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第三章 黒い船

 天正十年、四月末。


 長崎の海は、丹波の山とはまるで違っていた。

 山国では、空が閉じる。峰と峰の間に雲が挟まり、道も川も人の足も、そこで止まる。

 だが長崎では、海がすべてを開いていた。

 風が抜ける。

 潮が動く。

 そして船が来る。

 遠い国から。見たこともない帆を張り、見たこともない旗を掲げ、聞いたこともない言葉を話す男たちを乗せて。


 港には黒い船が浮かんでいた。

 大きい。浜に並ぶ和船とは比べものにならない。船腹は黒く、帆柱は高く、甲板では幾人もの男が動いている。

 荷が下ろされていた。

 絹。砂糖。薬種。鉛。硝石。

 そして箱。

 箱の中身を知る者は少ない。知る必要もなかった。

 この町では、何が下ろされたかよりも、それを誰が受け取るかの方が大事であった。


---


「また増えたな」


 海を見ながら、男が言った。

 名をミゲルという。

 日本人であった。洗礼を受けてから十年以上になる。元の名を尋ねる者は、もういない。本人も、必要がなければ名乗らなかった。


 隣に黒衣の宣教師が立っている。ポルトガル人。五十を越え、髭に白いものが混じっていた。


「何がです」

「銃だ」

「見ただけで分かるのですか」

「箱の大きさを見れば」


 宣教師は少し笑った。


「あなたは聖職者より商人に向いていたかもしれませんね」

「銃を数える聖職者もどうかと思うが」

「必要だから数えるのです」

「必要」


 ミゲルは横目で見る。


「誰に」


 宣教師は答えなかった。

 浜では荷役が声を上げている。大きな木箱が六人がかりで運ばれていく。


「日本人は鉄砲を好み過ぎる」


 宣教師が言った。


「持ってきたのはあなた方だ」

「最初は」

「なら責任を取れ」

「そういう理屈ですか」

「そういう理屈だ」


 宣教師は苦笑した。


「日本人は、教えたことをすぐ自分のものにする」

「褒めているのか」

「警戒しているのです」

「まだ足りない」

「何がです」

「警戒がだ」


 ミゲルは港を指した。


「十年前なら、南蛮渡りの銃は珍しかった」

「いまでも上等な物は値がつきます」

「そういう話ではない」


 ミゲルは首を振った。


「いまの日本人は、自分で作る」


 宣教師の表情がわずかに変わった。


「国友。根来。堺。あちこちで」

「知っています」

「なら分かるだろう」


 ミゲルは低く言った。


「あなた方は、武器を売ったつもりだった」


 風が吹く。


「この国は、作り方を買ったのだ」


---


 長崎の町の一角。

 外から見れば、ただの家であった。

 中へ入ると違う。壁に十字架。机。書棚。紙。南蛮文字の本。そして地図。

 日本のどの寺とも似ていない空気がある。


 六人が集まっていた。

 宣教師が三人。日本人が二人。商人が一人。

 議題は布教ではなかった。


「安土より報せが参っております」


 若い宣教師が紙を広げた。名をジョアンという。


「信長は今年も我らに敵対する様子なし。都の教会への圧も、昨年より弱まっております」

「よいことです」

「ならば、問題はありませんな」


 最年長の司祭が言った。

 名をロドリゴという。


「問題がない?」


 部屋の端から声がした。ミゲルであった。


「何か」


「信長が敵ではない。それが問題だと言っている」


 空気が変わった。

 ジョアンが眉をひそめる。


「意味が分かりません」

「敵なら分かりやすい」


 ミゲルは指を折った。


「備えられる。逃げられる。取引もできる」

「しかし信長は敵ではない」

「そうだ。だから誰も、その先を考えようとしない」


 ロドリゴがミゲルを見る。


「その先とは」

「信長が勝った後だ」


 誰も答えなかった。


「まだ天下は定まっておりません」


 ジョアンが言う。


「半ば定まった」

「北陸、中国、四国、九州には、まだ敵がおります」

「いる」


 ミゲルが頷く。


「だが、誰が信長を止める」


 沈黙。

 答えが出ない。


「武田は消えた。本願寺は屈した。将軍は追われた。畿内は押さえられた」


 ミゲルは一人ずつ見た。


「北陸には柴田。中国には羽柴。関東には滝川」

「まだ統一ではありません」

