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第四章 藤孝

 天正十年、五月初め。


 丹後行きは、公務のついでであった。

 宮津の湊に入る荷のうち、丹波を通って京へ抜けるものが増えている。関の扱いと荷改めについて、細川家と話をつけておく必要があった。

 書状で済む話ではある。

 済む話を、光秀は自分で出向くことにした。


 丹後の海は、光秀には少し眩しすぎた。

 丹波の山に慣れた目には、空と水の境がどこまでも開けて見える。

 波は穏やかだった。遠くに小舟が幾つも浮かんでいる。

 海沿いの道を進みながら、光秀は久しぶりに肩の力が抜けていくのを感じていた。


「殿」


 斎藤利三が後ろから声を掛けた。


「何だ」

「随分と楽しそうにございますな」

「そう見えるか」

「はい」

「気のせいだ」

「左様ですか」


 利三は笑っている。

 光秀は少しだけ振り返った。


「お前は来なくてもよかったのだぞ」

「供をせよと申されたのは殿です」

「そうだったか」

「細川様とお会いになる時だけは、殿は人が変わられます」

「どう変わる」

「よく笑われます」


 光秀は鼻で笑った。


「普段も笑っておる」

「家臣の前では」

「では藤孝の前では」

「昔の明智十兵衛様に戻られます」


 光秀の顔から、少し笑みが消えた。


「昔、か」


 利三は言い過ぎたと思ったのか、黙った。

 だが光秀は怒っていない。

 むしろ、その言葉が妙に胸に残った。

 昔の明智十兵衛。

 丹波も、坂本も、軍勢も、何も持っていなかった頃。

 将軍義昭の周りで、藤孝と語り、京の先行きを案じ、織田信長という男に賭けた頃。

 あの頃は、先のことなど何も分からなかった。

 ただ、自分たちなら何かを変えられると思っていた。


---


 宮津。


 細川藤孝は、城門までは出てこなかった。

 当然である。

 だが屋敷へ入ると、庭先まで出ていた。


「十兵衛」


 その一言で、光秀は少し笑った。


「藤孝」


 二人の間では、誰が誰の同僚だとか、どちらが大きな領地を持つとか、そういうものが一瞬だけ消えた。


「随分と老けたな」


 藤孝が言う。


「お前もだ」

「私は風流に老いている」

「自分で言うな」

「お前は苦労で老けた」

「誰のせいだと思っている」

「上様であろう」


 藤孝は平然と言った。

 光秀が周囲を見る。


「声が大きい」

「ここは私の城だ」

「だから危うい」

「相変わらず細かい男だ」

「お前が大雑把なのだ」

「それでよく昔は共に働けたものだ」

「お互い様だろう」


 二人は笑った。

 家臣たちは少し離れている。利三も、細川家の者たちも、誰も会話には入らない。

 長い付き合いの男同士だけが持つ空気であった。


---


 用向きは、半刻で済んだ。

 荷改めは丹後の側で行い、丹波では通すだけとする。関銭は折半。互いの家臣を一人ずつ立ち会わせる。

 藤孝は書役を呼び、その場で書かせた。


「この程度のことで、よく来たな」

「ついでだ」

「ついでにしては遠い」

「遠いと思うなら、お前が来ればよい」

「私は忙しい」

「私は暇か」


 二人は笑った。


---


 昼、酒が出た。

 魚。山菜。塩。派手ではないが、丁寧な膳だった。


「玉は息災か」

「後で会うがよい。庭におる」

「そうか」

「冬に亀山へ参ったと言うていた」

「忠興殿の愚痴を聞かされた」


 藤孝が噴き出す。


「何を」

「そこまでは言えぬ」

「気になるではないか」

「父親から聞き出そうとするな」

「息子の悪癖を知るのも父の務めだ」

「夫婦の間へ父親が二人も入れば、ろくなことにならぬ」

「それもそうだ」


 藤孝が杯を置く。


「玉はよい娘だ」

「そうか」

「気が強い」

「誰に似た」

「お前だ」

「妻だ」

「お前だ」


 光秀が苦笑した。


「忠興殿は、大事にしてくれておるか」


 少しだけ、父親の声になった。

 藤孝もそれを感じたのか、穏やかに答える。


「している」

「そうか」

「不器用だがな」

「そこはお前に似た」

「私はもっと器用だ」

「自分で言うな」


 また笑い。

 それから、空気が少し静かになった。


「十兵衛」

「何だ」

「玉を嫁がせた時、安心したか」

「何の話だ」

「細川へ預けたことで」


 光秀はすぐには答えなかった。杯の酒を見る。


「安心、か」

