【7章~9章】
7
総菜屋のディスプレイが変わった。
ついこの前まで、そこかしこにあった七夕をテーマにした飾りは取り払われ、店の出入口に飾ってあった笹飾りも撤去された。代わりに、壁やチラシ、ポップアップなどは海や風鈴、スイカや麦わら帽子のイラストで埋められた。
昨今の温暖化に伴い、今夏も猛暑が懸念される気温が連日続いた。
日々の暑さはひどかったが、汗をかく言い訳としては疑いの目を回避できる、ちょうどいい理由付けになった。
薬が抜けるまでの間、数日は体の不調にいろいろと悩まされたが、眠剤と大量の水を飲んで何とか乗り切った。ただ、出勤のたびに職場のスタッフがあからさまに驚いた顔をするのが気になった。休憩室で鉢合わせた時、マキコが心配そうに話しかけてきた。
「理奈子さん、大丈夫? かなり痩せたけど、ちゃんとご飯、食べてる? 最近、急な休みが多いようだけど」
もちろんよ、と朗らかに答えてはみたが、内心、大きなお世話よ、と冷やかにつぶやいていた。
シャワーを浴びたあとや化粧をする時、鏡を見るとなんとなく感じてはいた。ああ、確かに痩せたかもしれないと。
頬がこけただけではなく、頬骨が目立ち、顔全体がひし形になった気がする。
それもそのはずで、朝夕の食事を用意した時も、理奈子はどうしても食欲がわかず、以前はきちんと自分の分も調理していたが、ここ最近はほとんど息子と夫の分しか作らず、自分はたまに生野菜のサラダをつまむ程度だ。胃が膨らんだ感覚が続き、肉や魚などは食べる気が失せた。氷砂糖の副作用だとわかってはいたが、無理して口に入れるとえずいて吐き戻しそうになって箸を置く。そのくり返しだった。
理奈子がそんな状態になっても、夫は意にも介さない。妻が用意した料理をひたすら頬張るばかりで、食事中はほとんどテレビでやっているプロ野球中継やバラエティー番組を会話もなく横目で見ているばかりだった。
そんな中、颯太だけは理奈子の箸が進んでいないことに気づいたのか、何度か声をかけてくれる時もあった。
「お母さん、食べないの?」
母親の体調の変化、気分のムラについては聡い子で、理奈子の顔をじっと見つめてくる。つぶらなその瞳のゆらぎは、真剣に心配してくれているのがわかる。けれど理奈子は、薄い笑みで返すのが精いっぱいだった。
「大丈夫よ、ちゃんと食べてるし、ちょっと夏バテ気味なだけだから」
訝しそうにまた箸を動かし始めた颯太を見て、理奈子は少し胸を撫でおろす。母親を気遣ってくれる息子のことが愛くるしいと感じる反面、理奈子の胸には不穏な疑心暗鬼の闇がとぐろを巻き始めた。
ふん、子供のくせに大人の顔をしやがって、その気遣いなんてポーズじゃないのか。まさかこいつ、薬や注射のことは気づいていないだろうな、と。
【二年二組・三さわそう太 夏休みの日記】 ※その一部を抜粋
・七月二十三日 晴れ
夏休みになって、しばらくたちました。みんなはうれしそうですが、ぼくはそんなでもありません。きょ年は海に行きましたが、たぶん今年はないかもしれません。ただ、友だちから花火大会やおまつりにさそわれたので、行ってみたいなと考えています。
ドリルや自由けんきゅうなど、しゅくだいがいっぱいあってたいへんですが、ぼくの学校では日記を書くことをすすめられているので、がんばって書くことにします。
プールにはさんかするように、先生から言われているので、なるべくそうしようと思い、今日さっそく行ってきました。楽しかったです。
・七月二十七日 晴れ
きのう、お母さんはおそくに帰ってきたせいか、今日はお父さんのきげんがあまりよくありませんでした。何があったかわかりませんが、めちゃくちゃおこってトイレのドアをけっとばしました。大きな音がして…(※消しゴムで消した跡)
ぼくはこわかったので早めにプールに行きました。楽しかったです。
・七月三十一日 雨
朝から雨がふってました。お父さんは何も言わずに会社に行きました。お母さんは、さいきんあまりぐあいがよくないみたいです。昼間、ねてばかりいます。ぼくがおクスリをのんだら、と言いましたが、お母さんはだまってちょっとわらって首をふりました。ぼくはお母さんが心配です。
雨のせいでプールも中止となり、友だちとあそぶやくそくもなく、お母さんは家にいるのに、ぜんぜん楽しくありませんでした。
・八月二日 晴れのちくもり、ときどき雨
今日はお父さんとお母さんがケンカしました。お母さんの帰りがおそかったからです。あまりくわしく書けません。
お母さんはぼくをつれて、夜おそくにまだあいているスーパーとかに行きました。おかしを買ってもらい、公園で食べました。おいしかったです。お母さんは、ちょっとないていましたが、ぼくがおかしを食べている間、スマホでだれかとメールしてるみたいでした。
(※消しゴムで消した跡。よく見ると「ぼくは、お母さんのメールのあい手が男の人だと思っています」とかすかに読める)
そのあと、しばらくしてから二人で家に帰りました。
・八月七日 くもり
このごろ、お母さんのぐあいがひどくなってきている気がします。お父さんが会社に行ったあと、毎朝のように、ケータイでだれかに電話をかけていっしょうけんめいあやまっています。とてもつらそうにしているのですが、電話がおわるといつもチッ、チッと、したを鳴らしてイライラしています。そんな時のお母さんは、なんだかいつもとちがう顔をしていて、ぼくの知っているお母さんではない気がします。とてもこわいです。
また、お母さんはごはんをあまり食べなくなりました。やせてしまったのはそのせいだと思います。それなのに、サイダーとかコーラとか、甘いたんさんののみもの、しゅわしゅわしたものはのめるみたいで、よくのんでいます。そんなかんじでねたりおきたりしているお母さんのことが、ぼくはとっても心ぱいです。
・八月十日 晴れ
今日、びっくりすることがありました。お母さんのうでに、なぜかむらさき色のあざができているのです。おどろいたぼくが、そのあざ、どうしたのとたずねると、お母さんはあわててそれをかくして、何でもないと言うのです。どこかにぶつけちゃったとも言っていましたが、お父さんにぶたれたんじゃないかと、ふあんになりました。
それから、お母さんはいつもおけしょうの時につかっている、ファンデーションというおしろいで、自分のうでをたまにパフパフしているのを見かけるようになりました。あざをかくしているんだなと思いました。
・八月十五日 雨
家の中でお母さんをさがしていた時に、いつもお父さんとお母さんがねているへやに行ってみたら、そのドアが少しあいてました。お母さんをよぼうと思い、のぞいた時に、お母さんが自分のうでにちゅうしゃをうっていました。ぼくはびっくりしました。やっぱり、お母さんはびょうきなんじゃないかと思い、こっそり自分のへやにもどりました。なんだかきゅうにこわくなって、ぼくは少しなきました。
8
旧盆が過ぎた。
八月に入ってから、帰省のためにバタバタと数日間の休みを申請するスタッフが何人かいて、その数名が通常通りに出勤し始めてから、一週間ほどが過ぎた。
ある日、郷に帰る予定もなかった理奈子が出勤すると、休憩室には五、六人ほどの女性スタッフたちが集まっていた。彼女たちの表情は、一様に硬かった。
理奈子が入ってくると同時に、彼女たちはいっせいに理奈子に視線を向け、すぐにそらした。その反応は、見てはいけないものを見てしまったかのようなどこか焦った顔で、蜘蛛の子を散らすように、皆、席を外していく。そして、それぞれの持ち場へと立ち去っていった。
そんな中、自分のロッカーの扉を開けていた理奈子のことを、マキコだけが呼び止めた。ぼんやりした表情で、理奈子はふり向いた。
「理奈子さん、ちょっと。こっちに来てくれる?」
マキコに導かれるままに、理奈子とマキコは店の裏口のドアから外に出た。狭い路地裏の道に二人しかいないことを確認した上で、深刻な顔つきでマキコは理奈子に問いかけた。
「理奈子さん、正直に答えてね。私たちに、何か隠していること、あるでしょう?」
どきりとして、理奈子は軽く一歩、後ろに後じさった。この期に及んで、マキコはいったい何を言い出し始めるのか。もしや、何もかも見抜かれているというのか。それはどこからどこまでか。誰と誰が、理奈子の何を知っているというのか。
様々な思考が理奈子の脳裏をめぐり、言葉を失ってしまった。それを同意と受け取ったのか、マキコは肩をがっくりとして落とし、ため息をついた。
「思い切って言うけど、理奈子さん、最近、本当におかしいよ。いままで絶対にしなかったミスをするし、遅刻も欠勤も目立ってきて、ここだけの話、店長だってかなり怒っているよ。それに……どうしたの、その痩せ方。頬のこけ方、半端ないよ。顔色も悪いし話をする時に目もあちこち泳いでいるし」
話をしながら、マキコの声は次第に震え出した。明らかに少し涙をこらえているような口調で、とても悪ふざけや冗談では済まそうとしない態度だと感じた。
「もしかして……旦那さんのこと? また、旦那さんからひどい暴力を?」
彼女の言葉の語尾がかすかに震えているのを聞き、一瞬、どぎまぎした理奈子ではあったが、不思議なことに、次第にその心は冷静さを取り戻してくる。マキコがこらえている涙は、いったい誰のためか。理奈子を本当に思いやってのことか、それとも仕事仲間を少しは心配しているんだという見せかけか、それに酔っているマキコ自身のためではないのか。
落ち着きを払ってきた理奈子の耳には、真面目な顔で、張りつめた声で話を続けるマキコの言葉が説教じみて聞こえ、仕方がなかった。だが、そんなことをはっきり言ってしまったら、きっとマキコはとても傷つくだろう。いや、本心がどうあれ傷ついた顔をするだろう。それがすぐに想像できてしまい、理奈子は面倒くさく感じられた。
「ねえ、理奈子さん、正直に話して。家庭内暴力は犯罪なのよ。いくら家族だって、結婚した相手や親からひどく傷つけられたり殴られたりして黙っているのは間違いなの。きちんと声を上げなきゃ、誰も助けてはくれないよ。それに、暴力っていうのは物理的なことだけじゃない。心に傷を負わせることも、充分に暴力よ。それとも……もしかして、何か重い病気とかじゃないの? 病院には行ったの? その痩せ方って、もしかしたら、あの……PTSDとか拒食症とか、癌とかじゃないよね?」
見当違いもいいところだった。それを聞いて、思わず吹き出して笑ってしまいそうになったが、寸でのところで嘲笑を飲み込んだ。ゆっくりと首を横に振り、理奈子はふんわりした口調でマキコの言葉を否定した。
「大丈夫よ、マキコさん。私はそんな病気じゃないから。本当に大丈夫だから」
理奈子の反応に虚を突かれたものか、それでも何か言いたそうな顔をしたマキコだったが、それ以上は何も言えなかったようで、口をつぐんだ。大丈夫だから、とまた理奈子は念を押し、マキコの考えを軽く一蹴する。
「話って、それだけ? 心配しないで。ほら、もうすぐお店、始まっちゃうから」
そう言って踵を返した理奈子が建物内に戻ろうとしたところで、背後からマキコがさらに追い打ちをかけてきた。
「ねえ、理奈子さん。もう一つだけ、教えてほしいの」
マキコに背中を向けたまま、理奈子は足を止めた。
「プライベートなことに口を突っ込むのは、あまり私も本意じゃないんだけど。毎週、水曜日だけ一時間早く退勤するでしょう? あの早退は、本当は何のため? 理奈子さん、本当は親御さんの介護なんて、していないんじゃないの?」
何かに怯えたような、自信のない声でマキコが訊ねた。少し迷って、理奈子はふっと笑って小さく答えた。
「関係ないよね。あなたには、そんなこと」
ふり返りもせずにそれだけ言い残し、理奈子は仕事場に戻っていった。
ひとまず揚げ物だけ買い揃えて、食卓に出した。ヒレカツとイカフライをメインに皿に並べたがどれもスーパーで買った惣菜だ。
理奈子の昼間の仕事について、夫にはまだ気づかれてはいないだろうが、職場の賄いを自宅の食卓に持ち込むのはいまだに気が引けて避けている。付け合わせのサラダは野菜を刻んだだけだ。
夕食の時、夫が急に思いがけないことを言った。
「理奈子、おまえ、最近ちょっとおかしくないか?」
どきりとして、理奈子は箸を動かす手を止めた。食欲もないままに、千切りにしたキャベツやピーマンをぼそぼそと齧っていたところだった。シャキシャキとした食感はなぜか妙に心地よかった。ネットで調べてみたところ、大麻を吸うと味覚が研ぎ澄まされて食事がいつもよりおいしく感じられ、シャブを常習すると食は細くなるが歯ごたえや甘みを渇望することはよくあることらしい。
顔を上げると、どこか怯えたような顔の夫が、理奈子をじっと見つめていた。
「おまえ、どこか、具合が悪いんじゃないのか? いま気づいたけど、いつのまにそんなに痩せたんだよ。ひどい顔だぞ。最近、物もろくに食わないし。それに、メシの用意も家の掃除も、あんまりできないような状態なんだろう? ずっと寝たり起きたりしてるし」
面と向かってそんなことを言われ、理奈子は含み笑いで一蹴したくなった。
いま気づいた、とはどこまで鈍感な男だろうか。ひどい顔なのはあなたの方よ、幽霊に会ったみたいな顔をしてるじゃないの、と理奈子は胸の内でせせら笑っていたが、そんな本音はそっと心の底にしまい込んだ。
「そーぉ? 別に変わりないけど。大丈夫よ、ちゃんと食べてるから。そんなに痩せたかなぁー、夏バテじゃないかなー」
ほんわり、という口調で薄笑いを浮かべ、また刻んだ生野菜を齧り始めた理奈子を見て、夫は恐れ慄いているような表情で、まだ不安が消えないようだった。
「夏バテって、そんなもんじゃないだろう。顔の骨が浮いてるぞ。おまけに頬はこけてるしげっそりやつれたような顔して。いつもなんか汗ばんだ感じだし」
普段、理奈子の顔色はおろか体調の心配などしてくれたこともない夫の態度が、無性に腹立たしく疎ましかった。いまさらそんな小言はやめてほしい。だいたい妻のことなどいままで見向きもしなかったくせに、ここに来ていったい何様のつもりかと、理奈子は苛立たしい気持ちで生野菜を齧り続けた。
何も口を開こうとしない妻に、しばらく黙っていた夫がため息をついて訊ねた。
「それに、その腕の痣。そいつ、いったい何なんだよ」
理奈子の左腕に見え隠れしている紫色の注射痕を指差し、夫は小さな声で訊ねた。何かよくない事実を認めたがらないような、怯えた口調だった。
「ぶつけたのよ。トイレのドアで。この前」
すかさず、理奈子は事もなげに答えた。それきり、味気のない無言の食事が続いた。
