第十章 洞ヶ峠
六月十日。
京の町は、表向きだけなら落ち着きを取り戻しつつあった。
焼け跡にはまだ黒いものが残っていたが、人はいつまでも戸を閉ざしてはいられない。商人は店を開き、寺では鐘が鳴り、役人が往来を整えている。
何が起きたのかも、ようやく皆が知った。
織田信長は死んだ。その子、信忠も死んだ。
いま京を押さえているのは、明智光秀である。
それだけを見れば、勝ったのは光秀であった。
天下人を討ち、その嫡子も討ち、畿内の中心を握った。
にもかかわらず、光秀自身に勝ったという実感はなかった。
人が来ないのである。
---
軍務だけは滞りなく進んでいた。
淀の城を修築させ、勝竜寺の備えを固め、山崎に物見を置いた。近江の城はほぼ手に入り、坂本と亀山を結ぶ道も確保した。
ただ、兵が思うように集まらない。
与力として付けられていた大名たちが動かない。使者を出せば、丁重な返事だけが来る。
「病により」
「領内不穏につき」
「追って」
どれも断りではない。
断らずに、来ない。
「殿」
斎藤利三が帳面を閉じた。
「いまお集まりの数で、一万五千ほどかと」
「増えるか」
「近江衆が加われば、あと少しは」
「加わるのか」
利三は答えなかった。
---
「筒井からは」
「まだ、はっきりした御返答はございませぬ」
「何度出した」
「三度」
「三度出して、まだか」
光秀は机を軽く叩いた。
「大和も情勢を見ておるのでございましょう」
「情勢など、もう決まっておる」
利三は黙っている。
「上様は死んだ。信忠殿も死んだ。京は我らが押さえた。柴田は北陸。滝川は関東。羽柴は備中」
そこまで言って、光秀は少し止まった。
「……羽柴は」
「何か」
「いや」
光秀は首を振った。
「まだ動けぬ」
高松の堤。毛利。水攻め。
そう簡単に中国から戻れるはずがない。
そう思っていた。
いや。
そうでなければ困る。
---
その日の午後、摂津から報せが届いた。
高山右近が羽柴方へ傾いたという。
光秀は書状を二度読んだ。
「なぜだ」
誰に向けた言葉でもなかった。
高山右近。キリシタン。摂津。京に近い。
自分は、なぜ、あの男が少なくとも敵にはならぬと思ったのか。
安土にいるうちに、光秀は京の南蛮寺へ人を回していた。
右近と親しい伴天連がいる。話が通じるかもしれぬ、と思った。
返ってきたのは、丁重な断りであった。
自分たちは政に関わらない。武家のことは分からない。
どこかで聞いた言い回しだと、光秀はぼんやり思った。
思っただけであった。
---
「殿」
利三が言った。
「何だ」
「一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「申せ」
利三は少し言い淀んだ。
「殿は、なぜ」
「何だ」
「細川様も、高山様も、筒井様も、御味方になると思われたのでございましょう」
光秀は利三を見た。
利三は続けた。
「どなたも、そう約されてはおられませぬ」
「……」
「それなのに、殿は初めから、必ず来ると仰せでした」
部屋が静かになった。
光秀は答えなかった。
すぐには。
やがて、口を開いた。
「思うたのは、わしだ」
「はい」
「誰にも言われておらぬ」
「はい」
「並べれば、そう見えた」
光秀は自分の手を見た。
「細川は縁者。筒井は近い。高山は畿内。柴田も羽柴も遠い。どれも本当のことだ」
「はい」
「本当のことばかりを並べて、わしは間違えた」
利三は何も言わなかった。
光秀は少し笑った。
「よくあることだ」
「殿」
「人は情勢で変わる」
声が平らになった。
「藤孝も、順慶も、右近も、悪い男ではない。ただ、いまはこちらが弱く見えるだけだ」
「……」
「強く見えれば、来る」
光秀は帳面を引き寄せた。
「ならば、強く見せればよい」
それが結論であった。
利三はしばらく主君を見ていた。
もう一つ、聞きたいことがあった。
京で二度ばかり顔を見た商人たちのことである。
だが、聞かなかった。
商人が武家の話をするはずがない。
利三自身、そう思ったからである。
---
六月十一日。
筒井順慶からの返答は、この日も来なかった。
代わりに、使者が戻ってきた。
「順慶殿は、軍を出されたか」
「それが」
使者が言葉を選んだ。
「報せが、二つございます」
「二つ」
「郡山より一歩も動いておられぬ、と申す者と、洞ヶ峠のあたりまで出て、そこで留まっておられる、と申す者と」
「どちらが真だ」
「確かめられませぬ」
光秀は笑った。
冷たい笑いであった。
「どちらでもよい」
「は」
「来ぬことに、変わりはない」
使者が頭を下げる。
だが使者が下がった後、光秀は机を強く叩いた。
「何を見る」
