第十二章 山崎
天王山の麓に、朝靄が低く垂れていた。
湿った空気の向こうに、羽柴勢の旗が幾重にも揺れている。
距離があるうちは、一つ一つの旗印までは見分けられない。ただ、その数だけは嫌でも分かった。
道を埋め、丘を覆い、遠くの村の向こうまで人が続いている。
光秀は馬上から、それを黙って見ていた。
多い。
思っていたよりも、ずっと。
「二万は下りますまい」
斎藤利三が言った。
「もっといるように見える」
「道中で加わった者を入れれば、あるいは」
光秀は少し笑った。
「昨日まで備中におった男だ」
「はい」
「それが、いまは目の前か」
利三は答えなかった。
笑い話ではない。
それでも光秀は、笑うより他になかった。
軍勢とは、これほど速く動くものだったのか。
いや、違う。
軍勢が速かったのではない。
あの男が、捨てたのだ。
毛利との戦。城攻めの成果。兵糧。後方。積み上げてきたもの。
普通なら惜しむものを、一報だけを見て一度に捨てた。
だから間に合った。
「見事だな」
利三が光秀を見る。
「羽柴殿が、でございますか」
「ああ」
「敵を褒められますか」
「敵だからこそだ」
光秀は前を向いたまま答えた。
「できぬことをした者は、認めるより他にない」
負け惜しみではなかった。
本当にそう思っていた。
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明智の陣には、落ち着かない空気があった。
兵も知っている。
味方が少ない。来るはずだった者が来なかった。
細川。筒井。高山。
その名を大声で口にする者はいない。
だが、皆が知っている。
そして向こうには、次々と兵が集まっている。
光秀はそれを理解していた。
だから、余計な言葉は使わなかった。
「前衛を厚くせよ」
「は」
「天王山の裾を取られるな」
「すでに羽柴方が動いております」
「押し返せ」
「鉄砲は」
「湿気を見よ。撃てる数を確かめてから並べよ」
命令は簡潔であった。
戦の前に、大義は要らない。
天下静謐。三法師。上様の行き過ぎ。海の向こう。南蛮。
どれも、いまは何の役にも立たない。
目の前に敵がいる。
勝つか、負けるか。
戦場は、ひどく単純であった。
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午後、鉄砲の音から始まった。
乾いた音が、湿った空気を裂く。
一発。二発。やがて数え切れぬほどが重なった。
煙が漂い、兵が倒れ、槍隊が進む。
怒号。法螺貝。太鼓。馬。地面が震える。
光秀は御坊塚の本陣から戦況を見ていた。
初めは、悪くなかった。
むしろ、思っていたより戦えている。
「右が押しております」
「そのまま行かせよ」
「左が少し下がっております」
「予備を回せ」
使者が走る。また別の使者が来る。
光秀は次々と判断を下した。
まだ崩れていない。
向こうは兵が多い。だが戦場が狭い。数をすべて使えるわけではない。
ここを選んだのは、間違っていなかった。
「いけまする」
利三が言った。
「まだな」
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その時であった。
左手。天王山。
旗が動いた。羽柴方である。
「山を取られます」
使者の声が上がる。
「押し返せ」
「兵が足りませぬ」
「中央から回せ」
「中央が薄くなりまする」
「いまは山だ」
利三がすぐに兵を動かした。
だが、遅い。
ほんの少しである。
戦場では、そのほんの少しが致命になる。
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高い所を取られると、下は見える。
こちらの兵の並びも、薄い場所も、向こうから丸見えになる。
羽柴方はそこへ兵を入れてきた。
明智の左翼が崩れはじめた。
一つの部隊が下がる。そこへ別の部隊が巻き込まれる。
兵は敵よりも、味方の崩れを恐れる。
隣が下がれば、自分も下がる。
一度始まれば、止めるのは難しい。
「止めよ」
光秀は馬を前へ出した。
「まだ負けてはおらぬ」
近習が慌ててついてくる。
「殿、危のうございます」
「見えぬのか」
光秀は怒鳴った。
「あれは敗走ではない」
実際、その時はまだ敗走ではなかった。
ただの後退である。まとめれば押し返せる。
光秀はそう信じたかった。
だが羽柴方は待たなかった。
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そして、士気が違った。
羽柴の兵は、主君の仇を討つと言われて走ってきた。
こちらは何と言われて立っている。
天下静謐。
それを兵の一人一人が信じているか。
三法師を立てる。まだ何も決まっていない。
上様を止める。それは自分が自分に言った理由である。
向こうには、もっと分かりやすいものがあった。
主君の仇。
それだけである。
戦場では、それで十分であった。
「殿」
利三の声がした。
「中央が」
見た。
旗が乱れている。