「違うか」

「……少しはな」

「ならよい」

「だが」


 光秀は顔を上げた。


「娘を嫁がせたからといって、家が一つになるわけではない」


 藤孝が笑う。


「急に武家らしいことを言う」

「武家だ」

「知っている」

「姻戚とは、便利な言葉だ」

「何が言いたい」

「何でもない」


 光秀は酒を飲んだ。


「ただ、人は、血が繋がれば心まで繋がったと思い込む」


 藤孝が光秀を見る。


「今日は随分と妙な話をするな」

「安土へ行ったせいかもしれぬ」

「上様と何かあったか」

「何もない」

「ならなぜ」


 光秀は少し迷った。

 だが、藤孝には話してもよいと思った。


「海の向こうの話をされた」

「南蛮か。お前の文にあった」

「世界は丸い、と」


 藤孝が笑う。


「馬鹿げている」

「私もそう思うた」

「では」

「だが南蛮人は本気だ」

「本気なら正しいのか」

「そうではない」


 光秀は少し前のめりになった。


「上様が、あの話を面白がっておられた」

「それは想像がつく」

「明を見ておられた」


 藤孝の笑みが少し消える。


「明を」

「地図をな。大きい、と」

「それだけか」

「兵は強いか、とも」


 藤孝は黙った。


「南蛮の船。鉄砲。大筒。いろいろ聞いておられた」

「上様らしい」

「そう思うか」

「新し物好きだ」

「それだけならよい」


 藤孝が光秀を見る。


「何を心配している」


 光秀は答えなかった。

 藤孝が少し笑う。


「十兵衛。お前は昔から考え過ぎる」

「褒めているのか」

「半分は」

「残り半分は」

「欠点だ」


 光秀が杯を置いた。


「では聞こう」

「何だ」

「上様が天下を統一された後」


 藤孝の顔を見る。


「何をなさると思う」


 藤孝は、すぐには答えなかった。


---


「鷹狩り」


 光秀が吹き出した。


「利三と同じことを言うな」

「斎藤殿もそう申したか」

「ああ」

「ならば二票だ」

「真面目に答えろ」

「真面目だ」

「藤孝」

「分かった」


 藤孝は少し考えた。


「政をなさるだろう。道を整え、城を直し、銭を統一し、商いを盛んにし、朝廷との関わりも作り直す」

「……」

「やることはいくらでもある」

「それで足りると思うか」

「何が」

「あの御方に」


 藤孝の目が少し鋭くなった。


「十兵衛」

「何だ」

「言葉を選べ」

「ここはお前の城なのだろう」

「そういう問題ではない」

「なら」


 光秀は少し笑った。


「お前も分かっているではないか」

「何を」

「上様の話をする時、どこまで言ってよいかを考える」

「誰でもそうだ」

「昔は違った」

「昔」

「将軍の話なら、もっと好き勝手に言うていた」


 藤孝が苦笑する。


「義昭公と上様を同じにするな」

「そういうことだ」


 空気が少し重くなった。


---


「十兵衛」


 藤孝が静かに言った。


「何か不満があるのか」

「ない」

「本当に」

「あるとすれば」


 光秀は少し考えた。


「速過ぎる」

「何が」

「すべてだ」

「……」

「昨日まで敵だった者が、今日は家臣になる。昨日まで大名だった者が、明日は領地を失う」


 光秀は指を折るように続けた。


「国が取られる。寺が焼かれる。城が建つ。道が変わる。銭が変わる」

「……」

「十年かかることを、一年でやられる」


 藤孝は黙っている。


「私は丹波で、一つの村を戻すのにも苦労している」

「知っている」

「堤一つ直すのにも、百姓、寺、国人、商人、それぞれの都合がある。それを少しずつ合わせていく」

「うむ」

「だが上様は」


 光秀が遠くを見た。


「国そのものを動かされる」

「それが天下人だ」

「そうだ」

「なら何が不満だ」

「不満ではない」

「では」


 光秀は言葉を探した。


「怖い」


 藤孝の表情が変わった。


「上様がか」

「いや」


 光秀は首を振った。


「止まらぬことが」


---


 風が入り、障子が少し揺れた。外では鳥が鳴いている。


「お前は」


 藤孝がゆっくり言う。


「上様が海を渡られると思っているのか」

「分からぬ」

「明を攻めると」

「分からぬ」

「ならば」

「だが」


 光秀が遮った。


「武田が滅びる前、上様が甲斐まで取ると、お前は思うていたか」


 藤孝が黙る。


「義昭公が京を追われる前、将軍が京からいなくなると思うたか」

