第二章 信長
天正十年、四月末。
安土城は、遠くからでもそれと分かった。
湖東の平野を進むうち、山の上に異様なものが立ち上がってくる。
城。
そう呼ぶには、あまりにも大きい。
砦とも違う。館とも違う。それまで光秀が見てきたどの城とも似ていなかった。
山そのものを削り、石を積み、道を通し、その上に巨大な天主を載せている。
白壁と朱。瓦。金。
遠目にも鮮烈だった。
初めて見る者なら、これが人の造ったものかと疑うだろう。
しかし光秀は知っている。
人が造ったのだ。
ただし、普通の人間ではない。
「何度見ても、慣れませぬな」
馬を並べていた斎藤利三が言った。
「何にだ」
「城にございます」
「大きいからか」
「大きいだけなら、まだ分かります」
利三は山を見上げた。
「必要がない」
光秀が少し笑った。
「言うようになったな」
「城は守るために築くものと教わりました」
「間違ってはおらぬ」
「ならば、あれほど高く、あれほど目立たせる理由が分かりませぬ」
「分からぬか」
「はい」
光秀はしばらく黙っていた。
「見せるためだ」
「城を、でございますか」
「城をではない」
朝日に照らされた天主が、琵琶湖を見下ろしている。
「上様という人間を、だ」
利三は何も言わなかった。
守るという発想以上に、示すという意志がある。
自分はここにいる。この土地は自分のものだ。この国の中心はここだ。
そう天下に告げるための城。
いや。
天下だけではないのかもしれない。
光秀は不意に、亀山で見た紙の地図を思い出した。
日本。朝鮮。明。そのさらに向こう。
思い出した自分に気づいて、眉を寄せた。
商人に見せられた紙切れである。
忘れていたはずであった。
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安土の城下は人で溢れていた。
近江の商人。堺の豪商。京の職人。僧。武士。百姓。旅人。そして異国の者。
信長はこの町そのものを、天下の縮図にしようとしているように見えた。
城へ上る道の両側には、家臣たちの屋敷が並んでいる。
羽柴。滝川。丹羽。森。
そして明智。
いずれも一国を預かるほどの将である。だが安土へ来れば、誰もが同じ山の下に住む。
それが偶然でないことくらい、光秀には分かっていた。
「明智殿」
声を掛けられた。
振り返ると、丹羽長秀がいた。
「五郎左殿」
「お早いお着きで」
「呼ばれれば参るしかありますまい」
「それは我ら皆同じですな」
長秀が笑う。
「筑前殿は」
「中国です」
「そうであったな」
「柴田殿は北陸。滝川殿は関東へ入られたと聞きました」
長秀は何気なく言った。
光秀は足を止めかけた。
ほんの一瞬である。
頭の中に、日本の形が浮かんだ。
北陸。中国。関東。
そして畿内。
信長を中心に、織田の重臣たちが四方へ散っている。
網のようだ、と思った。
「どうされました」
「いや」
光秀は首を振った。
「皆、遠くへ行ったと思っただけだ」
「それだけ天下が広がったということでしょう」
「そうだな」
長秀は笑って歩き出した。光秀もその隣を進む。
「少し前まで、美濃と尾張の話をしておりましたのに」
「いまでは甲斐だ、中国だ、四国だ」
「次は九州でしょうか」
光秀が横目を向けた。
「そう思うか」
「上様ならば」
「……そうだな」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
後になって、光秀は幾度もこの短い立ち話を思い返すことになる。
長秀に他意はなかった。
北陸。中国。関東。
どれも隠されてなどいない。誰でも知っている。
ただ、その日その時に、一つに並べて口にした者がいた。
それだけのことであった。
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大広間には、すでに幾人もの家臣が集まっていた。
光秀が席につく。
やがて空気が変わった。
誰かが何かを告げたわけではない。ただ、皆が一斉に静かになった。
信長が入ってきた。
