第六章 饗応
天正十年、五月半ば。
安土は、いつになく慌ただしかった。
人が走る。荷が運ばれる。台所では火が絶えず、魚、鳥、野菜、酒、菓子、珍味が次々と運び込まれてくる。
客は徳川家康。
甲斐武田氏を滅ぼした祝いに、信長が自ら饗応する。
その役の一端を命じられたのが、明智光秀であった。
---
「魚が足りぬ」
光秀が言った。
「朝のうちに追加を」
家臣が頭を下げる。
「酒は」
「近江と京より届いております」
「器は」
「改めましてございます」
「膳の順は」
「こちらに」
光秀が紙を見る。
細かい。細かすぎるほどに。
誰に何を出すか。どの順で。どの器で。どこから運ぶか。
料理が冷めぬよう。酒が切れぬよう。人がぶつからぬよう。座が乱れぬよう。
「殿」
利三が苦笑した。
「何だ」
「戦より難しそうにございますな」
「戦より難しい」
「本気で」
「戦は敵が一つだ」
「ここには」
「客がおる。料理人がおる。近習がおる」
光秀は紙をめくった。
「そして上様がおられる」
「なるほど」
利三が笑う。
「最後が一番難しゅうございますな」
「聞かれるぞ」
「聞かせませぬ」
光秀は笑って、また紙へ目を落とした。
それから、指を止めた。
「利三」
「は」
「穴山殿の席だが」
「梅雪殿にございますか」
「どこへ置いた」
「徳川様のご家中の、末に」
「変えよ」
「は」
「客として扱え。徳川殿の側だ」
利三が少し困った顔をした。
「よろしいので」
「何が」
「元は武田の御方にございます」
「いまは徳川殿の客将だ」
「それはそうですが」
「席とは」
光秀は筆を入れた。
「その者がいま何であるかを、皆に示すためのものだ」
「……なるほど」
「昔何であったかを示すために置けば、座が濁る」
利三は感心したように主君を見た。
「よくご存じで」
「将軍家で覚えた」
「役に立ちますな」
「役に立たぬ知恵は覚えぬ」
言ってから、光秀は少し手を止めた。
役に立つ。
近頃、自分はその言葉をよく使う。
---
光秀は、こういう仕事が嫌いではなかった。
むしろ得意である。
礼法。公家との折衝。茶。連歌。料理。座の順。言葉の選び方。
戦とは違う。
だが、これもまた政であった。
そして信長は、こういう仕事を光秀に任せる。
羽柴には別のことをさせる。柴田にも、丹羽にも。
それぞれ、使える場所で使う。
光秀はかつて、それを誇りに思っていた。
---
昼過ぎ、信長が現れた。
「光秀」
「は」
「仕度は」
「整いつつございます」
「整いつつ」
光秀の眉が少し動く。
「本日中には」
「本日中では遅い」
「宴は明日にございます」
「だから今日中に終えておけ」
「承知しております」
「なら、整っていると言え」
機嫌が悪いわけではない。
いつも通りである。
いつも通りだからこそ、光秀は少し疲れた。
「魚は」
「京より」
「鮒は」
「用意しております」
「鯛は」
「堺より」
「傷んでおらぬな」
「改めております」
「本当か」
「はい」
信長はしばらく光秀を見た。
「ならよい」
それだけ言って歩き出した。
光秀が息を吐く。
横で利三が、聞こえないほど小さく笑った。
「何だ」
「何も」
「笑ったな」
「笑っておりませぬ」
「嘘をつけ」
「武士にございますので」
光秀は思わず笑った。
---
その日の夕刻、家康が安土へ入った。
供の数は多くない。
だが、徳川家康という男が来るだけで、城内の空気が少し変わる。
武田を滅ぼした。正しくは織田と徳川が、である。
三河。遠江。駿河。そして甲斐。
家康の領域も広がった。
信長の盟友であり、家臣ではない。
少なくとも、形の上では。
光秀は近頃、その違いを以前より強く意識するようになっていた。
---
挨拶は形式的なものであった。
「明智殿」
「徳川殿」
「此度はご苦労にござる」