【二年二組・三さわそう太 夏休みの日記】 ※その一部を抜粋
・八月二十五日 晴れ
お母さんのようすが、ちょっとこのごろ、おかしいです。
朝、ごはんを作ってくれたりくれなかったりするようになりました。そのことで、お父さんがすごくおこることがあります。ぼくはそのためにすごくハラハラします。
その後、お父さんが会社に行ってからがたいへんです。
お母さんはおしごとに行ったり行かなかったりして、さいきんでは何かにおびえているようなことがあります。何もないところに向かってだれかと話をしていたり、だれかにどなったりしています。見はるのをやめてほしいとか、ふざけるなとか、いろんなことをさけんでないたりわめいたり、おこったりして、ぼくはとってもこわくなります。
また、お母さんのうでに、やっぱりむらさき色のあざがふえている時があります。そのたびに、お母さんはファンデーションでパフパフします。ちゅうしゃをうっているのを見たのは二、三回くらいです。それをやったあとは、少し元気になるみたいでぼくにはやさしくしてくれます。お母さんは何のびょうきなのでしょうか。
*
「おい、理奈子。そんなに具合が悪いなら、さっさと病院に行けよ」
月曜の朝、ソファーに身を横たえている理奈子に、出勤前の夫がそう言った。
珍しくそんな気遣いの言葉をよこしてきたことに少し驚き、理奈子は顔を上げ、覇気のない笑みを浮かべて夫に礼を述べた。夫は、何か見てはいけないものを見たような、わずかに怯えた顔をして、それきり無言で家を出た。
今朝、潰れた目玉焼きと焦げたトーストを夫や息子に食べさせた後、理奈子はどうにも体のだるさ、やる気が起きない感覚に苛まれ、少しだけ横になることにした。何度も突発的な休みをくり返してしまったため、今日こそは出勤しないわけにもいかず、出勤前には回復するだろうかと天井を眺めながら、ぼんやり考えていた。
流しにまだ洗っていない食器を放置したまま、息子がプールに行く準備をしているのを見届けていたところで、理奈子のスマホが震えた。
竜馬からだろうかと気持ちが弾みかけたところで、メッセージの送信者が純菜からだとわかり、気持ちがすぐに萎えた。いつもの、メッセージが消えるアプリからだった。
つれづれにスレッドを開き、小言じみた文面を読んで、理奈子の気持ちはさらに萎えた。
『プッシャーから聞いたけど。あんた、ちょっと買いすぎというか、食いすぎよ。氷砂糖、どんだけ買ったのよ。ちょっとは後先考えて使いなさいよ』
薬物の類を服用、もしくは注射する時に、暗黙のうちに、キメる・食うなどの動詞を使うことはここ最近知った。確かに、飲む・注射する、と言うよりも曖昧な表現だ。
また、あらゆる薬物について、名前をごまかしながら伝え合う方法として、絵文字や隠語を使うこともたびたびあるのだと、理奈子はその辺にも詳しくなった。
たとえば、大麻・マリファナを示す隠語としては「草」「野菜」という言葉を使ったり、あからさまに植物・草、葉っぱの絵文字を用いたりする。覚醒剤に至っては、「氷」「冷たいやつ」「揚げ物」「唐揚げ」など、使った奴にしかわからない言葉で表現することもあり、そのユニークな発想に理奈子は感心した。絵文字で表現する時は、薬のカプセルや注射器などは用いない。かき氷や角氷、雪の結晶の絵文字を使うことが多いのだ。自律神経が狂うことで、大量の汗をかく。クーラーが必要なくらいになるため「冷たいもの」と呼ぶからだ。
売人を紹介してくれたのは純菜の方じゃないかと、理奈子はかすかに腹立たしさを覚えたが、メッセージを打ちながら焦った顔をしている純菜の顔が目に浮かび、理奈子はさらに追い打ちをかけてからかってやりたくなった。かき氷の絵文字を三つ並べて打ち込み、最後に『最高ー!』と打って送った。すると純菜から、すぐに『いいかげんにして』というすげない文言が送られてきた。
その後、純菜からは続けて説教じみた長文が来て、そのたびに携帯は震えたが、理奈子は鼻歌を歌いながらそれを無視し続け、その代わりのように売人とのスレッドを開いた。もう、理奈子の財布や通帳もだいぶ軽くなってきてはいたが、まだ一、二回ほど氷砂糖を愉しめる余裕はあった気がする。理奈子は、また買えないかという文言を打って売人の女に送った。
ほんの数分後、売人の女から返信があった。上物が入手できたので明日には届けられるという内容を読んで、理奈子はむくりとソファーから起き上がった。俄然、やる気が出てきたことに我ながらおかしく思い、唇がにやつくのを抑えられなかった。
料金と量、明日のうちに手押しで受け取り可能な場所や時間帯について、メッセージでのやりとりが続く。ついさっき純菜からの忠告にイラついたことなど、記憶の片隅にすらなくなってしまった。
視線を感じてスマホから顔を上げると、水着や着替え、タオルを入れた子供用のスポーツバッグを背負った颯太と目が合った。所在なげに視線をあちこちさまよわせたあと、息子は小さな声で、行ってきます、とつぶやき玄関へ向かった。
颯太の背中に、行ってらっしゃいと声をかけた理奈子は、にっこりと笑みを浮かべ、携帯にかじりつくようにメッセージを打ち込み始めた。
今日が月曜日。明日、火曜日に文字通りの甘い誘惑、氷砂糖を入手して、明後日の水曜日には竜馬の部屋へ。
今日を含めて、あと三日。あと三日間だけ仕事を乗り切れば、彼に逢える。それだけが理奈子にとって心のエンジンとなった。
凝り続けた肩と節々の痛み、体の重さに耐えながら、理奈子はソファーから立ち上がり、ひとまずトイレに向かった。
思いがけないことはいきなり起きた。便座に座り、放尿をしていた時だった。
「あー、いいね、理奈子ちゃん。こんなガバガバのおマンコから、おしっこだ」
耳元で、中年の男のしわがれた声がしたのだ。はっと驚いて左右を見ても、もちろんトイレの狭い個室内には理奈子しかいない。
ドキドキして困惑していたところで、今度は真後ろから若い女の笑い声が聞こえた。それは明らかに、理奈子が用を足すことを覗かれていたことにたいしての嘲笑だった。はっとしてふり返ると、磨りガラスのトイレの窓に、さっと黒い影が横切った。
「誰?」
思わず大声でそう呼びかけ、中腰のままふり返り、立ち上がった。その様子を嘲笑うかのように、カラスの鳴き声が遠のいていった。その鳴き声を聞き、胸を撫でおろした理奈子であったが、心臓の鼓動はおいそれと落ち着くことはなかった。
冷静に考えれば、三澤家のトイレは一階にあり、その窓の外にはブロック塀がすぐ近くに設けてあった。また、そこは数十センチの空間を挟んで隣家の白壁に面している。カラス一羽が通れることはあっても、人が通れるほどの隙間はない。だが、その時の理奈子の目には、確かに女の長い髪が揺れ動いて、すぐに姿を隠したようにしか見えなかった。
しわがれた中年の男の声。若い女の嘲笑。そして素早い動きで隠れた、黒髪の塊。
幻聴・幻覚。覚醒剤を常用した者の身に、よく起きると言われる症例の数々。理奈子の身に起きている事象は、まさにその通りだった。
そんなはずはない。そこまで自分は氷砂糖にハマってはいない。それほど常用しているわけではないのだから、幻聴や幻覚など起きるはずもない。目をつぶり、そう、自身に言い聞かせているそばから、新たに別の男の声が聞こえた。
「んなわけねーじゃん、おまえ、シャブ中なんだからよぉー」
声質やトーンなど、明らかにその声の主は、先ほどの中年男性とは異なった。その声には先ほどの女と同様、理奈子を嘲笑う響きがあった。また、はっと目を見開き、理奈子は急に怯え出した。左右前後、そしてトイレの天井まで見上げてみたが、もちろんそこには理奈子以外、誰の姿もない。
これ以上そこにいたら、声がさらに自分を脅かすのではないかと怖くなり、理奈子はトイレの洗浄レバーをひねり、さっさとトイレから出ていった。そして、まだ落ち着かない胸の鼓動と、手や指の震えに耐えながら、化粧ポーチを手に取った。
「会いたかった」
竜馬が部屋のドアを開けた瞬間、理奈子は彼に抱きついた。少したじろぎながらも、竜馬は理奈子を受け止め、その細くなった体を抱きしめた。
彼の顔を、彼の子鹿のような瞳を、いままで見飽きるぐらいに見てきたのに、いまだに見飽きない彼の微笑を見た途端、理奈子の中で何かが崩れ、すぐにいとしさは極まり、その恋しさは潮のように満ちて心からあふれ出してしまった。
まるで十年、二十年も会えなかったかのような気持ちで口づけをねだり、理奈子はそこから竜馬にリードを任せ、服を脱がされていった。
ブラジャーとパンティーだけになったところで、トイレを借りたいと竜馬に伝えると、彼はシャワーを浴びるかと訊ねた。シャワーは後にすると答えかけた理奈子の姿を、上から下まで舐めるように見てから、彼は、え、と小さな声を漏らした。
何事かと竜馬の方をふり向くと、彼は心配そうな表情を浮かべていた。その眼差しは病人を見つめる目だった。
「理奈子さん、ちゃんと食べてる?」
周りのみんなと同じような反応に、理奈子はいささか慌てた。痩せた、もとい、痩せすぎだと言いたいのは、彼の目を見ればわかる。
理奈子は、とっさに笑顔を意識して答えた。
「た、食べてるよ。野菜とか、いろいろ」
ほら、男の子ってみんな細い子が好きなんじゃないの、と付け加えると、竜馬は、そんなの偏見だよ、と苦笑した。
まだ何か言いたげな心配そうな表情を浮かべていたが、竜馬は理奈子の額に軽くキスをして、ベッドで待ってると告げた。彼が背中を向けたのを機に、理奈子はバッグから素早くポーチだけを取り出し、それを持ってトイレに向かった。
洗面台の鏡に、ブラジャーとパンティー、ともに同じワインレッドの下着を着けた痩せた女がいた。その頬はげっそりとこけ、少し肋骨が目立って浮き出ている。竜馬に心配されても仕方ない痩せ方をしているのは、他の誰よりも理奈子自身がよくわかっていた。だが、固形物となる食べ物をほぼ食べられないのだから仕方がない。副作用が小康状態の時に、稀にパックタイプのビタミン入りゼリーや柔らかいドーナッツを飲み込める程度だった。
ただ、いまの理奈子にとっては、浮いた頬骨や肋骨よりも、竜馬と会う時に下着のコーディネートだけは抜かりなく、失敗しないことの方が重要だった。
下着に施された繊細なレース模様にだけ満足しながら、理奈子はポーチの中から、結晶状の粉末が入ったパケと呼ばれる小さなビニール袋と、細い注射器を取り出した。
水で溶かして薬液になった物を、片腕の静脈に針で注入して数秒。理奈子の心臓と脳は、また、一瞬で天国へと飛ばされた。
「うっひょほ。あっは。あー、すごい。すごい、すごい、こんなに、もう」
いつものことながら、緩んだ唇からこぼれる独り言がしばらく止まらなかった。
注射を打った後、理奈子は丸めたトイレットペーパーで止血をしながら、手早くパケや注射器の類を片付けた。その最中から緩む口元を抑えられず、止血が済んだ後、しきりにふくみ笑いをしながらトイレを出て、寝室へと向かった。
そして、竜馬が裸で寝そべるシーツの上に裸身を滑り込ませた。
大汗をかいて、ベッドの上で竜馬とふたり、身を横たえたのは、それからしばらく経ってからだった。時計を探して時刻を見ると、この部屋に来てからもう四時間近く過ぎていた。まだ小一時間程度だと思っていたため、理奈子は少し驚いた。
その日、竜馬は珍しく、二回中折れをした。騎乗位の時に一回、バックで四つん這いになった理奈子を突き続けている時に一回。どちらも理奈子が激しく悶え、発情期の雌の獣そのものといった声で身を震わせ、感じ切っていた時だった。
あまりに感じ過ぎて、また声が大きくなってしまったのは自覚があった。それがもとで竜馬の気持ちが萎えてしまったかと、理奈子は気遣って彼に声をかけたのだが、彼は大丈夫だと苦笑いをして少しの時間、体を休めただけだった。
若干、呼吸が落ち着いてきた竜馬が、骨が浮いた理奈子の脇腹を指でなぞりながら、耳元で囁くように理奈子に問いかけた。
「また、やってるの? 気持ちよくなる薬」
蔑むわけでもなければ恐れているわけでもない、ただ、淡々と事実確認をしているような口調と声だった。すべてを打ち明けてしまっている理奈子は、もう、彼からのそういう質問にも動じることはなくなり、彼の腕の中でこくんと小さくうなずく。
まだ汗ばんだ体を密着させ、理奈子の肩を抱き寄せながら、竜馬は言った。
「理奈子さん、俺と約束してほしいんだ。薬、やめなくてもいいから、ちゃんと物は食べてほしい」
体を少し離しかけ、だから食べてるよ、と答えようとした理奈子を、強い力でまた抱き寄せ、竜馬は続けた。
「たとえ理奈子さんがシャブをやめられなくても、痩せても太っても俺はかまわない。でも、理奈子さんには、元気でいてほしいというか健康でいてほしいというか……つまり、幸せに生きていてほしいんだ」
重く、研ぎ澄まされた沈黙が訪れた。きつく抱きしめられたまま、理奈子はそれきり何も反論できなくなってしまった。理奈子の額がちょうど竜馬の喉仏に当たり、そこから彼の声が低く響いて聞こえる。
理奈子を抱きしめながら、彼は話し続けた。
その日、この部屋を訪ねてきた理奈子の頬がこけていて、その顔を見て正直かなり驚いたこと。実は会うたびに痩せてきていた理奈子が、たまにうつろな目線を泳がせたり、いきなり口数が増えてはしゃぎ出したりするのが心配だったこと。いままでそれをはっきり言えなくて、情事の最中、萎えそうになっても正直に理由を伝えられなかったこと。また、それについての謝罪など、彼は言葉を選びながら、ゆっくりと話してきかせた。
竜馬が話し終わってから、しばらくの沈黙が続いた。理奈子は、思い切って訊ねた。
「竜馬君は、私に、薬をやめてほしい?」
勝手に薬物に溺れておきながら、ずいぶんと上から目線な口調だと、言葉にしてから理奈子はいささか恥ずかしくなったが、そこで言い直すようなことはしたくなかった。ちゃんと、彼の気持ちを確かめておきたかったからだ。
少しの沈黙の後、竜馬はゆっくりと答えた。
「正直に言うと……理奈子さんが壊れてしまうなら、やめてほしい。でも、それをやめたことで、俺が理奈子さんに会えなくなるなら、やめないでいい」
理奈子を抱く腕に、また力を込めながら、竜馬はため息交じりに謝った。
「ごめん、こんなわがままで」
視界が涙で滲みかける中、理奈子はぎこちなく首を横に振る。
「いいのよ、わがままで。私も竜馬君も、みんな、わがままな時があっていいんだよ。きっと、愛はわがままなものなんだと思う」
