【4章~6章】
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「え、マジですか? 旦那さん、理奈子さんがここで働いてるの、全然知らないって。そんなに険悪なんですか?」
昼休憩の時、ちょうどマキコと二人だけになったところで、彼女から最近の夫婦仲について訊かれたため、少し迷った末、理奈子は正直に現在の状況について打ち明けた。
別れる決意を固めたために、夫にはすべて隠して働き始めたことを教えると、マキコは箸を動かす手を止め、理奈子を見つめた。
息子が生まれてから徐々に夫婦仲がこじれてきたことと、自分と子供に対する暴力・暴言が顕著になってきたことまで仕方なく話すと、マキコは眉間にシワを寄せて憤慨した。
「うーわ、最低だわ。家庭内暴力っすか。ほんとにいるんですねー、DVな男って。それはダメっすわ。離婚、離婚。別れちゃっていいすよ、ほんと」
夫の非道さについて吐露したことで、理奈子は、自分自身が責め立てられるのではないかと若干身構えていたが、有難いことにマキコは心から同情してくれた。親しくなった女性からの同調の声に、理奈子はほっと安堵し、肩の力が抜けていくのを実感した。
理奈子が打ち明けた家庭の悩みを、予想以上にマキコは親身になって聞いてくれた。もし、どうしても家出などする必要があるならうちで避難してくれてもいいし、福祉の窓口にきちんと相談すればシェルターも提供してもらえるだろうと言ってくれた。その言葉に、理奈子は目頭がじんと熱くなり、あやうく泣き出してしまいそうになるのに耐えた。
マキコの申し出は素直にありがたかったが、職場の最寄り駅から二、三駅離れた町で、六畳一間のアパートにひとりで暮らしているというマキコの部屋は、話に聞いた限り、おそらく竜馬の部屋と大差ないだろう。いよいよという時には息子もいるわけで、さすがにそこまで世話になるわけにもいかない。気持ちだけもらっておくと理奈子は答えた。
四月も折り返しとなり、月が替わるまで二週間を切った。
通りに植えられた桜も、淡いピンク色のソメイヨシノがだいぶ散り、代わりのように濃いピンクの八重桜がちり紙を束ねたような豪奢な花を咲かせ始めている。
マキコと話をしながら、先日、夜の渋谷で純菜と盛り場で過ごした翌朝の一件を、理奈子は思い出していた。
あの朝、泣きじゃくる颯太の気持ちが少し落ち着くのを待って、理奈子は息子の部屋のドアを何度かノックした。そして、夫がすっかり眠りこけていることを伝えると、ようやく観念したかのように事のいきさつを教えてくれた。
颯太の話を聞き、耳を疑った。理奈子が家を空けたあの晩、夫は嫌がる息子に無理やり酒を飲ませたというのだ。
それも正月にお屠蘇の味見をさせる程度ではない。ビールにチューハイ、果てはウイスキーの水割りまで飲ませ、味の違いがわかるまで飲み比べをさせたり、一気飲みをさせたりしたというのだ。
「いいか、颯太。おまえはつまらない男にはなるな。男だったらな、子供のうちだろうがなんだろうが、酒の味くらいわかるようでないとダメだ。いいか、颯太」
へべれけに酔った夫は、呂律の回らなくなった口調でそう言って、息子に酒を注がせるだけではなく、無理やり席に着かせてグイグイ飲ませたのだという。ビールもチューハイも、ジュースとは違って子供の舌には苦く、とても飲めたものではなかったので、正直こんなものは飲めないと、颯太はもちろん最初のうちは拒んだそうだ。
しかし、自分の言うことを聞かない相手を、夫が許すはずもない。夫はいつもの調子で、アルコールで染まった顔をさらに赤くして怒鳴り始めた。そして、ぐずり出した息子の顔をまた叩いたのだそうだ。
酒を飲まされ始めてまもなく、颯太は気分が悪くなってきたという。それでもしばらくはテレビに夢中になっている父親の様子をうかがいながら、悪酔いとゲップに耐えていたが、浴びるほど飲んで船を漕ぎ始めた父親を見て、気が緩んだのか、その場を立ち去ってトイレに駆け込もうとして、間に合わなかったのだと息子はすすり泣いた。気がつくと、テーブルの陰で盛大に吐き戻してしまったのだと、理奈子に打ち明けて謝り続けた。
急性アルコール中毒で搬送されなかっただけ、不幸中の幸いとしか言いようがない。
理奈子は、ため息をついて息子をかき抱き、その小さな頭に自分の顔を押し付けた。自分が昔の友達から誘われて、夜遊びに行ったことがいけなかったと自身を責める気持ちと、どうして息子や自分がこんな目に合わなければならないのかと、誰に向けていいかわからない怒りや憤りの気持ちがないまぜとなり、胸の底で沸々と煮えたぎるようだった。
稼ぎだけを残して、もう、夫などこの世からいなくなればいいと、強く祈る気持ちが芽生えた。ああ、これが殺意というものかと、理奈子は唇を噛みしめた。
「理奈子さん、私、ちょっとトイレに行ってきますね」
マキコから覗き込まれるようにそう声をかけられ、理奈子の意識は引き戻された。化粧室へと向かうマキコを見送り、時計を見ると、あと少しで休憩時間が終わろうとしていた。
「お願い。もうちょっと……もうちょっとだけ、舐めて」
吐息を乱しながら、理奈子はねだった。
顔を上げてキスをしようとした竜馬が苦笑いをして、いいよ、とまた理奈子の下腹部に唇を近づけていく。彼はまた、理奈子の茂みの奥へと舌を這わせ、ひだも突起も穴も、丁寧に舐め始めた。すっかり熟し切った果実がとろりと果肉の形を崩すように、ねばついた果汁があふれていく。もう、かれこれ三十分近く、ふたりは淫らに戯れていた。
五月に入り、連休を迎えた矢先に、理奈子にとって思いがけない幸運が訪れた。夫が仕事の都合で、急遽地方の支社へ数日出張することになったのだ。新入社員が仕事上でミスを犯したとかで、クライアントへのおわびも兼ねて夫が泊りがけで出向くことになった。
休みに入って間もなく、会社から来た電話を終えた夫は、ちっと舌打ちをして携帯電話をテーブルに放り投げた。見るからに機嫌が悪そうだったが、その話を深刻そうなそぶりで聞いた理奈子は、内心、拍手喝采をしたいくらいの喜びを感じた。
その翌日、慌ただしく夫の荷造りの手伝いをして、いかにも心配そうな態度を見せてその背中を見送った。夫を送り出してすぐ、竜馬に連絡を入れたのは当然の流れだった。
いままで平日に祝日が当たってしまう日は、夫には実家へ母の様子を見にいくとごまかして出勤するか、父親の介護が必要などと職場にあらかじめ嘘の理由を伝えて思い切って休みにするか、どちらかの手を使って乗り越えていた。その要領でこの五月の連休も、夫と職場、どちらか交互に巧妙な嘘を重ねて乗り切るつもりでいたため、何かと慌ただしい一週間になることを覚悟していた。その気苦労や後ろめたさから一時的に解放されただけでも、理奈子にとってはありがたいことこの上ない。
しかもこの日、理奈子は職場に休みを申請している日だった。ちょうど水曜日に当たっていたため、マキコあたりは理奈子が父親の介護をしていると思っているかもしれない。
まさか竜馬が休みの日に、こんな幸運が転がり込んでくるなど、予測もつかなかった。竜馬に電話をかけた時、なぜか、すぐに連絡がついて会えるという確信があった。
今日はずっと家にいる予定だという竜馬に了解を得て、理奈子は急いで念入りな化粧を始めた。颯太に不審がられないようにトイレでメイクを済ませてから、息子にはいつもの、友達に会いにいくという決して嘘でもない理由を伝え、理奈子は要町へ向かった。
