終章 十字架のない墓
天正十五年、春。
本能寺の変から、五年が過ぎていた。
京も堺も、何事もなかったように賑わっている。
人は死ぬ。城は焼ける。天下人は変わる。
それでも町は残り、商人は店を開き、寺では鐘が鳴り、子供が路地を走る。
明智光秀の名も、少しずつ過去のものになりつつあった。
謀反人。三日天下。主殺し。
人は好きな名で彼を呼んだ。
本能寺で何が起きたかを知る者は多い。
なぜ起きたかを知る者はいない。
そして、知っていると言う者ほど、遠かった。
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堺の港。
夕暮れである。
柏屋宗慶は、一隻の船が沖へ出てゆくのを見ていた。
白髪が増えた。
商いは続けている。南蛮船が来れば品を買い、京へ運び、安土が失われた後は大坂へも足を伸ばした。
世は変わった。
信長が死に、光秀が死に、柴田勝家も死んだ。
羽柴秀吉は関白となり、豊臣の姓を賜った。
五年前、誰がそこまで見通したか。
誰も。
少なくとも、自分は。
「まだ船を見ているのか」
後ろから声がした。
振り返らなくても分かった。
「まだ生きていたか」
「ひどい挨拶だ」
「五年ぶりなら、それで十分だろう」
「三年だ」
「同じようなものだ」
庄左衛門が隣に立った。
二人は並んで海を見た。
しばらく、何も話さなかった。
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「長崎にいたそうだな」
「ああ」
「何をしていた」
「焼いていた」
宗慶が横を見た。
「何を」
「書いたものだ」
庄左衛門は海を見たまま言った。
「文。覚え書き。人の名を記した紙。二十年分ほどあった」
「全部か」
「ほとんどは」
「なぜ」
「関白殿下の世になった」
庄左衛門は淡々と言った。
「あの御方は帳面を作る。検地をし、刀を集め、人の数を数える。数える者は、いずれ古い紙も読む」
「怖いか」
「怖い」
あっさりと認めた。
「それに、残しておいても仕方がない」
「なぜ」
「読んだ者が、必ず意味を見つけてしまう」
宗慶が黙った。
「並んだ名を見れば、人はそこに筋を見る。我らがそうしたようにな」
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庄左衛門は懐から小さな包みを出した。
古い紙である。端が傷んでいた。
広げると、日本の形が描かれていた。
明智。羽柴。柴田。滝川。細川。筒井。高山。徳川。
名の横には、距離と兵と縁と宗旨の印がある。
「これは焼かなかったのか」
「焼こうとした」
「なぜ焼かぬ」
「分からん」
庄左衛門は紙を見た。
「戒めのつもりかもしれん」
「何の」
「人は地図を見ると、天下が分かった気になる」
宗慶が笑った。
「お前が言うと重いな」
「そうだろう」
庄左衛門は指で紙をなぞった。
「兵の位置。領地。姻戚。宗旨。距離。全部書き込めば、先まで見える気がした」
「見えなかった」
「見えなかった」
「秀吉が中国から戻る速さも」
「ああ」
「藤孝が光秀を拒むことも」
「ああ」
「その秀吉が天下を取ることも」
「それも」
庄左衛門は苦笑した。
「一つも見えなかった」
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宗慶はしばらく黙っていた。
「明智様のことを、まだ考えるか」
「考える」
迷いのない答えであった。
「夢にも出る」
「何を言う」
「最後の時だ」
庄左衛門は海を見た。
「世界はまことに丸いのか、と聞かれた」
宗慶が少し笑った。
「あの御方らしい」
「そう思うか」
「思う」
宗慶は言った。
「あの御方は、いつも聞く方だった。売り込むと逃げる。だが、こちらが知っていることを聞き出すのは上手かった」
庄左衛門は答えなかった。
「なあ」
宗慶が言った。
「今でも分からんことがある」
「何だ」
「我らは、あの御方を殺したのか」
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海の音がした。
遠くで船乗りが何か叫んでいる。
庄左衛門はすぐには答えなかった。
五年前なら、違うと即答したかもしれない。
命じていない。嘘もついていない。謀反を勧めてもいない。決めたのは光秀である。
だから自分たちに咎はない。
そう言えた。
「分からん」
庄左衛門が言った。
宗慶が少し驚く。
「お前が」
「ああ」
「珍しい」
「昔は何でも分かった顔をしていたからな」
庄左衛門は紙を畳んだ。
「ただ一つだけ、変わらぬことがある」
「何だ」
「あの御方が、ご自分で決められた」
「……」
「それだけは、いまも変わらぬ」
宗慶は黙っている。
「我らがおらずとも本能寺は起きたか」
庄左衛門が問うた。
宗慶は答えられなかった。
「では逆に。我らがどれほど動いても、あの御方が老ノ坂で西へ向いていれば、何も起きなかった」