ありがとう、と震える小さな声で答えた理奈子を、また、竜馬の腕が強く抱きしめた。彼は、またひとつ、鉛を吐き出すようなため息をついて謝った。
「ごめん、理奈子さん。たぶん俺は、間違っている。間違ったことをしている。本当は理奈子さんのこと、止めなきゃいけないんだろうけど。でも、俺は……俺は、欲張りでわがままだから。道を踏み外しても人生を間違っても、理奈子さんといっしょにいたいんだ」
ごめん、と何度もくり返す竜馬の声を聞き、理奈子は、いつか昔、泣きながら父親の足にしがみついて謝り続けていた颯太のことを思い出した。おもちゃを玄関先に投げ捨てられ、必死で謝っている息子の声が竜馬の声と重なり、理奈子は胸が絞めつけられるようだった。
やがて理奈子の視界はゆらぎ、その涙は睫毛で支えきれない重さとなって、理奈子の頬を濡らした。
竜馬の心情と優しさに心が乱されて以来、理奈子は数日間、なしくずし的な態度で出勤し、だらだらと言われるがままに業務を続けていた。ぼんやりとしていたせいで、何度か些末なミスをして店長やリーダー格の先輩スタッフからは注意を受けていたが、マキコを始めとする他のスタッフたちは皆、腫物に障るような扱いで理奈子にフォローの声がけをしてくれることはなくなった。
それよりも、理奈子には心配なことが増えた。理奈子がひそかに氷砂糖を買い求めていた先の売人の女と、連絡がつかなくなったのだ。
女とのやりとりは、一貫してメッセージが消えていくアプリによる連絡がすべてだった。そのアプリで送受信されたメッセージは、設定にもよるが半日から最大六日ほどはスレッドに残るようになっている。
純菜から教えられた通り、スクリーンショットで画像を残してしまうと、こちらが写真・画像としてメッセージでのやりとりを残したことが相手にバレてしまうため、絶対にしないようにしていたのだが、ある日、理奈子が送ったメッセージに既読が付かなくなってしまったのだ。
『少しまとめて買いたいのですが。手押しで30だと、いまはいくらですか?』
そう打ち込んだ理奈子からのメッセージに、既読が付かなくなったのだ。
消えるまでは最大の日数で設定していた理奈子は、ひたむきに売人からの返信を待っていた。一日、二日くらいのうちは、相手もどこからか仕入れるために多忙なのだろうと思っていた。しかし、三日目になっても既読は付かず、返信もないため、にわかに理奈子は不審に感じていた。四日目を過ぎて、理奈子は待ちきれずに追いメッセージを送った。
『この前のメッセージは読めていますか? お忙しいですか?』
そう送った理奈子からのメッセージが最後となった。
結局、それら二つのメッセージは既読にならず、金額について訊ねた最初の方のメッセージは設定日数を過ぎて消えてしまったのだ。
このままだと追いメッセージの方も既読にならず、あえなく消えてしまうだろう。そう思うと、急に不安になって携帯をにぎる理奈子の手は震えた。このまま禁断の氷砂糖を買えなくなってしまうなど、いまの理奈子にとっては想像するだに恐ろしいことだった。
何の返信もないままのスレッドを見つめながら、理奈子は執拗に爪を噛んだ。
純菜からひどく高圧的なメッセージが来たのは、八月も残りあと一週間を切ったあたりの明け方のことだった。
『あんた、まだ氷砂糖、やってるの? お願い、ブツはもちろん、いますぐパケも注射器も証拠になるようなものは全部捨てて。いますぐ!』
もちろん、それは例のメッセージが消えるアプリを通して送られてきた。
薬の副作用のせいで、夜遅くまでなかなか寝付けない中、ようやくうとうとしかけたところに、そのような威圧的な文面が来たため、イラっとした理奈子はそれを目にするなりスマホを枕元に放り投げ、寝返りを打った。
もうそろそろ起き出して朝食を作らなければ、夫にどんな嫌味や小言を言われるかわかったものではない。隣でいびきをかいている夫が先に起き出して、食卓に何もない状態だととても面倒なことになる。さりとて、眠りも浅くこのまま半強制的に起きなければならない状況に、理奈子は苛立ちを抑えきれなかった。
と、そんなことをぐずぐず考えているところで、また理奈子の携帯が鳴った。鈍い振動はアラームではない。電話の着信だった。
驚いて液晶画面を見ると、また純菜からだった。軽く、舌打ちが漏れる。
イラっとして、理奈子はすぐにその着信を切った。ところが、この朝の純菜からのコールは執拗だった。電話を切られてもなお、またかかってきたのである。
バイブ音で夫が早々目を覚ますのだけはまっぴらだった理奈子は、小さな舌打ちをくり返しながら、携帯を持って寝室を出て、そのままトイレに駆け込んだ。
通話ボタンを押してすぐ、電話の向こうから街の喧騒らしき、かすかな雑音が聞こえた。
「ねぇ、純菜。こんな朝早くに何なのよ。やめてよ、うちの人が起きちゃうでしょう」
落ち着いた声音で話すつもりでいたが、ひそめた声は自然と荒げた口調になった。
しかし、純菜の声はひどく慌ただしく、それどころではないような落ち着きのなさだった。また、理奈子からの苦情も意に介さずといった強張った声だった。
「理奈子、お願い。いますぐ捨てて。氷砂糖も、パケも注射器も、証拠になりそうなものをまだ持ってたらすぐに捨てて。ラムネもあるなら、もちろんそれも。トイレに流しなさい、いいわね」
早口でまくし立てるように、強い口調で純菜は理奈子に命令した。ムッとして、理奈子はわざとらしくため息をついて答えた。
「余計なお世話よ。何言ってるのよ、そっちから誘って売りつけたくせに」
電話口で、純菜が息を吸い込む音が聞こえた。怒りか憤りか、ここまで理奈子が強気で撥ねつけてくるのが意外で怯んだためか、もしくはすべての意味を含んだものか。
構わずに、理奈子は続けた。
「だいたい何よ、いまさら。やりとりする時はメッセージが消えるアプリを必ず使うようにって、散々人にうるさく言っておきながら、こんな朝から電話よこすなんて。どれだけ勝手なのよ。それに、違法だろうが何だろうが、私が何をいつ使うかなんて、どれくらい買うかなんて私が決めることで」
「ガサ入れがあったのよ! 私がラムネを買ってたサイトが閉鎖したの!」
苛立ちを我慢しきれず、長々と反発していた理奈子の声を遮り、純菜が電話口で叫んだ。ガサ入れ。その意味は、なんとなく理奈子にも理解できた。それと同時に、理奈子の頭は真っ白になって言葉も途切れた。ガサ入れ、それはつまり――。
「わかるでしょ? 警察に嗅ぎつけられたのよっ」
周囲の目を憚ってか、強い口調のまま、純菜は急に声をひそめた。
何と言えばいいのか、今度は理奈子の方が言葉を失ってしまった。そして、純菜はさらに追い打ちをかけるかのように信じがたい話を打ち明けた。
「それだけじゃないの。夫が……私の内縁の夫が、さっき警察から呼び出しくらったのよ。まだ事情聴取の段階だけど、いま、彼とは連絡がつかなくて」
初めて聞く話に、理奈子はさらに戸惑った。純菜に内縁の夫がいたことなど初めて知った。いったいどういう人だったのか、また、なぜその男が警察の世話になる必要があったのか。訊きたいことは山のように湧いてきたが、どこから訊ねればいいのか、気が動転してしまい、予期せぬ事態に陥った理奈子にはわかりかねた。懸命に言葉を探していると、純菜はそろそろ移動しなければならないので、詳しいことはまたあとでと、話を切り上げようとする。
「ま、待って。純菜、ちょっと待ってよ! 私はどうしたらいいのよ!」
「どうもこうもないわ。とにかくブツを捨てて。ラムネも氷砂糖も全部トイレに流しなさい。あと、パケとか注射器とか……まさか炙りもやった? それならアルミホイルとかパイプとか、器具の類もさっさと捨てるの。いいわね!」
ずっと声が震えていたのは、警察の捜査を恐れているためか。それとも何か荷物を持って駆け足で移動しながら、もとい、逃げながら話していたためだろうか。純菜の命令口調に苛立ちながら、理奈子は携帯から片時も耳を離せなかった。
そして純菜は、我が身の保身だけはしっかりと理奈子に戒めて聞かせた。
「いい? 絶対に、何があっても、警察や他人に私のことは話さないで。絶対に話すなよ。いい? 絶対よ! もし破ったら……覚えとけよ」
捨て台詞に、冷たい口調でぼそりと脅迫の言葉を残し、純菜は一方的に通話を切った。
慌てた理奈子は、急いで電話をかけ直したが繋がらず、電波の届かないところにあるか電源が入っていないため、とアナウンスが流れるばかりだった。トイレの壁に、スマホをぶん投げて叫び出したい衝動をこらえ、強く握りしめるだけにとどめた。
どうしよう、どうしたらいいか。
トイレットペーパーのホルダーの上に携帯を置いた理奈子は、服を身に着けたまま膝から崩れるように便座に座り込み、文字通り頭を抱えた。はやる気持ちを抑え、いま、自身のポーチに隠し持っているブツのすべてについて思い出していた。
薬の粉末を小分けにしたパケが二つか三つ、そして新品のままで包装も未開封の注射器が二本。ラムネは切らしていた。止血バンドはいつも夫のネクタイか、いつ捨ててもいいような自身のロングソックスかレッグウォーマーで代用していた。あれらも処分しなければならないのだろうか。
目を閉じて、上がっていく心拍数を感じながらじっと考えをめぐらせていると、いきなり知らない女の声が理奈子の耳元で囁いた。
「ほーら、理奈子ちゃん、ピンチ、ピンチ。あはは」
はっとして目を開き、顔を上げてトイレのあちこちを見回す。もちろん、そこには理奈子以外の誰もいないし、誰かが忍び込めるようなスペースはない。
だが、確実に声は理奈子を嘲笑していた。
くすくすっと、年齢も性別も定かではないふくみ笑いがそこかしこで始まる。
「誰? やめてよ、いったい誰なの? どこにいるの」
戸惑い慌てふためく理奈子の様子がおかしいというように、笑い声は次第に大きくなっていった。そして、一人、二人と、その声は次第に重なっていく。
「やばい、やばい、理奈子ちゃん、やばい」
「どうした、シャブ中の理奈子。ほら、どうする?」
「きゃー、見つかっちゃう。逮捕だ、逮捕」
怒りと焦り、憤りと羞恥、そして激しい興奮と疑心暗鬼に苛まれ、理奈子は歯ぎしりをして周囲を見回した。誰もいない壁から、湧き出てくる声に怒鳴りつけようとした、その時、中年の女の叫び声がした。
「シャブ中の理奈子ー! 逮捕しろー! シャブが大好きなんだよ、シャブが!」
恐ろしくなった理奈子は、携帯を持ったまま耳を塞ぎ、慌ててトイレを飛び出した。閉じたドアの向こうで、まだ執拗にシャブだシャブだと、叫んだり嘲笑したりするたくさんの声に怯えながら、理奈子は急いで寝室に引き返した。
ベッドを見ると、夫は寝返りを打ってまだ安らかな寝息を立てている。理奈子は足音を忍ばせ、自分のポーチの中身を確かめた。自分が覚えていた通りの数で、確かに違法なスイーツ、悪魔の氷砂糖は注射器と共にそこにひそんでいた。
手に取ってじっと見つめ、唇を歪めて理奈子はため息をついた。やはり、先のことを考えてこれらを処分しなければならないのだろうか。しかし、それらを処分してトイレに流すため、またあの嬌声と嘲笑、罵声が響く個室に戻るのはたまらなく恐ろしかった。
それだけではない。氷砂糖も注射器も、それらを完全に失くした生活を想像すると、震えが止まらなくなるほどの絶望感が忍び寄ってくる気がした。
できない。氷砂糖も、注射器も、いま捨てるなんてできない。
唇を噛みしめ、迷い悩んでいたところで、さっきのトイレにいた声たちとは明らかに違う、別の女の声が理奈子の耳元で囁いた。
「いいのよ、理奈子ちゃん。いますぐ捨てなくても、また後でもいいじゃない」
女の声は、穏やかに理奈子の耳に響いた。歳の頃は理奈子の母親と同じくらいの声だろうか。胸に染み入るようなその声に、動揺した心が落ち着いていくのを感じた。
「そ、そうよね。これが、違法なものだなんて、まだ決まったわけじゃないし」
震える声で、独り言のようにつぶやいた理奈子に反応し、女の声はさらに穏やかな声音で話し続け、理奈子を励ました。
「そうよ。理奈子ちゃんは偉いから、やめようと思えばすぐやめられるわよ。大丈夫よ」
いままでのことを、ゆっくりと思い返してみる。純菜とも売人の女とも、いつだって隠語を使い続けていた。ラムネ、紙巻煙草、そして氷砂糖と。一度たりとも、はっきりと確かめたことはなかった。MDMAとも、大麻とも、覚醒剤とも、彼女たちは言わなかった。
理奈子は胸を撫でおろしながら、パケも注射器もポーチにまたしまい込み、少しすっきりした気分でキッチンに向かった。
月が替わり、新学期を迎えた颯太は、プールのためではなく、普段通りに授業を受けるため登校するようになった。相変わらず、薬の副作用により理奈子の体調やメンタルは安定しなかったが、颯太はちゃんと自分なりに宿題を終わらせていた。手がかからない息子だと、理奈子は力ない笑みで颯太を褒めた。
「ドリルも日記も、ちゃんとやってあるか見ないの?」
教材のページを流れ読みするようにめくっていると、そんな母親を訝しげに見上げて颯太が訊ねた。理奈子は笑って答えた。
「大丈夫よ。颯太はしっかりしているから。お母さんも助かるわ」
それは理奈子の本音でもあり、掛け値なしに息子を褒めたつもりでいたが、颯太はどこか寂しい顔をして教科書をランドセルに詰め込んでいった。
それは、純菜から警告を受けて、三、四日ほど過ぎた頃だった。
ある日、理奈子の携帯に知らない電話番号から着信が入っていた。それに気づいたのは、パートの仕事から帰る途中、職場のロッカーから荷物を取り出した時だった。午前と午後にかけ、計二回、同じ電話番号からかかってきている。
アドレスを見ながらチェックしてみたが、非通知でもなければフリーダイヤルでもなく、実家や夫の携帯、夫の勤務先の電話番号でもなかった。
詐欺の電話で、かけ直したら高額な通話料を請求されたら困ると思い、理奈子はそれを放っておいた。ところが、帰宅後、トイレから出てきてスマホをチェックすると、また同じ電話番号からの不在着信が残っていたのだ。
一日に同じ電話番号で何回もかけてくるなど、どういうことだろうか。竜馬からだとしたら普段のアプリからメッセージをくれるのが普通だ。と、そこまで考えたところで、理奈子は急に不安になった。もしや、竜馬から緊急の連絡ではないか。もしくは、竜馬が携帯を触れないような状態、たとえば事故やケガをして彼の勤務先からだとしたら――。
そんな考えが浮かんだ理奈子は、慌ててその着信があった電話番号に折り返しかけた。