「……」

「比叡山が焼ける前、誰が想像した。本願寺が屈する前、誰が」

「十兵衛」

「起きる前は」


 光秀の声が低くなった。


「誰もが馬鹿げた話だと言う。起きた後では、最初から分かっていたような顔をする」


 藤孝は長い間、何も言わなかった。


---


 その後、光秀は庭へ出た。

 池の端に、玉がいた。

 幼い子を抱いた侍女が少し離れて控えている。


「父上」


 玉が振り返った。

 嫁いでから、顔つきが少し変わったと光秀は思う。娘の顔ではなく、家の者の顔になっていた。


「息災か」

「はい」

「困っていることは」

「ございませぬ」

「本当か」

「本当に」


 玉は笑った。


「父上は、いつもそればかりお聞きになります」

「他に聞くことがない」

「そうでございましょうか」


 光秀は池を見た。鯉が水面を割る。


「父上」

「なんだ」

「あの地図は、まだお持ちですか」


 光秀が振り返った。


「地図」

「亀山で拝見した、丸い海の」

「……ああ、ある」

「またお見せくださいませ」

「見てどうする」

「どうもいたしませぬ」


 玉は少し首を傾げた。


「ただ、面白うございました」


 光秀は笑った。

 この娘は昔からそうだった。役に立つかどうかを、あまり考えない。


「そういうところは、わしに似た」

「母上はそう申しませぬ」

「では誰に似たと」

「父上に、と」


 二人で笑った。

 それから玉は、思い出したように背筋を伸ばした。


「父上」

「なんだ」

「わたくしはもう、細川の者にございます」


 唐突であった。

 光秀は少し驚いて娘を見た。


「どうした、急に」

「いえ」


 玉は照れたように目を伏せた。


「そう申し上げておくものだと、教わりましたので」


 光秀は声を上げて笑った。


「誰に教わった」

「義父上に」

「あの男らしい」


 笑いながら、しかし光秀は、その言葉を悪くないと思っていた。

 娘が細川の者になった。

 それは、明智と細川が繋がったということだ。

 そう受け取った。

 玉が何を言ったのかを、正しく受け取ってはいなかった。


---


 その夜、宴が開かれた。

 大きなものではない。細川家、明智家、近しい家臣たちだけである。

 酒。歌。笛。和歌。

 藤孝はやはり風流人であった。

 途中、歌を詠めと言われた光秀は、露骨に嫌な顔をした。


「私は武将だ」

「公家相手には詠んでいるだろう」

「仕事だ」

「では今も仕事だ」

「誰の命だ」

「城主の命だ」

「横暴だな」

「上様よりは優しい」


 周囲が一瞬だけ静かになった。

 藤孝自身が気づき、笑って誤魔化す。


「今のは忘れよ」


 皆も笑った。

 ただ、光秀だけは藤孝の顔を見ていた。

 藤孝もまた、信長を意識している。

 それは当然であった。織田家に連なる者なら誰でもそうだ。

 だが光秀は近頃、それを以前より強く感じるようになっていた。

 自分だけではない。

 皆、あの巨大なものの周囲で息をしている。


---


 宴の後、庭へ出た。

 藤孝と二人。海からの風が冷たい。


「十兵衛」

「何だ」

「昼の話だ」

「上様か」

「ああ」

「忘れろ」

「お前が考えているほど」


 藤孝は空を見た。


「私は上様を怖いとは思っていない」

「そうか」

「ただ、先が読めぬ」

「同じではないか」

「違う」

「どう」

「怖いというのは」


 藤孝は言葉を選んだ。


「相手が何をするか分かっていて、それが恐ろしい時に使う」

「……」

「上様は」


 海を見る。


「何をなさるか分からぬ」

「だから」

「怖いより先に、備えようがない」


 光秀は黙って聞いていた。


「だが」


 藤孝が光秀を見る。


「だからといって、勝手に先を決めるな」

「何」

「上様は明を攻める。天下の後も戦い続ける。我らを捨てる」

「……」

「そうなるかもしれぬ。ならぬかもしれぬ」


 藤孝は杯を置いた。


「まだ起きていないことを、起きたことのように考えるな」


 光秀は少し笑った。


「説教か」

「友としてな」

「ありがたい」

「素直だな」

「今日は酒が入っている」

「なら明日忘れるか」

「都合の悪いところだけ」


 二人は笑った。


---


「一つだけ聞く」


 光秀が言った。


「何だ」

「もし天下に大きな異変が起きれば」


 藤孝の眉が少し動いた。


