第七章 中国出陣
天正十年、五月末。
亀山城は、夜の続きのように人が動いていた。
馬。槍。鉄砲。兵糧。旗。甲冑。荷駄。
声を潜めていても、軍勢というものは静かにならない。鉄が触れ合い、馬が鼻を鳴らし、草履が土を擦り、遠くで誰かが怒鳴っている。
中国へ。備中へ。
羽柴秀吉を助けるため。
上様の命に従って。
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「何人出せる」
光秀が問う。
「すぐに動かせる者で、一万三千ほど」
斎藤利三が答える。
「遅れて合流する者を含めれば」
「いらぬ」
「は」
「最初に動ける数だけでよい」
「一万三千」
「鉄砲は」
「およそ千」
「玉薬は」
「備中まででしたら、余りが出ましょう」
「余るのか」
「先頃の堺の分がございます」
光秀は帳面を見た。
兵糧。馬。足軽。鉄砲。槍。弓。荷駄。
すべて数字である。
戦とは、始まる前は数字であった。
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「殿」
「何だ」
「少しお休みになられては」
「眠った」
「二刻ほどにございます」
「十分だ」
「十分ではございませぬ」
「戦場で八刻眠れると思うか」
「まだ戦場ではございませぬ」
「なら今から慣れておけばよい」
利三は諦めたように黙った。
それから、思い出したように帳面をめくった。
「四国のことにございますが」
「何だ」
「三七様の御渡海が、六月の初めと聞こえております」
光秀の手が止まった。
「早いな」
「はい」
「長宗我部は」
「阿波の城を幾つか捨てる構えとか」
「捨てて、どうする」
「土佐へ退いて、詫びを入れるおつもりかと」
「上様は容れられぬ」
「恐らくは」
光秀は帳面を置いた。
「もう間に合わぬな」
「……はい」
利三の声が、少しだけ低くなった。
光秀は顔を上げなかった。
「お前の縁者は」
「……」
「どうにもならぬか」
「どうにも」
それだけであった。
二人ともそれ以上は言わない。
利三は帳面を閉じ、いつもの声に戻った。
「兵糧の続きを申し上げます」
「うむ」
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昼、堺から人が来た。
柏屋宗慶である。硝石の勘定を締めに来たという。
「戦の前に、掛けを残しては縁起が悪うございます」
「商人らしい理屈だ」
「商人にございますので」
勘定は短く済んだ。
連れが一人いた。
京で会った、あの地味な男である。
「庄左衛門と申します」
「覚えている」
「恐れ入ります」
光秀は少し珍しく思った。
「紙や書物を商う者が、なぜ来た」
「柏屋殿の帳面を書く手が足りぬと申しますので」
「便利な男だな」
「筆より他に、取り柄がございませぬ」
光秀は笑った。
それから、何気なく尋ねた。
「中国はどうなると思う」
庄左衛門は筆を止め、少し困った顔をした。
「武家のことは、分かりませぬ」
「商人の見立てでよい」
「商人は道と値しか見ませぬ」
「それでよい」
「では」
庄左衛門は本当に困っているように見えた。
「備中の道は、いま塞がっております。それだけにございます」
それきり、何も言わなかった。
軍の話をしたくない男の顔であった。
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勘定が済み、二人が帰り支度をする。
光秀はふと、思いついたように言った。
「一つ聞く」
「はい」
「商人の間で、細川はどう見られておる」
「細川様、と申しますと」
「丹後だ。藤孝と、忠興と」
庄左衛門は少し考えた。
「よく治まった国だと聞いております。宮津の湊も、この二年で船が増えました」
「それだけか」
「あとは……」
庄左衛門は言い淀んだ。
余計なことを言うべきかどうか、迷ったように見えた。
「申せ」
「では」
庄左衛門は頭を下げた。
「細川様は、明智様を慕うておられます」
光秀は少し笑った。
「なぜ分かる」
「丹後へ入る商人が、皆そう申します。藤孝様は明智様のお話をよくなさると」
「悪口だろう」
「悪口を言う相手の話は、そう幾度もいたしませぬ」
光秀は笑った。
それだけの話であった。
二人は頭を下げて去った。
光秀はもう、この男たちのことを考えなかった。
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その日のうちに、書状が三通届いた。
細川藤孝から。
『御武運を祈る。帰陣の折には、また歌でも』
光秀は読んで笑った。
「相変わらずだ」
「細川様から」
「戦場へ行く者に歌を作れと言うてくる」
「藤孝様らしゅうございますな」
光秀は書状を畳んだ。
少し心が軽くなった。
筒井順慶からも来ていた。
『中国御出陣の由、御武運長久を祈り奉る』
それだけである。
高山右近からも使者があった。
「御出陣の御武運を、とのみ」
「そうか」
光秀は少し笑った。
「皆、律儀だな」
「殿の人徳にございましょう」
「本人の前で言うな」
「なぜ」
「信じたくなる」
利三が笑った。
「信じられればよろしいでは」