だが、かけ直してすぐに、理奈子は後悔の念に苛まれた。
「はい、お電話ありがとうございます、××警察署です」
どこに繋がったのか気づいた理奈子は、はっと驚き、とっさにその通話を切ってしまった。名乗ることも用件を訊ねることもできなかった。
スマホを持ったまま、両手を胸に当てた理奈子は、足の震えに耐え切れなくなり、その場にしゃがみ込んだ。食卓の椅子の背もたれに手をかけ、はやる胸を抑えた。
動転して思考の糸が絡み、もつれる中、理奈子の脳裏にはついこの前、朝早く電話をよこしてきた純菜の声が蘇ってくる。
「ガサ入れがあったのよ! 私がラムネを買ってたサイトが閉鎖したの!」
「わかるでしょ? 警察に嗅ぎつけられたのよっ」
「それだけじゃないの。夫が……私の内縁の夫が、さっき警察から呼び出しくらったのよ」
彼女の言葉をいくら反芻してみたところで、現状がよくなるわけではない。ただ、純菜から伝えられたキーワードを繋げて確実にわかったことがある。
ラムネを販売していたサイトが閉鎖した。その運営者がどうなったかは、推して知るべしだろう。また、警察に嗅ぎつけられ、純菜の内縁の夫だという男が呼び出された。任意同行、だったのか、それとも半強制的な出頭命令だったのか。
もし仮に純菜と「ラムネ」と呼び合っていたものが、やはりMDMA、いわゆる合成麻薬だったとしたら。理奈子が純菜から買った「紙巻煙草」が、大麻だったとしたら。
初犯とは言え、それは間違いなく、理奈子は違法薬物を所持・使用をしていたことになる。そして、とうとう警察は理奈子の連絡先、携帯の電話番号まで嗅ぎつけたのだ。
ぶるっと体を震わせ、理奈子は震える指先をスマホの液晶画面に滑らせた。落ち着け、いまはとにかく落ち着いて行動するしかない。自身にそう言い聞かせ、理奈子はついさっき、着信があって折り返した電話番号をコピーして、そのままネットで検索をかけた。
先ほど折り返した電話番号では警察に繋がってしまったが、番号を間違えていただけではないだろうか。一縷の望みをかけ、検索結果を目で追った。
その電話番号は紛れもなく、普段使っている電車の沿線上にある、警察署の窓口の代表番号だった。警察署の電話番号は、だいたいが下四桁「0110」と、百十番を表すものになっているというネット記事を目にして、自身が折り返した番号も確かめてみる。するとまさにその通りで、理奈子の呼吸がさらに乱れた。
理奈子の指は、スマホの画面上でさらに動いた。
こういう時にはどうしたらいいか。似たようなことで悩んでいる人、事件に巻き込まれて相談をしている声がネットに上がっていないものか、検索をかけた。「警察 電話で呼び出し 拒否した場合」などのキーワードで検索をかけると、そこにはいくつかの事象をあげたものと、それについての回答、また、同時に弁護士事務所のHPが次々に結果として表示された。だが、そこに書かれているいくつかのアドバイスは、どれも同じ内容のものだった。
〈警察からの電話による呼び出しは拒否をしてもすぐに逮捕されることはありません。しかし、拒否をすることで逮捕状を請求しやすくなる可能性は高くなります。警察からの電話があった場合、必ずかけ直した方がいいです〉
それらの文章を読み、理奈子は、自身の目の前から光がなくなっていくのを感じた。
いま、警察に折り返してすべてを打ち明ければ、ほぼ間違いなく理奈子は尿検査などをされて逮捕に至るであろう。
このままではまずい。そう思った理奈子は、相談先に思いをめぐらせた。
だが、当然ながらこんなことは夫やマキコ、実家に住む母親にすら相談できるはずもない。蛇の道は蛇とばかりに、理奈子はメッセージが消えるアプリを開き、売人の女のアカウントを探した。スレッドには、次から次へと理奈子からの近況報告と、どう対処したらいいかの相談のメッセージがむなしく表示されたが、当然ながら即レスはなく、すぐに既読にもならなかった。それを待っている余裕は、いまの理奈子にはなかった。
もちろん、純菜にも電話をかけてみたが、何度かけ直しても彼女の携帯はコール音をくり返すばかりで、最終的には「お繋ぎできません」というすげないアナウンスだけが応えるだけだった。
アドレスに並ぶ、いくつかの名前と電話番号を見返しながら、最後の頼みの綱であった「青木竜馬」の番号を表示させる。彼には、迷惑をかけたくなかった。だが、やはり理奈子にとって、最後にすがりつきたい相手、すがりつける相手は、彼しかいなかったのだ。
ところが、発信するために彼の電話番号をタップしようとしたところで、また、長い電話番号からかかってきた。その日、何度も理奈子のスマホにかけてきた、警察署からのものだった。
少し迷ったところで、理奈子は通話ボタンを押した。太い男の声が、落ち着いた口調で自身の名を名乗り、話しかけてきた。
「失礼ですが、三澤理奈子さん、ご本人ですね? 先ほどは折り返しいただいたようですが、すぐ切られましたね」
有無を言わさぬ低い声が、理奈子の心臓をつかんで放さなかった。震える声で、本人だと答えるのが関の山だった。
「なぜ、この電話がかかってきたのか、あなたはご存じですね。先ほど、ご友人の中元純菜さんにも電話をかけましたよね。こちらではすべてわかっています。もちろん、あんたの住所も調べがついている」
理奈子は、ひりつくような喉の渇きと手足や指の震えに耐えながら、電話による男からの尋問に答えていった。答えるしかなかった。
【友人・純菜の証言】
だから、知らないってばー。私はぁー、ただ、お金が欲しかっただけなのっ。違法なものだったなんて全然知らなかったわよ! 何回同じこと言わせんのよー。
もう、刑事さんさー。銃器薬物課のどんだけ偉い人だか知らないけどぉー、私だって被害者なわけ。詐欺に遭ったわけよ、わかる?
え? MDMA? 合成麻薬だったって? だから、それすら知らなかったのよ。ただ、私が買ったサイトには〈ラムネ〉としか書いてなかったんだから。
どこに書いてあるかって? じゃあ、さっき取り上げた私の携帯、返してよ。見せてあげるからさ。まったく、いきなりこんな取り調べ室に連れ込まれて、スマホも取り上げられて私だっていい迷惑よ。ほんとに、理奈子の周りは災難ばっかり。あの子に教えるんじゃなかったわ。
は? 禁煙? えー、こういう部屋では普通、灰皿もあって吸わせてくれるんじゃないの? 何それ、最近は警察すらこんなにケチ臭いの? どこもかしこも禁煙、禁煙って……あー、わかったわよ、いいわよ、後で外で吸うから。うるさいわね。
ほら、私の携帯、返して。いま、見せてあげるわよ。
……ほら、これ! これよ、これ。見てよ、このサイト。ここに大きく《当店では違法な物は一切扱っておりません》って書いてあるじゃない。ね? ね?
これだもの、私だって少しはこのサイトを信用して、ちょっと好奇心で買ってみただけなのよ。え? それじゃどうして履歴が消えるアプリでやりとり始めたかって?
……そ、それはほら、サイトの運営者がそういう方法でしかやりとりしない、取引しないってメッセージ送ってきたからよ。向こうの指示に従ったまでのことよ。
理奈子ー? へっ、あんなの、友達でも何でもないわ。私にとっちゃ、ただの金ヅルよ。
そうねー、まあ、あの手の女が好きって男も多いかもしれないわね。なんとなく男好きのする顔ではあるからね。薄幸美人っていうの? あはは。でも、蓋を開ければなんてことはない、ただのむっつりスケベな淫乱な女よ。カマトトぶっちゃってさー。
年下の男とデキてたんでしょう? 建設業だって? やるわよねー、旦那と息子がいながらガテンの男をたぶらかすなんてさ。
高校時代のこと? あの娘がどんなだったかって? 覚えてねーわよ、そんなもの。
ただ、根暗な感じの目立たないイメージの、そう、辛気臭い女よ。なんていうの、目立たない割には周りのことはしっかり見てるような、小癪な娘だったわ。クラスの中ではおとなしい系の女子たちとは仲が良かったみたいだけど、私たちはだいぶ中心にいるグループだったからぁー、あの娘たちとは付き合う人種が違うってゆーか。
その中でも、理奈子はじーっと人をめっちゃ観察しているようなタイプでぇー、なんかそう、嫌な目をした女よ。男の刑事さんにはわかんないわね、こんなこと。あっは。
目が口ほどに物を云うタイプの女っての? はっ。男って、いつもあーゆー女にばっかりコロっといかされるのよねぇー。ほんと、単純。
……でもねぇ、これは私の勘、そう、女の「勘」でわかっていたのよ。
理奈子みたいな女はね、どんなに頑張ったってひとりで生きていくなんてできないタイプの女だって。
あの手の女は、一度惚れ込むとどんなクズみたいなひどい男でも、そいつがいないとダメになっちゃうタイプよ。年上の旦那がDVでモラハラで、最悪なんでしょう? 本人から聞いて、やっぱりね、って思ったわよ。ふふ。
私の読み通り。あの娘ってば、私の思うつぼでラムネにがっつりハマっちゃってさ。くくっ。そうねー、私としてはぁー、あの娘がお金を落としてくれたらそれでよかったから、どれくらいハマるか試したかったって気持ちもあったわ。
違法ドラッグですって? そんなの知ってたら手を出さなかったわ。ただ、ラブサプリ、つまり精力剤くらいだと思ってただけよ。本当よ?
だからさ、お金になるなら投資話や別のものでもよかったの。もちろん、違法じゃないやつよ。こんなことになるなんて、ほんっと、私こそいい迷惑よ。
でもまあ、理奈子だったら、ドラッグとかそーゆーものにもハマる可能性は高いわ。どんなに意地を張っても、誰かに寄りかからないと生きられないタイプだからねぇー。
男もアルコールもギャンブルも同じ。どれも依存体質には危ない薬よね。
まったく、理奈子もバカな女よ。若い頃にあーんなクソ野郎の見栄や虚勢に憧れて、くっついちゃったのが運の尽きね。あははー。
え? 理奈子の夫との関係? いやだ、刑事さん、ちょ、ちょっとそこまで調べがついてるの? この写真は何かって……な、何よ、これ。ちょっとやめてよ、こんなこと。プライバシーの侵害じゃないのぉ?
わ、わかったわよ。正直に言うから。そうよ、その写真は、私と理奈子の旦那よ。見ればわかるでしょう? ラブホに入っていくところよ。
関係はいつからだって? ふん、何それ。そんなことまで答えなきゃいけないの? あんたたち、本当に最低ね。
そうよ、理奈子の連絡先を突き止めたのは、あの娘の旦那がきっかけよ。
最初に知り合ったのは、私がいつも働いてるクラブだったのよ。ママのお得意さんが連れてきたの。三澤厚男です、って名刺まで渡されてさ。
デカい図体で、お店に来た時点でけっこう飲んでたわね。吐く息がくっさいの。で、お酒が回っていろいろ話をしだしたら、まぁー、てめえの上司そっちのけでペラペラ自分の自慢話ばっかりして。上司の人やママが気を遣ってるのも気づかずに、ずーっと自分の話ばっかりでさ。にっこり笑いながら、うわっ、関わりたくねーの来たって思ってたわ。へっ。
ところが、よ。まさかと思ったわ。店とは関係ないところで、また会ったのよ。あの男に。
ねぇ、刑事さん。人の縁って本当に不思議よねー。私も、自分の身にこんなチャンスが転がり込んでくるとは思わなかったもの。
ふん。もう、あんたたちだっていろいろ調べてわかってるんでしょう?
そうよ。私、大久保とか池袋とか、たまに新橋なんかで売ってるの。立ちんぼよ、わかるでしょう? 本当、それもたまによ? 当たり前じゃない、ママになんか言わないでよね! バレたら怒られるに決まってるじゃない。
あれは……新宿から大久保あたりだったか。夜、いつもみたいにちょっとだけ露出度の高い服を着て立ってたのよ。道端にいてさ。暗がりだったから、すぐにはわかんなかったのよ。遠くから、のっそり歩いてきたサラリーマンがいて。
たいして酔ってはいなかったわね。ただ、いかにも一日の仕事に疲れ果てたような雰囲気だったから、これは食いつくかもしれないと思って。私、張り切って声をかけたのよ。そうしたら、いきなり私のこと、店の源氏名で呼びやがったの。
飛び上がるほどびっくりしたわよ。まさか、そこにあの自慢話野郎がいるなんてさ、誰だって思いもしないじゃない。
やべっと思って、そそくさと逃げようとしたら、背後から肩をつかまれて、あの男、変に優しい声で話しかけてきたのよ。
「言わないよ。君のお店のママには、言わないから」
私もさ、別に無視して行っちゃえばよかったんだけど。その時のあいつ、ずいぶんと神妙な顔をして、私の目をじっと見るのよ。それで、どうするかと思ったらさ、私にいくらだって訊いてくるの。マジ、シャレになんないわよね。
でも、しょうがないから、私も正直に言ったわ。本番で三万円だって。そうしたらあの男、真面目くさった顔でてめぇの財布から一万円札を三枚出すじゃない? びっくりして、声も出なかったわよ。
なんとなく、こいつだったら悪くないかって、直感が働いたのよ。それ以来よ。あの男と何度かこっそりホテルに行くようになったのは。
一回、密会をするたびに二、三万円。まあ、悪くはない条件よね。ベッドではあきれるほどへったくそだったけど、割のいい仕事だった。ひと晩、道端で突っ立っているよりもはるかに楽じゃない? もっとも、それも月に一、二回くらいの頻度で、たまに金額を値切ってきやがったし、結局、あの男もそこらのケチなサラリーマンと変わらなかったわ。
でも、それ以上に、私にとっては収穫があったのよ。あの男ったらさ、機嫌がいいと自分の自慢話ばっかりするわけよ。そうしたら、こっちが訊いてもいないこと、ぺらぺらよくしゃべってくるのよー、ベッドの中とかお風呂に入りながらとか。
「君には申し訳ないんだけど、ぼくには立派な妻とかわいい息子がいるんだ。ぼくの奥さんは、それはよくできた人でさ。小学生の息子も、やんちゃだけどかわいくてさ……」
笑っちゃうでしょ? 散々理奈子や子供に暴力・モラハラしていながら、いったいどの口が言えるのよって。あっは。いま思い返すだけでも、ほーんと、バカな父親、バカな夫婦、バカな家族よねー。泣ける話だわー、はははー。
散々、頼んでもいない自分の家族の自慢話をくり返した挙句、奥さんや息子の名前を訊ねたら、待ってましたとばかりに名前も教えてくれちゃってさ。スマホに保存した一家の記念写真まで見せてくれたの。確か、息子の小学校の入学式で撮ったやつだったわ。
奥様の顔を見て、名前を聞いて、私がどれだけ驚いたことか。はっ。カモがネギをしょってきたのよ。これほどのチャンス、ないじゃない?