「言葉の問題ではない」


 ロドリゴが静かに言った。


「では、信長が統一すれば何が起きると」

「交渉する相手が、一人になる」

「それの何が悪いのです」

「一人が我らを認めれば、すべてが認める」

「その通りです」

「一人が我らを禁じれば」


 ロドリゴが黙った。


「すべてが禁じる」


 部屋が静かになった。


---


「それでも」


 ジョアンが言った。


「信長は我らに好意的です」

「いまはな」

「根拠のない恐れです」

「根拠はある」

「何です」

「比叡山」


 誰も口を開かなかった。


「本願寺」


 ミゲルが続ける。


「あの男は宗教を憎んでいるのではない」

「……」

「従わぬ宗教を憎む」


 ロドリゴが低く言った。


「それは同じではありません」

「だから怖い」

「なぜ」

「従っている限りは、許されるからだ」

「ならば従えばよい」


 ミゲルが笑った。


「いつまで」

「……」

「布教とは、信者を増やすことだ」

「当然です」

「増えれば教会も増える。大名も改宗する。国が変わる」

「それが我らの務めです」

「では、あの男が『ここまでだ』と言ったら」


 誰も答えない。


「十人なら許すだろう。千人でも許すだろう」


 ミゲルの声は静かだった。


「十万なら。百万なら」

「信長公が何も仰せでないことを、問題にしても仕方ありません」


 ジョアンが言った。


「そうだ」


 ミゲルが頷いた。


「まだ何も言っていない」


 その言い方が、かえって不穏だった。


---


 商人が口を開いた。

 ドゥアルテという。マカオと長崎を往復して二十年になる男である。


「私は、別のことを申し上げたい」

「何です」

「商いのことです」


 机に紙を置いた。数字が並んでいる。


「銀か」

「はい。この国から出る銀は、年々増えております」

「それが」

「信長が天下を一つにすれば、港も、銀山も、関所も、一つの命令で動くようになる」


 ミゲルがドゥアルテを見る。


「我らとの取引も」

「はい」

「値も」

「恐らく」

「港も」

「恐らく」


 別の宣教師が言った。


「統一とは、そういうものでしょう」

「その通りです」


 ドゥアルテは落ち着いていた。


「だから危険だと申しております」

「商いのために政に口を出すおつもりか」

「逆です」

「何が」

「政が、商いに口を出すようになる」


 宣教師たちは黙った。

 ドゥアルテは紙を指で叩いた。


「いまは大名が競っております。大友。有馬。大村。それぞれが船を呼びたい」

「……」

「ゆえに、我らには選べる相手がある」


 指が止まる。


「この国が一つになれば、相手は一人です」


 言葉を切ってから、ドゥアルテは付け加えた。


「もう始まっております」

「何がです」

「先日、堺の者から報せが参りました。丹波の明智の名で、硝石が押さえてあると」


 ロドリゴが顔を上げた。


「一国の主が玉薬を備える。珍しいことではありますまい」

「珍しくありません」


 ドゥアルテは頷いた。


「ただ、安土を通しておりませぬ」


 誰も、その意味をすぐには言葉にしなかった。


---


「つまり」


 ロドリゴが両手を机に置いた。


「諸君は、日本が分裂している方が都合がよいと言いたいのですか」


 誰もすぐには答えなかった。

 その問いには毒がある。

 認めれば、彼らはこの国の平和を望んでいないことになる。


 ミゲルが口を開いた。


「違う」

「では」

「分裂した日本がよいのではない」

「……」

「選べる日本がよい」


 ロドリゴの目が細くなる。


「同じことでは」

「違う」


 ミゲルは譲らない。


「一人の王がすべてを決める国よりも、幾人かが互いに牽制する国の方が」


 一拍置いた。


「我らにとって安全だ」

「我らにとって」


 ロドリゴが繰り返した。


「神にとって、ではないのですね」


 ミゲルは答えなかった。


 ロドリゴが立った。


「我々は政治家ではありません」

「そう思っているのは、あなただけだ」


 ミゲルが即座に返す。


「何ですと」

「港を使う。土地を借りる。大名と交渉する。船を呼ぶ。銀を動かす。鉄砲を運ぶ。信者を増やす」


 ミゲルは司祭を見上げた。


「それで政ではないと言えるのか」