派手な装束ではない。むしろ簡素である。
だが、そこにいるだけで周囲の人間が小さく見えた。
信長は座るなり、家臣たちを一通り眺めた。
「光秀」
「はっ」
「丹波はどうだ」
「大きな乱れはございませぬ」
「米は」
「昨年より取れましょう」
「道は」
「山陰道の整備を進めております」
「商人は入ったか」
「京、堺より徐々に」
「足りぬ」
短い言葉だった。
「は」
「徐々に、では遅い」
「国が長く荒れておりましたゆえ、急ぎ過ぎれば――」
「急がぬ理由になるか」
「……なりませぬ」
「ならば急げ」
「はっ」
信長はもう光秀を見ていなかった。
いつものことである。
何年仕えても慣れない。
この男は結果だけを見る。そこに至る難しさを知らぬわけではない。理解した上で、無視する。
できるか。できぬか。
それだけだ。
光秀はかつて、それを清々しいと思っていた。
情を挟まない。家柄にこだわらない。古い秩序に縛られない。用いる時は思い切って用いる。
それゆえ、自分もここまで来られた。
将軍家に仕えていた、出自も定かでない男が、丹波一国を預かっている。
この男に拾われなければ、あり得なかった。
その恩を忘れたことはない。
いまも、忘れてはいない。
「五郎左」
「はっ」
「四国はどうなっている」
光秀の指が、袴の上でわずかに動いた。
「長宗我部との話は、続いておりまする」
「遅い」
「は」
「元親に伝えよ。四国のすべてを欲するなら、己の力だけで取れると思うな、と」
「承知いたしました」
光秀は膝の上を見ていた。
土佐の取次は、長く自分が務めてきた。斎藤利三の縁につながる筋もある。書状も、使者も、約定も、すべて明智の手を通ってきた。
その四国のことを、いま上様は自分に問わなかった。
叱責されたのではない。
役目を取り上げられたのでもない。
ただ、問われなかった。
それだけである。
それだけのことが、妙に長く胸に残った。
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評定は続いた。
北陸。中国。甲斐。関東。九州。
次々と国の名が出る。
それを聞きながら、光秀は奇妙な感覚に襲われていた。
上様が話しているのは、戦のことではない。
配置である。
誰をどこへ置くか。誰を使うか。誰を退けるか。
国そのものを、盤の上の石のように動かしている。
それが可能になりつつある。
十年前なら、誰もそんなことは考えなかった。将軍にすらできなかったことだ。
「九州が済めば」
誰かが言った。
「いよいよ天下静謐にございますな」
笑い声が起きる。
信長は笑わなかった。
少しだけ目を細めた。
「天下」
「は」
「どこまでを天下と申す」
大広間が静まった。
問われた武将が困惑する。
「日の本……にございましょうか」
「日の本」
信長が繰り返す。
「狭いな」
光秀の指先が、また動いた。
「南蛮の坊主に聞けば分かる。唐よりさらに西へ行っても国がある。南にも島がある。北にも陸がある」
信長は面白そうに笑った。
「日の本だけ取って天下人とは、大きく出たものよ」
何人かが笑った。
冗談だと思ったのだろう。
光秀は笑えなかった。
亀山の夜。紙の地図。娘の指。
――でも、船なら越えられます。
あの時は、可愛いことを言うと思っただけであった。
「上様」
声が出ていた。
自分でも思いがけなかった。
信長の目が向く。
「何だ、光秀」
「海の向こうへ、兵を出されるおつもりでございますか」
広間の何人かが光秀を見た。
唐突な問いである。
信長はしばらく答えなかった。
やがて言った。
「いまは出さん」
光秀は黙っている。
「いまは、な」
信長は笑った。
「まずはこの国を片付けねばならぬ」
広間に再び笑いが起こった。
今度は光秀も少しだけ笑った。
胸の奥には、何かが残った。
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評定の後、光秀は天主の上層へ呼ばれた。
二人きりではない。森蘭丸。近習が数名。
そして黒衣の南蛮人が一人。
「光秀」