そこから理奈子の連絡先を入手するのなんて、あっという間だったわ。
その時はもう、二度、三度会っていたから、向こうも油断してたのよ。あのクソ男がシャワーを浴びている隙に、彼のスマホをちょちょっといじったら、すぐに理奈子の携帯の電話番号やメッセージアプリのアカウントも見つけられた。
理奈子に接触しようと決めたのは、そこからよ。
は? 写真? 何よ、この写真。見覚えがないかって?
あ……し、知らない。知らないわよ、こんな男。
え? 私との関係を吐いたって?
え、い、いや、そんな……あ、あー、思い出したわ、なんとなく。ひと昔前、たまに会ってただけの男よ。出会い系サイトかなんかで会った。一獲千金で楽をさせてやるとか言っちゃってさー、付きまとわれてひどかったわ。
え、私の内縁の夫だって? 本人が言ってる?
じょ、冗談じゃないわよ。私がなんで、こんな文無し野郎のヤク中と……あ、じゃなかった。ううん、何でもないわ。本当よ、こんな男なんて知らないわ。
はぁ? 押収された? 大量の大麻の苗と現金が自宅から、って……あいつ、ヘマしやがって。あれだけ気をつけろって……え、い、いや、何でもないわ。
何でもないったら、何も言ってないわよ!
……だ、だってしょうがないじゃない!
実家の兄貴が、仕事の都合だとかなんとか言って、信じられないくらいの多額な借金を作ってとんずら。私、いつの間にか、連帯保証人にさせられて。困った顔でよくわからない書類に名前を書かされたの。まさか、こんなことになるなんて。
だから、私なりにどうやって返済できるか考えて考えて、考え続けて、働いたのよ。
ずっと夢だった。おしゃれでかわいいレストランを出すのが、私の夢だったのよ。それなのに、パンデミックだとか感染症の拡大だとかで、飲食店が軒並み閉店させられて、私が下積みで働いていたところも店をたたんじゃって。
まともな就職ですって? 冗談じゃないわ! 散々探したわよ! でも飲食店で働き口なんてなかったし、この歳だし、職種を選ばずに探しても結局続かなくて。
ぬくぬく生きて、他人の失敗や不始末を嗅ぎまわってるだけの、あんたたちに私たちの苦労なんてわかんないわよ!
違法だろうとなんだろうと、世の中、金、金、金よ。金がなければ夢も買えやしないのよ。ふざけんじゃないわよ! どうして私だけこんな目に合わなきゃいけないのよ!
理奈子の旦那に脅迫? そ、それは違うわ! 私がけしかけたんじゃない。あいつが、あの男が言い出したのよ。理奈子の旦那を私がたぶらかして、いろいろ聞き出して、あいつが理奈子の依存症のこと、旦那にチラつかせれば、きっとまとまった金が入るって言うから。だから、私は渋々……。
シャブの件だってそうよ。売人が理奈子のことを譲ってくれたら紹介料を払ってやるっていうから、それであの娘のことを紹介してやったのよ。そうしたらあのプッシャーのババア、一円も出さないで逃げやがって!
ねぇ、刑事さん、信じてよ! 私は騙されただけなのっ。被害者なの! 何も知らないったら。ねぇ!
9
警察からかかってきた電話で、刑事だという男と通話を終えてすぐ、理奈子はかけ損ねていた電話番号をタップした。向こうが出るかどうかはわからない。もしかしたら仕事中かもしれないというのに、なぜか、その時の理奈子には必ず繋がるという確信があった。
ほどなくして、数コールの後、電話は繋がった。
「もしもし、竜馬君? いま、仕事かな。実はお願いしたいことがあるの」
電話で少し話せるか確かめてから、理奈子は彼にいくつか質問して、頼み事を伝えた。
「竜馬君って、運転免許証は持ってる、よね?」
当たり前じゃないか、と屈託ない声で彼は答えた。その朗らかな声を聞き、理奈子は胸がいっぱいになるような安心感を覚えた。
「持っていなけりゃ仕事にならないよ。重い荷物、鉄骨やら塗料やら工具とかを運ぶのに、移動はだいたい軽トラに載せないと手も足も出ないからね」
それを聞いた理奈子は、思い切って頼み込んだ。
「そうよね。それなら、竜馬君。私の一生で一度の願い、聞いてほしいの」
「大袈裟だな。どうしたの、理奈子さん」
「実はね……実は明日、うちにある車で、一緒にドライブに行ってほしいの」
「え? 理奈子さんのうちの車? それってつまり、その……旦那さんの車で?」
明らかに戸惑っている竜馬の様子に、理奈子は屈することなく頼み込んだ。だが、当然ながら理奈子からの予期せぬ頼み事に竜馬は逡巡していた。
「だって、いいの? そんなこと。旦那さんの車でしょう? もちろん、旦那さんには許可もらっていないんでしょ? いくらなんでも勝手に乗り回したらまずいでしょう。それに、明日は平日だよ。俺は仕事だし、理奈子さんも仕事でしょう?」
突拍子もない理奈子からの希望に、竜馬はさすがに気が引けているようだった。
だが、理奈子はたたみかけるように懇願し続けた。
「竜馬君、お願いなの。理由は明日の朝、会ってから話すわ。明日しかないの。もし明日、会えなかったら……私たち、もう一生、会えないかもしれないの」
真剣な理奈子の声、泣きそうになっているその震えた声で、理奈子の気持ちが通じたものか、電話の向こうで竜馬がしばらく黙り込んだ。
やがて落ち着いた声で、彼は答えた。
「……わかった。いいよ。俺、明日、休みを取るから」
明日、理奈子が希望する時間にそっちに行けばいいかと確かめる彼の声を聞き、理奈子は、自身の胸に輝かしい太陽の光が差し込んでくるような気持ちになった。
通話が終わってすぐに、理奈子は大急ぎで荷物をまとめ始めた。
どのくらいの期間になるかはわからないが、夫とはもちろん、離れて暮らす母や弟、そして颯太とも、しばらく距離を置いて暮らさなければならない。当然、仕事は長期で休むか、最悪の場合、辞めるしかない。
そして、警察の捜査の手から逃れなければ。せめて尿から氷砂糖、いや、シャブの陽性反応が出なくなるまで。
ひとまず自宅にある現金をかき集め、一家の貯蓄としていた銀行口座の手帳・印鑑を取り出す。一、二週間ほどは何かと過ごせるくらいの着替えや下着、乾き物や缶詰の食料品の類をいくつか、旅行用の大きなバッグに詰め込んだ。新婚旅行でグアムに行った時に使ったボストンを、まさかこんなことに使うとは当時予想もしていなかった。まだ優しかった夫と、新たな人生を歩んでいけると胸を弾ませていた、あの頃。当時をふり返っていると自然と涙があふれてきそうになったが、いまの理奈子に泣いている暇はなかった。
荷物をまとめていると、様々な記憶が蘇ってくる。そういえば、ひと昔前に同じような状況に陥り、逃走を図った女優がいた。彼女は結局、逃げ切ることをあきらめ、自ら警察署に出頭したのだ。自首した挙句、覚醒剤の所持・使用で逮捕となったあの事件は、日本中が上を下への大騒ぎとなった。
まさか、自分が同じような憂き目に遭うなど、思いもしなかった。あの時、あの女優もこんな気持ちで追い詰められたのだろうか。他人事のようにニュース速報を眺めていた自分が、まるで昨日のことのように感じられて、理奈子はひたすら唇を噛みしめた。
「あなたのご友人、中元純菜さんの件でお話をうかがいたいです。それと、同業者で覚醒剤取締法違反の疑いがある女がいて、その人物についてもお聞かせ願いたい。後日、署まで来てください」
刑事の男は、有無を言わせぬ強い口調でそう言った。拒否することなど、一切許しはしないという圧の強さだった。
警察は、どこまで理奈子たちのことを調べ上げているのだろうか。話をしている間、理奈子の心拍数は激しくずっと跳ね上がっていた。
知りません、何も知りませんと言いたかったが、それは許されない状況だった。このまま電話口でやりとりするだけでは通用しない。そう感じた理奈子は、すぐに新たな一手を思いついた。
時間を稼ごう。少しでも時間を稼いで、尿や毛根、血液からも陽性反応が出ない状態にするしかない、と。
早い方がいいと言われ、明日、署まで来られないかと問われた。しかし、理奈子は土日か週明けにしてほしいと懇願した。
事情聴取を先延ばしにすることを避けたがっているのは、男の渋い口調からすぐにわかった。観念したふりを装う声は、意外なほどするっと理奈子の口から漏れた。
「逃げるようなことはしません。ただ、こちらにも都合があるし、家族にもきちんと話しておきたいので」
毅然とした態度を装ってみせた。
たちまち、幻聴の声たちが理奈子の耳元で愉快そうに囁き始めた。
「うわー、理奈子ちゃん。芝居お上手ー」
「名女優だねー、あっはっは」
「刑事さーん、こいつ、嘘つきでーす」
送話口から相手に嘲笑が漏れ聞こえてしまうと思い、何度もスマホの下部を手で覆ったり口元から遠ざけたりして、理奈子は苛立ちながら通話を乗り切った。
結局、理奈子は週明けの月曜日、正午に指定された警察署に向かうという約束をさせられ、話は終わった。だが、もちろん理奈子はその約束、指示に従うつもりはなかった。あとは、竜馬がどこまで理奈子に協力してくれるかだけが鍵だった。
刑事と話している間も、大急ぎで荷物をまとめている間も、幻聴・幻覚は不意打ちで理奈子の聴覚や視覚に襲いかかってきた。
耳元では終始何者かが囁きかけてくるし、窓や家具の隙間から、得体の知れない誰かがじっと覗き見ているような視線を感じた。それらの見えない敵たちは、何かストレスがかかった時に現れるようだった。
だから、いよいよこれまでかと決意し、未使用の注射器をペンチで細かくへし折り粉砕したものと、薬の粉末をパケからこぼして、すべてトイレで流した時こそ、不気味な声たちはとりわけひどくなった。
「あー! やりやがった、このシャブ女! 最低!」
「あらららー、理奈子ちゃん、シャブ捨てちゃった」
「おい、シャブ女! てめぇ、ふざけんな、シャブ女!」
耳を塞いでもくり返し聞こえてくる揶揄と嘲笑、罵声の数々を振り切り、理奈子は逃走の準備を続けた。
滑車の付いたスーツケースと大きなボストンバッグを傍らに置き、ダイニングテーブルの脇で理奈子は膝を抱えてうずくまった。
いま、こうしている間にも、警察たちが近隣の住民たちと協力・結託し合って自宅を取り囲んでいるのではないか。もしかしたら夫やマキコたちはグルだったのではないか。理奈子の違法行為が警察にバレていたとしたら、高性能な隠しカメラや盗聴器がいまもこの家のどこかに――。
なかなか鎮まらない幻聴と幻覚、妄想と猜疑心に苛まれ、理奈子は様々な苦痛・苦悩に耐えていた。
明日の早い時間に竜馬が来てくれるとして、それまでの間、つまり今夜ひと晩を乗り切ることが果たしてできるだろうか。
と、その時、玄関先からドアを開ける音がした。警察の関係者か彼らのスパイが忍び込んだのではないかと、はっと顔を上げ、理奈子は身構えた。だが、小さな足音を立てて近づき、顔を見せたのはランドセルを背負った颯太だった。
いつもと変わらぬ息子の顔を見て、理奈子はかすかにほっとした。
まさか、息子のランドセルにカメラや盗聴器、発信機などが仕掛けてあるのではないかと勘繰ったが、駆け寄ってくる颯太の無垢な顔を見て、さすがにそれはないかと考え直した。
颯太は、理奈子の傍らにある大きな荷物を不思議そうに見て、母親に訊ねた。
「ただいま。この荷物、どうしたの?」
訝しげな息子の問いかけに、理奈子は口ごもる。なんと説明したらいいだろうかとためらっていると、思いついたように颯太は話を変えた。
「そうだ。今日ね、ぼくの夏休みの宿題のことで、担任の先生がお母さんと一緒に学校に来てほしいって」
え、と小さな声を上げた母親の顔を見返し、神妙な顔で颯太はうなずいた。
「みんなじゃないの。先生が、これをおうちの人に渡してくださいって」
そう言って、颯太は薄い茶封筒を理奈子に手渡した。その中には白い便箋で手紙がしたためられ、丁寧なボールペンの黒文字で、颯太と共に親子同伴で学校に来てほしいという旨が書かれていた。
その中の一文を読んで、理奈子は目をみはった。
『颯太君が書いた日記の内容で、いくつかうかがいたいお話がございます』
日記。理奈子はそれが自身の盲点だったのではないかと疑った。颯太は、いったい日記に何と書いたのだろうか。考えてみれば、夏休みの間も新学期が始まる直前ですらも、理奈子は颯太がやった宿題などきちんと目を通すこともしなかった。当然、日記の内容など知るわけがない。それだけのことがとても悔やまれた。
理奈子の想像、もとい、妄想は加速していった。
そうか、学校はこうやって生徒の母親を貶めようとしているのか。子供たちをスパイのように教育し、各家庭の事情を日記などに記録をさせ、その家の内部事情を探っているのだ。理奈子の薬物使用についても、こういった手口で警察にバレてしまったのだろう。
なんて汚い手だろうか。憤慨し怒りで奥歯を噛みしめた理奈子は、手紙と茶封筒を震える片手で力の限りひねり潰した。くしゃくしゃになっていく手紙と、母親の無言の怒りを目の当たりにして、今度は颯太が声もなく目を見開いた。
「お、お母さん、どうしたの?」
怯えた声で母親に訊ねた颯太を見上げ、理奈子はぎこちなく笑ってみせた。そして、何でもないと言って颯太の肩を両手で抱き寄せ、あたかもいま思い出したことのように、息子に問いかけた。
「そうだ。この荷物のことだけどね。明日、お母さん、ちょっと埼玉に行こうと思ってるの。お母さんの実家に。颯太も一緒に、おばあちゃんに逢いにいかない?」
降って湧いた母親からの提案に、明らかに息子は戸惑っているようだった。
「え、だって、明日は普通に学校だよ。土日だったら大丈夫かもしれないけど」
なぜいきなり、このタイミングで母親が実家に行こうと言い出したのか。何か用事があってのことなのか。お父さんも一緒なのか。また、お父さんも知っていることなのか。息子の瞳には、たくさんの疑問が湧いているようだったが、理奈子はそれを笑顔で一蹴した。