終わり、という言葉が、初めて光秀の中に浮かんだ。
まだ認めない。
「退くな」
声を上げた。
兵には聞こえない。
「退くな」
もう一度。
それでも、人の流れは止まらない。
――水は低きへ流れるだけにございますから。
亀山の朝、縁側で利三が言った。
光秀は馬上でそれを思い出した。
人も、同じであった。
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利三が馬を寄せてきた。
「殿、退いてくだされ」
「どこへ」
「坂本へ。あそこから立て直しまする」
光秀は笑った。
「立て直せると思うか」
利三は答えない。
「正直に申せ」
「……難しゅうございます」
「だろうな」
光秀は戦場を見た。
明智が崩れ、羽柴が押している。
「それでも」
利三が言った。
「生きておられれば、何かはできます」
光秀はしばらく黙った。
「お前はどうする」
「私はここで、兵をまとめまする」
意味は分かった。
殿を務めるということである。
「利三」
「は」
光秀は何を言うか迷った。
長く仕えた男である。
亀山の朝。堤の普請。年貢。丹波の道。四国の話。眠れぬ夜の問い。
どれも、この男が横にいた。
「すまぬ」
利三が少し驚いた顔をした。
それから笑った。
「それは、勝ってから伺いとうございました」
光秀も笑った。
「違いない」
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光秀は馬を返した。
「坂本へ」
近習と、溝尾茂朝ら数名が従った。
背後で戦が続いている。
山崎から離れる道は狭かった。敗兵と、逃げる村人が入り混じっている。
誰が味方で、誰が敵か分からない。
日が傾き、馬が疲れ、兵が減っていく。
一人、また一人と、闇へ消える。
光秀は振り返らなかった。
坂本には城がある。兵がある。琵琶湖がある。
そして、六年前に死んだ妻の墓がある。
そこまで行けば、と思っているのか、そこへ帰りたいだけなのか、光秀自身にももう分からなかった。
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夜。
小栗栖の竹藪に入った。
道が悪い。馬をゆっくりと進める。
残っているのは、わずかであった。
その時、道の端に人影が見えた。
「誰だ」
返事はない。
近習が刀に手を掛ける。
「百姓か」
すると、別の声がした。
「明智様」
光秀は馬を止めた。
聞き覚えがあった。
闇の中から男が出てきた。
地味な衣。商人にも浪人にも見える。
どこかで見た顔である。
どこで見たかは、すぐには出てこなかった。
「……お前」
光秀は目を細めた。
「名は、何と言うた」
男は頭を下げた。
「庄左衛門と申します」
その名を聞いて、ようやく思い出した。
京の道端。亀山の勘定場。
柏屋の帳面を書いていた男である。
二度しか会っていない。
二度とも、大した話はしていない。
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「なぜ、ここにおる」
「お待ちしておりました」
近習が刀を抜きかけた。
光秀が手で止めた。
「何を待っていた」
庄左衛門は少し迷った。
「……見届けようと」
「見物か」
「はい」
あまりに正直な答えであった。
光秀は少し笑った。
「妙な男だ」
それから、ふと思った。
この男とは、何を話しただろうか。
思い出そうとした。
驚くほど、何も出てこなかった。
「お前は」
光秀は言った。
「わしに何を申した」
庄左衛門は顔を上げた。
「……丹波をよく治めておられると」
「他には」
「戦の後を治められる方は、多くないと」
「他には」
庄左衛門は少し黙った。
「備中の道が塞がっている、と」
「それだけか」
「それだけにございます」
光秀は竹の間の空を見た。
「細川のことを聞いたな」
「はい」
「何と申した」
庄左衛門は答えた。
「細川様は、明智様を慕うておられます」
「それだけか」
「それだけにございます」
「動くとは」
「申しておりませぬ」
「兵を出すとは」
「申しておりませぬ」
光秀は目を閉じた。
その通りであった。
この男は「慕っている」と言っただけである。
兵を出すという話に変えたのは、自分の頭であった。
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「高山が味方すると申したか」
「いいえ」
「筒井が来ると」
「いいえ」
「羽柴が戻れぬと」
「……それも、申しておりませぬ」
「そうだな」
光秀は静かに言った。
「一つも聞いておらぬ」
庄左衛門は黙っている。
「では」
光秀は男を見た。
「わしが、決めたのか」
庄左衛門は頭を下げた。
「はい」
風が竹を鳴らした。
光秀はしばらく動かなかった。
怒りは湧かなかった。
湧く相手がいなかった。
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「一つ、聞かせよ」
「はい」
「お前は、何者だ」