「人徳ほど」
光秀は静かに言った。
「当てにならぬものはない」
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その言葉に、利三は少し引っかかった。
「殿」
「何だ」
「近頃、悲観的にございますな」
「そうか」
「以前なら、もっと人を信じておられました」
光秀は利三を見た。
「わしは今も信じている」
「誰を」
即答できなかった。
ほんの一瞬である。
だが、利三は気づいた。
光秀が少し笑う。
「藤孝」
「なるほど」
「妻」
「はい」
「お前」
利三が驚いた顔をした。
「最後にございますか」
「順に意味はない」
「そういうことにしておきます」
二人は少し笑った。
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出陣の前に、光秀は愛宕へ登った。
戦勝祈願である。珍しいことではない。
山は深く、道は湿っていた。五月の空は重く、いつ降り出してもおかしくない。
西坊威徳院に一夜こもった。
夜、光秀は籤を引いた。
開いて、しばらく見た。
それから、もう一度引いた。
僧が何も言わずに見ている。
光秀も何も言わなかった。
三度目を引いてから、光秀は籤を戻した。
「よく当たるか」
「さて」
老いた僧が答えた。
「当たったと申される方は、たいてい後になってから仰せられます」
光秀は笑った。
「では当たらぬな」
「戦の前に籤を引かれる方は、皆そう仰せになります」
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翌日、連歌の会が開かれた。
里村紹巴。威徳院行祐。光秀の家中の者も加わる。
外は霧であった。
雨になる前の、重い匂いがしていた。
光秀が発句を詠んだ。
ときは今あめが下しる五月かな
紹巴が短く息を吸った。
褒める息であった。
「よい句にございます」
「そうか」
「梅雨の入りが、そのまま出ております」
「それだけだ」
「それだけが難しゅうございます」
行祐が脇を付けた。
水上まさる庭のまつ山
句は続いていった。
百韻である。夕方までかかった。
誰も、発句について、それ以上のことを言わなかった。
光秀自身も、何も考えていなかった。
雨が近い。それだけの句であった。
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亀山へ戻ったのは、その翌日である。
夜、軍議が開かれた。
明智秀満が地図を広げる。溝尾茂朝、藤田行政、そして利三が座についた。
「明朝は出ぬ」
光秀が言った。
「六月一日の夜に発つ」
「夜にございますか」
「昼に大軍で京を抜ければ、道が塞がる。夜のうちに老ノ坂を越え、朝には桂川を渡っておきたい」
「承知」
地図が広げられる。
亀山。老ノ坂。京。摂津。播磨。備中。
光秀の指が、一瞬、京で止まった。
「殿」
秀満が見る。
「何でもない」
光秀は指を動かした。
「そこから播磨へ入る」
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「上様は」
誰かが何気なく聞いた。
「どちらに」
光秀が顔を上げる。
「何だ」
「中国へ向かわれるのでございますか」
「知らぬ」
「安土におられるのでは」
「いや」
別の者が答えた。
「近く京へ入られると聞いた」
「何のために」
「御公家衆とのことかと」
「宿は」
「本能寺と聞いております」
その名が出た。
軍議の中で、道と宿の話として。
誰も、何とも思わなかった。
光秀も、顔を動かさなかった。
「続けよ」
軍議は続いた。兵糧。渡河。宿営。進軍の速さ。
すべて普通であった。
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軍議が終わり、皆が下がった。
利三が残ろうとする。
「下がれ」
「しかし」
「よい」
利三も去った。
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一人になって、光秀は地図を見た。
京。
本能寺の名など、地図には書かれていない。
だが、位置は分かる。
四条西洞院。堀と塀はあるが、城ではない。
上様が京に泊まられるだけである。中国へ出陣する前の、一時の逗留だ。
ならば供は多くない。
多くないというのは、何人か。
百か。二百か。
光秀は自分を止めた。
「何を考えている」
声に出した。
考える必要のないことである。
中国へ行くのは自分だ。上様と戦うのではない。
それなのに、頭が勝手に数えはじめる。
本能寺に上様。
妙覚寺あたりに、恐らく信忠様。
京の守りは所司代の手勢のみ。
安土には留守居。
柴田は北陸で上杉と向き合い、雪の道を戻るには日数がかかる。
滝川は関東。
羽柴は備中で城を水に沈めている。堤を捨てて戻ることはできない。
丹羽は摂津で四国渡海の支度。船と兵は分かれている。
徳川殿は堺。供は数十。
そして自分は、老ノ坂の向こうに、一万三千。
光秀の指が止まった。
――足りる。
その三文字が、あまりにも静かに頭に浮かんだので、光秀はしばらく自分が何を考えたのか分からなかった。