「……」
「我らだけの仕業でもない。あの御方だけの仕業でもない」
庄左衛門は海を見た。
「人が何かを決めるというのは、そういうものかもしれん」
宗慶が少し笑った。
「随分と坊主めいたことを言う」
「長崎に長くいたのでな」
「洗礼でも受けたか」
「まさか」
二人は笑った。
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同じ年の春。大坂。
細川忠興は九州へ出陣していた。
関白の九州征伐である。天下はまた一つ、大きくまとまろうとしていた。
玉は、屋敷を出た。
供は少ない。侍女が二人だけである。
夫は妻の外出を好まない。だが、いまはいない。
目当ては、町にある教会であった。
南蛮の教えについては、以前から侍女たちに聞いていた。
神は一人である。その神の前では、すべての人が同じであるという。
罪。赦し。魂。死。永遠。
どれも玉には気になる言葉であった。
父が死んでから、ずっと考えていることがある。
人は誰が裁くのか。
武家の世では、勝った者が決める。生き残った者が正しさを決める。
父は負けた。だから謀反人である。
もし山崎で勝っていたら、父は何と呼ばれたのだろう。
天下人。救国の臣。簒奪者。逆臣。
人の言葉は、勝ち負けで変わる。
ならば、変わらぬものはあるのか。
玉はそれを知りたかった。
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教会の扉は開いていた。
中は薄暗い。十字架。蝋燭。嗅いだことのない香り。
年老いた宣教師が出てきた。
背は高く、髭は白い。日本語は達者ではないらしく、傍らに通詞がいる。
「お名前を」
通詞が尋ねた。
玉は少し迷った。
「細川忠興が妻。玉と申します」
宣教師が頷いた。
その時、脇に控えていた若い信徒が、何気なく付け加えた。
「明智光秀様の、御息女にあられます」
宣教師の顔が、ほんの一瞬、止まった。
玉はそれを見逃さなかった。
「父を」
玉は問うた。
「ご存じなのですか」
宣教師は答えなかった。
わずかな沈黙であった。
やがて、通詞を通さずに、自分の言葉で答えた。
「お名前は、存じております」
嘘ではなかった。
「それだけでございますか」
玉が尋ねた。
宣教師は静かに玉を見た。
この男は本能寺の夜、何も知らなかった。
長崎の一室で、明智光秀に近づいてはならぬと命じた。それだけである。
命じて、そして守られなかった。
守られなかったことを知ったのは、すべてが終わった後であった。
「はい」
宣教師は言った。
それも、嘘ではなかった。
玉はそれ以上聞かなかった。
「そうですか」
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その日から、玉は幾度か人を遣わした。
自分では行けない。夫が戻れば、外出はできなくなる。
だから侍女に教えを聞かせ、書き取らせ、屋敷で読んだ。
やがて洗礼を受けた。
教会ではない。屋敷の内である。
水を注いだのは宣教師ではなく、先に洗礼を受けていた侍女であった。
新しい名を与えられた。
ガラシャ。
恩寵、という意味だと聞いた。
その場で本能寺の話は出なかった。
父の話も出なかった。
明智光秀の墓に十字架が立つことは、ついになかった。
ただ、その娘が、父の死から五年の後、十字架の前にいた。
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その年の夏である。
九州から戻った関白は、博多で一枚の書付を出した。
伴天連追放令という。
日本は神国である。よって、切支丹の教えを広める者を国外へ退去させる。二十日のうちに立ち去るべし。
報せは早かった。
高山右近は、信仰を棄てるか、領地を棄てるかを問われた。
棄てたのは領地であった。
摂津の城も、明石の領も、家臣も失った。
五年前、明智光秀を見限り、羽柴秀吉についた男である。
そして五年後、その秀吉に、すべてを取り上げられた。
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堺で、宗慶がその報せを聞いた。
庄左衛門は、まだ町にいた。
「聞いたか」
「聞いた」
庄左衛門は返事だけをした。
宗慶が座り込んだ。
「なあ」
「何だ」
「我らは、何のためにやったんだ」
庄左衛門は答えない。
「一人がすべてを決める国にはさせぬ。そう言ったな」
「言った」
「今日、一人が決めた」
「……」
「二十日で出ていけと。誰も逆らえぬ」
宗慶は笑った。笑い方が壊れていた。
「信長公が生きておられたら、こうなっていたか」
「分からん」
「またそれか」
「本当に分からん」
庄左衛門は言った。
「だが、少なくとも」
「何だ」
「我らが恐れたことは、起きた」
「信長を除いたのにか」
「除いたのにだ」
二人はしばらく黙っていた。
やがて宗慶が言った。