「もう、いい? そろそろ挿入れるよ。俺、ギンギンなんだ」
ひとしきり理奈子の膣を舐め終わったあと、竜馬は、汗で額に貼りついた理奈子の髪をかき上げながら訊ねてきた。うん、と小さくうなずき、理奈子はそっと彼の陰茎に手を伸ばす。そこには、骨が入っているのではないかと思うほど、硬く勃起した肉質な棒が、亀頭からねばついた粘膜を垂らしてぴくっと動いていた。尿道からあふれるその粘膜は先走りと呼ぶのだと、教えてくれたのは竜馬だった。
ふたりとも裸でベッドに横たわっているため、肌はうすら寒い気もしたが、体の奥底からかすかな熱が極まっているのを感じて、理奈子は満たされた気分になった。
がちがちに硬くなった竜馬の陰茎をいとおしく眺めていると、その小刻みに揺れる肉棒には、よく見ると無数の血管が浮き出ているのがわかる。それはまるで、ボディービルダーや海外の肉体派俳優が持つ、筋肉質な腕を彷彿とさせた。グロテスクなまでのそのペニスと、そこに浮いた血管の蠢きがやけにリアルに目に映り、理奈子は渋谷で過ごした夜のことを思い出す。あの夜、ダンスフロアに飛び交うカラフルな照明も、ちょうどこんな風に色や形が異様なほど鮮明に見えた。
ぐちゅりと、体液がこすれる淫らな音を立て、竜馬の陰茎を理奈子の花芯はゆっくりと飲み込んでいった。奥へ奥へと挿入されるたびに、理奈子は背中をのけぞらせ、快楽に歪んだ声でかすかにうめいた。
出がけに含んだラムネが、効き始めた。
純菜と渋谷でひと晩を明かしてから、一週間もしないうちに、理奈子は純菜に電話をした。そして、ラムネを譲ってもらえないかと訊ねた。電話口で、純菜は含み笑いをして承諾した。彼女の口調は、まるで理奈子からの連絡を待ちわびていたかのようだった。
値段を訊ねると、ラムネは一錠で五千円、二錠なら八千円だという。
それが高いのか安いのか、紙巻煙草の時と同様、理奈子には判断がつかない。とりあえず一錠だけ欲しいと伝えると、純菜からあるメッセージアプリを自分の携帯にダウンロードするようにと言われた。普段のメッセージアプリでやりとりすればいいのではないかと問うと、それだけは絶対にダメだという。
不審に思いながらも、理奈子は純菜に指示されるままに、言われた通りのアプリをダウンロードした。そのアプリは、数日経つと相互で送ったメッセージが自然とスレッドから消えてしまうという機能を持っていた。やりとりした内容が消えてしまう機能など、後から見返すのに不便ではないかと伝えたが、ラムネの購入にはそれが必須だという。
「いい? ラムネの話も紙巻煙草の話も、それだけは絶対にこのアプリを使うのよ。普段のアプリからは絶対にダメ。私の指示に従って」
なぜこんな回りくどい方法を取るのかと腑に落ちない気持ちもあったが、結局、理奈子は純菜の指示に従ってラムネを譲ってもらうことにした。
彼女に言われるがまま、最寄り駅から少し離れた人の往来がある公園に行くと、純菜はその片隅でひっそりと立っていた。ツバが広いグレーの帽子を被り、全体的に抑えた色の服を着ている。さほど日差しは強くなかったが、日焼け防止用の肘まである長い手袋をしている。化粧気もなく、渋谷で会った時とはだいぶ印象が違い、すぐには同じ人とは思えなかった。
再会するなり、純菜は声をひそめて理奈子に訊ねた。
「知り合いには誰にも会わなかった? ここに来ること、誰にも言ってないわね?」
その日は平日で、ちょうど息子や夫が自宅にはいないタイミングだった。そっとうなずきそれを伝えると、純菜は満足そうな笑みを見せた。
「わざわざ来てもらって悪いわね。郵送とかで送ってくれればよかったのに」
それとなく理奈子が詫びると、純菜は目を見開き、とんでもない、とその方法について否定した。
「そんなことしたら絶対ダメよ。これは、手押しで渡すしかダメな物なの」
そう言われれば、そうしたものかとうなずくしかない。また、純菜の説明によれば、こうして直接会って交渉し、手渡しで購入する方法を「手押し」と呼ぶのだと教わった。
理奈子が財布から五千円札を抜き出し手渡すと、純菜は人目を忍ぶかのようにあたりを少し見回し紙幣を受け取った。そして彼女は、シャツブラウスの内側から二つ折りにした茶封筒を取り出し、手袋をしたまま理奈子に渡した。どうやら自身の下着、ブラジャーの内側に茶封筒をしまっていたようだ。
封筒の中身を覗くと、さらに小さなジッパー付きのビニール袋の中に、あのラムネに似た錠剤があった。確かに受け取ったことを確認し、封筒をバッグにしまおうとすると純菜がすかさずその手を止め、小刻みに首を横に振った。自分と同じようにブラジャーの内側に挟んで帰れと言うのだ。
なぜそこまで面倒なことをしなければならないのかと訊ねても、どうしてもだと言って純菜は聞かなかった。ラムネを取り返されて問答するのも煩わしいので、理奈子は渋々彼女の言うことに従ってラムネを持ち帰った。
そしていま、理奈子は竜馬と会う直前にその小さな錠剤を飲み下し、この部屋で彼と猥褻な遊戯に耽っていた。
「理奈子さん、大丈夫? 今日、すごいね。乱れ過ぎ、じゃない?」
騎乗位から対面座位へ。あぐらをかいた竜馬に向かい合って抱き合う形で、理奈子は自ら率先して激しく腰を振っていた。
体が、熱い。膣の中は、もっと熱かった。
吹き出す汗が飛び散るのもかまわず、理奈子は無心に竜馬の上で腰を振り続け、ギンっと硬くなった彼の陰茎を下の口で受け止め、執拗なまでに抜き差しした。
ふたりの肉体、とりわけ下腹部がぶつかり合い揺れるせいで、竜馬の声もひどく揺れて震えていた。
張りつめた乳房の先端で、理奈子の乳首は尖って硬くなり、時折それを竜馬が口に含むたびに、理奈子は白い喉をのけぞらせて卑猥な声で泣いた。せつないほどの快感が、乳頭から乳房へと走るせいだ。
理奈子が漏らす嗚咽は、演技を忘れた娼婦ですらかくもあろうかというほど、はしたない声だった。
「理奈子さん、ちょっと休もう」
年下の男に頭を優しく撫でられ、理奈子は口を尖らせながら、ゆっくりと自分の腰の動きを遅くした。苦笑いをして、ちょっと休憩、と身を横たえようとする竜馬に対し、理奈子はいささか不満を覚えたが、かれこれ三十分近くあぐらをした彼にしがみつき、その股座に座り続けていたわけだ。さすがに竜馬が疲弊していることを察し、理奈子は渋々彼に倣った。性器の抜き差しをやめ、自身の膣から竜馬のペニスを引き抜くと、くちゃりと体液が擦れる音がして、わずかに柔らかくなった男性器がずるりと姿を露わにした。
彼の肉棒は、粘膜にまみれて赤黒く半勃ちしている。
ふたりでベッドに身を横たえ、ため息をついた。お互いに、額や胸、首や脇にうっすらと汗をかいていた。
竜馬の厚い胸に頭を載せて、理奈子は天井を仰いだ。
ラムネの効能のせいか、見上げた竜馬の部屋の天井は、その日、以前よりも広大で奥行きがあるような感じがした。どこか西洋の果てにある、大きな教会にいるような厳かで敬虔な気持ちにさせられた。目を閉じれば、天使たちが舞い降りてくるのではないかと錯覚する。
いま、ここで、このタイミングで、渋谷で遊び明かした夜に聴いた激しいテクノやハウスが流れたら、さぞかし心地よいのではないかと、理奈子は感じた。胸の底に眠る幸福感や興奮が渦を巻き、いっきにあふれ返ってくるのではないだろうか。
もし、あの夜に踊り続けたあのハコ、あのフロアで、竜馬とふたり、いきなり全裸になって抱き合い、人目もかまわず性器を交えて猥褻な行為に及んだらどうだろうか。暴力的な音楽の中、嘲笑に包まれながら情事に耽ったら、さぞかし幸せが極まっていくだろう。出来ることなら試してみたい。