「は」
「お前は物を知っておる」
唐突だった。
「恐れ入ります」
「こやつの申すことを聞け」
宣教師が頭を下げた。日本語はかなり達者であった。
「明智どの。お目にかかれて光栄にございます」
「こちらこそ」
「この者が妙なことを申してな」
信長は笑っている。
「大地は丸いと言う」
「丸い」
「はい」
宣教師が答えた。
「我らの住む大地は、大きな球のごとき形をしております」
光秀は眉をひそめた。
「ならば、その下におる者は落ちるではないか」
信長が声を上げて笑った。
「わしも同じことを申した」
「落ちませぬ」
宣教師も笑っている。
「なぜだ」
「それを申し上げるのは、少し難しゅうございます」
「ならば分かるように話せ」
宣教師は困った顔をした。
光秀はそのやり取りを見ていた。
不思議であった。
上様は子供のように問う。分からなければ何度でも問う。相手が坊主でも南蛮人でも変わらない。正しいと思えば受け入れ、間違っていると思えば笑う。
やはり、この御方は恐ろしい。
「西へ西へと進めば」
宣教師が、台に据えられた球を指した。
「いつか東より、元の場所へ戻ることができまする」
「南蛮から日の本へ来るのに、東から来る道もあるのか」
「理屈では」
「面白い」
信長が立ち上がった。
球を手に取る。
「ここが日の本か」
「はい」
「小さいな」
「土地の広さでは」
「明は」
「こちらに」
「大きいな」
「大きな国にございます」
信長はじっと球を見ている。
「兵は強いか」
宣教師が一瞬詰まった。
「……多うございます」
「強いかと聞いた」
「私は兵法には詳しくございませぬ」
「逃げたな」
信長が笑う。宣教師も苦笑した。
「南蛮の王は、どれほどの兵を持つ」
「国により異なりまする」
「船は」
「多くございます」
「大筒は」
「ございます」
「鉄砲は」
「もちろん」
信長の目が光った。
光秀は知っている。
あの目だ。
新しい武器を見た時。新しい仕組みを知った時。未知のものに出会った時。
この御方は必ずあの目をする。
恐れるより先に、欲しがる。
「その大筒、持って来られるか」
「容易ではございませぬ」
「容易かどうかは聞いておらぬ」
宣教師が黙る。
「持って来られるか」
「……金と船があれば」
「ならば持って来い」
「上様」
光秀が口を挟んだ。
「何だ」
「大筒を、何にお使いになるおつもりで」
信長が光秀を見た。
「城を壊す」
「どこの城を」
「壊すべき城だ」
また笑いが起きた。
光秀は笑わない。
信長は球を手の中で回している。
「この世には、まだ見たこともない物が山ほどある」
独り言のようであった。
「面白いではないか」
「……左様にございますな」
「光秀」
「は」
「お前は面白くないのか」
問われて、光秀は答えに迷った。
「興味はございます」
「興味」
「知ることには」
「同じことだ」
「いいえ」
思わず出た。
部屋の空気がわずかに変わった。蘭丸が光秀を見る。
信長だけが笑っていた。
「何が違う」
光秀は一度、頭を下げた。
「知ることと、手に入れることは違いまする」
数瞬、沈黙があった。
信長が笑った。
「お前らしい」
「恐れ入ります」
「だからお前は面白みに欠ける」
光秀も笑った。
「よく言われます」
「誰にだ」
「妻に」
信長は大笑いした。
空気が緩んだ。
しかし光秀の中では、何も緩んでいなかった。
---
その夜。
光秀は安土の屋敷へ戻った。
酒を少し飲んだ。眠れなかった。
机に紙を置く。墨をする。
書くつもりはなかった。
窓の向こうに天主が見える。夜になっても灯が消えない。
あの城を見るたび、光秀は思う。
上様は何を目指しておられるのか。
天下統一。それは分かる。戦乱を終わらせる。それも分かる。
では、その後は。
筆を持った。
紙へ書く。
尾張。美濃。近江。山城。丹波。摂津。播磨。越前。甲斐。
織田の勢力が伸びていった順であった。
気づけば紙が埋まっている。
そして一番下に、九州、と書いた。
筆が止まる。
九州の下には何がある。
海である。
そのさらに向こうには。
