第十一章 中国大返し
六月十二日。
届く報せは、届いた時にはすでに古い。
それが光秀を最も苛立たせた。
誰かが見る。誰かが聞く。誰かが馬を走らせる。途中で別の誰かに渡る。
その間にも、羽柴は進んでいる。
いまどこにいるのか。姫路か、明石か、兵庫か、尼崎か。
分からない。
分からないということ自体が、恐ろしかった。
---
「次の報せは」
「まだ届きませぬ」
斎藤利三が首を振る。
「遅い」
「使者は出しております」
「分かっている」
光秀は苛立ちを押し殺した。
「播磨の街道に人を増やせ。摂津にも置け。船も使え」
「は」
「一刻ごとでよい。何か動けば知らせよ」
利三が書き留める。
その横顔を見ながら、光秀は自分でも分かっていた。
これはもう、情報を集めているのではない。
安心できる材料を探している。
羽柴は疲れている。軍も疲れている。兵糧が足りぬ。毛利との和議に手間取る。姫路で数日は休む。
何でもよかった。
羽柴がすぐには来ないと示すものが、一つ欲しかった。
だが、届く報せはいつも逆であった。
---
「羽柴勢、尼崎に入りましてございます」
昼であった。
「もうか」
「はい」
「姫路では、何日休んだ」
「一日か、二日かと。ほとんど休まず出た由にございます」
「兵は疲れておろう」
「かなり疲れておるとも聞きます」
「なら」
言いかけて、光秀は止めた。
疲れている。だから遅い。
そう言いたかった。
だが、疲れていても、来ている。
---
「兵糧は」
「姫路で蔵を開いたそうにございます」
「全部か」
「かなりの量を」
「金は」
「兵に配ったとの話も」
光秀は少し目を細めた。
秀吉らしい。
後のために残すのではない。いま、全部使う。
姫路には帰らぬつもりなのだ。
勝てば天下、負ければ死ぬ。それだけの計算で蔵を空にできる男である。
そういうところを、信長は好んだ。
光秀にはできなかったことでもある。
「猿め」
声に出したが、それ以上の言葉は出なかった。
---
秀吉が何を考えているか、光秀にはよく分かった。
上様が死んだ。信忠殿も死んだ。
いま、京へ一番早く戻った者が、織田家中の中心になる。
だから走る。
自分と同じであった。
いや、違う。
自分は機会を見て決断した。
秀吉は、その決断を機会に変えている。
その差が、光秀には苦かった。
---
夕刻、さらに悪い報せが来た。
摂津の池田恒興、中川清秀が羽柴に加わった。
そして、丹羽長秀と、織田信孝。
光秀はその二つの名を、二度読んだ。
「三七様が」
「はい。丹羽様と共に、羽柴様の軍へ」
光秀は書状を置いた。
これで、向こうには織田の血がある。
上様の子が、羽柴の陣にいる。
弔い合戦の旗が立つ。
こちらにはない。
三法師を立てると書いたが、その三法師の身柄すら、自分の手にはない。
「殿」
利三が低い声で言った。
「もう一つ」
「申せ」
「津田信澄様が、大坂にて」
光秀の手が止まった。
「討たれましてございます。三七様と丹羽様の手により」
「なぜだ」
「明智と縁があるゆえ、と」
光秀は何も言わなかった。
信澄は上様の甥であり、自分の娘婿である。
謀反に加わってはいない。加わる暇もなかった。
ただ、明智の縁者であった。
それだけで殺された。
縁というものは、味方を作らぬときには、こうして人を殺すのだと光秀は思った。
---
明智秀満が入ってきた。
「坂本の兵を寄せられます」
「寄せろ」
「丹波からも、動かせる限り」
「頼む」
秀満は少し光秀を見た。
「殿」
「何だ」
「戦われますか」
光秀は眉を寄せた。
「他に何がある」
「京を捨て」
「どこへ」
「坂本へ。あるいは丹波へ。籠って、柴田様の動きを待つという道も」
