第一章 丹波
初めて書いた小説ですので、拙い部分もあるかと思いますが、少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。
なお、本作には史実をもとにした創作や独自解釈が含まれています。
歴史の一つの「もし」として、お楽しみください。
天正九年、冬。
丹波亀山の朝は早い。
山あいに沈んだ冷気は夜明けを過ぎても消えず、城下の屋根に薄い霜を残していた。街道を行く馬の蹄が硬い土を打つたび、乾いた音が白い息の向こうに響く。
亀山城の天守から眺めれば、その城下はまだ若かった。
家々の並びは整いつつある。商人町には近江から来た者が店を構え、京から下った職人が軒を連ねる。丹波攻略のための陣城として築かれた城は、いまや一国を治める政の中心へと姿を変えようとしていた。
明智光秀は、南に広がる城下を黙って見ていた。
「今年は雪が早いかもしれませぬな」
背後から声がした。
振り返ると、斎藤利三が縁側の手前で膝をついていた。
「福知山からの使いが参っております。由良川沿いの堤について、もう一度普請を願いたいとのことにございます」
「去年も直したはずだが」
「それでも水は人の言うことを聞きませぬ」
「人より始末が悪いな」
「人よりは素直かと存じます。水は低きへ流れるだけにございますから」
「なるほど」
光秀は笑った。
だが視線はすぐに城下へ戻った。
「低きへ流れる、か」
その声は小さかった。
利三には聞こえなかったのか、聞こえぬふりをしたのか、何も答えなかった。
丹波を得るまでに、長い年月がかかった。
波多野。赤井。国人衆。山々に点在する城。
軍勢を率いるといっても、敵を討てばすべてが終わるわけではない。降った者の土地を安堵し、背く者を切り崩し、道を直し、水を治め、年貢を定める。戦よりも、その後の方が難しい。
光秀はそれを知っていた。
だからこそ丹波を手にしたことを、単なる加増とは考えていなかった。
荒れた土地を治める。村を戻す。商人を呼ぶ。寺社を保護し、人を住まわせる。十年、二十年の後には、ここを戦乱以前より豊かな土地にする。
それこそが国を治めるということだと、光秀は考えていた。
半年前、家中に軍法を定めた。その末に、自らの筆でこう記した。
――瓦礫のごとき身を召し出され、あまつさえ一国を預けられた。
偽りではない。あれは本心であった。美濃を追われ、寄る辺もなく諸国を流れた男が、いま丹波一国を預かっている。それを恩と思わぬほど、光秀は不明ではない。
ただ。
拾われた者は、捨てられることも知っている。
「殿」
「なんだ」
「もう一件。西国の方も、そろそろ動き始めるかと」
「四国か」
「土佐の長宗我部より、書状が参るころにございます」
「……そうか」
光秀は短く応じただけだった。
長宗我部元親との取次は、長く自分が務めてきた。利三の縁につながる筋もある。四国のことは、明智の仕事であった。
いまも、そうであるはずだった。
「あとは」
利三が続けた。
「京より商人が三名。堺より一名。面会を願うております」
「堺」
「はい。南蛮物を扱う者にございます」
光秀が振り返った。
「南蛮物」
「硝石と鉛、それに薬種などを」
「鉄砲商いか」
「それだけではないようにございます」
利三が一枚の紙を差し出した。扱う品が細かく記されている。
硝石。鉛。薬種。砂糖。羅紗。眼鏡。時計。
さらに、聞いたこともない名の品がいくつか並んでいた。
「珍しい物ばかりだな」
「商人とは、珍しい物ほど高く売る者にございます」
「お前は商人が嫌いか」
「いいえ」
利三は平然と答えた。
「武士より正直だと思うております」
「ほう」
「商人は銭のために動きます。ゆえに、何を欲しているか分かりやすい」
「では武士は」
「銭が欲しいくせに、忠義だの名誉だのと申します」
光秀は声を上げて笑った。
「本人の前でなければ、上様にも言えそうだな」
「申し上げるつもりはございませぬ」
「賢明だ」
光秀は紙を畳んだ。
「会おう」
「本日でよろしゅうございますか」
「急ぐ理由もないが、断る理由もない」
利三が一礼して去る。
その背を見送りながら、光秀はもう一度城下へ目を向けた。
南蛮。
近頃、その言葉を耳にすることが増えた。京でも、安土でも、堺でも。
十数年前なら、異国人など見物の対象であった。それがいまでは、港町へ行けば黒衣の宣教師を見かけることも珍しくない。
信長自身が彼らを面白がっている。南蛮寺を建てることも許した。仏僧たちが不満を訴えても、意に介さない。
信長にしてみれば、寺であろうが南蛮人であろうが、自分の支配に従う限り差はないのだろう。
そういう男だった。