「大丈夫よ。学校の先生には、お母さんがちゃんと説明しておくし。それに、お父さんはお仕事でどうしても行かれないから。あ、あと、これはもちろん、お父さんにも内緒よ」
すかさず、颯太は硬い表情で母親に訊ねた。
「どうして? どうしてお父さんには内緒なの?」
「どうしてもよ。お父さんはほら、お仕事で忙しいから」
いつになく抵抗し始めた息子を前に、内心、いささか焦りながらも理奈子は笑顔で説得し続けた。大人びた顔の颯太の眼差しに、理奈子の神経がちくりと逆撫でされた。
「だって、そんなの、おかしくない?」
「そんなことないわ。おかしくないわよ」
「だって、おかしいよ……内緒でおばあちゃんとこに行くなんて。しかも、学校をずる休みするなんて。そういうのは、ちょっと……お父さんだって」
口を尖らせ、なおも反論し始めた息子に理奈子はかすかな苛立ちを覚えた。
「ちょっと、って? お父さんだって、って何? お父さんが?」
問いただそうとする母親に対し、うつむきがちに言葉を濁してしまう息子の両肩を、理奈子は軽く揺さぶった。そして、はっきり言ってごらんなさい、と少し強い口調で問いかけた。すると、すべてをあきらめたかのように眉間にシワを寄せ、颯太はつぶやいた。
「だって、だって……そんなの、お父さんだって、かわいそうだよ」
そのひと言が、引鉄となった。理奈子の右手が、勢いよく颯太の頬を打った。
「何がかわいそうなのよ! あんな男の、あんなクソ野郎の何がかわいそうなの? あんたに何がわかるのよ! かわいそうなのは私の方よ!」
溜まっていた言葉が、怒りの弾丸となって理奈子の口から発射された。それ以上、理奈子は耐えられなかった。
左の頬だけ赤くなった颯太は、堰を切ったように泣き出した。
ごめんなさい、と、だっておかしいもん、を連呼しながら、その場にしゃがみ込んで颯太は声を上げて泣き始めた。そんな息子を見下ろしながら、しばらくは怒りの言葉と罵声を浴びせ続けていた理奈子だったが、怒鳴り散らしているうちに、理奈子は自身の過ちに気づき始めた。罵声を浴びせる相手が、完全に間違っていると。だが、どう考えてもすべてが手遅れの状況だった。
泣きじゃくる息子のことを抱きしめながら、我慢できずに、今度は理奈子が泣き始めた。いくら謝っても足りないくらいの謝罪の言葉をくり返しながら。
どれくらいの時間、親子はそうやって抱擁と号泣を続けていただろうか。気づくと窓の外は夕焼けに染まり、遠くから一七時半の報せ、子供たちの帰宅をうながす音楽が流れ始めていた。
しばらくして親子共に泣き止んだあと、理奈子は颯太の額に、自身の額を軽く押し当てた。母も息子も、その額は風邪を引いたかのように熱かった。
「颯太。お母さんの、一生のお願いなの。明日、一緒に埼玉に行こう。お母さんの実家に行って、おばあちゃんに会おう」
かすれた声で説得する理奈子に対し、颯太は何も言わず、かすかにうなずいた。
抱き合って二人で泣き続けていた間、理奈子の周囲ではまた親子を揶揄する声や嘲笑が続いていた。そして息子の颯太のことすら、かわいそうな息子だ、憐れな奴だなどと、あざけ嗤う声が時折聞こえてきたが、理奈子は奥歯を必死に食いしばって憤怒に耐えた。
いま、ようやく声たちは落ち着いたようだった。
理奈子は、涙でつっぱった顔を服の袖で拭い、泣き疲れた体を起こしながら、颯太のことも立ち上がらせた。そして、重い足取りでキッチンに向かい、夕食の支度に取りかかった。
出勤する夫を見送ったあと、理奈子は庭に面した窓を開けた。そして、軒先の片隅にある室外機に向かって声をかけた。
「颯太。もういいよ、出てきて」
室外機の陰から、ずっとしゃがみ込んで父親が外出するまで待たされ、ランドセルを背負った颯太がひょいと姿を現した。颯太は、そのまま庭に面した窓から脱いだ靴を持って自宅のリビングに入ってきた。ここまで、理奈子の計画通りに事は進んだ。
昨日の夕食から、今朝の朝食まで、理奈子は刻んだ野菜と卵焼き、スーパーで買った出来合いの惣菜で済ませた。半年前まで、きちんと下拵えまで必要とする料理を作っていた理奈子だったが、いまは味噌汁に至るまで、チューブからひねり出してお湯を注ぐだけで出来る簡略化されたもので間に合わせた。
そんなあり合わせの料理など、以前までは声を荒げて文句を言っていた夫も、何か理奈子の心情の変化を察したものか、何も言わず、それらの献立を黙々と食べていた。
食事が終わってからも、夜、眠るまで、また起きて出勤するまでの間も、夫は理奈子にも息子にも必要最低限のことしか言わず、家族の間には冷やかな時間だけが過ぎていった。
時折、理奈子と目が合うと、夫は何か言いたげな思いつめた表情を見せたが、結局、何も言い出せないようで、何かをあきらめたような、どこか理奈子を恐れているような顔つきで、沈黙して過ごすだけだった。
時刻はいま、朝の八時五分。理奈子が勤めている総菜屋が九時始業で、その十分ほど前には、その日の勤務スタッフがだいたい全員揃うように定められていた。だが、今日、不届きながら理奈子は無断欠勤することを心に決めていた。また、必然的に昨日が最終出勤日となるだろうという覚悟も決めていた。
颯太には、普段通りに登校するふりをさせ、そのまま室外機の脇にでも隠れておくよう、事前に言い聞かせておいた。そして、夫が出勤したのをしっかり見届けてから、理奈子は我が子を室内に招き入れた。
あとは、予定通りの時刻に竜馬が三澤家を訪れてくれること。できれば九時を迎える前に、夫の車を竜馬に運転してもらい、息子を連れてこの家から出ていくこと。それさえできれば、何とかなるだろうと理奈子は確信していた。
しかし、約束した八時十分を過ぎても、自宅のチャイムは鳴らなかった。理奈子は、じりじりと待ちわびて、ひたすら竜馬からの連絡を待った。八時十五分。とうとう耐え切れなくなり、メッセージアプリのアイコンをタップして竜馬とのスレッドを開いた。
と、ちょうどその時、竜馬からのメッセージが届いた。
『おはよう。理奈子さん、ごめん。電車が遅延してちょっと遅れた。いま駅に着いたから、急いで向かうね』
メッセージを読んで、理奈子は深い安堵のため息をこぼした。
それから七、八分ほど過ぎたところで、三澤家のチャイムが鳴った。
「本当にいいんだね?」
車のエンジン音がかかり、それと同時に、竜馬はバックミラーを覗く。彼の真剣な眼差しが、後部座席に座った理奈子の視線とぶつかった。射貫くような竜馬の瞳をじっと見つめ返し、理奈子は深呼吸をしながら、一度だけゆっくりとうなずいた。
三、四十分ほど前、息を切らした竜馬が三澤家に到着した。
玄関のドアを開けた時、彼は一瞬だけ微笑を浮かべたが、理奈子の顔を見て、すぐにその笑みを引っ込めた。理奈子はよほど思いつめた顔をしていたのだろう。普段とは明らかに違う緊張感と物々しい空気に、彼はすぐに気づいたようだった。
大事な話があるとだけ伝え、理奈子は彼を招き入れた。そして、ダイニングの普段は颯太が座っている椅子に座らせた。
いきなり自宅を訪れ、母親から紹介された見ず知らずの金髪の青年を見上げ、颯太ははじめ目を丸くして驚いた様子だった。しかし、理奈子がお母さんのお友達よ、とだけ伝えると、上目遣いで黙ったまま、ほんの少し会釈をした。
初めて会った理奈子の息子を見て、竜馬の方もいささかたじろいだようだったが、すぐに口元をほころばせ、颯太に挨拶をして軽くその頭を撫でた。
竜馬と話している間、理奈子は颯太に玄関先で待っているようにとだけ伝えた。
タイムリミットまで、およそ三十分にも満たない中、理奈子は竜馬に自身が置かれた現状について、手短ながらもすべてを打ち明け、説明して聞かせた。また、今日、この自宅にわざわざ竜馬を招いた理由と、この先、どうしていきたいかも正直に伝えた。体内からの薬抜きと断薬のために、ひとまず実家に颯太を預けておきたいことも。
ひと通り理奈子の話を聞き終えた竜馬は、うつむき、黙り込んだ。
「無理だったら、正直に言って」
椅子の背もたれに身を預け、苦笑いをしながら理奈子は続けた。
「正直、竜馬君に迷惑をかけていることは、わかっているのよ。これ以上、迷惑をかけちゃいけないってこともね。別にあなたのことを、試しているわけでも、何でもないの」
硬い表情でうつむいたまま、沈黙を続ける竜馬を前に、理奈子は少し砕けた口調で、それも薄笑いを交えて話し続けた。そうやって、ふざけたように笑っていなければ、とてもできない話だった。
「ダメだよね、こんなこと。ほんと、私、自分自身がダメなことしてるって、わかってるよ。充分わかっているから。だから、竜馬君が嫌だって言うなら、無理にお願いはしないし、このまま帰ってくれていいの。もちろん、警察とか他の誰かに言っても構わない。それが、竜馬君が正しいって思うことなら、それに従うまでだから」
石になったように身じろぎもせず、何も言わない竜馬に対し、自嘲気味に、苦笑いをしながら話を続ける理奈子だったが、そのふざけた話し方にもそろそろ限界が近づいていた。
「私は、竜馬君が協力できないって言っても、ほんと、それでも全然構わないし、平気だから。ただ……ただね。それなら何で、わざわざうちまで竜馬君のこと、呼んじゃったのかなあって思ったらね」
やっぱり、好きだから、と言いかけた理奈子の声が、涙に震えながら崩れ、かすれ、そのまま嗚咽に変わっていった。斜向かいに座っていた竜馬が、その時初めて、理奈子の両手を自身の両手で包み、その流れで理奈子の肩を強く抱き寄せた。
「いいよ。俺、理奈子さんの言う通りにするから」
大丈夫、泣かないでいいから、と竜馬もかすれた声で洟をすすり上げ、少しの間、理奈子の肩を抱きしめていた。そして、まだ泣きじゃくる理奈子を立ち上がらせると、竜馬は励ましの言葉をかけながら、早く出る準備をしようと理奈子を急き立てた。
竜馬に肩を抱かれて立ち上がった理奈子の脳裏に、昨日の自分と颯太の姿が重なった。
「行こう。旦那さんの車のキー、貸して」
荷物はまとめてあるんでしょう、と問う竜馬に、玄関先に置いた物がすべてだと答えた。
自宅を出る間際、理奈子の携帯が鳴った。それは電話の着信音で、スマホの画面に表示された発信者名と番号を見ると、職場の勤怠連絡用の携帯からだった。時刻は、あと五分で九時を迎えるところで、ちょうどタイムアップを報せるかのようだった。
理奈子は、震え続ける自分の携帯をダイニングテーブルに放置したまま、颯太を連れて荷物を担ぐ竜馬と三人で家を出た。
車を走らせ始め、本通りに差しかかったところで、理奈子は運転席の竜馬に携帯を貸してほしいと頼んだ。
手渡されたスマホの液晶画面にキーパッドを表示させ、理奈子はそこに、実家の固定の電話番号を打ち込んで発信した。
数コールの後、のんびりとした女の声が、理奈子の旧姓を名乗った。
久々に聞く実母の声は、どこか前よりも年老いたような印象を受けた。手短に挨拶を済ませた理奈子は、さっそく本題を切り出した。
「お母さん、お願いがあるの。今日、これからそっちに行っていい?」
「何よ、どうしたの、急に」
少し驚いた様子だったが、今日の母は少しばかり機嫌がいいのか、その口調は理奈子のことを歓迎しているようにも聞こえた。その雰囲気に乗じて、理奈子は話を続ける。
「実は、颯太のこと、ちょっとの間だけ、そっちで預かってほしいの」
それを聞き、電話の向こうで母がうろたえた。また、それと同時に、隣に座っていた息子が顔を上げ、理奈子のことをじっと見つめてきた。痛いほどの強い視線を、ひりひりと横顔に感じる。
「そんな……それはちょっと。そんなこと急に言われても困るわよ」
藪から棒に子守を依頼され、母は明らかに動揺している。
「お母さん、お願い。とりあえずいまから、颯太を連れてそっちに行くから」
こっちにも都合がある、無理に決まっているでしょう、と母は不満の声を上げ始めた。だが、理奈子は一歩も引かない半ば強気な口調で、息子を預かってほしいと頼み込んだ。
「ど、どうしちゃったのよ。そんな、急に」
あまりにも張りつめた声で話す娘の口調に怯んだものか、母の声が弱腰になったところで、理奈子はさらにたたみかける。理由は後で話すとだけ伝え、ひとまずこの後、実家を訪ねることだけ伝え、理奈子は電話を切った。
車は一路、北の方角へと向かっていた。
荒川を超えて埼玉に入り、その県境からさほど離れていない町に理奈子の実家はあった。
移動中、うつむきがちに自分の膝をじっと見つめている息子に、理奈子は何度も話しかけた。それも、最近は学校でどんなことがあったかとか、友達とは仲良くやっているかとか、お母さんが戻ってきた時、迎えに来た時は何か美味しい物を食べようとか、少しでも颯太が喜びそうな話題を振ってみたが、彼は母親と一度も目を合わせようとはせず、時折、ぎこちない苦笑いを見せるだけだった。
かすかに気まずい空気が流れる中、何度か理奈子の耳に、例の嘲笑する声が聞こえる時もあったが、不思議と颯太の頭を撫でるとその声は遠ざかった。
夫の車は、フロントガラス以外はマジックミラーになっており、外側から後部座席の様子はほぼ見えないようになっている。実家が近づいてくるまでの間、たまに理奈子は片側の窓に額を押し付け、ぼんやりと変化していく景色を眺めていた。
しばらく見ないうちに、理奈子が昔住んでいた町にも変化があり、潰れた店や建物が取り壊されて更地になった場所もあったが、そこに息づく人々の空気、町の雰囲気だけは変わりなくそこに残っていた。
子供の頃、よく遊んでいた公園の近くに差しかかったところで、車をそのすぐそばに停めてもらいたいと理奈子は竜馬に頼んだ。公園を囲むようにほどよく植樹された木々の陰、あまり人目につかない位置に車を停め、竜馬は一旦、エンジンを切る。