「筆を執る者にございます」
「南蛮の書も扱うと申したな」
「はい」
「南蛮の言葉が、分かるのか」
庄左衛門は少し間を置いた。
「……昔、通詞をしておりました」
「誰に頼まれて、わしのところへ来た」
庄左衛門は少し間を置いた。
「誰にも」
「嘘を申せ」
「嘘は、申しておりませぬ」
その言い方に、光秀は聞き覚えがあった。
どこで聞いたかは思い出せなかった。
「では、なぜ来た」
「知りたかったからにございます」
「何を」
「日の本が、一人の御方のものになれば、この先どうなるのかを」
光秀は男を見た。
「それだけか」
「それだけにございます」
庄左衛門は続けた。
「私どもは、明智様に何かをさせようとは思うておりませぬ。ただ、そういうことを考える者が、南蛮の側にも、この国にも、幾人かおりました」
「幾人か」
「はい。互いに名も知らぬ者もおります」
「よく分からぬ話だ」
「私にも、よく分かりませぬ」
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「一つだけ、申し上げます」
庄左衛門が言った。
「申せ」
「我らも、外しました」
光秀が顔を上げた。
「何」
「細川様は動かれると、我らも思うておりました」
庄左衛門の声は低かった。
「高山様も、少なくとも明智様の敵にはならぬと。羽柴様は間に合わぬと」
「……」
「事実を並べ、先を読み、そして外しました」
光秀はしばらく男を見ていた。
それから笑った。
今度は、本当に少し可笑しかった。
「そうか」
「はい」
「誰も、分かっておらなんだのだな」
「はい」
光秀は空を見た。
「わしは、誰かに負けたのだと思うていた」
「……」
「南蛮に。羽柴に。藤孝に」
首を振る。
「違うた」
少し間があった。
「わしは、わしの読み違いに負けた」
庄左衛門は何も言わなかった。
「よい」
光秀は言った。
「それでよい」
誰のせいにもできぬ、と、あの夜に自分で言った。
その意味が、いま初めて分かった。
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その時、藪が鳴った。
「殿」
近習が振り向く。
闇から槍が伸びた。
馬が暴れる。光秀の体が傾いた。
脇腹が熱い。
落武者狩りである。野伏か、村の者か、闇では分からない。
近習が斬りかかる。叫び声。竹が揺れる。
光秀は地面へ落ちた。
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「殿」
声が遠い。
溝尾茂朝が駆け寄る。
光秀は空を見ていた。
竹の隙間から、夜が見えた。
庄左衛門が膝をついている。
「明智様」
光秀は息をした。
苦しかった。
それでも、少し笑った。
「庄左衛門」
「はい」
「一つ、教えよ」
「何なりと」
光秀は竹の隙間の夜を見たまま言った。
「世界は、まことに丸いのか」
庄左衛門が目を見開いた。
「まだ、気になっておった」
庄左衛門の顔が、泣くようにも笑うようにも歪んだ。
「……はい」
声が震えていた。
「南蛮の者は、そう申します」
「そうか」
光秀は目を閉じた。
「ならば」
小さな声であった。
「西へ行き続ければ、東から戻るのだな」
「はい」
「面白い」
安土の天主で、上様が同じ球を回していた。
あの時、自分はこう言った。
知ることと、手に入れることは違いまする。
手に入れようとしたものは、何一つ残らなかった。
知りたかったことだけが、まだ胸にあった。
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「茂朝」
光秀は名を呼んだ。
「はっ」
「首を、渡すな」
「承知」
「頼む」
溝尾茂朝は答えなかった。
答える代わりに、刀を抜いた。
庄左衛門は目を伏せた。
竹藪の中で、それきり声がしなくなった。
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天正十年六月十三日の夜である。
明智光秀、五十五。
本能寺の変から、十一日であった。
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庄左衛門は、しばらくその場に座っていた。
やがて溝尾茂朝が立ち上がり、光秀の首を布に包んで藪の奥へ運んでいった。
庄左衛門は追わなかった。
立ち上がり、来た道を戻る。
竹の葉が鳴っている。
自分がここへ何をしに来たのか、庄左衛門にも分からなかった。
何もしなかった。
何も言わなかった。
ただ、見た。
三年前、あの男が丹波の城下でどのような噂を立てられているかを調べはじめた時から、今日まで。
ずっと、見ていただけである。
それだけのことで、人が一人死んだ。
いや。
それだけのことで死んだのではない。
この男は自分で決めた。自分でそう言った。
その通りである。
その通りであるはずであった。
庄左衛門は歩きながら、それを何度も自分に言い聞かせた。
言い聞かせなければならぬ、ということが、答えであった。