強い者も弱い者も、新しいものも古いものも、自分の秤に載せてしまう。
使えると思えば使う。
邪魔だと思えば捨てる。
光秀は、いつからかそれを恐ろしいと思うようになっていた。
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昼を過ぎた頃、堺の商人が城内へ通された。
柏屋宗慶と名乗った。
年の頃は四十前後。商人らしい柔らかな物腰の男である。
「山城、近江、丹波と、明智様のお噂は各地で耳にいたしております」
「どのような噂だ」
「領内の道がよい、と」
光秀は少し意外な顔をした。
「道か」
「はい」
「戦ではないのだな」
「戦のお噂は、武家の方々がお広めになられます。我ら商人は、道と関所と宿場の噂をいたしますので」
光秀は面白そうに男を見た。
「なるほど」
「道がよければ荷は早く届きます。関所が少なければ銭が残ります。盗賊が出なければ命も残ります」
「商人にとっては、それが良い領主ということか」
「左様にございます」
「上様はどうだ」
宗慶は一瞬だけ間を置いた。
「天下一の御方にございましょう」
「答えになっておらぬな」
「商人は、答えにならぬ答えを好みます」
光秀は吹き出した。
妙な男だった。
持参した品が並べられた。色鮮やかな布。銀で作られた小さな十字架。精巧な時計。香料。ガラス器。
そして細長い木箱。
「これは」
「南蛮渡りの筒にございます」
利三の表情が変わった。
「鉄砲なら国友にもある」
「もちろんでございます」
宗慶は箱を開いた。
火縄銃であった。形そのものは珍しくない。だが細部が違う。銃身が長く、金具の造りも細かい。
「遠くの的を狙うためのものだそうにございます」
光秀は手に取った。
重い。だが均整が取れている。
「どこから来た」
「ゴアよりマカオを経て、長崎へ」
「ゴア」
「天竺の西の岸にある、南蛮人の港にございます」
「マカオとは、明の近くにあるという港か」
「よくご存じで」
「宣教師から聞いた」
宗慶の眉が、ほんのわずかに動いた。気づく者なら気づく程度の変化であった。
「明智様は南蛮の方ともお話を」
「何度か見かけた程度だ。上様はああいう者を好む」
「新しいものをお好みになる御方と聞いております」
「新しいものだけではない」
光秀は銃を置いた。
「強いものを好まれる」
「なるほど」
宗慶は深く頭を下げた。それ以上は何も言わなかった。
利三が口を開いた。
「硝石を扱うと申したな」
「はい」
「どれほど動く」
「年によって参ります。此度の船は多く積んでまいりました」
「堺の硝石は、まず安土へ回るのではないか」
問いはやや硬かった。
宗慶はうなずいた。
「お指図のある分は、そのように」
「では、指図のない分は」
「買う方へ売ります」
部屋が静かになった。
光秀は硝石の値を尋ねた。宗慶は答えた。量を尋ねた。宗慶は答えた。船の着く月を尋ねた。宗慶は答えた。
嘘をつく口調ではなかった。数字はいずれも、当たり前の商いの数字であった。
ただ、その数字を頭の中で丹波一国の石高と並べたとき、光秀の中で小さな計算が動いた。
――足りる。
一国の力で、鉄砲衆を養える。玉薬も、安土を通さず調えられる。
それは謀反の算段ではない。国持ちの武将が、当然に考えておくべきことにすぎない。
だが光秀は、その考えが浮かんだこと自体を、なぜか誰にも見られたくないと感じた。
「よい品だ」
光秀はそれだけ言った。
「またお持ちいたします」
宗慶も、それだけ答えた。
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商談が終わった後も、宗慶は残った。他の者たちは利三に案内されて部屋を出ている。
「まだ何かあるのか」
「一つだけ」
「申せ」
宗慶は懐から包みを取り出した。紙であった。簡素な地図である。
日本ではない。
「これは何だ」
「南蛮人が描いた海の図にございます」
海が描かれている。日本。朝鮮。巨大な大陸。その南に幾つもの島。さらに遠く、西へ西へと土地が続いていた。
「ここが日の本」
宗慶が指を置いた。
「こちらが朝鮮」
「これは明だな」
「左様にございます」
光秀は地図を見つめた。
日本は小さい。あまりにも小さい。京から丹波へ馬で走れば一日二日はかかる。それだけでも広いと感じる。ところがこの紙の上では、日本という島の連なりが指先ほどしかない。
「この先は」
「天竺。さらに西に南蛮の諸国がございます」
「そこから船で来るのか」
「はい」
「何月かかる」
「一年を越えることも」
光秀は黙った。
それほど遠い土地から、海を越えて人が来る。宗教を説き、商いをし、武器を持ち込む。
「なぜだ」
「何がでございます」