「恐れ入ります」
「上様より、明智殿が饗応を取り仕切っておられると伺いました」
「大した役ではございませぬ」
家康が笑った。
「大した役でなければ」
少し間があった。
「上様は、明智殿にはお任せになりますまい」
光秀は少し複雑な顔をした。
「買いかぶりにございます」
「そうでしょうか」
「はい」
「では」
家康は穏やかに言った。
「上様の買いかぶり、ということにしておきましょう」
二人は笑った。
それだけの会話であった。
だが光秀は、なぜかその言葉を覚えていた。
---
宴。
信長は上機嫌であった。家康も笑っている。
酒。料理。能。珍しい品。南蛮渡りの器まで出た。
光秀は座の端からすべてを見ていた。
誰に何が足りない。誰が飲みすぎた。どこで料理が遅れた。上様の機嫌。客の様子。
まるで戦場を見るように、座を見ていた。
徳川の側に、穴山梅雪が座っている。
落ち着いた男であった。口数は少なく、酒もあまり飲まない。時折、家康と短く言葉を交わす。
誰も、この男が昨年まで武田の一門であったことを口にしない。
席が正しければ、座はそういうものだ。
光秀は少し満足した。
問題はない。
順調である。
そのはずであった。
---
「光秀」
信長が呼んだ。
「は」
「この魚」
膳を指す。
「何だ」
「鮒にございます」
「匂う」
光秀の顔が少し強張った。
「改めましてございますが」
「匂う」
信長が箸を置いた。
周囲の空気が、少し止まる。
「このようなものを」
信長は光秀を見た。
「客に出すのか」
「申し訳ございませぬ」
「申し訳ないで済むか」
光秀は頭を下げた。
「すぐに替えさせます」
「替えればよいという話か」
「……」
「徳川殿への饗応だぞ」
「存じております」
「ならば」
声が少し強くなる。
「もっと気を使え」
光秀は頭を下げたまま答えた。
「はっ」
---
家康が柔らかく口を挟んだ。
「上様」
「何だ」
「それがしは気になりませぬ」
「お前が気にするかではない」
「しかし」
「こちらの話だ」
家康はそれ以上言わなかった。
光秀も顔を上げない。
座は再び動き出す。料理が替えられ、酒が注がれ、笑いが戻った。
ただ、光秀の中に小さな棘が残った。
---
叱られたからではない。
信長に叱られることなど初めてではない。むしろ何度もある。
問題は別にあった。
頭を下げながら、光秀はふと思ってしまったのである。
――この御方は、いつまで、自分をこう使う。
その考えが、自分で恐ろしかった。
---
宴の後、光秀は一人で台所へ行った。
問題の魚を見る。
「本当に匂ったか」
料理人が震えている。
「殿」
「正直に申せ。怒らぬ」
「……」
「どうだ」
料理人が恐る恐る答えた。
「少しは」
「少し」
「この季節ならば」
「出して差し支えぬ程度か」
「はい」
「本当か」
「はい」
光秀は魚を見た。
確かに、わずかな匂いはある。
だが傷んではいない。
上様が異常に敏いのか。あるいは、その時の気分か。
それだけのことであった。
「下がれ」
「は」
光秀は料理人を責めなかった。
---
利三が少し離れて待っていた。
「怒っておられますか」
「誰に」
「上様に」
光秀が振り返る。
「なぜ」
「皆の前で、あれほど」
「私の落ち度だ」
「殿」
「何だ」
「本当に、でございますか」
光秀はしばらく利三を見た。
「魚が問題であったと思うか、ということか」
「……」
「言うな」
「しかし」
「言うな」
今度は少し強かった。
利三が頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
光秀は少し歩き、止まった。
「当たりが強いのではない」
「では」
「上様は」
静かな声であった。
「誰に対しても同じだ」
「……」