「柴田が来るか」
「……」
「越後を向いておる男だ。雪はなくとも、腰が重い」
光秀は地図を引き寄せた。
「それに」
「はい」
「逃げるために上様を討ったのではない」
秀満が黙った。
「ここで退けば、あれは何のためだった」
秀満はそれ以上言わなかった。
---
「羽柴は西から来る」
光秀は指を置いた。
「山崎で止める」
「天王山と、淀川の間」
「道が狭い。大軍が一度に展開できぬ。数の差を消せる」
それは合理的な判断であった。
こういう時、光秀はやはり武将であった。
感情とは別に、地形を見る。兵の数を見る。時間を見る。勝てる場所を探す。
だからこそ家臣たちは少し安心した。
主君はまだ、戦える。
---
その夜、光秀は筒井へもう一度書状を書いた。
『羽柴筑前、東上す。今こそ兵を出されたし』
そこまで書いて、筆が止まった。
今こそ。
なぜ、今こそ、なのか。
順慶が来るべきだったのは、もっと前である。
いや。
順慶の側から見れば、今こそ、来てはならぬ時であった。
羽柴が来るからである。
光秀は紙を睨んだ。
それでも、出した。
返事は来なかった。
---
同じ夜、京の外れの宿。
庄左衛門は地図を広げていた。
長崎で幾度も人の名を書き込んだ、あの紙である。
明智。羽柴。柴田。滝川。細川。筒井。高山。徳川。
いま、同じ紙が、まるで違うものに見えた。
羽柴、東へ。高山、羽柴へ。筒井、動かず。細川、拒絶。
柏屋宗慶が隣に座った。
「まだ見るのか」
「見る」
「もう結果は出始めている」
庄左衛門は答えなかった。
「秀吉が勝つと思うか」
「分からん」
「まだ言うか」
「本当に分からん」
「兵は羽柴が多い」
「多い」
「味方も向こうへ流れている」
「流れている」
「なら」
「戦は、始まるまで分からん」
宗慶が笑った。
「今さら慎重になったな」
庄左衛門は返さなかった。
慎重。
そうだ、今さらである。
もっと早く、そうなるべきであった。
---
「一つ聞く」
宗慶が言った。
「何だ」
「本当に、明智様が勝つと思っていたのか」
庄左衛門は地図を見たまま答えた。
「思っていた」
「どれくらい」
「上様を討たれた直後は、勝てると思った」
「なぜ」
庄左衛門は苦笑した。
「細川がいる。筒井がいる。高山がいる。羽柴は遠い。柴田も、滝川も遠い」
宗慶はそれ以上聞かなかった。
全部、光秀と同じである。
「我々は」
庄左衛門が静かに言った。
「一つだけ間違えた」
「一つ」
「いや」
すぐに首を振る。
「違うな」
庄左衛門は地図を畳んだ。
「人を、数字にした」
宗慶が見る。
「細川は姻戚だから光秀につく。高山はキリシタンだからこちらに近い。筒井は畿内だから光秀につけば得をする。羽柴は備中だから間に合わぬ」
庄左衛門は笑った。
「人間なのにな」
宗慶は何も言わない。
「藤孝には藤孝の考えがあった。高山には高山の、順慶には順慶の。羽柴にも」
そして、と庄左衛門は続けた。
「明智殿にも、明智殿の考えがあった」
自分の手を見た。
「我々はそれを、駒の位置だと思っていた」
「だから操れなかったのか」
「最初から」
庄左衛門は少し笑った。
「操ってなどおらぬ」
それが言い訳なのか真実なのか、宗慶には分からなかった。
庄左衛門にも、分からなかった。
---
この夜、京で交わされた言葉が長崎へ届くまでには、まだ日数がかかる。
本能寺の報せが長崎に着いたのは六月の末であった。
その頃には、山崎の合戦はとうに終わっている。
だが長崎の者たちは、それを知らずに議論した。
---
あの家の一室に、また六人が集まっていた。
ジョアンが紙を握りしめている。
「信長が、死にました」
声が上ずっていた。
「本能寺にて、明智という者が」