「我らの目的は救霊です」

「目的と手段は違う」

「だから何だと」

「手段が、大きくなり過ぎた」


---


 戸が叩かれた。


「どうぞ」


 日本人の男が入ってきた。

 年は五十ほど。商人にも浪人にも見える。首に十字架はない。


「遅れました」

「どこから」

「堺」

「安土ではないのか」

「安土から堺を経て参りました」


 ミゲルが男を見た。


「名を」

「庄左衛門と」


 ロドリゴが言う。


「あなたは信徒ですか」

「違います」


 空気が少し変わった。


「ではなぜここへ」

「呼ばれましたので」


 庄左衛門はドゥアルテを見た。商人は黙っている。


「安土の様子を」

「上様は変わらず」

「明智光秀は」


 ミゲルが問うた。


 庄左衛門が目を向ける。


「ご存じで」

「名くらいはな」


 庄左衛門は懐から紙を出した。


「明智殿より、南蛮は天下一統をどう見るか、と問われた由にございます」


 ロドリゴが眉を寄せた。


「誰にです」

「堺の商人に」

「なぜ」

「存じませぬ」

「その商人が、何か吹き込んだのでは」

「いいえ」

「本当に」

「少なくとも、その問いに関しては」


 庄左衛門は紙を机に置いた。


「明智殿の方から、尋ねられました」


 ミゲルが少し笑った。


「興味深い」

「興味深くありません」


 ロドリゴが遮る。


「一人の大名が南蛮について尋ねた。それだけのことです」

「一人の大名」


 ミゲルが首を振った。


「明智光秀だ」

「だから何だと」

「信長の近くにいる」

「大勢おります」

「畿内を知っている。朝廷とも話ができる」

「……」

「丹波を持ち、京に近い」


 庄左衛門が静かに付け加えた。


「そして、細川藤孝と近うございます」


 ロドリゴが庄左衛門を見た。


「あなた方は、何を考えているのです」

「何も」


 庄左衛門は即答した。


「嘘です」

「本当に何も」

「ではなぜ、その名を出す」

「向こうから、我らを見たからです」

「見返す必要はない」

「ございます」

「なぜ」

「どのような目で見られているかを、知らねばなりませぬ」


 ロドリゴが机を叩いた。


「それ以上は許しません」


 部屋が静まり返った。


「明智光秀に近づいてはならない」

「近づいてはおりませぬ」

「間接的にもです」

「承知しました」

「情報を流すことも」

「承知しました」

「政に関わることも」

「元より」


 庄左衛門は深く頭を下げた。

 あまりにも素直であった。


 ロドリゴはしばらく男を見ていた。


「本当に分かっておいでか」

「はい」

「我らは信長公と敵対する理由がない」

「はい」

「むしろ保護を受けている」

「はい」

「その関係を壊すことは許されません」

「心得ております」

「ならば、よろしい」


 ロドリゴは座った。

 話は終わった。

 少なくとも、彼はそう思った。


---


 会合の後、ミゲルと庄左衛門は港へ下りた。

 夕方であった。黒船の影が海に長く伸びている。


「怒らせたな」


 ミゲルが言う。


「怒っていただくために呼ばれたようなものです」

「本当に何もしないのか」

「何も」

「信じられんな」

「なら、信じずにおいてください」


 二人は歩いた。

 ミゲルが横を見る。


「お前、南蛮の言葉を解するな」

「少々」

「どこで覚えた」

「昔、通詞をしておりました」

「いまは」

「いまは、何でもありませぬ」


 ミゲルはそれ以上聞かなかった。

 波止の先で足を止める。


「光秀は使えるか」


 庄左衛門は歩みを止めなかった。


「その言い方はおやめください」

「なぜ」

「人は道具ではありませぬ」

「では何だ」

「人です」

「当たり前だ」

「当たり前を忘れる者ほど、人を操ろうといたします」


 ミゲルが笑った。


「お前が言うか」

「だから申し上げます」


 庄左衛門が立ち止まった。

 港の向こう。夕日。大きな船。


「明智殿は、信長に不満を持っておられると思われますか」

「持っていない者がいるか」

「では、謀反を考えておられるか」

「……いや」

「考えておられませぬ」


 迷いのない答えだった。


「なぜ分かる」

「もし考えておられるなら、匂いが出ます」

「匂い」