静かになった車内で、理奈子はあらかじめまとめておいた颯太の着替えや下着を大きな荷物から取り出し、大型スーパーのショッピング用バッグに詰め込んだ。そして、息子に持たせる荷物がまとまったところで、理奈子は颯太の両肩をこちらに向かせ、息子を正面から見つめた。怯えとも悲哀ともつかない寂しい二つの瞳が、理奈子を見上げていた。
込み上げてくる想いを、そのまま息子に伝えた。
「よく聞いて、颯太。これから、颯太にはお母さんの実家でしばらくおばあちゃんと過ごしてほしいの。お母さんは、ちょっと用事があって出かけなくちゃいけないから。それまで、いい子にして待っていてね」
諭すように優しく話しかけたつもりだが、颯太は笑顔を浮かべることもなく、ただ、瞳を潤ませて何かに怯えたような顔をしていた。息子が直面している気持ちが痛いほど伝わってきて、理奈子の胸は絞めつけられた。
颯太はすべてわかっていたし、とうに気づいてもいた。これが自分の母親といられる最後の時間かもしれないと。
その証拠に、いい子にして待っていて、と何度も言い聞かせる母親に対し、息子は唇を噛みしめ、目に涙を溜めて、理奈子の瞳をじっと見つめ返し、かすかに首を横に振った。それだけが自分自身にできる、必死の抵抗であり抗議の意思表示だったから。
「お願いよ、颯太。それから、これも言っておきたいことだから、よく覚えておいてほしいの。お母さんは、颯太にとって、たぶん、ひどいお母さんだったかもしれない。こんな偉そうなこと、お母さんは言えないと思うけど、それでもやっぱり大事なことだから、言っておきたいの」
唇を尖らせた颯太の瞳から、重さに耐え切れなくなった涙がほろほろと伝い落ち、彼の頬を濡らしていった。
「あなたはこれから先、絶対に自分が選んだ道を進みなさい。そして自分が正しいと思った道を進むのよ。あなたの人生は、お父さんやお母さんのものでも、他の誰のものでもない。あなただけのものなの。その代わり、どんな結果になっても、あなた自身がそれを受け止めて責任を取るの」
理奈子は息子の手を自身の両手でにぎりしめ、静かに泣き出した颯太に対しさらに話し続けた。
「親が言っていることはね、必ずしも正しいとは限らないの。みんな、親とか先生とかの言うことをよく聞きなさいって言うけど、大人になっても親になっても、間違えていることはたくさんあるの。だから、お父さんやお母さんが言うことを、必ずしも聞く必要なんてないの。颯太が好きな道を、正しいと思った道を選べばいいの」
覚えておいてね、と言い切った理奈子を見つめ、泣きじゃくり始めた颯太は、まだ首を横に振る。そして、嗚咽混じりに静かに抗議した。
「わからない……お母さんが言ってる、こと……わからないよ。よく聞けって言ったり、聞くなって言ったり……わからないよ」
颯太の反論に核心を突かれ、理奈子は一瞬、言葉を失った。まだ何か言い直して、息子を説得しようと試みかけたが何も反論できず、泣き笑いするしかなかった。
「そうだね、矛盾してるね。お母さんにも、わからないよ……ごめんね」
涙の抗議で、あえなく息子から論破された理奈子に、今度は颯太が訊ねた。すすり泣き、しゃくり上げながら、颯太は思い切った様子で、ずっと胸に抱いていた自身の疑問を母親にぶつけた。
「お母さんはさ……病気、なんじゃないの? 何の病気、なの? ぼく、ぼく、知ってるよ。いつも、かくれて、注射してたの、知ってるから」
思いがけない息子からの問いかけに、理奈子は息を飲んだ。そして、身を震わせながら彼の肩を抱き寄せ、強く、きつく抱きしめ続けた。そして息子の肩に顔を押し付け、理奈子は声を押し殺して泣いた。
颯太の言葉は、さらに母親の心に突き刺さった。
「ぼく、ぼく……おばあちゃんの家に、行きたく、ない。お母さんと、お父さんと、一緒にいたい。お、お母さんに、ぶたれてもいいからさ。がまん、するから。ずっと、ずっと、お母さんやお父さんと……いっしょにいたい」
涙が止まらなくなった理奈子の脳裏に、いままでの自身の過ちが蘇った。
そう。息子の颯太に手を挙げていたのは、躾や教育という言葉にすり替え、我が子に暴力を振るってしまっていたのは、夫だけではなかった。
颯太の頬を叩いたのは、昨日が初めてではなかった。
食べ物をこぼした拍子に、カッとなって息子の手を強く叩いたこともあれば、些細な嘘をつかれたことで怒りが込み上げ、小さな背中を蹴り飛ばしたこともあった。なぜあれほどまでにひどい叱り方をしたのか、そのきっかけも理由も覚えていないが、怒鳴り散らして分厚い本で颯太の頭を叩いたこともあった。
息子を抱きしめながら、理奈子は嗚咽と謝罪をくり返した。何度も何度も、息子の頭を撫でて謝り続けたが、颯太が心に負った傷は、その言葉だけで到底癒えるものではないことを、理奈子自身がよくわかっていた。
颯太と泣き続ける理奈子の背中ごし、運転席からはハンドルに顔を突っ伏した竜馬の嗚咽が聞こえてきた。
集合住宅の廊下の片隅でのこと。玄関のドアを開け、理奈子と孫を迎えようと娘の顔を見た途端、母の顔は強張った。
「理奈子? ちょっと、あんた……どうしたの、その痩せ方は」
母親からの反応は、多少は予想していたことではあったが、あまりにも露骨に憐れみと驚きのこもった顔をされ、ショックを受けた母のあからさまな表情が理奈子にとってはつらく、身の置き所がなかった。
「あんた、ちゃんと食べてるの? どこか具合が悪いんじゃないの? どうしたの、大丈夫なの?」
以前までは、たまに颯太の顔を見る機会があった時など、いつも孫の成長にばかり目を細め、颯太が大きくなっていることだけは喜んでくれた母であったが、今日、こうして久しぶりに顔を合わせたところで、孫よりも娘の容姿や体調の方が心配になっているという事実に、理奈子はしのびない思いだった。
いまさら、どうしたもこうしたもない。何が大丈夫か、だ。
大丈夫か、と問いかけてくる人たちの多くは、相手が大丈夫だと答えることを想定しているような訊ね方をする。理奈子は昔から、そうした些細なことが引っかかった。そのいかにも心配しているという相手の顔や、気遣いをしている素振り、どこまで真剣に思ってくれているのか定かではない訊き方が、ひどく疎ましく感じられることがあった。
だが、本当に疎ましいのはそこではない。たとえ大丈夫だと答えても、すでに手遅れとなり致命傷を負っているにも関わらず、深く訊ね踏み込んでくるような、年嵩の人たちによくある図々しいまでの心配の仕方こそ、理奈子の癪に障る最たるものだった。
それを心遣いや優しさという体裁のいい言葉にすり替えて、こっちは心配してやってるんだ、踏み込んで当然だという顔をしてくる輩こそ、反吐が出るほど疎ましかった。
夫やマキコをはじめとする総菜屋の同僚たちとなんら変わらない調子で、どこにでもあるような言葉で、理奈子の体調を心配してくる母に対し、理奈子の心はさらに塞いでいった。
自然と、返事は通り一遍なものになってしまう。
「私は、大丈夫よ。それよりも颯太のことをお願いしたいの」
伏し目がちのまま、理奈子は孫を一時的に預かってほしい旨を母に伝え、颯太の背中をそっと押して実家の玄関先に入り込ませた。また、あまり時間がないことをそれとなく話しながら、戸惑い狼狽する母を押し切り、着替えなどの荷物を上がり框に置いていく。
問答無用な娘の態度と、勝手に話が進められていく子守の依頼について、さすがに理奈子の母は娘に対して異変を感じた。
「ちょっと。ねぇ、ちょっと、理奈子。待ちなさい。私の話も聞きなさい。大丈夫じゃないわよ。あんた、いったいどうしたの、その痩せ方は」
具合が悪いんじゃないか。何か重い病気になったんじゃないか。それとも精神的なことで追い詰められているのか。矢継ぎ早に母は理奈子を問いただした。だが、いまさらそんなことを心配されたところで、理奈子の心は開かなかった。
電話口で、子育てや夫の暴力のことでそれとなく悩みを打ち明けたというのに、あんたはちゃんと聞いてくれなかったじゃないか。何ひとつ、汲んでくれなかったじゃないか。
理奈子の胸の底では、怒りとも憤りとも、やり切れなさともつかない混濁した悲しみが、沸々と沸き上がってきた。そして、また邪悪な声たちが理奈子の耳元でざわめき始めた。
叫び出したくなる衝動を抑えるために、理奈子はさっさと話を切り上げようとした。
「お母さん。悪いけど、いまはあまり時間がないの。落ち着いたら電話するから」
玄関先で、母と娘は押し問答を続ける。次第に両者とも口調が刺々しくなっていくその様を見て、壁に背を付けた颯太は小さくなって身を震わせていた。
「待ちなさい、理奈子。あんた、こんな無茶苦茶な頼み事、いきなりふっかけてきて母さんが納得できるはずないでしょう。何を言ってるの」
強い口調で引き止めようとする母。娘が反発すること、意見を言うことを許さなかった母の言葉に、理奈子はそれ以上、我慢することはできなかった。
とりあえず上がってお茶でも飲んでいきなさいと、母が理奈子の手を強くつかんだ。その力が理奈子の神経をいっきに逆撫でた。限界だった。
自分の手首をつかんだ母の手をあらん限りの力で激しく振り払ったため、その勢いに圧倒されて母は倒れそうになる。腰が引けて体勢が崩れた老母を、理奈子は怒鳴りつけた。
「やめて、放して! いまさら親の顔をしないで!」
公団住宅の薄暗い廊下に、理奈子の叫び声が響いた。すぐ近くのドアがかすかに開き、近隣の住人たちが数人、ドアの隙間から驚いた顔を出し、親子の諍いを覗き見ていた。
だが、ここまで来て世間体を気にしている余裕など、理奈子にはなかった。そして、不思議なくらい、母に反抗することに、もう、恐怖は感じなかった。
「いい加減にして! いまさら、いまさら何なのよ! 面倒なこと、一切合切を私に押し付けて、私を支配してきたくせに。亮太や向こうの家族のことばっかり大事にして、私のこと、何も知りもしないで、知ろうともわかろうともしないで。私には母親らしいことなんて何ひとつしなかったくせに、この期に及んで、親らしい顔してんじゃないわよ! あんたの……あんたのせいで、私の人生はめちゃくちゃよ!」
何かに取り憑かれたかのように、罵声を浴びせ続ける理奈子に気圧されて、理奈子の母と颯太は肩を強張らせ、目を見張ったまま言葉を失っていた。
積年の母親への鬱憤が、理奈子の口から飛び散った。それと共に、理奈子の鼓膜に、脳内に、ふくみ笑いをする声たちが重なり出す。理奈子は、思わず両手で耳を抑え、その場から逃げるように走り出した。
廊下を走り抜け、エレベーターホールの脇にある、ほの暗い階段を駆け下りるまでの間、遠くで理奈子を呼び続け、引き止めようとする母親の声がずっと聞こえていたが、やがてその声は小さくなっていった。
全力で走り、公園を駆け抜けようとしたところで、いきなり理奈子の背後で野太い男たちの声がした。
「いたぞ! 三澤理奈子だ、逮捕しろ!」
警察。はっとしてふり返り、身を翻したところで、いくつかベンチが並ぶ歩道を数名の警察官たちが—―いや、はしゃぎ合って追いかけっこをしている少年たちが姿を見せた。彼らは屈託のない笑い声を響かせ、その場にうずくまった理奈子の脇を駆け抜け、公園内を走り去っていった。
しゃがみ込んだ姿勢のまま、理奈子は頭を抱え、安堵のため息をついた。
たったいま、ふり向きざまに確かに制服と背広を着た警察官や捜査員たちの姿が理奈子の目に映ったのだが、それは一瞬にして跡形もなく消え去った。
妄想、幻覚、幻聴。明らかな覚醒剤による副作用の数々。それらは、どれもふとした瞬間に理奈子のことを脅かした。
だが、そのすぐ後から、今度は聞きなれた少年の声が遠くで理奈子を呼んだ。
「お母さーん!」
顔を上げて声がした方をふり向くと、遠く建物のエントランスから、泣きながら理奈子を呼ぶ颯太が姿を現し、必死の形相でこちらに向かって駆けてくるのが見えた。その姿と声は、幻覚でも幻聴でもなかった。
「お母さん! 待ってよ、行かないで! お母さーん!」
一瞬、ほんの一瞬だけ、理奈子の胸に迷いが生じた。
このまま颯太を連れていくか、それとも自分がここに留まって、後日、警察に行ってすべてを吐露してしまおうかと。けれど、理奈子にとって、その後に続く人生を想像するのは耐え難い苦痛だった。たとえ一時的に気持ちは楽にはなっても、そこから先には生き地獄しかない。そうとしか思えなかったのだ。
涙をこらえ、理奈子は立ち上がり、竜馬が待つ車の方へ走り出した。
急いで後部座席のドアを開け、理奈子は車に飛び乗った。間髪入れず、運転席にいる竜馬に叫んだ。
「車を出して! 早く!」
理奈子が手早くドアを閉めたのを確かめ、エンジンを吹かせたものの、ハンドルをつかんだまま竜馬は一瞬、アクセルを踏むのをためらっていた。彼の唇が、かすかに小刻みに震えていたのを、理奈子は知る由もない。ただ、躊躇する竜馬の肩を見て、涙で震える声で理奈子はさらに叫んだ。
「お願い! 竜馬君、早く。早く車を出して!」
唇を噛みしめ、竜馬が力強くアクセルを踏んだ。
急発進し、車はスピードを上げて走り出す。車の背後から、颯太の悲痛な声が、泣き叫び母親を呼ぶ声が、執拗に追いかけてきた。しかし、どんどんスピードを上げていく車に子供の足が勝てるはずもなく、無情なまでに颯太の声は遠ざかり、小さくなってやがて聞こえなくなった。
無言のまま、竜馬は車を走らせ続けた。後部座席では、両手で耳を塞いだままの理奈子が身を屈め、とめどなく涙を流してすすり泣いていた。
【夫・厚男の証言】
三澤厚男と言います。年齢は、四十二歳。仕事は、会社員をやっています。ええ、営業の仕事を。身分証ですか。これですが。え、コピーですか。まぁ、いいですけど。
家族構成ですか。妻と小学生の息子、三人で暮らしています。住所は、先ほどここに来る前にお伝えした通りです。本籍地は東京です。出身? 神奈川県ですが、それが何か?