「できると思えば、それ以上を求められる」
「はい」
「できなくなれば」
光秀は自分で言葉を止めた。
「殿」
「何でもない」
---
できなくなれば、どうなるか。
分かっている。
佐久間信盛。林秀貞。
長く仕えた者であろうと、使えぬと判断すれば切る。
光秀はその事実を以前から知っていた。
何も新しくない。
それなのに、今日は胸に刺さった。
---
翌朝、信長から呼び出しがあった。
光秀はまだ昨夜の件かと思った。
違った。
「中国へ行け」
信長はあまりにも簡単に言った。
「……は」
「猿を助けよ」
「羽柴殿を」
「ああ」
「備中へ」
「何度言わせる」
「いえ」
光秀は頭を下げた。
「承知いたしました」
「丹波へ戻れ。兵を整えよ。すぐ出ろ」
「はっ」
信長はもう次の話へ移っていた。
饗応。家康。魚。昨夜の叱責。
何も残っていない。
信長にとっては。
---
部屋を出る。
廊下が長い。
自分の足音が妙に大きく聞こえた。
中国へ。羽柴の援軍。
合理的である。
柴田は北。滝川は東。自分が一番近い。
当然の差配であった。
当然だ。
それなのに、胸の奥に何かが沈んでいく。
---
「中国へ」
利三が聞き返した。
「ああ」
「いつ」
「すぐだ。丹波へ戻り、軍を整え、そのまま備中へ」
利三が少し考える。
「随分と急にございますな」
「上様はいつも急だ」
「それはそうですが」
「何か」
「いえ」
利三は首を振った。
光秀が歩き出す。
「殿」
「何だ」
「饗応は」
光秀が止まる。
「終わりだ」
「徳川殿はまだ安土に」
「もう私の役ではない」
「代わりは」
「誰かがやる」
言ってから、光秀は自分の言葉が少し嫌だった。
誰かがやる。
自分でなくてもよい。
---
安土を出た。
坂本を経て、亀山へ。
道中、光秀はほとんど喋らなかった。利三も声を掛けない。
しばらくして、光秀が突然言った。
「利三」
「は」
「わしが死んだら」
利三が驚いて見る。
「何を仰せられます」
「例えだ」
「縁起でもございませぬ」
「先日も同じことを言うたな」
「殿は近頃」
利三が苦笑した。
「縁起の悪い例えがお好きにございます」
「答えよ」
「何を」
「明智家はどうなる」
「御嫡男がおられます」
「そうではない」
「では」
「上様は」
光秀は前を見た。
「わしがおらぬようになって、困られると思うか」
利三は答えに詰まった。
「殿」
「答えよ」
「……お困りにはなりましょう」
「どれほど」
「それは」
「羽柴がおる。柴田がおる。丹羽も、滝川も」
「……」
「わし一人が消えて」
光秀は少し笑った。
「天下は止まるか」
利三は何も言わなかった。
その沈黙が答えであった。
光秀もそれ以上、何も言わない。
---
京。
柏屋宗慶は、安土から戻った商人の話を聞いていた。
「明智様が饗応役を外された」
「外されたというより」
商人が言う。
「中国へ出陣を命じられたそうだ」
「なるほど」
「上様は相変わらずよ」
「何が」
「昨日まで膳を見させて、今日は戦へ行けと」
商人が笑った。
「便利な家臣だ」
宗慶は笑わなかった。
---
その夜、庄左衛門に会った。
「聞いたか」
「聞いた」
「どうする」
「何もしない」
「本当か」
「ああ」
「今なら」
「何だ」
宗慶が声を低くした。
「上様への不満を、煽れる」
庄左衛門は冷たく言った。
「そう言いたいのか」
「……」
「馬鹿を言うな」
「しかし」
「今こそ何もするな」
「なぜ」
「人は怒っている時、他人の言葉を疑う」
庄左衛門は茶を注いだ。
「誰かが上様は酷いと言えば、自分が煽られていることに気づく」
「……」
「放っておけ」
---
「では」
宗慶が言う。
「明智様がご自分で怒られるのを待つのか」
「違う」
「何が」
「怒りは弱い」
「弱い」
「怒りは冷める」
「……」