あれこれとふざけた性戯を想像し、理奈子は竜馬の腕の中でほくそ笑んだ。
それに気づき、彼は理奈子の脇腹をくすぐり、何を笑っているのかと問い詰めた。笑い声が大きくなってしまう理奈子は、それに必死で抵抗する。
「なんだよ、何にやついてるんだよ。おい、理奈子」
「何でもないったら」
ぞんざいな口調で呼び捨てにされ、理奈子はこの上ない悦びに満たされた。夫からもたびたび呼び捨てにされるが、この響きの違いはなぜだろうか。
ひとしきりふたりでじゃれ合い、シーツを乱したあと、荒げた呼吸を落ち着けていると、竜馬がふいに口を開いた。
「そういえばさ、俺、理奈子さんに謝らなきゃいけないことがあるんだ」
いまさら何を言い出すのかと思えば、竜馬の話はふたりが曲がり角でぶつかった時点まで遡った。卵は弁償してもらったことを告げると、竜馬はゆっくり首を横に振った。
「そうじゃなくて。実は俺、あの日、理奈子さんにわざとぶつかったんだ」
意外な懺悔を聞き、理奈子は事の経緯について訊ねた。すると、竜馬は恥じらいながら微笑を浮かべ、訥々と話し始めた。
あの日、竜馬は午後から完全に休みだったこともあり、現場に当たっている街をぶらぶらと歩いていた。仕事の現場から帰る途中、適当に昼食でも済ませてしまおうかとしていた矢先に、買い物中の理奈子を見かけたという。
いつも昼飯に弁当を買っている総菜屋の、気になっていた店員が目の前にいる。それは竜馬にとって、理奈子と親密になるまたとないチャンスだった。
「いきなり声をかけたら不審者扱いされるじゃん? 何かきっかけさえあれば、ってね」
とっさに思いついたのが、曲がり角でわざとぶつかるという古臭いやり方だった。ずいぶん大胆な真似をしてしまったと、竜馬は自嘲して笑った。
結果、思いのほか派手にぶつかり、事が大きくなってしまった。卵のパックが転がり落ちて、中身が割れてしまったのは誤算だったと彼は嘆いた。
竜馬の腕に抱かれながら、彼の顔をまじまじと見つめて、理奈子は無上の喜びを感じていた。故意にぶつかられたことも、卵を割られてしまったことも、もうそんなことはどうでもいい。竜馬が理奈子のことを女性として気にかけてくれて、リスクを冒してまで近づいてきてくれたことが、ただただうれしかった。
自然と涙があふれ落ちそうになり、理奈子はそっぽを向いた。小さな声で竜馬に礼を述べると、彼は理奈子の額にキスをした。
渋谷で過ごした夜のように、胸の底から多幸感が極まっていく。
ラムネは思考にも作用するのか、さっきから感情の起伏が激しくなるだけではなく、竜馬とは前世から知り合い、愛し合っていたのではないかという壮大なドラマさえ想像してしまう。何の根拠も裏付けもなく、そう身に沁みて感じてしまうのだ。
竜馬からの告白と懺悔を耳にして、理奈子は彼と出会うことはやはり必然だったのだという思念を強くした。
そして彼は、前回の逢瀬よりも激しい渇望を見せた理奈子に訊ねた。
「それにしても、今日、どうしたの? 今日の理奈子さん、いつもより激しいね。何かあったの?」
ラムネを飲んだせいよ、と喉元まで出かかったが、やめた。純菜から口止めされたからというわけではないが、なぜか、あの錠剤の話は相手が竜馬でも教えてはならないと、直感で感じたからだ。
「……別に、特にないわ。ただ、竜馬君のことが欲しかっただけよ」
そう答えた理奈子の言葉に、嘘はない。これ以上ラムネの話に及ばないよう、理奈子はまた竜馬からの口づけをねだり、ふたりは何度も唇を重ねた。
二の腕を揺さぶられ、理奈子は我に返った。
「ねぇ、お母さん。話、聞いてる?」
目の前に、怪訝そうな表情を浮かべた颯太の顔があった。
理奈子はちょうど、昼間買ってきた苺を洗い、ヘタを切り落としているところだった。平日の夕方のことで、まだ夫は仕事から帰ってきていない。
颯太におやつをねだられ、苺を皿に盛り付ける準備をしていたことを思い出す。右手には小型のフルーツナイフがにぎられていた。物思いに耽って手が止まっていたため指など切らずに済んだが、はたと気づいた時に刃物を持っていたのでひやりとした。
連休の翌週に行った遠足がとても楽しかった話を、先ほどから颯太はしきりに理奈子に話して聞かせてくれていたことは覚えている。しかし、途中から理奈子の思考は、連休中に何度も逢瀬を重ねた竜馬のことで占有され、颯太の声が遠のいてしまっていた。
五月の連休中、夫が予期せぬ出張から帰ってくるまでの間、理奈子は暇を見つけては竜馬と連絡を取り合い、彼の部屋を訪ねては愛し合った。その求め方は激しく、ゆっくりと服を脱がし合ってベッドに向かうこともあれば、電車に揺られている間に理奈子の膣がすっかり濡れて、シャワーも待ちきれずに玄関口で立ちバッグで体を繋いだこともあった。
竜馬の仕事の兼ね合いもあったため、必然的に夜の遅い時間帯もあれば、午前中、竜馬が出勤する直前に少し時間があると言われ、急いで向かったこともあった。
そんな慌ただしい逢瀬をたびたびくり返していたこともあり、息子との時間がおろそかになってしまったことは正直否めない。
ぼんやりしていた母親を、どこか咎めるようなまっすぐな視線を向けてくる颯太に、理奈子はどう対処していいかと思案した。
ちゃんと聞いてるよ、と答えたい気持ちはあったが、正直、ついさっきまで颯太が何の話をどこまでしていたのか、わからなくなっていた。
「あ、ごめん。何の話してたっけ?」
あからさまに息子は口を尖らせた。
「もう、お母さん。最近、そんなことばっかりだよね。人の話、聞いてないし」
改めて颯太から話を聞くと、もうすぐ授業参観があるので、親御さんにはプリントを手渡すだけではなく、直接その話を伝えるようにと学校から言われていたそうだ。そのあたりの話が、理奈子の意識から抜けてしまっていたようだ。
息子から手渡されたプリントには、当日に行なう予定の授業内容が書かれていた。
その日に取り上げられる科目というのが『道徳』で、命の大切さを問う絵本をみんなで読み上げ、最後にその感想を生徒からだけではなく、保護者の人たちからも聞いてみようというものだった。
颯太の話によると、できる限り親御さんには授業に参加してもらい、帰ってからわからないことなどがあれば保護者の方に訊いてみるように、ということだった。
まだ幼い息子のためにはとても大事なテーマだということは、充分すぎるほどわかっていた。しかし日付を見ると、あいにく仕事で空けられそうにない。参加するべきだろうか。親としては当然、参加した方がいいのかもしれないが、代わりに夫が協力してくれるとは思えない。
行かれたら行く、という答えでは無責任すぎる気がする。回答に迷い、逡巡していると、颯太は理奈子の手からさっとプリントを取り返し、目の前でくしゃっと丸めてしまった。
「お仕事だもんね。無理だよね」
そう言って、息子は近くにあったゴミ箱に丸めたプリントを捨ててしまった。
自分の皿に盛られた苺をたいらげた颯太は、踵を返してそのまま自分の部屋へ戻ろうとする。明らかにふてくされた態度の息子の背中に、理奈子は声を荒げた。
「ちょっと、颯太! どうしてそういうことをするのっ」
叱責してくる母親の声に、息子は一瞬、足を止めた。そしてちらりと理奈子の方をふり向き、小さな声でつぶやくように言った。
「お母さんが連休中に会ってた友達って、男の人でしょう?」
