第五章 囁き
五月に入り、道が乾いた。
丹波から京へ抜ける街道にも人が増えてくる。百姓。商人。僧。武士。荷駄。旅の者。
冬のあいだ止まっていた荷が一斉に動き出す時季であった。
光秀はその動きを好んだ。
人が歩く。荷が運ばれる。銭が動く。
道が生きている証である。
亀山城の一室で、光秀は各地から届いた書状を読んでいた。
「北陸より」
利三が一通を差し出す。
「柴田様のご軍勢は、なお越中方面に」
「上杉か」
「左様に」
「すぐ畿内へ戻れる様子ではないな」
「恐らくは」
光秀は書状を置いた。
「次」
「関東より。滝川様は、武田旧領の仕置きに追われておられるとのこと」
「次」
「中国」
利三が別の紙を差し出した。
「羽柴様は備中へ。高松と申す城を囲んでおられます」
「毛利は」
「後詰めに出る構えかと」
光秀は黙って読んだ。
柴田は北。羽柴は西。滝川は東。
自分は畿内。
安土で丹羽長秀と交わした立ち話が浮かんだ。
――皆、遠くへ行った。
あの時は、それだけの意味であった。
いまも、それだけである。
「どうされました」
「いや」
「何か」
「何でもない」
光秀は書状を束ねた。
「それより、堺の硝石の件だが」
「柏屋の」
「押さえてあると言うていた。取っておけ」
「どれほど」
「丹波の分だけでよい」
利三が少し考えた。
「安土のお指図を待たずともよろしゅうございますか」
「指図のかかっておらぬ分だと申していた」
「では」
「一国を預かる者が玉薬を備える。それだけのことだ」
「はっ」
利三は書き付けた。
それだけの話であった。
実際、それだけの話であった。
---
数日後。京。
公家との面会を終え、宿所へ戻る途中であった。
町は騒がしい。商い。呼び声。牛車。僧。道の端では黒衣の男と日本人の信徒が何か話している。
光秀は特に目を留めなかった。
「明智様」
聞き覚えのある声に振り返る。
柏屋宗慶であった。
「またお前か」
「また、とは手厳しい」
「堺の商人はどこにでもおるのだな」
「銭の匂いのする所には」
「京はそれほど匂うか」
「安土よりは」
光秀が笑った。
「上様に聞かせてやりたい」
「御勘弁を」
「今日は何を売る」
「本日は売り物がございませぬ」
「ならなぜ声を掛けた」
「お顔をお見かけしましたので」
光秀は少し歩き、なぜか足を止めた。
「そういえば、お前は各地を回るな」
「商人にございますので」
「中国にも行くか」
「時に」
「備中は」
「近頃は危のうございます」
「羽柴がおる」
「はい」
「長引くと思うか」
宗慶は少し考えた。
「私は軍師ではございませぬ」
「商人として言え」
「では」
宗慶も少し考えた。
「長引く方が困ります。道が止まりますので」
「では早く終わってほしいか」
「もちろん」
「羽柴が勝つと思うか」
「分かりませぬ」
「便利な答えだ」
「本当に分かりませぬ」
宗慶は少し間を置いた。
「ただ、毛利は大きゅうございます」
「知っている」
「羽柴様お一人で片付けられるには」
一拍。
「骨が折れましょうな」
それだけであった。
光秀は何も言わなかった。
---
二人は少し歩いた。
「柴田は北陸だ」
光秀が言う。
「左様にございますな」
「滝川は関東」
「はい」
「皆、遠い」
「織田様の天下が広がった証にございましょう」
以前、丹羽長秀が同じことを言った。
光秀はそれに気づいた。
「お前もそう思うか」
「何を」
「遠くへ散るほど、天下は広がる」
「はい」
「では」
光秀は町の先を見た。
「広がれば広がるほど、中心は薄くなる」
宗慶は答えなかった。
光秀自身、言った後で少し驚いた。
「……妙なことを申した」
「左様でございますか」
「忘れよ」
「商人は聞いたことを忘れませぬ」
「それでは困る」
「では、忘れたことにいたします」
光秀が苦笑した。
---
そこへ一人の男が近づいてきた。
五十前後。地味な衣。商人にも浪人にも見える。
「柏屋殿」
「庄左衛門」
光秀の視線が男へ向く。
庄左衛門は深く頭を下げた。
「お話中、失礼いたしました」
「知り合いか」
「商いの仲間にございます」
宗慶が答える。
「堺の者か」
「各地を回っております」
庄左衛門が自ら答えた。
「何を扱う」
「主に紙、薬種、書物などを」
「書物」
「はい」
「南蛮のものもか」
「少しばかり」
光秀の目がわずかに動いた。
「地図も」
「ございます」
「そうか」
それだけである。
庄左衛門は何も売り込まなかった。光秀も特に興味を示さなかった。
立ち去ろうとした時、庄左衛門が何気なく言った。
「明智様は、丹波をよく治めておられると伺います」
光秀が振り返る。
「誰から」