「明智様は」
「ああ」
「上様が海を渡ると思って、あれをなさった」
「そうだ」
「関白殿下は、渡らぬと思うか」
庄左衛門は答えなかった。
答える必要がなかった。
海の向こうには明があり、朝鮮があり、呂宋がある。
あの男は、いま日本の内側を数え終えようとしている。
数え終えた者が次に何を見るかを、二人はもう知っていた。
光秀の恐れは、正しかった。
名前だけが、違っていた。
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秋。
庄左衛門は京の四条の辻を歩いていた。
人だかりがある。
講釈である。銭を集めて、軍記を語って聞かせる商売の者がいた。
語っているのは、本能寺であった。
庄左衛門は足を止めた。
語り手は、いい声をしていた。
明智日向守は老ノ坂に至り、軍勢を止め、東の空を睨んだ。家臣どもが行く先を問うと、日向守はしばし黙し、やがて馬上に扇を上げ、高らかにこう申された。
――敵は本能寺にあり。
人だかりから声が上がった。
いい話だ、と誰かが言った。
銭が飛んだ。
庄左衛門は動かなかった。
そのようなことは、なかった。
あの夜、明智光秀は沓掛の幕の中で幹部を集め、京へ向かうと言った。
兵には何も言わなかった。
言えば漏れるからである。
問う者には、上様が軍勢を上覧なさると答えさせた。
あの人が全軍の前で放った言葉は、桂川の岸で出した三つの指図だけである。
馬の腹帯を締めよ。新しい草鞋に履き替えよ。火縄を一尺五寸に切って火を点けよ。
それだけであった。
語り手が扇を鳴らした。
庄左衛門は口を開かなかった。
訂正する立場にない。
訂正したところで、こちらの話の方が信じられぬだろう。
人は分かりやすい方を選ぶ。
一人の男が、扇を上げて、はっきりと敵の名を告げた。
そういう話の方が、よい。
書いたものはすべて焼いた。
残ったのは空白であり、空白には人が物語を流し込む。
自分たちが五年前にしたことと、同じであった。
庄左衛門はしばらく聞いていた。
語りが終わり、人が散った。
それから、その場を離れた。
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堺へ戻った夜、庄左衛門は火桶に炭を足した。
懐から古い紙を出す。
明智。羽柴。柴田。滝川。細川。筒井。高山。徳川。
距離。兵。縁。宗旨。利。
この紙を見て、自分は先が読めると思った。
庄左衛門は紙を火に近づけた。
熱が指に届いた。
手が止まった。
結局、焼かなかった。
畳んで、懐へ戻した。
なぜ残すのか、自分でも分からなかった。
かつて一人の男が、旧友から贈られた短冊を、いくさの荷に入れて都まで運んだことを、庄左衛門は知らない。
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大坂の屋敷では、ガラシャが夕方の鐘を聞いていた。
どこの鐘かは分からない。寺のものかもしれない。
夫はまだ戻らない。
伴天連は国を出よと言われたが、実際には多くが残ったと聞く。
人の世は、書付の通りには動かない。
ガラシャは庭に出た。
風が海の方から来る。
まだ玉と呼ばれていた頃、丹波の城で、父と二人で紙を見たことがある。
海の向こうまで陸が続いている、奇妙な地図であった。
あの時、自分は何と言ったのだったか。
――この地図では、国と国の境がよく分かりませんね。
――でも、船なら越えられます。
父が何か考えていた。
何を考えていたのかは、聞かなかった。
いまも知らない。
知る手立ては、もうない。
それでも、父は父であった。
そのことだけは、勝ち負けで変わらなかった。
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堺の沖を、南蛮船が出てゆく。
どこへ向かうのか、陸にいる者には分からない。
ただ、船は海へ出てゆく。
誰にも嘘をつかずに。
ここまで『嘘なき謀』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
最後まで物語を追っていただけたことが、とても嬉しいです。
この作品は、私にとって初めて書いた小説でした。
書き始めた頃は、物語の組み立て方や文章の書き方、登場人物をどう動かせばいいのかなど、戸惑うこともたくさんありました。
それでも、少しずつ書き進めながら、明智光秀という人物や、本能寺の変という大きな出来事に自分なりに向き合っていくうちに、最後まで物語を書ききることができました。
拙いところも多かったかもしれませんが、無事に完結までたどり着けたことを、今はとても嬉しく思っています。
そして何より、この物語を最後まで読んでくださった皆さまに、心より感謝しています。
少しでも「面白かった」「最後まで読んでよかった」と思っていただけていたら、とても幸せです。
本当にありがとうございました。