光秀は紙を丸めた。
「馬鹿な」
声に出した。誰も聞いていない。
「何を考えておる」
自分に言った。
上様が海を渡ると決めたわけではない。明を攻めるとも仰せではない。
ただ、海の向こうにも国があると言われた。
それだけだ。
それなのに、その言葉だけが妙に重く残っている。
上様なら。
そんな考えが浮かぶ。
上様なら、やられるのではないか。
甲斐を取るなど、十年前なら馬鹿げた話であった。将軍を京から追うなど、もっと馬鹿げていた。
比叡山を焼くなど。本願寺を屈させるなど。武田を滅ぼすなど。
どれも、起こる前なら馬鹿げていた。
起きた後では、当然の出来事のように語られる。
光秀は窓を開けた。
夜風が入る。天主が見える。あまりにも巨大であった。
天下を統一するための城。
そう思っていた。
しかし、もし天下を統一した後も、あの御方が止まらなければ。
誰が止める。
光秀は自分の考えに驚いた。
止める。
何を。
なぜ止める必要がある。
主君である。天下静謐は、織田家臣として望むべきことだ。
戦がなくなる。国が豊かになる。道が通り、商人が行き交う。
自分が丹波でやろうとしていることを、上様はもっと大きな器でやろうとしておられるだけではないか。
ならば、なぜ。
胸の奥に、この冷たいものが残る。
光秀は丸めた紙を火桶へ入れた。
紙が縮み、黒くなり、消えた。
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翌朝。
城へ向かう途中、町で人だかりを見かけた。
南蛮人が何かを配っている。近寄ると小さな紙であった。文字。十字。教えを説くものらしい。
光秀は受け取らず、通り過ぎた。
「明智様」
声がした。足を止める。
見覚えのある男が立っていた。
亀山へ来た堺の商人。柏屋宗慶である。
「お久しゅうございます」
「なぜここにおる」
「商いにございます」
「安土まで来るのか」
「人の集まる所には、商人も集まりまする」
「なるほど」
光秀は少し笑った。
「先日の筒は売れたか」
「おかげさまで」
「誰に」
「それは申し上げられませぬ」
「上様か」
宗慶が困った顔をする。
それが答えであった。
「分かりやすい男だ」
「武家の方ほど上手に嘘をつけませぬので」
「商人は正直なのではなかったか」
「正直にございます」
「いま誤魔化したではないか」
「嘘は申しておりませぬ」
光秀は笑った。
「口の達者な男だ」
「商人にございますので」
二人は少し歩いた。
「硝石の方は」
宗慶が世間話の調子で言った。
「押さえてございます。丹波の分は、いつでも」
「まだ決めておらぬ」
「では、そのままお預かりいたします」
「預かるのか」
「押さえた物は、押さえたままにしておけます」
光秀は答えなかった。
宗慶も、それ以上は言わなかった。
少し行った所で、宗慶が天主を見上げた。
「立派な城にございますな」
「ああ」
「南蛮人も驚いております」
「これほどの城は向こうにはないか」
「城ならございます」
「もっと大きいか」
「もっと古い物も、大きい物もあると聞きます」
光秀が意外そうに見る。
「そうか」
「ただ」
「何だ」
「一人の武将が、これほど短い年月でここまで造ったことには驚いております」
光秀の歩みが、少し遅くなった。
「南蛮人は、上様をどう見ておる」
宗慶は答えなかった。
「言えぬか」
「人によりまする」
「それでよい」
「……恐ろしい御方だと申す者も」
「当然だろう」
「好意を持つ者もおります」
「布教を許しておるからな」
「はい」
「それだけか」
宗慶が光秀を見る。
「明智様は、何をお聞きになりたいので」
「分からん」
光秀は率直に答えた。
宗慶は少し驚いたようであった。
「南蛮の者たちは」
光秀が続ける。
「この国が一つになることを、どう思っておる」
宗慶はすぐには答えなかった。
町の喧騒。馬の声。商人の呼び声。遠くの鐘。
「便利にはなりましょう」
「便利」
「関所が減る。戦も減る。商いにはようございます」
「ならば喜ぶか」
「商人は」
「南蛮人は」