ロドリゴは動かなかった。
長いあいだ、目を閉じていた。
それから、ゆっくり十字を切った。
「主よ」
誰も続かなかった。
「あの方は、我らを守ってくださった」
ロドリゴが言った。
「都に教会を建てることを許し、安土に学校を建てることを許された。仏僧が幾度訴えても、聞かれなかった」
「司祭」
「その方が、殺された」
ロドリゴはミゲルを見た。
「あなたは、これを望んでいたのですか」
ミゲルは答えなかった。
答えなかったことが、部屋の空気を変えた。
「望んではいない」
やがてミゲルが言った。
「だが、恐れていたことは起きなかった」
「何ですと」
「一人がすべてを決める国には、ならなかった」
ロドリゴが立ち上がった。
「人が死んだのですよ」
「戦国です」
「それが答えですか」
「他に何がある」
ミゲル自身、その声に力がないことに気づいていた。
---
ドゥアルテが紙を広げた。
いつもの数字ではない。名の一覧である。
「議論は後になさい」
商人の声であった。
「いま考えるべきは、次に誰が上に立つかです」
「明智でしょう」
ジョアンが言った。
「京を押さえたのなら」
「押さえただけでは、上には立てません」
ドゥアルテは首を振った。
「大名が寄らねば、ただ京にいる男です」
「では誰が」
「羽柴筑前」
部屋がざわめいた。
「備中にいるのでは」
「いました」
ドゥアルテは言い直した。
「もう、いないでしょう」
ミゲルが顔を上げた。
「戻れるのか」
「あの男なら戻ります」
「毛利がいる」
「毛利と手を打つでしょう」
「そんな短い日数で」
「あの男は堺の商人と組んでおります。銭の話は速い」
ドゥアルテは指で紙を叩いた。
「私は二十年、この国で商いをしてきました。羽柴筑前という男だけは、他の武将と勘定が違う」
「どう違う」
「損切りが速い」
---
「では」
ミゲルが低い声で言った。
「羽柴が上に立てば、どうなる」
ドゥアルテは黙った。
しばらくして、正直に答えた。
「分かりません」
「分からぬのか」
「あの男は、信長よりも人を集めるのが上手い」
その一言で、部屋の温度が変わった。
信長は恐怖で人を集めた。恐怖には限りがある。従わぬ者は敵に回る。
人を集めるのが上手い男は、敵を作らずに大きくなる。
誰も従わずには済まなくなる。
「では」
ジョアンが青い顔で言った。
「我々は、より悪いものを呼び込んだのですか」
「まだ分かりません」
「分からぬまま、信長は死にました」
ミゲルが口を開いた。
「織田は割れる。それだけで十分だ」
「十分」
ドゥアルテが繰り返した。
「割れた後に、より大きく束ねる者が出れば、割れた意味はありません」
「そうなるとは限らぬ」
「そうならぬとも限りません」
二人はしばらく睨み合った。
同じ恐れから始まった者たちが、初めて別の方角を向いていた。
ロドリゴがそれを黙って見ていた。
やがて、静かに言った。
「あなた方は、まだ盤の話をしておられる」
「司祭」
「もう一つ、覚えておおきなさい」
ロドリゴは扉の方へ歩いた。
「盤の上で駒が動くとき、下では人が死んでいます」
扉が閉まった。
残された者たちは、しばらく何も言わなかった。
結論は出なかった。
出ないまま、この日の集まりは終わった。
彼らが知らなかったことが一つある。
議論していたその時には、山崎の合戦はもう終わっていた。
---
六月十三日、未明。
明智勢は下鳥羽の陣を払い、山崎へ向けて動き出した。
兵は多くない。
本能寺の朝には一万三千を数えた。近江と丹波を押さえるために兵を割き、離れる者も出た。
いま手元にあるのは、それを下回る。
向こうは三万を超えるという。