「人は、大事なことほど隠そうといたします」


 ミゲルは黙った。


「明智殿は、まだ何も隠しておられぬ」

「ならば、意味がない」

「そうでしょうか」


 庄左衛門はミゲルを見た。


「謀反を考えている男に謀反を勧めれば」


 少し笑う。


「それは、ただの共犯にございます」


---


「では」


 ミゲルは声を低くした。


「目的は何だ」

「何の」

「光秀をどうしたい」

「何も」

「またそれか」

「明智殿がどうなさるかなど、我らには決められませぬ」

「……」

「肝要なのは」


 庄左衛門が指を海へ向けた。


「信長一人の意志で、この国のすべてが動く。その形を作らせぬことにございます」

「やはり信長を倒すのか」

「誰がそう申しました」

「いまの言い方はそう聞こえる」

「信長公が生きておられても構いませぬ」

「何」

「天下を取れなければ」


 ミゲルが立ち止まる。


「それは」

「織田家が割れる。有力な大名が残る。朝廷が力を保つ。キリシタンの大名にも選ぶ道が残る」


 庄左衛門は指を折っていった。


「港も、一つの命令では閉じませぬ」

「では、どうやってそれを作る」

「知りませぬ」

「知らぬ」

「我らが決めることではございませぬ」


 ミゲルが苛立った。


「では、何をするのだ」


 庄左衛門は答えた。


「信長公の周りにおられる方々に」


 しばらく間を置く。


「信長公の後の天下を、考えていただく」


---


 長崎の夜。

 灯が海に映っていた。黒船の甲板から歌が聞こえる。異国の言葉。異国の節。

 それを聞きながら、庄左衛門は宿へ戻った。


 部屋には誰もいない。

 机に紙を広げる。日本の形が描いてある。

 中央に、安土。

 その周りに名を書いていく。

 明智光秀。羽柴秀吉。柴田勝家。滝川一益。丹羽長秀。細川藤孝。筒井順慶。高山右近。徳川家康。

 それぞれの名の横に、小さな印を打った。

 距離。兵。縁。宗旨。利。


 庄左衛門は長くその紙を見ていた。

 やがて、明智光秀の名の横から一本の線を引いた。

 細川藤孝へ。

 もう一本。筒井順慶へ。

 もう一本。高山右近へ。

 そして、安土へ。

 筆が止まった。


「まだだ」


 誰に言うでもなく呟いた。

 光秀はまだ何も考えていない。信長も何も疑っていない。細川も、筒井も、高山も。

 誰も。

 まだ。


---


 戸が叩かれた。


「入れ」


 柏屋宗慶であった。安土から戻ってきたところである。


「随分と遅かったな」

「商人は忙しい」

「文は」

「渡した」

「誰に」

「知らん」

「知らない」

「お前が、宛名はいらぬと言った」


 庄左衛門が笑った。


「そうだったな」


 宗慶が机の紙を見た。

 表情が変わる。


「何をしている」

「人の繋がりを見ている」

「なぜ」

「面白いからだ」

「嘘をつけ」


 庄左衛門の顔から笑みが消えた。


「嘘はついていない」

「……」

「本当に面白い」


 宗慶は紙の上の線を見た。

 細川。筒井。高山。


「明智様に、何をさせたい」

「何も」

「ならばこの線は何だ」

「人は」


 庄左衛門が筆を置いた。


「一人では、大きな決断をしない」

「……」

「味方がいると思えば、決断できる」


 宗慶の表情が強張った。


「お前」

「安心しろ」

「何を」

「我々の口から、味方だとは言わない」

「では」

「言わずに済むものを、選ぶ」


 庄左衛門は紙を指した。


「細川藤孝は、光秀の長年の友だ」

「……事実だ」

「忠興は娘婿」

「事実だ」

「筒井は畿内に独自の力を持つ」

「事実だ」

「柴田は北陸。羽柴は中国。滝川は関東」


 宗慶は答えなかった。


「どれか一つでも、違うか」

「……違わん」

「そうだ」


 庄左衛門は宗慶を見た。


「それを並べて見た男が、何を考えるか」


 部屋が静かになる。


「それは」


 庄左衛門はゆっくりと言った。


「その男の問題だ」


---


 宗慶はしばらく黙っていた。


「一つ聞く」

「何だ」

「もし」


 言葉を選ぶ。


「もし明智様が、その先まで考えられたら」

「その先」

「……信長公を」


 言いかけて、止めた。

 庄左衛門は答えない。


「どうする」

「何もしない」

「止めぬのか」

「なぜ止める」