「なぜ、そこまでして来る」
宗慶は少し考えた。
「銭のためという者もおります」
「それだけではあるまい」
「神のためと申す者もおります」
「神」
「デウスという、彼らの神にございます」
「聞いたことがある」
「世界はその神が作ったそうにございます」
光秀は薄く笑った。
「随分と大きく出たものだ」
「彼らにしてみれば、我らの神仏も同じように見えるのでございましょう」
光秀は答えなかった。
再び地図を見る。
「南蛮人は明とも商いをしておるのか」
「盛んに」
「この港は」
「マカオにございます」
「南蛮人の国なのか」
宗慶は首を振った。
「明の土地にございます。ただ、南蛮人が住むことを許されております」
「明が許しておる」
「左様に」
「なぜだ」
「商いのためかと」
「商いだけか」
光秀の声が少し低くなった。
宗慶は光秀の顔を見た。そして静かに答えた。
「さて」
その一言だけであった。
だが、その答え方が妙に光秀の心に残った。
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夕刻。
雪が降り始めた。細かな雪であった。城下の灯が一つずつ点りはじめる。
光秀は一人で地図を広げていた。
東から西へ。日本。朝鮮。明。天竺。そして南蛮。
世界は広い。その当たり前のことを、紙一枚に突きつけられているようだった。
障子の向こうで声がした。
「父上」
「入れ」
玉であった。細川忠興に嫁いでいるが、この日は所用があって亀山に来ていた。
「まだお仕事でございますか」
「仕事ではない」
「では何を」
玉が近寄る。
「地図だ」
「これは日の本ですか」
「ここだ」
光秀が小さな島を指す。玉が顔を近づけた。
「……小さい」
「そう思うか」
「はい」
「わしもそう思った」
玉は地図の上を指で辿った。
「こちらが唐でございますか」
「いまは明という」
「こちらは」
「南蛮人の国らしい」
「ずいぶん遠いのですね」
「ああ」
「そこから船で来るのですか」
「そうだ」
玉は素直に感心していた。
光秀は娘の横顔を見た。
「忠興殿は元気か」
「はい」
「藤孝殿も」
「変わらずにございます」
「そうか」
玉が微笑む。
「父上はいつも義父上のことを気になさいますね」
「古い友だからな」
「義父上も父上のお話をよくなさいます」
「悪口か」
「まさか」
「では褒めておったか」
「それもあまり」
「正直な男だ」
玉が笑った。光秀も笑った。
しばらく二人で地図を眺めた。
「父上」
「なんだ」
「この地図では、国と国の境がよく分かりませんね」
「そうだな」
「海しかございません」
「海が境なのだろう」
「でも、船なら越えられます」
光秀は娘を見た。
玉は何気なく言っただけであった。
「船なら越えられる、か」
「はい」
「そうだな」
光秀の視線が地図へ戻る。
海は国を分ける。だが同時に、国と国を結ぶ道でもある。
その向こうにいる者たちは、日本をどう見ているのだろう。小さな島国。戦ばかりしている国。あるいは、金と銀を産み、鉄砲を大量に持つ国。
ふと、信長の顔が浮かんだ。
安土城。巨大な天守。日に日に広がる領地。
天下布武。
天下。
これまで光秀は、その言葉を日の本の内側だけで考えていた。
だが。
もし天下を統べた後、あの男がその先を見たら。
海を渡れぬ男ではない。むしろ、海の向こうに国があると知れば、見てみたいと思う男だ。
そして見れば、欲する。
光秀は無意識に地図の上へ手を置いた。
明。朝鮮。南蛮。
「父上」
「いや」
光秀は手を引いた。
「何でもない」
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同じ夜。
城下の外れの宿に、灯が一つ残っていた。
障子には二つの影が映っている。一つは柏屋宗慶。もう一つは、僧にも武士にも見えぬ旅装の男であった。
声は聞こえない。
やがて宗慶の影が動き、地図を巻くような手つきをした。男の影がうなずいた。
灯が消えた。
雪が降っていた。
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翌朝。
雪は止んでいた。
光秀は早くから起き、いつものように政務へ向かった。
由良川の普請。年貢の減免。城下の区画。寺領をめぐる争い。丹波国人への知行。
次々と裁可を下していく。昨日の地図のことなど、もう忘れたかのようであった。
実際、光秀自身もそう思っていた。
ただ一つ。
書状へ筆を走らせる途中、ふと手が止まった。
紙の余白へ、無意識に一字を書いていた。
――明。
光秀はしばらくそれを見つめた。
やがて墨で塗り潰した。
誰にも見られぬように。