何も言い返せなかった理奈子は、息子が自分の部屋へ戻ってしまうのを、見送るよりほかにすべがなかった。
初めてラムネを服用して竜馬に抱かれたあの日のことを、理奈子は事あるごとに思い出し、うっとりと記憶を丹念に手繰り寄せては楽しみ、ひそかに膣を濡らした。
料理をしている時、洗濯機を回している時、掃除をしている時など、単調な作業をし始めるとすぐに竜馬の顔が浮かんでくる。
黒目がちで純朴な瞳、黒い肌、短く切った金髪、引き締まった筋肉質な体つき、逞しい腕、厚い胸板、そして理奈子を散々泣かせた、血管にまみれた太くて硬い性器。竜馬を形づくるそのすべてがいとおしく、思い出すたびに理奈子の心を満たしてくれた。
ラムネの効果と竜馬のすべてに溺れさせられた、あの日。もうそろそろ帰らなくては、と理奈子がベッドから出ようとするたびに、もう少し後にしたらどうかと、幾度となく引き戻され、唇を奪われると断り切れず、ふたりはまたシーツの海に沈んでいった。
時刻が八時を過ぎたところで、いよいよ息子が不安に感じたのか、理奈子のスマホに颯太からの着信が何度か来ていたことに気がついた。慌ててかけ直し、理奈子はそろそろ帰る旨を伝えたのだが、その電話のやりとりを傍らで聞いていた竜馬が、名残惜しそうな顔つきでTシャツに袖を通すのを見て、理奈子の胸にも寂しさが湧いた。
シャワーを浴びないのかと訊ねられ、理奈子は首を横に振った。
汗を流してさっぱりするし、一秒でも長く竜馬のそばにいられるのはうれしかったが、帰る時に彼の匂いがすべて消えてしまうのは、やりきれないほどつらかった。
一緒に浴びるのも悪くはないが、浴室で泡にまみれてじゃれ合っていたら、そのまま帰る機会を失ってしまうことは目に見えていた。
帰り際、竜馬は何度も何か言いたそうな顔をして理奈子を見つめてきた。おそらく、泊まっていけばどうかと言ってくれようとしていたのか、そう言われることも期待していたが、結局、彼はそこまで引き止めてはくれなかった。それはもちろん、理奈子を困らせまいとする彼の最大限の優しさだろう。
その後、数日続いた祝日が終わり、夫が帰ってきたあとも、毎週水曜日は示し合わせたように、理奈子と竜馬は秘密の逢瀬を続けた。
また、GWの翌週の水曜日には、理奈子は仕事を早引きし、その流れで当然のように要町に向かったのだが、途中で立ち寄った洋菓子屋でホールケーキを買って竜馬の部屋を訪ねた。ケーキを注文する際には、取り急ぎでバースデー・メッセージが書かれたチョコレートのプレートも付けてもらい、それを持っていくと竜馬は思いのほか喜んでくれた。
「マジで? 理奈子さん、覚えててくれたんだ。ありがとう!」
いままで、ずっとひとり暮らしを続け、友人も限られた程度だという竜馬にとって、誕生日を祝ってくれる人間はごくわずかだった。彼が細いキャンドルの火を吹き消したところで、理奈子がひと口、切り分けたケーキを食べさせてやると、竜馬は子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。そして今度は彼が、理奈子にケーキを食べさせてくれた。
ケーキにキャンドルを立てて食べ終わるまでの間、ふたりはお互いのスマホで何度も写真や動画を撮り、普段の激しい情事に耽るのとは違った時間も楽しんだ。
まるで恋人同士のような時を過ごし、何日かズレてはいたものの二十八を迎えた竜馬とケーキを味わったその水曜日は、理奈子にとって特別な日になった。
理奈子を不安にさせる事件が起きたのは、それからまもなくのことだった。
五月もそろそろ終わりに近づいている時期のこと。その日は朝から小雨がぱらつき、外に洗濯物を干すのはあきらめざるを得ない天気だった。
夫と息子を、それぞれ会社と学校へ見送ったあと、理奈子はいつも通り、朝食の後片付けとして皿を洗おうとしていた。出勤のためだけにメイクを施す時間も必要だったので、手早く食器をキッチンの流しに運んでいたところ、つれづれにつけていたテレビから、速報としてあるニュースが流れてきた。
緊張感を帯びた女性アナウンサーの声に、理奈子は皿を洗う手を止めた。
それはここ最近、朝の情報収集としてよく見る番組だったのだが、その番組内で、昨今のドラマや映画などで活躍をしていた若手の女優が、違法薬物の所持・使用で逮捕されたという事件だった。大きな液晶画面には、有名なその女優の笑顔や、CMやドラマなどで使われたワンシーンがアップとなって幾度となく流された。やがて画面は切り替わり、逮捕の現場となった場所を中継して、事務所の周囲や女優の自宅マンションの周りにわんさかと群れる報道陣の姿と、現地に直行したキャスターの顔が映し出された。
女優の名前を聞き、理奈子は心底驚いた。芸能人にはめっきり疎かったが、そんな理奈子でさえ顔と名前だけは知っているほど有名な女優だったからだ。
彼女がCMに出て話題になったという菓子や飲料水はよく耳にするし、出かけた時など、化粧品売り場では彼女の顔がアップで写されたポスターを頻繁に目にしていた。
新しいドラマでも主演が決まっていたそうで、まさかの事態に事務所でも急遽、謝罪文のFAXが公開されたという。
食器洗い用に使っていたゴム手袋を放置し、理奈子はキッチンからダイニングに向かう。そしてテレビで過熱している報道に目が釘付けになった。
女性アナウンサーの声に、耳を澄ませる。
「—―容疑者が所持・使用していたという、MDMAというこの合成麻薬について、専門家からの説明とご意見をうかがいたいと思います。本日はゲストに××大学の—―」
報道の内容によると、かの女優は知名度が上がってきた頃からプライベートでは夜遊びが頻繁になり、数々の男性芸能人とも関係があったそうだ。また、六本木や渋谷など夜の繁華街でもたびたび目撃されており、薬物の常習者・売人が出入りすることでも有名なクラブにも足しげく通っていたことが明かされた。
彼女が逮捕されたというのは、まさにそのクラブからの帰宅途中で、バッグの中身から数量のMDMAが発見され、尿検査でも陽性反応が出たという。それからすぐに自宅にも家宅捜査のメスが入り、そこからもMDMAと大麻が見つかったそうだ。
理奈子は、テレビ画面上で映されたそれらの指定薬物を見て、息を飲んだ。
「あ……ラムネと、紙巻煙草?」
視野に入ったそれらの形状に、理奈子はつい最近、純菜から譲ってもらった謎の錠剤と紙に巻いた乾燥ハーブのような物体のことを思い出した。紙巻煙草は渋谷で夜遊びをした時、ほんの二本だけ吸ったきりだったが、ラムネについては、その後も何度か純菜から購入し、いまは理奈子が私物をしまっている引き出しに二錠だけ大事に隠してあった。
あれらは所持も使用も違法なものだったのか。
急いで携帯の画面をタップして、理奈子はそれらの画像をネットでキーワード検索した。検索結果に出てきたのは、紛うことなく理奈子が渋谷のクラブで純菜から教えてもらったラムネと紙巻煙草だった。どちらも、それぞれMDMAと大麻、つまり合成麻薬やマリファナと呼ばれる指定薬物であり、いずれも所持・使用が現在の日本では違法とされるものだった。所持・使用については、MDMAは七年以下の懲役、大麻は一年から二年の懲役、三年から四年の執行猶予がつく場合が多いと書かれている。
心臓が、バクバクと速度を上げ始めた。携帯を持つ指がかすかに震えている。