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立ち上がった。
地図を畳む。強く畳んだ。
「やめよ」
誰に言うのか。自分にである。
「やめよ」
窓を開けた。
夜風が入る。亀山の城下は静かであった。
明後日の夜、ここを出る。中国へ。上様の命の通りに。
それでよい。それで終わる。
光秀は床についた。
目を閉じると、考えるべきことは他にいくらでもあった。桂川の渡り。荷駄の遅れ。播磨に入ってからの兵糧。羽柴の陣まで何日かかるか。
着けば、秀吉の指図を受ける。
援軍とはそういうものである。当然のことだ。
それが嫌なのではない、と光秀は自分に言った。武功などとうに足りている。今さら手柄を惜しむ年ではない。
ならば何が嫌なのか。
しばらくして、答えが出た。
――役目が決まる。
これから先、自分は誰かを助けに行く将になる。中国が済めば四国か、九州か。そのたびに誰かの戦を手伝い、丹波は留守になる。
留守にしても、誰も困らない。
――わし一人が消えて、天下は止まるか。
あの時、利三は答えなかった。
光秀は寝返りを打った。
眠ろうとするたび、頭が勝手に数えはじめる。
柴田は雪。滝川は関東。羽柴は堤。丹羽は船。
数えるな、と思う。
思うことが、すでに数えている。
やがて光秀は起き上がった。
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灯を点け、地図を開いた。
今度は自分に言い訳をした。
軍事の上で、京の様子は知っておく必要がある。上様がおられるなら街道は混む。宿営の場所も変わる。
だから確かめるのだ。
それだけだ。
紙を一枚用意した。
筆を執る。
書いた。
本能寺 上様 供廻り 人数不詳
手が止まった。
しばらく、その紙を見ていた。
それから破った。細かく、何度も。
火に入れる。
紙が縮み、黒くなり、文字が消えた。
光秀は炎を見ながら呟いた。
「まだだ」
何が、まだ、なのか。
自分でも分からなかった。
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火が落ちた後も、光秀は座っていた。
頭の中に、いくつかの声が浮かんだ。
――十兵衛なら大丈夫だ。
丹後の庭で、藤孝が肩を叩いた。
――何かあれば、細川を頼ってくだされ。
忠興の若い顔。
――細川様は、明智様を慕うておられます。
商人の言葉。
どれも、何の約束でもない。
光秀はそれを知っていた。
知っていながら、三つを続けて思い出した。
藤孝が同じ夜に何と言ったかは、思い出さなかった。
家を見る。領民を見る。朝廷を見る。その上で決める。
確かに聞いたはずのその言葉を、光秀の頭は一度も呼び出さなかった。
障子が白んでいた。
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次の日、光秀はいつも通りに政務を執った。
堤の普請。年貢の請文。寺領の裁許。国人からの訴え。
留守の間の差配を、一つずつ決めていった。
由良川の堤は秋までに仕上げよ。人足は村ごとに割り当て、無理をさせるな。年貢の減免は今年も去年の通りとする。寺の争いは、双方の申し状をそろえて待たせておけ。
二日の後には出陣する者の指図とは思えぬほど、先の長い話ばかりであった。
自分でもそう思った。
思いながら、書いた。
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夕刻、光秀は仏間に入った。
小さな位牌がある。
妻のものである。死んで六年になる。
線香を上げ、しばらく座った。
何も願わなかった。願い事をする相手ではない。生きていた頃から、そういう女ではなかった。
昔、まだ何も持っていなかった頃、連歌の会の費えに困ったことがある。翌朝、膳が妙に立派だった。問うと、妻は何でもないことのように答えた。
髪を少し売りました、と。
少し、ではなかった。
あの時、自分は礼を言えなかった。言えば、髪のことを認めることになる気がした。
妻は礼を求めなかった。
代わりに、時々、痛いことを言った。
――殿は、お困りになると、先に理屈をお作りになります。
叱るのでも、諫めるのでもない。ただ見たままを言う。それだけの女であった。
言われた時は腹が立った。
いまは、言う者がいない。
それでも、人に問われると、妻に言われます、と答えてしまう。
言われました、と言い直したことは、一度もない。
光秀は立ち上がった。
坂本の留守居に、月命日の供養を欠かすなと書き添えることにした。
六月からしばらく、自分は西にいる。
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六月一日。
夕刻から支度が始まった。
兵が集まる。松明が並ぶ。列が城下へ伸びていく。
光秀は最後に一人、部屋へ戻った。
机の上に、まだ地図がある。
筆を執った。
紙に、一行だけ書いた。
本能寺
しばらく見ていた。
今度は、破らなかった。
紙を畳み、懐へ入れた。
立ち上がり、灯を消す。
外では、軍勢が待っていた。