「商人の間では、よく聞く話にございます」
「また道の話か」
「はい」
宗慶が笑った。
「殿のお噂は、戦より道で広がっております」
「武将としては複雑だな」
「領主としては誉れかと」
庄左衛門が言った。
光秀は庄左衛門を見る。
「お前もそう思うか」
「はい」
「なぜ」
「戦に勝つ武将は、多うございます」
「……」
「戦の後を治められる方は」
少し間を置く。
「それほど多くございませぬ」
光秀は一瞬、庄左衛門を見た。
それから言った。
「買いかぶりだ」
そして歩き出した。
---
二人だけになる。
「余計なことを言うな」
宗慶が低い声で言う。
「何が」
「最後の言葉だ」
「事実だ」
「褒めてどうする」
「褒めてはおらぬ」
「どう聞いても褒めていた」
「そう聞こえたなら」
庄左衛門は笑った。
「受け取る側の話だ」
「そういうところが嫌いだ」
「知っている」
---
宿所へ戻った夜、光秀は届いた文を読んだ。
その中に細川藤孝からのものがあった。
短い。近況。和歌。丹後の様子。
そして最後に一行。
『近頃、筒井殿とも書を交わし候。大和は相変わらず騒がしく候』
光秀は目を止めた。
筒井順慶。
大和。畿内。
縁がないわけではない。同じ織田の配下である。だが独自の領国と兵を持つ。
光秀はただ、名前を見ただけであった。
それ以上、何も考えなかった。
そのはずであった。
---
翌日、安土へ向かう途中、近江の宿で別の一行と居合わせた。
高山右近の家臣であった。
偶然である。
「これは明智様」
挨拶。世間話。摂津。高槻。教会。
誰も大事な話などしない。
「右近殿は息災か」
「はい」
「相変わらず南蛮の教えに熱心か」
家臣が少し困った顔をした。
「殿は信仰の篤いお方にございます」
「上様は何も仰せられぬか」
「特には」
「そうか」
光秀は頷いた。
それだけである。
だがその夜、光秀はなぜか高山右近のことを思い出した。
摂津。高槻。畿内。
そしてキリシタン。
繋がらない点であった。
まだ、線にはならない。
---
安土。信長の機嫌は悪かった。
「遅い」
光秀が入るなり、それであった。
「何がでございます」
「中国だ」
「羽柴殿の」
「ああ」
「高松は堅固と聞いております」
「だから何だ」
「力攻めだけでは」
「方法を考えるのが猿の役目だ」
信長は机の地図を叩いた。
「毛利をいつまで放っておく」
「……」
「四国もある。九州もある」
「はっ」
「一つに時間をかけ過ぎる」
光秀は、以前とは違う聞き方をしている自分に気づいた。
一つに、時間をかけ過ぎる。
「光秀」
「は」
「何をぼんやりしておる」
「申し訳ございませぬ」
「丹波はどうした」
「変わりなく」
「変わりなく、では困る」
また同じである。
もっと早く。もっと多く。もっと先へ。
「はっ」
光秀は頭を下げた。
---
「それと」
信長が言った。
「徳川殿が近く上洛する」
「家康殿が」
「武田を滅ぼした祝いだ。もてなす」
信長が光秀を見る。
「お前もやれ」
「承知いたしました」
その時は、本当にそれだけであった。
何の意味もない。
光秀も、ただの命として受けた。
---
城内を歩いていると、丹羽長秀に会った。
「明智殿」
「五郎左殿」
「中国はどうなると思われる」
「急に何を」
「上様が苛立っておられる」
「いつものことだ」
「それはそうですが」
二人は歩いた。
「筑前殿だけで済めばよいが」
「どういう意味だ」
「援軍を出せと言い出されかねぬ」
光秀の足が少し止まる。
「誰を」
「さて」
「柴田殿は北陸」
「滝川殿は関東」
「私も暇ではない」
「皆忙しい」
長秀が笑った。
「だから、明智殿では」
「なぜ私だ」
「近いから」
「何に」
「中国に」
光秀は何も言わなかった。
長秀に他意はない。
ただの雑談であった。
---
数日後、亀山へ新しい報せが届いた。
羽柴秀吉、備中高松城を水にて囲む。
「水攻め」
利三が驚く。
「あの猿めが」
光秀は紙を見た。
「面白いことを考える」
「成りましょうか」
「分からぬ」
「上様はお喜びでしょうな」
「成ればな」
光秀は少し笑った。
「だが、これでまた動けなくなる」
「羽柴様が」
「城を水で囲めば、堤を守らねばならぬ。すぐには帰れぬ」
言ってから、光秀は自分の言葉に引っかかった。
帰れぬ。
なぜ、帰ることを考えた。
「殿」
「いや」
光秀は紙を置いた。
「何でもない」
---
その夜、眠れなかった。
寝所を出て庭へ降りる。月が出ていた。
頭の中に、妙に多くの名が浮かぶ。
柴田勝家、北陸。滝川一益、関東。羽柴秀吉、中国。徳川家康、近く上洛。細川藤孝、丹後。筒井順慶、大和。高山右近、摂津。
