかねぬ」
それは事実であった。
信長という人はそういう男である。思いつきで軍勢を並べさせ、思いつきで褒め、思いつきで叱る。
だから兵は疑わない。
光秀は自分の口が、あまりに滑らかにその嘘を吐いたことに気づいた。
嘘ではない、と思おうとした。
思えなかった。
この夜、初めて嘘をついたのは、自分であった。
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軍勢が動き出した。
東へ。
沓掛から下れば、桂川はもう近い。
道が変わったことに、気づく者はいた。
だが問う者はほとんどいない。
武士は命に従う。足軽は旗についていく。
行き先を考えるのは、上にいる者の仕事である。
問う者があれば、組頭がこう答えた。
「上様が軍勢を上覧なさる」
それで済んだ。
皆、なるほどと思った。
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桂川の岸に着いたのは、まだ暗いうちであった。
水は浅い。
光秀は馬を止め、伝令を呼んだ。
「全軍へ」
「はっ」
「馬の腹帯を締め直せ」
「はっ」
「足軽は新しい草鞋に履き替えよ」
「はっ」
「火縄は一尺五寸に切り、火を点けて振り回しておけ」
伝令の動きが、そこで止まった。
火縄に火を点ける。
それは、これから撃つということである。
京に、撃つべき敵はいない。
伝令は光秀を見た。
光秀は何も言わなかった。
「……はっ」
伝令が走った。
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命令は水が広がるように伝わっていった。
腹帯。草鞋。火縄一尺五寸。
一つ目で、古参の者が顔を上げた。
二つ目で、多くの者が黙った。
三つ目で、全軍が理解した。
誰も光秀に問わなかった。
ざわめきが波のように走り、そして消えた。
消えてから後は、かえって静かであった。
一万三千が川を渡りはじめる。
水の音が、夜明け前の京の方へ流れていく。
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空が薄く白みはじめた。
四条西洞院。
本能寺の堀と塀が見える。
寺である。城ではない。
光秀は前線へは出なかった。
少し離れた辻に馬を立て、報せを待った。
最初の銃声が聞こえたのは、それからすぐであった。
一発。
少し置いて、幾つも。
鬨の声が上がる。
鐘。
叫び声。
馬。
やがて、煙が上がりはじめた。
朝の風が、それを南へ流していく。
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報せが次々と届いた。
「門を破りましてございます」
「近習が防いでおります」
「上様が弓を取っておられると」
光秀は聞いていた。
顔は動かない。
「弓の弦が切れ、槍に持ち替えられた由」
「肘に槍を受けられ、奥へ入られましてございます」
「奥へ」
「はい」
光秀は口を開かなかった。
「殿」
利三が横に来る。
「妙覚寺へ回した手より報せが。信忠様は二条の御所へ移られ、そこで防いでおられるとのこと」
「囲め」
「はっ」
「逃がすな」
自分の声が、思ったより平らであった。
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火の手が強くなった。
本能寺の屋根が落ちる音が、遠くまで届いた。
やがて、報せが来た。
「御殿に火が入りましてございます」
「上様は」
「奥にて」
伝令が言い淀んだ。
「奥にて、御自害と」
光秀は動かなかった。
「見たのか」
「……」
「誰か、見たのか」
「火が強く、中へは入れませぬ」
光秀は前を見た。
燃えている。
寺が、朝の空へ煙を上げている。
「御遺骸を探せ」
「はっ」
「必ず探せ」
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昼まで探させた。
瓦を退け、灰を掻き、焼け跡を掘らせた。
何も出なかった。
小姓のもの、女房のもの、身元の分からぬものは幾つも出た。
だが、それと分かるものは、ついに出なかった。
「殿」
「まだ探せ」
「三度、掘り返しましてございます」
「もう一度だ」
利三が黙って光秀を見た。
光秀もそれ以上は言わなかった。
二条御所は昼過ぎに落ちた。信忠も自害した。
織田の中心は、半日で消えた。
消えたはずであった。
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夕刻。
光秀は焼け跡の前に立っていた。
まだ熱い。
人がいない。
寺だったものが、黒い形になって残っている。
自分がやった。
誰にも命じられていない。
誰にも勧められていない。
誰にも脅されていない。
あの夜、地図を見たのは自分である。数えたのも自分である。書いたのも、破らなかったのも自分である。
道を東へ折れよと言ったのは、自分である。
嘘をついたのも、自分である。
光秀は焼け跡を見ていた。
遺骸はない。
あれほど大きかった人が、灰の中のどこにもいない。
――どこにもおられぬ。
その事実に、光秀は初めて、足元が揺れるような気がした。
しばらくして、光秀は目を閉じた。
そして、心の中ではっきりと言った。
ここから先は、誰のせいにもできぬ。