インターネットでニュースを開くと、速報として、かの女優が逮捕されたことがあちこちで記事にされて載っていた。そこには早速、数々のコメントがつき、まるで蜂の巣をつついたかのような状態だった。がっかりです、もう彼女の映画やドラマは見ません、これであの女も人生おしまいだな、などと揶揄と誹謗・中傷であふれ返っているものが多く、一部では、彼女自身に何か悩みがあったのだろうと擁護してくれるコメントも見受けられたが、そこにあふれるものは圧倒的に否定的な言葉が多く、悪意に満ちあふれていた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
画面上に映るひどい言葉を読み、理奈子の胸に、急に不安が満ちあふれてきた。万が一、理奈子が逮捕されるようなことがあった場合、さすがにこの女優ほどの知名度はないため、ここまで非難されることはないかもしれない。しかし、すべてが露見したが最後、理奈子自身の人生が終わってしまうのは目に見えていた。
いまの職場をやめさせられるだけではなく、離婚するためにこっそり働いていたことが夫にもバレて、理奈子はひどい仕打ちに遭うだろう。また、夫の仕事や息子の学校生活にも影響が及ぶのは間違いなかった。この情報化社会のもと、夫や颯太も世間からひどい扱いをされるかもしれない。
それだけは避けなければならない。
理奈子は、慌てて引き出しの中から錠剤を取り出し、ずっとラムネと呼び続けていた合成麻薬・MDMAをトイレに流そうとした。
しかしその時、また竜馬の顔が浮かんだ。彼と過ごした時間、狂おしいほど求め合い、愛し合ったあの限られた時間、そこで見て聴いて、触れ合って、感じたことのすべてを思い出し、理奈子の手は止まる。
そんなに早く結論を急いでいいものだろうか。そもそも、ここにある二つの錠剤は、本当にMDMAなのだろうか。確かに、テレビやインターネットに書かれている通り、服用した時に体が火照るような独特の感覚と、竜馬といる時の一体感、その多幸感の極まり方は著しかったが、それは本当にこの錠剤のせいだろうか。
似て非なる物が、世に出回っている可能性もないだろうか。化学式や成分についてはまったくもってわからないが、純菜が教えてくれたこの錠剤は、果たしてそれほど人体に危ない違法薬物なのだろうか。
数日経つとメッセージが消える機能のアプリで、純菜から、ラムネの使用はせいぜい月イチくらいにしておけと言われた。しかし、すでに理奈子は二回ほど服用して竜馬と会ってしまっている。だが、竜馬への思慕がつのるだけで、取り立てて理奈子は自身の体調に変異は感じなかった。また、この錠剤だって安くはない。二錠で八千円。みすみすトイレで流すにはいささかもったいない気がした。
そうだ、純菜に確かめればいい。それしかないと、理奈子はすぐさま純菜に電話をした。
意外なことに、純菜はすぐに電話に出た。寝起きのようで、ひどい声だった。また、電話口の彼女は明らかに不機嫌そうだった。
「ねぇー、理奈子。あんた、いきなり電話するの、やめてくれる? しかもこの時間に……私、仕事はだいたい夜だからこの時間は寝てるって言ったでしょう?」
刺々しい物言いに、理奈子は怯むつもりはなかった。
「寝起きで悪いけど、一つ教えてほしいの」
挨拶もそこそこに、理奈子は訊ねた。一方的で強気な口調を感じたのか、電話口の純菜の方がすこし怯んだようだった。
「な、何よ、どうしたの?」
「純菜から買ったラムネのことよ」
電話の向こうで、ひゅっと息を飲む気配があった。かまわずに理奈子は続けた。
「あれってさ、まさか、MDMAじゃないよね?」
純菜は、黙っている。一瞬、言葉を失ったようだ。慌てた声で、純菜は切り返す。
「ば! ちょっと、理奈子、バカなことやめて! 電話とかいつものアプリではラムネの話は禁止だってあれほど」
「いいから、はっきり答えて」
早口で声を荒げた純菜を、硬い口調で理奈子は遮った。ぴしりと鞭を打つかのように、一歩も引かない言い方に、純菜は黙り込む。
たたみかけるように、理奈子は続ける。
「テレビやインターネットで、ニュースは見た?」
ついさっき、逮捕されたことで話題になった女優の名前を出した。
「あの女優さん、MDMAと大麻の所持・使用で捕まったって。でも、友達だったらそんな違法な物を売りつけるなんてこと、純菜はしないわよね? ねぇ?」
「あ、当たり前じゃないのよ、な、何言ってるのよ」
慌てた口調で、純菜は答えた。それに対し、理奈子は念を押す。
「そうよね。純菜は、私の友達だものね。私があなたから買ったのは違法な物ではないのよね? ただのラムネよね? そうよね?」
「……そ、そうよ。あれはラムネよ」
心もとないほど慌てた声音だったが、そう答えた純菜の言葉に満足し、理奈子は彼女に礼を述べた。
「そう、よかった。それだけ聞けて安心した。あとでまた、前に教えてくれたあのアプリでやりとりしましょう」
通話を終えた理奈子は、純菜から言質を取ったことに満足しながら、時間の経過とともにメッセージが消えるアプリを開いた。そして、慣れた調子でメッセージを打った。
『さっきはどうも。さっそくだけど、ラムネを買いたいの。三錠で一万二千円とか、どう?』
5
ひと通りの業務を終わらせ、時計を見るとすでに理奈子が退勤する時刻が迫っていた。キリがいいのでそろそろ帰ろうとしていたところで、先輩の店員から了承が出たため、理奈子はタイムカードを押した。
バックヤードを抜けて休憩室に戻ってくると、ちょうど遅番で小休憩をしていたマキコが座っていた。スマホから顔を上げた彼女と目が合い、お疲れ様といつもの挨拶を交わす。
ロッカーの前で帰り支度をしていると、マキコから声をかけてきた。
「理奈子さん、最近痩せました? ほんと、きれいになったというか、まあ、元から美人さんですけど」
ダイエットでもしているのかと訊ねたマキコに、理奈子は何もしていないと笑った。
美容に関する女性の視線は厳しいものだが、そんな同性から褒められたのだ。まんざらでもない。
痩せた、だろうか。確かに少しは痩せたかもしれない。
日頃の家事をこなしながら、夫にはひた隠しにして仕事を続け、息子の面倒を見ている。おまけに、元々それほど大食漢ではなかったのに、竜馬との激しい運動が続いているのだ。痩せることはあっても太ることはないだろう。
しかし、浮かれた気分に水を差すように、マキコは思いがけないことを口走った。
「従業員のみんな、噂してるんですよー。理奈子さん、もしかしたらイケメンな恋人がいるんじゃないかって」
彼女の言葉にぎくりとして、理奈子はそっと顔を上げた。帰り支度をしていた手が止まる。だが、マキコは特にたわいもなく言っただけのようで、ネットサーフかメッセージのチェックか、話しながらにこにこしてスマホの画面を見ている。
「いやね、変な噂。そんなわけないでしょう?」
平然とした態度を装い、理奈子はごまかし笑いをしてみせた。
ところが、マキコは携帯の画面を見ながら話を続け、妙なことを訊ねてきた。
「そうだ。そういえば、理奈子さんのお父さんって埼玉のご実家で介護されてるんですか?」
「そうだけど。それがどうかした?」
水曜日の早退をするのに使っていた嘘を、いまさら言及されようとしているのだろうか。身構えた理奈子の、予感は当たった。
「理奈子さんのお父さん、介護施設とかに入居されているわけじゃないですよね? なんか、他の従業員の人が理奈子さんのことを見かけたらしいんですよ。それも要町で」
くらっとめまいがした。戸惑いを悟られまいと、理奈子は肩を強張らせた。