宗慶は光秀を見た。
しばらくして言った。
「人によりまする」
「便利な言葉だな」
「真実でもございます」
「では、其方の知る限りでよい」
光秀は天主を見上げた。
「あれほどの御方が、この国をすべて手に入れたら」
少し間を置く。
「南蛮人は、どうする」
宗慶も天主を見た。
「どうする、ではなく」
「何だ」
「どうされるかを考える者も、おりましょうな」
光秀が宗慶を見る。
宗慶は微笑んでいた。
「それだけにございます」
それ以上は何も言わなかった。
---
その日の夕刻。
宿の一室で、宗慶は短い文を書いた。
宛名はない。
『明智殿より問われたり。天下一統の後、南蛮はいかにするか、と』
筆を置く。
しばらくその文字を見ていた。
畳んで、小さな筒へ入れる。
奥の暗がりで、衣擦れの音がした。
「いつからおった」
「いま来た」
宗慶は振り返らない。
亀山の宿で会った男である。
「長崎へ出せばよいのか」
「出せ」
「宛名は」
「いらぬ」
「それで届くのか」
「届く」
宗慶は筒を置いた。
置いてから、言った。
「一つ聞く」
「聞くな、と言うと思うか」
「聞く」
宗慶は振り返った。
「お前は、誰のために動いている」
男の表情から、笑みが消えた。
「その問いはするな」
「宣教師か」
「するな」
「ポルトガル人か」
「宗慶」
「それとも」
男の目が鋭くなった。
「するなと言った」
部屋が静まった。
外を人が通る。足音が遠ざかる。
宗慶は目を逸らした。
「……分かった」
男は影から出てこなかった。
宗慶は筒を懐へ入れ、立ち上がる。
戸口で振り返った。
「気味の悪い話だ」
「商人が言うことか」
「商人だから言う」
宗慶は戸に手を掛けた。
「銭の流れには、必ず行き先がある」
一拍。
「お前の話には、それが見えぬ」
男は答えなかった。
---
同じ頃。
天主の最上層で、信長は琵琶湖を見ていた。
正確には一人ではない。森蘭丸が少し離れて控えている。
「蘭丸」
「は」
「光秀は妙なことを聞いたな」
「海の向こうのことでございますか」
「ああ」
「明智様らしいと存じます」
「何がだ」
「先のことをお考えになります」
信長が鼻で笑った。
「考え過ぎる」
蘭丸は答えない。
「人というものはな」
信長は湖を見ながら言った。
「遠くを見過ぎると、足元の石につまずく」
「は」
「だが」
少し笑った。
「足元ばかり見ておる者には、山の向こうが見えぬ」
蘭丸が顔を上げる。
「難しゅうございますな」
「そうか」
信長は笑った。
夕日に照らされた湖。その先。さらに先。
「まず中国だ」
「羽柴様の」
「あれが済めば四国」
「その後は」
「九州」
「その後は」
蘭丸が尋ねた。
信長は答えなかった。
しばらく、湖の彼方を見つめている。
「その時に考える」
それだけであった。
---
数日後。
光秀は安土を離れた。
馬上から振り返る。
城が見える。
来た時よりも、なぜか大きく見えた。
「殿」
利三が声を掛けた。
「何だ」
「上様は、何か仰せでしたか」
「いつも通りだ」
「いつも通り」
「ああ」
光秀は前を向いた。
「もっと早くやれ、と」
利三が苦笑する。
「それもいつも通りにございますな」
「ああ」
二頭の馬が街道を進む。安土が遠ざかっていく。
「利三」
「は」
「天下が治まれば、武士はどうなると思う」
唐突な問いであった。
利三が光秀を見る。
「どうなる、とは」
「戦がなくなる」
「結構なことでは」
「我らは戦をするための者だ」
「治めることも武士の務めにございます」
「そうだな」
光秀は頷いた。
「では、国が治まり、道も整い、百姓が田を耕し、商人が行き交うようになれば」
「はい」
「その後、上様は何をなさる」
利三はしばらく考えた。
「……鷹狩りでも、なさるのでは」
光秀が笑った。
「お前は時々、恐ろしく賢いな」
「褒められているように聞こえませぬ」
二人とも笑った。
それで話は終わった。
少なくとも利三はそう思った。
瀬田を過ぎる頃、日が傾いた。
光秀は手綱を握り直した。
右手の指が、思ったより冷えていた。