そして自分、丹波。
光秀ははっとした。
「違う」
声に出した。
何が違うのか、自分でも分からない。
ただ、これらを一つの盤として眺めること自体が、どこか危うい。
もし今、畿内で何かが起きれば。
誰が、一番早く動けるか。
その問いが、突然、頭に浮かんだ。
光秀は立ち止まった。
そして首を振った。
「馬鹿な」
何かとは何だ。
火事。地震。病。
何でもよい。
ただの軍事の考えである。将ならば当然そう考える。
そう自分に言い聞かせた。
---
翌日、光秀は利三に尋ねた。
「もしだ」
「はい」
「安土で大事があれば」
利三が顔を上げる。
「大事、と申しますと」
「例えば火事だ」
「火事」
「あるいは」
少し考えた。
「上様が急な病で倒れられた」
「縁起でもございませぬ」
「例えだ」
「はい」
「一番早く兵を出せるのは誰だ」
利三は真面目に考えた。
「明智家でございましょうな」
光秀の顔は動かない。
「なぜ」
「丹波から近うございます」
「他には」
「丹羽様。細川様。筒井様。高山様」
「……」
「ただ」
「何だ」
「まとまった数となれば」
利三は続けた。
「やはり殿かと」
光秀は頷いた。
「そうか」
利三は書き付けを閉じた。
閉じてから、一度だけ光秀の顔を見た。
「何かございましたか」
「何も」
「ではなぜ」
「軍務だ」
利三は「はっ」と答えて下がった。
廊下を歩きながら、なぜ自分がその答えを声に出すのを少しためらったのか、利三自身にも分からなかった。
---
一人になって、光秀は考えた。
いまの問いは、誰かに言われたものではない。
自分で思いつき、自分で尋ね、自分で答えを得た。
それなのに、妙な後味が残る。
どこかで、同じことを考えさせられているような。
――そんなはずはない。
光秀は自分に言った。
柴田が北陸にいることは事実である。
滝川が関東にいることも。
羽柴が中国にいることも。
細川が丹後にいることも。
筒井が大和にいることも。
高山が摂津にいることも。
誰でも知っている。
誰でも知っていることを、誰かに教えられたとは言わない。
---
同じ頃、京。
庄左衛門と宗慶が歩いていた。
「もう十分ではないか」
宗慶が言う。
「何が」
「我々は何も渡していない」
「直接はな」
「ならば」
「だが」
宗慶が立ち止まった。
「明智様は考え始めている」
庄左衛門も止まる。
「何を」
「織田の配置を」
「将なら誰でも考える」
「違う」
「何が」
「問いが変わった」
庄左衛門の顔から、少しだけ笑みが消えた。
「何を聞かれた」
「羽柴が長引くか、と」
「……」
「それだけだ」
「なら何も起きておらぬ」
「そうだ」
宗慶は庄左衛門を睨んだ。
「それだけなんだ」
「……」
「だから怖い」
庄左衛門はしばらく何も言わなかった。
やがて、言った。
「もう、こちらからは何もするな」
宗慶が驚く。
「本気か」
「ああ」
「なぜ」
「考え始めた人間に、答えを与えるな」
「……」
「答えを与えれば、その答えを疑う」
少し間を置く。
「何も言わなければ、自分の答えを信じる」
宗慶は吐き捨てるように言った。
「やはり質が悪い」
「知っている」
二人は歩き出した。
しばらくして、庄左衛門が独り言のように言った。
「それに、いまは皆忙しい」
「何の話だ」
「柴田は上杉。羽柴は毛利。滝川は関東。上様は四国と九州」
庄左衛門は前を向いたまま言った。
「皆が忙しい時は、誰も他人を見ぬ」
---
亀山。
その夜、光秀は机に地図を広げた。
南蛮の商人から見せられたものではない。軍務のための、ごく普通の日本の絵図である。
手元に小さな木片が幾つかあった。城普請の目印に使うものだ。
光秀はそれに名を書いた。
柴田。羽柴。滝川。細川。筒井。高山。徳川。
そして、明智。
自分の駒を丹波に置く。
しばらく眺めた。
北陸に柴田。中国に羽柴。関東に滝川。丹後に細川。大和に筒井。摂津に高山。
畿内に、自分。
安土の上には、何もない。
――空いている。
そう思ってから、光秀は自分で気づいた。
「……上様がおられる」
木片をもう一つ取り、筆で書いた。
織田。
それを安土へ置いた。
その瞬間、盤の見え方がまるで変わった。
中心がある。
他の駒がどれほど遠くへ散っていても、そこに一つあるだけで、天下は一つに見える。
光秀はしばらくその木片を見ていた。
そして突然、盤の上を手で払った。
木片が床に落ち、乾いた音が散った。
「くだらぬ」
誰もいない部屋で、そう言った。
光秀は立ち上がり、灯を消した。
床の上、安土に置いていた木片だけが、表を向いたまま残っていた。
拾わなかった。