スマホの画面をタップしながら、マキコはそのスタッフの名前をさらっと告げた。誰なのか隠す様子もなく、彼女の表情を見た限りでは、理奈子の嘘の理由を疑っているわけではなさそうだ。おそらく世間話程度に訊ねたのだろう。
理奈子を見かけたというスタッフの顔を、理奈子はすぐには思い出せずにいたが、よくよく話を聞くと理奈子がまだ新人の頃、何度か指導係を任されていた女性店員で、ぼんやりとながらその顔が蘇った。後輩に対してはあまり愛想のない人で、年齢は確か理奈子よりも五つか六つ上だったはずだ。
「あの人、いま、私や理奈子さんがいる時間帯には入ってないんです。だいたい夜か土日、祝日にシフト入れてることが多いみたいで。そりゃ顔だって忘れちゃいますよね」
苦笑いして教えてくれるマキコに対し、理奈子も愛想笑いで返すしかない。
マキコの話によると、理奈子を見かけたという女性スタッフは豊島区の高松に住んでいるそうだ。最寄り駅は要町。
「その人が言うには、理奈子さんらしき人がどこかに向かって急ぎ足で歩いてたって。めっちゃきれいな格好してたから男がいるんじゃないかって言うんですよ。ほんと、ゴシップ好きですよねぇ」
けらけらと笑うマキコに、理奈子はただ、平常心を装って答えるのが精いっぱいだった。
「要町って、池袋近くの駅よね? さあ、降りたこともないけど」
ですよねー、と屈託なく笑うマキコに挨拶をして休憩室を出るまでの間、理奈子は背中や脇がうっすらと汗ばんでいるのを感じた。
夢中だった。夢中で、理奈子は腰を動かし続けた。上下に、湯面に叩きつけるように。
狭い浴槽の中で、ちゃぷちゃぷとぬるま湯が弾け飛ぶ音が続く。
猫の額と言っていいほどの浴室は、視界を遮らない程度の湿度に包まれている。そのほんのり汗ばむくらいの空間に、獣の息継ぎに似た竜馬の声と、吐息と呼ぶには淫らすぎる理奈子の嗚咽が響いていた。
六月に入って、最初の水曜日。
理奈子はまた、仕事をいつもより少し早く上がらせてもらい、一目散に竜馬の部屋へと向かった。いままでと違うのは、いつかラムネを購入する時に会った純菜のように目立たない服装で、ツバ広の黒い帽子を被って要町を訪れたことくらいか。駅に着いて竜馬のアパートにたどり着くまでの間、道行く人たちの顔をきちんとチェックして歩いた。
これ以上、職場の同僚や知り合いに見つかったり出くわしたりはできないから。
地味な格好で訪れたことを恥じらって詫びると、竜馬は、どうでもいいことだと笑った。
「いいよ。俺、服装なんて興味ないし。理奈子さんのことが、好きなだけ」
言うが早いか、竜馬は理奈子の手を引き寄せ、その体を抱きしめた。そして玄関先で口づけたのを機に、ふたりはいつも通り、慌ただしく服を脱がし合った。
玄関先で、立ったまま膣を舐められた理奈子は、お返しに竜馬の太くて硬くなった肉棒をいとおしくしゃぶり尽くした。跪き、彼に頭を抑え込まれながらじゅぷじゅぷと勃起した陰茎をしゃぶっていると、にわかに舌先に塩辛さを感じる。
竜馬のアパートに着いてすぐ、儀式のように、理奈子は物陰でラムネを飲み込んだ。
全裸になって、しばらく愛し合ってから、理奈子がシャワーを浴びたいと言うと、竜馬は彼女の手を引きそのまま浴室へと向かった。ほどよく温度調節をした飛沫を浴びながら抱き合っていると、理奈子の理性もとろけて汗と共に流されていった。
体を洗い終わって湯船に浸かると、どちらからともなく口づけて、抱き合った。そこから結合に至るまでも自然な流れだった。
湯に浸かり愛撫を始めたあたりから、ラムネが効き始めた。
いつもの入浴以上にじっとりと汗をかき、体の熱がこもっていくのを実感する。対面座位で湯の中で繋がり合うと、天国まではあっという間だった。
月が替わるか否かという時期に、理奈子が住む町で行われていた、竜馬の仕事は業務が終わった。毎日のように理奈子がいる店に弁当を買いにきていた彼が、必然的に来なくなってしまったことで、理奈子の胸にくすぶっていた寂しさと恋しさは一層ひどくつのった。週に一度、水曜日だけの逢瀬では、正直物足りないくらいだった。
湯の中で繋がり、尖りきった左右の乳首を竜馬から交互に吸いつかれ、舐められ、舌で転がされているうちに、十五分もしないうちに理奈子は一度イった。そして自ら腰を振り続け、理奈子は結合部を竜馬に見せるかのように、背中をのけぞらせて体を揺らす。ふたりは交わす言葉もないまま、身も心も繋がっていることを確かめるのに必死だった。まるで大きな地震のように、お湯が弾け飛び、激しい音を立て続けていた。
理奈子の顔や体がふしだらすぎると、竜馬は笑う。
あなたのせいよ、と返して理奈子も笑う。
竜馬と体を繋ぎ合って、彼に指や舌で全身を愛撫されている時が、理奈子にとって生きている証、生きている幸せ、喜びそのものだった。
二回目、三回目と絶頂に昇りつめ、そのたびに理奈子の口からは野獣のような咆哮が漏れ、そのたびに竜馬が片手の指を理奈子の口に突っ込んで声を塞ぐ。雑な扱われ方に欲情し、理奈子はさらに悶えて腰を動かした。
向かい合って抱きすくめられ、理奈子が、膣をきゅっと絞める。すると、竜馬の陰茎がさらに硬さを増し、彼は小さくうめいた。
ふたりとも、全力疾走をしてきたばかりのように、呼吸を荒げた。
竜馬が、理奈子の耳元で熱を帯びた声で囁いた。
「エロっ。淫乱なセイレーンだね。理奈子さん、すっげーエッチだよ」
そう言われて、理奈子の意識がはたと現実に戻ってくる。ついさっきまで、晴れ渡った青空の中、白い雲に包まれながら、この世のものとは思えないほどの快楽を味わい尽くしていたのが錯覚だったとわかる。全身に暖かくて優しい風が当たっていた気がしたのも、ラムネのせいだったのだろうか。
結局、そこから性器で繋がったまま、荒々しく口づけを続けていると、肉棒の硬さを増した竜馬は激しく腰を動かし、射精の寸前でペニスを理奈子の茂みから引き抜いて、湯の中で果てた。粘り気のある白濁が、ふたりの尻の下で漂った。
そのまま中でイって欲しかったと言うと、彼は困った感じの笑顔を見せ、まだダメだと理奈子の頭を撫でた。まだ、という言葉に、輝く未来を期待していいのだろうかと、理奈子の胸に小さな光が灯った。
しばらく抱擁を続けたあと、ふたりは湯から上がり、浴室から出た。乾いたバスタオルで竜馬が濡れた体を優しく拭いてくれる。恥じらってお礼を述べている間に、理奈子の肌についた水滴はあらかた拭き取られていった。
お互いに全身を拭き終わったところで、竜馬が裸のまま、理奈子を横抱きに抱え上げた。慌てて小さな悲鳴を上げた理奈子は、かすかな笑い声を漏らした。止める暇もなく、理奈子はそのまま寝室へと運ばれていった。
この歳で「お姫様だっこ」をされるとは予想もしていなかった。面映ゆくてそう伝えると、竜馬は、俺の人魚姫だからしょうがない、と言った。
ベッドに寝かされてからも、愛撫は続いた。けれど、先ほどの湯船の中で行なったような激しいものではなく、お互いの体のパーツをひとつひとつ、指や舌、唇で確かめ合うかのような落ち着いたものだった。
ふいに、理奈子に腕枕をしてやった竜馬が、耳元で囁くように訊ねた。
「理奈子さん、いま、お酒とか飲んでる?」
にわかに、理奈子の胸がさざめき出した。なぜそんなことを訊ねるのかと、逆に質問をすると、竜馬はさらに予期せぬことを訊ねてきた。
「お酒、じゃないよね。アルコールの匂いはしないもの。じゃあ、他に何か飲んだ?」