噂は膨らむものである。二万とも、四万とも聞こえた。誰も確かめようがない。
それでも光秀は進んだ。
---
道中、利三が馬を並べた。
しばらく無言であった。
やがて光秀が言った。
「利三」
「は」
「お前、亀山で申したな」
「何をでございます」
「水は低きへ流れる、と」
利三が少し驚いた顔をした。
「……覚えておいででしたか」
「覚えている」
光秀は少し笑った。
「あれは、堤の話であったな」
「はい」
「人も同じらしい」
利三は何も言わなかった。
「勝つ方へ流れる」
光秀は前を向いたまま続けた。
「ならば、勝てばよい」
強がりであった。
だが、嘘ではなかった。
まだ戦っていない。
ならば、勝つ道は残っている。
---
山崎に着いた。
右手に天王山。左手に淀川。その間に狭い平地がある。
光秀は馬を止め、地形を見た。
「ここだ」
「はっ」
「天王山の裾を押さえよ。高いところを取られると、こちらが見下ろされる」
「承知」
「淀川沿いには鉄砲を厚く置け」
指示は的確であった。
誰が聞いても、負ける将の言葉ではなかった。
---
その夜、明智の陣に焚き火が並んだ。
兵は疲れている。不安もある。噂も流れる。
光秀は一人、陣の外へ出た。
暗い山があり、その向こうに羽柴がいる。
風が草を鳴らした。
――十兵衛。
そう呼ばれた気がして、光秀は振り返った。
誰もいない。
当たり前である。
あの男は丹後で髪を落とした。
――まだ起きていないことを、起きたことのように考えるな。
丹後の座敷で言われた言葉が、勝手に耳の底で鳴った。
光秀は苦笑した。
「今度こそ」
誰にともなく言った。
「まだ、起きておらぬな」
明日、勝つか、負けるか。
それはまだ決まっていない。
空を見上げた。
月に雲がかかっていた。
---
同じ頃、京。
庄左衛門は最後の書状を書いていた。
宛名はない。行き先は長崎である。
『羽柴筑前守、異常の速さをもって東上』
『細川、筒井、高山、明智に応ぜず』
『近日、山崎にて合戦あるべし』
そこまで書いて、筆が止まった。
しばらく考え、もう一行足した。
『我らの見立て、誤れり』
庄左衛門はその文字を長く見た。
破らなかった。消さなかった。
宗慶が後ろから覗き込んだ。
「それを送るのか」
「ああ」
「怒られるぞ」
「誰に」
「……知らん」
庄左衛門が笑った。
「私も知らん」
宗慶も少し笑った。
笑ってから、宗慶は聞いた。
「明智様は、明日死ぬと思うか」
庄左衛門はしばらく考えた。
「分からん」
今度は、宗慶も怒らなかった。
「そうだな」
庄左衛門は書状を畳んだ。
「人の明日など、分かるものではない」
---
六月十三日、夜明け前。
山崎の陣が動き出した。
鎧。槍。鉄砲。旗。
光秀も甲冑を着けた。
利三、秀満、溝尾、藤田。皆、集まっている。
「殿」
利三が言った。
「羽柴勢、近づいております」
光秀は頷いた。
顔は穏やかであった。
「そうか」
陣の外へ出る。
朝靄が薄く流れていた。
その向こうに、旗が見えはじめた。
一つ。二つ。やがて数え切れぬほど。
羽柴である。
光秀はそれを長く見ていた。
そして、笑った。
自分でも不思議なほど、自然な笑いであった。
「利三」
「は」
「ようやく」
少し間を置いた。
「相手が見えたな」
利三が主君を見た。
あの夜からずっと、光秀は見えないものと戦っていた。
上様の行く先。天下の行く先。友の心。自分の将来。
どれも、確かめる手立てのないものばかりであった。
いま、目の前に羽柴秀吉がいる。
旗が見える。数も見える。地形も分かる。
それだけで、少し楽であった。
光秀は馬に乗った。
「陣を整えよ」
声が通った。
「ここで決める」
山崎の朝が始まった。