利三は動かない。
「上様は死んだ。京は我らが押さえた。何をまだ見る」
誰も答えなかった。
答えは、この部屋にいる全員が知っていた。
誰も口に出さなかっただけである。
---
その日の夕刻、別の使者が駆け込んできた。
播磨からである。
「申し上げます」
息が切れている。
「羽柴筑前守様」
その名で、部屋が冷えた。
「毛利と和を結び、備中を引き払い、東へ戻っておられます」
光秀は動かなかった。
「もう一度申せ」
声は静かであった。
「羽柴様、中国より、お戻りにございます」
「どこまで来ておる」
「詳しくは」
「どこまでだ」
初めて、光秀の声が響いた。
使者が怯む。
「……姫路へ、入られた由」
光秀は目を見開いた。
「姫路」
「はい」
「もう、姫路か」
「はい」
不可能だ。
その言葉が喉まで出て、出なかった。
すでに起きていることを、不可能とは言えない。
長い沈黙の後、光秀は笑った。
本当に、わずかに笑った。
「そうか」
利三が呼ぶ。
「殿」
「猿め」
声は妙に穏やかであった。
「やりおったな」
---
その夜、光秀は洞ヶ峠の方角を見た。
ここから見えるはずもない。
それでも見た。
「何を待っておる」
呟いてから、自分で答えを知った。
勝つ方である。
順慶は、勝つ方を待っている。
その瞬間、光秀は理解した。
自分は天下人になったのではない。
まだ、候補ですらない。
周りの者は、どちらが勝つかを見定めている。自分はその片方に過ぎない。
そして、もう片方がいる。
羽柴秀吉。
その男が、いま、信じられぬ速さで近づいている。
---
同じ夜、京の外れの宿。
柏屋宗慶が戸を乱暴に開けた。
「秀吉が戻っている」
庄左衛門が立ち上がった。
「どこまで」
「姫路」
庄左衛門の表情が、初めてはっきりと崩れた。
「早すぎる」
「お前もそう言うか」
宗慶が短く笑った。
庄左衛門は返さなかった。
「どうする」
宗慶が問う。
「明智様に助けを送るか」
「できぬ」
即答であった。
「なぜ」
「誰の名で送る」
宗慶が黙る。
「誰が兵を出す。誰が旗を掲げる。誰が、明智光秀を南蛮のために支えると公言する」
「……」
「一人もおらぬ」
庄左衛門は座り直した。
「我々は、そういう形として作られている。誰か一人が捕らえられても終わらぬ代わりに、誰か一人を助けることもできぬ」
宗慶が低い声で言った。
「では、最初から助けるつもりなどなかったのか」
「違う」
「では何のためだ」
庄左衛門は言葉を止めた。
その答えは、何度も口にしてきた。
信長一人がこの国のすべてを動かす形を作らせない。織田を割る。選べる余地を残す。
いま、その言葉が妙に空虚であった。
「信長は死んだ」
庄左衛門が静かに言った。
「それで十分か」
庄左衛門は答えない。
「明智様は死ぬぞ」
庄左衛門は目を伏せた。
「……その恐れはある」
「恐れ」
宗慶の声が跳ねた。
「お前たちが並べたんだろう。細川。高山。筒井。羽柴は遠い。柴田は北。滝川は東」
「……」
「全部、事実だった」
「そうだ」
「その事実を並べたら、明智様は勝てると思った」
宗慶は庄左衛門を見た。
「お前も、思った」
庄左衛門は目を閉じた。
「……そうだ」
初めて認めた。
「思った」
宗慶の声が少し落ちた。
「なら、お前も騙されたのか」
「誰にだ」
「事実に」
庄左衛門は何も言えなかった。
---
六月十二日。
朝から報せが続いた。
羽柴は姫路を出たという。もう尼崎に近い、ともいう。
確かなことは分からぬまま、数だけが膨れて伝わってくる。
光秀のもとへは、誰も来ない。
「殿」
利三が地図を広げた。
「淀と勝竜寺は固めましてございます。ただ」
「言え」
「山崎の隘路を先に取られますと、こちらが不利かと」
「取らせるな」
「はっ」
その夜、光秀は一人で地図を広げた。
行李の底に、あの木片が入っていた。
亀山を出る時、地図と共に入れてあったものである。軍議に使うつもりであった。使わぬまま、ここまで来た。
一つずつ、名を確かめて置いていく。
柴田は北陸。滝川は関東。細川は丹後。筒井は大和。高山は、摂津から向こう側へ。
最後に二つが残った。
明智。羽柴。
明智を京に置いた。
羽柴を、備中ではなく、山崎の手前に置いた。
二つの木片が向かい合う。
長いあいだ見つめた。
起きる前なら、馬鹿げた話であった。
起きた後では、当然のように語られるのだろう。
その言葉を、自分は丹後の座敷で藤孝に向かって言った。
いま、そっくり自分へ返ってきている。
「来るか」
光秀は羽柴の木片を指で押さえた。
「なら、来い」
その声に、恐れも疲れもあった。
だが、迷いだけは消えていた。