「入用なのは」
庄左衛門が指を一本立てた。
「恐れだ」
「何を恐れさせる」
「我々が決めることではない」
「またそれか」
「そうだ」
庄左衛門は茶碗を置いた。
「何を恐れるかは、あの御方が、ご自分で見つけられる」
---
亀山。
光秀は戻るなり軍議を開いた。
「中国へ出る」
家臣たちがざわめく。
「兵を整えよ。兵糧。馬。鉄砲。明日より始めよ」
指示が飛ぶ。
いつもの光秀であった。冷静で、正確で、迷いがない。
誰も、主君が何を考えているか分からない。
---
夜。
一人になって、光秀は机に地図を広げた。
丹波。備中。
遠い。
これからここを出る。亀山。自分の城。自分の兵。何年もかけて治めた国。
そして、羽柴秀吉を助けに行く。
不満があるわけではない。
秀吉は嫌いではある。だが能力は認めている。戦も強い。人を動かす。
上様に愛されている。
――愛されている。
その言葉に、光秀は少し引っかかった。
上様は、家臣を愛されるか。
長い間、考えたことのない問いであった。
使う。褒める。怒る。領地を与える。取り上げる。
それは愛ではない。
役に立つか、立たぬか。
もし自分の値がなくなれば。
佐久間のように。林のように。
「馬鹿な」
声に出した。
自分は丹波を治めている。戦もできる。朝廷とも話せる。饗応もできる。
だから使われる。
だから安心である。
そのはずであった。
だがその理屈は、裏返せば簡単だった。
使えなくなれば、終わる。
---
光秀は木片を手に取った。
前と同じものである。
柴田。羽柴。滝川。細川。筒井。高山。徳川。織田。そして明智。
置き終えてから、自分の駒を丹波から西へ少し動かした。
中国へ。
上様の命の通りに。
指が止まった。
畿内が、薄い。
もし自分が中国へ行けば、京の周りに何が残る。
丹羽。近習。信忠。
徳川はまもなく去る。細川は丹後。筒井は大和。高山は摂津。
織田の主力は、みな遠い。
光秀は自分の駒を、元の丹波へ戻した。
なぜ戻したのか、自分でも分からなかった。
出陣前の確認である。
それだけだ。
---
戸が叩かれた。
「誰だ」
「私にございます」
「入れ」
利三が入ってきた。
「支度は」
「進んでおります」
「何日で出られる」
「急げば三日」
「二日にせよ」
「承知」
利三が地図と木片を見た。
「軍議にございますか」
「一人でな」
「中国への道を」
「ああ」
利三が近づき、地図を指した。
「亀山より老ノ坂を越え、京へ出て、そこから西へ」
光秀が顔を上げた。
「京へ」
「はい」
「なぜ京へ出る」
「大軍を通すには、山陰の道より広うございます」
利三は何でもないことのように続けた。
「桂川を渡り、そのまま西国街道へ。あるいは南へ回っても構いませぬが、日数がかかります」
「そうか」
光秀は地図を見た。
老ノ坂。京。その先、中国。
ただの道である。
軍勢が通る。何度も通った道だ。
だが、その時、光秀の目はなぜか京で止まった。
「殿」
「何でもない」
利三が少し不思議そうに見る。
「二日だ」
「は」
「必ず整えよ」
「承知いたしました」
利三が去った。
---
一人になって、光秀は地図を見た。
亀山。老ノ坂。京。安土。中国。
指で道をなぞる。
亀山から西へ行けば、中国。
東へ行けば、京。
その先に、安土。
光秀は手を引いた。
何をしている。
自分に問う。
何も。
ただ道を見ただけである。
それだけだ。
---
翌朝。
軍勢の支度を確かめながら、光秀はふと安土の方角を見た。
そして、すぐに視線を逸らした。
「利三」
「は」
「玉薬はどれほどある」
「先頃、堺より入れました分がございます」
「戦に足りるか」
利三は少し考え、答えた。
「備中まででしたら、十分過ぎるほどに」
「そうか」
光秀はそれ以上、何も言わなかった。