「では勧めるのか」

「勧めぬ」

「ならば」


 宗慶は苛立っていた。


「何をするんだ」


 庄左衛門は窓を開けた。

 潮の匂いが入る。遠くに黒船の灯。


「見る」

「……」

「それだけだ」

「狂っている」

「そうかもしれん」

「もし失敗すれば」

「光秀が死ぬ」

「成功すれば」


 庄左衛門は少し考えた。


「それは」


 紙を見る。


「成功の形による」


---


「信長が死ねばよいのではないのか」


 宗慶が問うた。


 庄左衛門は首を振った。


「それでは足りぬ」

「なぜ」

「信長が死んでも、織田家が一つなら同じことだ」

「では」

「割れねば、意味がない」


 宗慶の顔から血の気が引いた。


「お前たちは」

「我々」


 庄左衛門が振り返る。


「その言い方はやめろ」

「何が」

「一つの集まりだと思うな」

「違うのか」

「宣教師の中にも反対する者がいる」

「知っている」

「商人も一枚岩ではない。ポルトガルの者とイスパニアの者も同じではない。この国のキリシタン大名も、それぞれ利が違う」

「では、誰がこの話を動かしている」


 庄左衛門は笑った。


「それが分からぬから」


 一歩近づく。


「安全なのだ」


 宗慶が息を呑む。


「一人捕らえても終わらぬ。一人裏切っても全部は分からぬ。一人死んでも続く」

「……」

「秘密の集まりなど、どこにもない」


 庄左衛門は静かに言った。


「同じ恐れを持つ者が」


 窓の外の黒船を見る。


「同じ方を向いているだけだ」


---


 その頃。


 丹波亀山では、光秀が一通の書状を読んでいた。

 細川藤孝からのものである。

 内容は他愛ない。和歌。京の噂。公家の動き。

 そして最後に一行。


『近頃、安土にて南蛮人と話された由。珍しき話あらば、いずれ聞かせ給え』


 光秀は少し笑った。

 藤孝らしい。どこから聞いたのか、あの男はいつも誰より早く物を知っている。

 返書を書いた。


『世界は丸きものにて、海を西へ進めば東より戻ると申す。南蛮人の話、奇怪千万なれど面白く候』


 そこまで書いて、筆が止まった。

 もう一文、浮かんでいた。


『信長公は、その先を見ておられるやもしれぬ』


 書いた。

 文字を見る。

 消そうかと思った。

 旧友への文である。誰に見せるものでもない。

 残した。

 さらに一行、続けた。


『天下静謐の後、我らはいかなる世を見るのであろうな』


 筆を置く。

 何気ない一文であった。長年の友に向けた、ただの問いである。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 光秀は書状を畳み、使者へ渡した。


---


 数日後。


 細川藤孝はその書状を読んだ。

 最後の一文で、ほんの少し手が止まった。


『天下静謐の後、我らはいかなる世を見るのであろうな』


 二度読んだ。


「らしくないな」


 小さく呟く。


 側にいた忠興が振り返った。


「何がでございます」

「いや」


 藤孝は書状を畳んだ。


「何でもない」


 だが、その夜。

 返書を書く時、藤孝もまた少し考えた。

 どこまで書くべきか。

 結局、こう書いた。


『天下の後の天下など、天下人に考えさせておけばよい』


 冗談半分であった。

 光秀なら笑うと思った。


---


 長崎へその話が届いたのは、さらに後のことである。

 書状そのものを見た者はいない。

 安土。京。丹波。細川。

 人が動けば、言葉も動く。すべてが正しく伝わるわけではない。

 ただ、明智光秀が近頃、妙なことを考えているらしい。

 その程度の噂だけが流れてきた。


「天下の後の天下、か」


 庄左衛門は一人で笑った。

 まだ早い。

 何も起きていない。何も決まっていない。

 光秀は主君を裏切る気などない。信長も光秀を疑っていない。細川藤孝も、旧友との文のやり取りだと思っている。

 それでよかった。

 庄左衛門は紙を畳んだ。


「急ぐ必要はない」


 灯を消す。

 闇の中、町の方から鐘の音がした。

 一度。二度。三度。

 刻を告げる鐘であった。

 それだけの鐘が、海の上をどこまでも渡っていった。


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