いいえ、実家にはいま姉が住んでいて、父親の介護をしています。母は、亡くなりました。癌を患いましてね。亡くなったのは、私が大学を出て就職してまもなくでした。少し離れた世帯で弟夫婦が住んでいます。
それよりも刑事さん、これはいったいどういうことですか?
理奈子が昼間、働いていることなんてまったく知りませんでした。本当です。それにあいつが違法薬物の所持・使用をしていたって、そんなはずは……。
あいつがいま、どこにいるかですって? 何を言っているんですか、こっちが知りたいくらいですよ。俺の車だってなくなってるし。勝手に使いやがったのかどうか。
はぁ? いえ、知りませんよ。知るわけないじゃないですか! 冗談じゃない! 俺が知るわけないだろうが! 匿っているんじゃないかだと? え? 怒るなとか落ち着けとか、こんなこと、怒らずにいられるわけないでしょう! ったく、何なんだ、どいつもこいつも。
……いいえ、心当たりがなかったわけじゃありません。
気づいたというか、理奈子の異変について知ったのは、電話があったからです。確か、一ヶ月か半月くらい前かな。私の携帯に、電話がかかってきたんです。
あの、刑事さん。その、すみませんが、確認なんですけど、この話は私の職場に伝わることはないんでしょうか? そうですか、それなら、正直にお話します。
脅迫されたんです。知らない男から。
ある時、知らない電話番号から何回か着信があって、よく見ると毎回同じ番号だったんです。携帯からでした。
もちろん、詐欺とかだったら嫌ですからね。しばらくは放っておいたんです。
そうしたら、ある日、その電話番号からまたかかってきて、留守録でメッセージが残されていたんです。再生すると、男の声が入っていました。
「三澤さん? 三澤厚男さん、だよね。あんたの奥さんは、違法薬物に手を出している。そして若い男とデキてやがる。職場にバラされたくなかったら、おとなしく金を用意しろ」
呂律の回らない声で、確かにそう言っていました。そのメッセージですか? ああ、すみません。気味が悪くなってしまい、うっかり消してしまいました。
にわかには信じられない話でした。その時はデマや嫌がらせだとも思いましたが、その後、同じ番号からの着信がまた残っていたんです。
何かしら対処しなければ、と思いましたよ。ただ、私の職場でうちのチームの部下、新入社員の奴らが春過ぎくらいからたびたび仕事上でミスをしましてね。私がクライアントに謝りに行かなきゃならない時もあったから、そこが心配だったんですよ。本当に面倒なことでした。中には辞職する奴もいて。これ以上、私が関係していることで会社や上席、ましてや顧客に迷惑をかけるわけにはいかない。
せめて、私の手の中で、何とかしたい、いや、何とかしなければと思ったんです。
変な男がなぜ私の名前を知っていたのかは、会社のHPや名刺などから嗅ぎつけたのかもしれません。しかし、妻が薬物依存だとか若い男と浮気しているとか、そんなこと、あるはずがないって思っていました。信じて疑ってもいませんでしたよ。
ですが、あまりに男からの脅迫がしつこかったので、少し不安になりまして。その、知人に相談をしたんです。え? なぜ妻に直接確かめなかったかって? そ、そりゃ、聞けるわけないじゃないですか。誰に相談したかって? それは、その……あ、男性、い、いや、すみません、女性です。
写真を見てほしいって? え、どうして、この写真を?
そうですか……そこまで、調べがついているんですね。そうです。変な脅迫電話の件で、私が相談した相手はこの人、純菜さんです。フルネームは中元純菜、だったかな。
ええ、そうです。私は彼女と、不倫の関係でした。愛人、になりますかね。
彼女とは、私の上司が教えてくれたバーで知り合いました。親しくなったきっかけはそれ以外でもいろいろあったのですが……。
とにかく、彼女はいつも真摯に私の話をよく聞いてくれるんです。こう、じっと私の目を見て、私がいつも愚痴や自慢話ばかりしていても、本当に興味深そうに耳を傾けてくれるんです。それも仕事のストレスとか心配してくれて。
ご家族からひどいことをされたとかで、お金が必要だったみたいです。夜の仕事をしていたのも、多額の借金返済のためだとか。それで、私もつい、そういう話にほだされましてね、ホテルに行くたびにいくらか工面してやったのは事実です。
正直、彼女といるとなぜか心が安らぎました。居心地がいいんですよ。私のことを常に立ててくれるし、ひたむきに話も聞いてくれるし。
当然、決して妻のことが嫌いになったわけではありません。ただ、何というか、妻といると、逆に気持ちが塞いでいくというか、気が休まらないというか。そう、妻は本当に完璧主義なところがあって、家事でも何でも完璧を目指して頑張ってくれるんです。
ただ、その割にはうまくできていないというか、いろいろ抜けているんですよ。何かこう、子供がそのまま大人になったような印象というかね。
私がどんなにわがままを言っても、怒りをぶちまけても、暗い目をしながら耐えてくれる。その姿は、ありがたいというより、正直……重荷なんです。
だから、脅迫の電話があった時も、どうしたらいいかと悩んだ末、私は純菜にだけ相談したんです。そうしたら彼女は、絶対にかけ直して真実をはっきり知った方がいいと。
もし、本当に妻が薬物依存症で悩んでいるとしたら、それがエスカレートしたら私や息子に迷惑がかかるだけでなく、妻本人もつらい結果になると。そう言って優しい言葉をかけてくれたんです。本当に、心根のいい女性でしたよ。
私は純菜の言う通り、着信が残っていたその電話番号にかけ直して、気味の悪いその男と話をすることにしました。
何度訊ねても、男は自分の名前だけは頑なに答えず、へらへら笑っているばかりでしたが、私のことや私の住所、理奈子の依存症や浮気について、やけに事細かに知っているようでした。当然、息子のことも知っていて、息子が通っている学校の名前も知っていました。おまけに、妻が私に隠れて平日の昼間だけ、地元の惣菜屋で働いていると言うんです。
「あんたの奥さん、理奈子さんはなぁー、あんたと別れたがってるんだぜぇ」
そこまで言われて、いよいよ恐怖を覚えた私は、男と金のことで交渉する前に、私なりに事実確認をしておくべきだと思いました。
男の言葉を思い出しながら、朝とか休日、もしくは帰宅してから、私はじっと妻の様子をうかがっていたんです。理奈子のことを観察しているうちに、私はその時になって初めて、ようやく気づいてきました。妻の様子が、本当におかしいことに。
痩せて頬がこけたこと、急に食が細くなったこと、目がうつろで視線が泳いでいること、ぼんやりしていることが多くなったこと、なぜか額や首などがやけに汗ばんでいること、原因不明な体調不良で時折ぐったり寝込んでいること。そして、腕に確かに注射痕と思われる、針を刺したような穴がいくつかあって、その辺りにうっすらと紫色の痣ができているのを見て、怖くなりました。
急に妻のことが、怖くなりました。え? だって、薬物依存者ですよ。犯罪者ですよ。怖くなるに決まってるじゃないですか。うちの両親だって、昔から言ってましたよ。ヤクなんかやる奴はろくなもんじゃない、絶対に付き合うなって。テレビで芸能人とかが捕まるたびに、いつも……違うんですか? いや、私にとっちゃ、そんな輩、人を殺したも同じようなもんですよ。
ああ、話がそれましたね、失礼。
とにかく私は、理奈子の様子を見て、怖くなって、それと同時にそこまでになって初めて、私は妻のことが心配になってきました。
調子がいいですよね。そりゃ、そうなんですけどね。けれど、そこまで知ってもまだ私は、男のことを疑う気持ちの方が強かった。妻は確かに何かの病気かもしれないが、まさか薬物に依存しているわけではないと、そう信じたかった。
あれは、どれくらい前だったか。実は平日のある日、その一日だけ職場には休みを申請しておきながら、普通に出勤するふりをしたことがあったんです。普段通りの時刻に家を出て、男が言う時間帯を見計らって自宅近くまで戻ってきました。まさかと疑いながら、物陰からこっそりうちの様子をうかがっていたんです。
驚きました。理奈子が、ふらふらになりながら、自転車を漕いでどこかに出かけていくんです。いや、ただの買い物だろうと思いましたが、それにしてはやけに見た目に気を遣っているというか、誰かに会うための服装をしていると気がつきました。
たとえ自転車でも、理奈子はたいした速度を上げて走っていたわけではなかったので、私はこっそり尾行を続け、どこに行くのかできる限り確かめようと思いました。また、行き先については男から聞いてもいたので、見失っても構わないとも思いました。むしろ、実際にその店に行ってみて、妻がいなければ安心できるとも。
しかし、私は自分の目を疑いました。脅迫してきた男の言う通り、妻は地元の商店街から少し離れた所にある総菜屋で、確かに働いていたからです。
「理奈子さんはなぁー、奥さんは毎週、水曜日だけ、年下の男の部屋に行っているんだよ。あんた、知らなかっただろう? 旦那もそっちのけで、人妻が昼間からいちゃいちゃ」
くだらない話だ、でたらめを言うなと怒鳴って、その時は電話を一方的に切ったのですが、妻がこっそり働いていたことまで男の言葉通りだったので、私は放心状態でした。
水曜日ですか? 仕事が終わってから理奈子を尾行したかって?
刑事さん、それは嫌味ですか? できるわけないでしょう、そんなこと。妻は、私の理奈子は……そんなふしだらな女じゃないです。そう、信じてきました。長い間、信じてきました。いまも信じているつもりですよ。でも、私は……それだけは確かめられなかった。
それからまもなくです。男からの脅迫の電話がぱったり途絶えて、純菜とも連絡が取れなくなったのは。
は? 何て言いました? 妻や子供に、私が暴力を振るっているって。
冗談じゃない! 名誉棄損もいいところだ! あんた、舐めたこと言うんじゃねえぞ、こらっ。ええ? 俺はなー、家庭を守るために、妻や子供を食わせるために、いままでずっと働いてきたんだ! それを家庭内暴力だと? ふざけるな!
……なんだよ。はぁ? 颯太の日記? 知らねぇよ、そんなもの。
ちょ。そ、それはどういうことですか? 颯太が、そう書いてるんですか。俺が理奈子や息子に暴力を振るっているって? ちょ、ちょっと貸してください。
なんだよ、これ……ちっきしょう、あのクソガキ。
い、いや、だって。こ、これは違う。俺はあいつに、家族に暴力なんか振るっていない。躾ですよ、躾。教育してやっただけですよ。だって、そうでしょう? 親が子供に教育するのは当たり前じゃないですか。体罰じゃないです、躾ですよ。
悪いことをしたら、親の機嫌を損ねるようなことをしたら、殴られて当然じゃないですか。少なくとも、私はそう育ってきましたよ。いまの子供はね、最近のガキどもはほんと、軟弱で生意気なんですよ。すぐに暴力反対だ、やれ体罰をしただ、何を言ってんだって感じですよ、ほんと。
そりゃ確かに、理奈子や颯太のこと、殴ったことも蹴ったこともありましたよ。でも理由があったんです。あいつら、俺をバカにするからいけないんですよ。だから、そういう痛い目を見るんですよ。当然ですよ。
颯太の学校から預かった? 理奈子のことを捜査しているうちに、この日記が? ……くそったれ、どいつもこいつも。
社会に出たらね、こんなこと、日常茶飯事ですよ。ほんと、金を稼ぐ以上、誰だって苦労に耐えるのは当たり前でしょう。それをいちいち、こんなくだらないことでぎゃーぎゃー騒ぎ立てやがって。
親子でカウンセリング? へっ、冗談じゃねえよ。そんなくだらないこと、やってられっかよ。こっちはどれだけ神経使って毎日働いていると思ってんだよ。
俺は……俺は少なくとも、子供の頃、母親からそうやって育てられてきましたよ。親父だってそうです。昔気質の男でしたからね。男は外で、女は内で働けって、そうやって教わってきました。母親は……俺のおふくろは、いつも癇癪持ちで、世間体ばっかり気にする人でね。なぜか長男の俺にだけ厳しくて、俺の成績が悪かったり気に入らないことがあったりすると、物差しや布団叩きでよく叩かれましたよ。九九を間違えて手が腫れるまで叩かれたこともあったし、掃除機のノズルで頭をぶっ叩かれて血が出たこともありました。
でも、そんなのどこでもあることでしょう。どの家にだってありますよ、そんなこと。そう、教わってきたんですよ、私は。それが当たり前だって。
だから……だから正直、俺は、うれしかったんです。母親が、おふくろが病気で死んだ時、通夜の時も告別式でも、涙が出たこともあったけど、なぜか……なぜか心の中では、喜んでいる自分がいて、泣いているのに……うれしかったんです。おふくろが死んで、なぜかうれしかったんです。最低な息子、ですよね。
すみません、ティッシュ、ありがとうございます。なんで、こんな……ことで泣くなんて、情けねえな。
颯太に酒を飲ませたかって? 日記に、そう書いてますか。そうですか。
……えぇ、飲ませました。いつだったかは忘れましたが。
俺だってそうです。十一か十二の頃だったか、親父から無理やり飲まされましたよ。
いつもいつも、酔うと口癖みたいにね、親父は言ってました。おまえはつまらない男にはなるな。男だったら、子供のうちから酒の味がわかるようでないとダメだ、ってね。親父は酔いつぶれて眠っちまって、俺は気分が悪くなって、後でげぇげぇ吐いちまってね。大変でしたよ。
もっと言うとね。俺、自信、なかったんです。親になる自信というか、父親になる自信がね。なかったんですよ。息子に、どう接していいかわからないというか。かわいいはずなのにね、かわいく思えない時があるんです。颯太の奴、昔の自分と、そっくりなんですよ。顔はもちろん、挙動というか仕草というか目つきというか、周りを見るおどおどしたような表情というか。それがね、なんでって説明は難しいんですけど、イラっとするんですよ。昔の自分にそっくりで、イラっとするんです。
……え? 何て、言いました? パワハラ? 俺が? 俺の部下が、警察に相談をしているって? 労基にも相談したって? 俺が、酔って暴力を振るったって。いや……いやいや、刑事さん。そんな質の悪い冗談、勘弁してくださいよ。そんなこと、俺がするわけないじゃありませんか。え? マジなんですか。