答えに窮した理奈子は、何と答えていいかわからず、寝転がったまま竜馬に背中を向けた。バレてしまっただろうか。少し派手に感じ過ぎてしまった。ラムネを服用していることを正直に伝えたら、竜馬は理奈子を軽蔑するかもしれない。それだけは、何としてでも避けたいことだった。
しかし、その一方で、竜馬に嘘をつくこともためらわれた。言葉に迷っていると、彼は背後からそっと理奈子の肩にごつごつした手を置き、うなじに口づけをした。
「もしかして、ドラッグみたいなもの、やってる?」
はっとして、どうしてそう思うのかと訊ねた。すると竜馬は、理奈子がイく瞬間、歯を食いしばって白目を剥いていたあたりから、様子がおかしいと思ったと言って苦笑いした。
頬が、かっと火照るのがわかった。
甘く響く竜馬の声にほだされ、理奈子はかすれた声でうなずいた。
「そう、かもしれない。自分でも、よくわからないの。友達からすすめられただけで」
おそるおそる正直に答えながら、なんていい加減な女だろうかと、理奈子は自分自身が急に恥ずかしくなった。どんな成分が入っているかもわかっていない物を、おそらく違法だと思われる薬をためらいなく飲むなんて。しかも、そんな状態で竜馬に会いに来たなど、逆の立場で考えればどんな卑劣な言葉で非難されてもおかしくはない。
だが、竜馬はそんな理奈子をかばうように、愛撫を続けた。
「いいんだ、俺は。理奈子さんが、どこでどんなことをして、何をやっていても、こうして俺と一緒にいてくれるなら、かまわない。俺は、理奈子さんが幸せなら、それでいい」
信じられない優しい庇護の言葉に、理奈子は胸を打たれた。そして、自然と視界が歪んでかすんでいく。ぽろぽろと、涙がこぼれて枕が濡れ始めた。
竜馬の優しさにほだされ震えていると、彼は理奈子の体を自分の方へ反転させ、片腕でそっと抱きすくめた。そのまま唇を重ねてくる。そこで、理奈子はこらえきれずに泣き始めてしまった。腕の中ですすり泣きをする理奈子を、竜馬は抱きしめ続けた。
ひとしきり涙を涸らした理奈子は、泣き止んでからそれとなく事の経緯を竜馬に話した。もしかしたら、自分自身は警戒心も知識も浅はかなままに、違法なものに手を出してしまったかもしれない。そして一時的な多幸感、そこに付随する快楽にハマりつつあること、すがる相手も相談できる相手もいないことを、正直に打ち明けた。
話し終わるまで、竜馬はじっと黙ったまま、理奈子の肩や背中を時々優しくさすってくれた。胸の内をすっかり打ち明けた理奈子は、自嘲気味に笑って洟をすすった。
「なんか、ごめんね。ずっと私の愚痴とか不満の話ばっかり。こんな話、つまんないよね」
竜馬は、まっすぐな瞳で理奈子を見つめ、首を横に振る。
「私、時々思うんだけどさ。もしかしたら、私なんか、生まれてこなきゃよかったのかなあって。私のことなんか、誰も必要としていないんじゃないかって」
「そんなことない」
静かな、けれど強い口調で竜馬は理奈子の話を遮った。そして理奈子を引き寄せ、彼は力強くその華奢な体をかき抱く。その仕草はまるで、いつか理奈子が颯太にしてあげたことと同じ行為だった。
「そんなこと、ない。理奈子さんは、幸せになるために生まれてきたんだよ。少なくとも、俺は理奈子さんを必要としている」
わずかに腕の力を弱め、竜馬はまた理奈子の目をじっと見つめてきた。
「それだけじゃ、まだ不満?」
今度は理奈子が首を横に振った。唇を噛みしめ、竜馬の瞳を見つめ返していると、その顔がぐらりと歪み、周りの景色も滲んでいった。
涙を、武骨な指が拭ってくれた。
テレビを見ていた夫が、大声でいきなり叫んだ。
「抜けたーっ! よーっしゃ、走れ、走れ!」
突然のことに、理奈子はびくっと肩を震わせた。斜かいに座る颯太も、驚いた様子で箸を動かしていた手を止め、目を丸くして狂喜する父親の様子を見ていた。
一家で夕食を囲んでいたところ、いつもの調子で夫はリモコンを独占し、食事をしながらテレビのプロ野球中継を見ていた。夫が応援していたチームのバッターがライトヒットを放ち、それが軽やかに相手チームのセカンドにいた選手の頭上を飛び越え、ライトの守備の股を転がり抜けたのだ。
唾と米粒を口から飛ばし、それがテーブルに付いたのを見て、理奈子は顔をしかめた。そっとティッシュを一枚取ってそこを拭いても、夫の目は我関せずと液晶画面に釘付けになっている。大仰にため息をついても、気づきもしない様子でにたにたと口元を緩めて笑っていた。
汚い食べ方に辟易しながら、理奈子は丸めたティッシュをゴミ箱に放り捨てた。こんな男とこの家にいつまで一緒に暮らさなければならないのかと、気持ちはめっきり萎えていたが、いつもよりは機嫌がよさそうだったのでそれでよしとした。すぐ近くに座る颯太は黙ったまま、そんな両親の様子をうかがっていた。
「おい。おい、ビール」
うつむいて食事をしていたのですぐには気づかず、呼ばれて顔を上げると、眉間に軽くシワを寄せた夫が空になったグラスを理奈子に差し出していた。イラっとしながらも、自分の怒りが夫に伝わらないように、理奈子は冷蔵庫まで歩いていき、夫がお気に入りにしている銘柄のビールのロング缶を持ってきて、夫のグラスに注いでやった。
泡だらけになると毎回くどくどと、へたくそだな、泡ばっかりじゃねーか、と愚痴られるので、何度も注がされているうちにだいぶうまくなったと思う。余計な才能が身に付いたことで、理奈子はさらに自分自身にも嫌気が差した。
しかし、夫の機嫌が悪い時はこんなものでは済まない。
アンチにしている野球チームが点をリードすれば舌打ちがひどいし、仕事の電話などで気分を害するようなことがあると、電話を切ったあと、やにわにテーブルを拳で叩いたりあからさまに大仰なため息をついたりする。そのたびに理奈子や颯太は言葉少なにびくびくして過ごす羽目になった。
そんな時は決まって家族に矛先が向く。事あるごとに理奈子を呼びつけ何かと用事を言いつけたり、颯太には宿題を済ませたかと執拗に訊ねたり、髪が伸びてみっともないから切れと口調も荒く注意したりと、刺々しい空気が続いた。
その日の夜は、夫の推しのチームが勝っている分、いくらか機嫌がよさそうなだけマシだった。相変わらず、食べ方は汚いが。
六月も折り返しとなり、街の植え込みでは紫陽花の花を頻繁に見かけるようになった。
結局、仕事の都合で颯太から聞いた授業参観には行かれなかった。息子はそのことについて何も言わないが、その分、学校での出来事を理奈子に話すこともなくなった。
思い切って、何度か理奈子の方から帰宅した颯太に訊ねたことがある。今日は学校で何か楽しいことはあったかと、わざと声を弾ませて訊いてみたが、息子はうつむきがちにほの暗い目つきで母親を一瞥しただけで、別にないよ、とだけ小さな声で答えるばかりだった。それきり、いつも自分の部屋にさっさと戻ってしまう。
次第に、理奈子も息子に対する接し方がわからなくなってきた。まだ小学校低学年にしては、あまりに会話がなさすぎるのではないか。二年生ともなると男の子はみんなこうしたものなのだろうか。それとも自分が何か間違ったことをしているのではないか。胸の底に燻る育児に関する不安も、理奈子の心を侵食していった。
何一つ会話らしいものもなく、義務のように食事を終わらせた颯太は、自分が使った箸や食器を黙ったまま積み重ねてキッチンの流しへ運んでいった。
その背中に向かって、理奈子は努めて明るい声をかけた。
「あら、颯太君、えらいわー。ありがとう。自分でお皿を片付けるなんて、えらいね」