「異変」

「例えばの話だ」

「何を想定している」

「何も」

「ならなぜ聞く」


 光秀は少し笑った。


「お前はどうする。誰を見る」


 藤孝はしばらく光秀を見ていた。

 それから、静かに答えた。


「家を見る」

「……」

「領民を見る」

「……」

「朝廷を見る」

「……」

「その上で決める」


 光秀が苦笑した。


「私を見ぬのか」


 冗談であった。


 藤孝も、冗談として受け取った。


「お前は」


 笑いながら言う。


「放っておいても何とかするだろう」

「ひどい友だ」

「信用していると言え」

「そうは聞こえなかった」

「では言おう」


 藤孝は光秀の肩を軽く叩いた。


「十兵衛なら大丈夫だ」


 光秀は笑った。

 ただの友の言葉であった。

 何の約束でもない。何の誓いでもない。


---


 翌朝、光秀は丹後を発った。

 藤孝が見送る。


「また来い」

「ああ」

「次は歌を用意して来い」

「断る」

「では私が選んでおく」

「もっと断る」


 忠興もいた。

 光秀が声を掛ける。


「忠興殿」

「は」

「玉を頼む」

「無論にございます」


 少し間を置いて、忠興が言った。


「父上も」

「何だ」

「何かあれば」


 若い顔であった。


「細川を頼ってくだされ」


 光秀は、一瞬、何も言わなかった。

 それから笑った。


「そのようなことにならぬのが一番だ」

「それはそうですな」


 忠興も笑った。

 藤孝は二人の会話を聞いていたが、特に気にも留めなかった。

 親族同士の、ありふれた言葉であった。


---


 帰路。


 利三が尋ねた。


「楽しまれましたか」

「ああ」

「やはり細川様とは随分と親しゅうございますな」

「古い付き合いだ」

「いざという時には、頼りになりましょう」


 光秀の馬が、ほんの少しだけ遅くなった。


「いざという時」

「戦にございます」


 利三は何も考えずに言った。


「丹後の細川勢は強うございます。丹波と丹後が結べば、畿内でも相当な力に」


 光秀は前を向いた。


「そうだな」

「何か」

「いや」


 少しだけ笑う。


「藤孝も似たようなことを言うておった」

「何と」

「何かあれば頼れ、とな」


 言ってから、光秀は口の中でその言葉を転がした。

 藤孝ではない。

 忠興であった。

 意味も、もっと軽かった。

 訂正するほどのことではない、と思った。

 実際、訂正するほどのことではなかった。


---


 数日後。京。


 一軒の商家の奥で、柏屋宗慶が茶を飲んでいた。

 向かいには庄左衛門がいる。


「丹後へ行かれたそうだ」

「誰が」

「明智殿」

「細川か」

「ああ」

「珍しくもない」

「娘が嫁いでいる」

「それも知っている」

「藤孝とは古い友」

「知っている」

「ならば何だ」


 宗慶が苛立った。

 庄左衛門は茶を飲んだ。


「何も」

「またそれか」

「本当に何もない」


 宗慶が眉を寄せる。


「何もせぬのか」

「する必要がない」

「なぜ」


 庄左衛門は湯呑を置いた。


「細川の話を、いま明智殿に聞かせる者がいるか」

「……」

「将軍家の頃より、ご存じだ」


 宗慶は答えられなかった。


「我らが何か言えば、明智殿は考える。この者はなぜそれを言うのか、とな」


 庄左衛門は静かに言った。


「言わずに済むものは、言わぬ方がよい」

「……」

「嘘は」


 少し笑う。


「後で人を疑わせる」


---


 丹波亀山。

 その夜。


 光秀は一人で、藤孝から贈られた短冊を見ていた。

 歌が一首。達筆であった。

 意味よりも、藤孝らしい字だと思った。

 長い付き合いである。

 京。将軍。戦。失敗。成功。

 そして今は、丹波と丹後。二つの国をそれぞれ治めている。


 光秀は少しだけ笑った。


「何かあれば、か」


 すぐに首を振る。


「馬鹿な」


 何があるというのだ。

 天下はむしろ治まりつつある。上様は勝っておられる。織田は強い。

 自分も、細川も、その中で生きている。

 何も起きる必要などない。

 それでも光秀は、短冊をしまわなかった。

 机の横へ置いた。

 目に入る場所へ。

 理由はなかった。

 旧友の歌だから、それだけであった。


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