理奈子の褒め言葉に、息子は何の反応も示さない。そして、まるで母親の声など聞こえないかのようなそぶりで、スポンジを洗剤で泡立てて皿を洗っていく。
あ、お母さんがやるからいいよ、と理奈子が流しに向かった時には、すでに食器はすべてすすぎまで終わってしまった。
タオルで手を拭いている息子に、なんと声をかけようかためらっているうちに、颯太は母親の傍らを横切り、小走りで自分の部屋へと姿を消した。
うすら寒い侘しさに苛まれた理奈子の背中ごしで、夫の舌打ちと悪態が聞こえた。
「ぁんだよ、あんな玉打つなよ、クソったれ! バカか、あいつは!」
テレビに向かって罵声を浴びせる男を、身内だと認めるのも耐えがたい苦痛だった。
6
淡々と、自宅では変わり映えのない日々が続いていたが、理奈子の胸には竜馬に対する思慕が益々つのっていった。
朝、起きて、夜、寝るまでの間、彼のことを思い出さない日は一日たりともなかった。
スマホを開くたびに、暇さえあれば彼と一緒に撮った写真を眺め、用もないのに何かしらのメッセージを送りたくなる。しかし、鬱陶しがられることは避けたくて、一度書いたメッセージを送信することもできずに消して、また書いては消すという不毛なことを何度もくり返していた。
トイレや入浴の際に、彼の顔を、声を、眼差しを、指や陰茎を思い出しては、自身の指を性器に這わせることも幾度かあったけれど、身勝手な沸点に悶えてこっそり達しても、虚しさだけがいたずらに残った。
そうした日々の些細な不満が、表面張力に耐え切れなくなった液体のように、水曜日の午後にあふれ出してしまうのは仕方のないことだった。
竜馬と会える日は、我慢できずにラムネを含んでしまうことがよくあった。
水曜日になると、まるで通過儀礼のように、理奈子は下着に錠剤をしのばせて出勤するようになった。たまに錠剤を半分に割って使っていた時もあったが、その効能も半分になっている気がして、どうにも満足できないことも多々あった。
ある日、メッセージが消えるアプリでいつものように純菜にラムネの購入を依頼すると、いまいち売ることに乗り気ではない反応で返信が来た。
『あんた、どれくらいの頻度で使ってるの? ちょっと買いすぎよ』
指摘を受け、だいたいの服用頻度を正直に理奈子に伝えた。すると、純菜からもっとセーブするようにと返信が来た。
『ヤリすぎ! もっと考えて使いなさいよ。まさかあんたの年下君には言ってないでしょうね?』
純菜には、数日前に竜馬と関係を持っていることを少しだけ打ち明けた。もちろん、彼にラムネのことは話していないと、純菜には嘘をついていた。
それならいいけど、と純菜はラムネを譲りたがらないようなニュアンスの文面をよこしてきた。売る気があるのかないのか、はっきりしてほしいと理奈子が突っ込んで訊ねると、入手自体が困難になってきたという。
『あればもちろん、私だって譲ってあげたいけどね。正直、手に入れることが厳しいからどうにもならないのよ』
あんたも少しはセーブしなさいと、純菜から指摘を受け、理奈子ははがゆい思いに駆られた。純菜の言葉は嘘か真か、判断はつきかねたが、そう言われたらあきらめるしかない。
こんなことならもっと早く、多めに買っておけばよかったと思いながら、費用もバカにならないので躊躇してしまったことが悔やまれた。
何か他に代わるものはないのかと、アプリのスレッドに載せる文章を打ち込んでいると、すかさず純菜からまた返信があった。
『理奈子、お金はあるの?』
どこまでの金額があればいいのか。文字を打っていた指が止まり、返信する言葉に逡巡していると、続けて純菜からメッセージが来た。
『代用というか、あんたを紹介して欲しいって人がいて。その人がもっといい物、売ってるのよ』
もっといい物。その言葉を信じていいのだろうか?
『ラムネより、すぐに気持ちよくなれるやつ。氷砂糖、よ』
氷砂糖。ラムネと同様、それが隠語なのはなんとなく勘づいた。正式な名称を訊ねないのがルールだろうか。
戸惑っていると、純菜はさらに質問をよこしてくる。
『自分で自分に、注射を打ったことはある?』
あるわけがない。医師や看護師の資格も経験もない。さすがにそこは嘘をつけず、正直に伝えた。注射が打てなければ買えないのか問いかけると、純菜から前向きな返信があった。
『まあ、注射がダメなら炙りか下からでもイケるかな。炙って煙を吸うか、直腸やアソコに注入するのでもいいわ』
単純に、氷砂糖を炙ったら溶けてしまうのではないか、と素朴な疑問が湧いた。純菜が茶化したようなメッセージで返信した。
『そうよ……ドロドロよ(笑)』
よくわからない内容に理奈子は困惑しつつ、純菜の指示に従い、氷砂糖とやらを売ってくれるという人を紹介してもらった。
送られてきたURLをタップすると、同じアプリで使われているその売人のアカウントが表示された。理奈子は、純菜に言われた通り、顔の見えないその売人相手に、メッセージを打ち始めた。
「汗、すごいね。理奈子さん、エロすぎだよ」
乱れた呼吸を整えながら、竜馬は隣に身を横たえ苦笑いをした。
理奈子は、横にした体ごと彼の方に向けて、やはり乱れた呼吸を整え、竜馬に微笑を見せた。その唇や肩先、手や指などが小刻みに震えていたのは、ついさっき絶頂に達して、それがまだ冷めやらないためだ。
ふたりの呼吸に負けず乱れたシーツは、彼らの汗でしっとり湿っている。とりわけ、理奈子の肌に浮いた汗の量はラムネの比ではなかった。
エロいね、とまた理奈子の耳元で囁いた竜馬の低い声に感じて、理奈子の鼓膜は敏感に反応する。彼の吐息のせいもあり、片耳から首筋にかけ、さーっと産毛が異様に逆立つのを感じる。それに伴い、湧き水のように膣も潤っていくのがわかった。
快感に悶えて、吐息に交じり卑猥な声が漏れてしまう理奈子を、竜馬は放っておく性分ではなかった。肩から背中、脇腹、乳房、腰回りと、彼は理奈子の体のあらゆる曲線をその猛々しい指でなぞり、理奈子の頬や首筋、鎖骨、そして唇へと、自身の舌と唇を這わせ、理奈子の理性をとろけさせていく。その技巧は的確に理奈子の急所をとらえ、また、理奈子を狂わせもして多弁にもさせた。
「竜馬君、ダメよ、そこは。あぁ、すごい。ずっと、こうなりたかった。私、竜馬君とこうなるために生まれてきたんだわ。あぁ、すごく欲しい。私、おかしい? おかしいわよね。たぶん、そう、すごくおかしくなってる。でも、いいの。竜馬君とひとつになれたら、それでいい。竜馬君の気持ちも感情も、思っていることすべてを、もっと知りたくて、あなたともっと繋がりたくて、私……」
立て板に水を流したようにしゃべり続ける理奈子の唇を、竜馬はそっと自分の唇で塞いだ。そうしなければ、きっと理奈子は夜までしゃべり続けていただろう。だが、重ねた唇はやがて激しい貪り合いに変わり、その端から唾液があふれ、ぐちゅり、ぴちゃり、と卑猥な音が鳴り続けた。
ほんの小一時間ほど前に、理奈子は純菜から紹介された売人の手により、注射を打ってもらっていた。
要町の駅に着いてから、理奈子は緊張で身を固くしながら竜馬のもとへと向かった。いつもは駅から歩いて十分もかからない程度の距離のはずだが、ハメを外す覚悟もあり、その道のりは長く感じた。
竜馬のアパートに着くと、その塀で囲まれた入り口付近に、待ち合わせをした人物がいた。相手が女性だったことに、意外な感じがした。
理奈子や純菜よりも少し小柄なその女は、うなじが見える程度の黒髪で、ショートボブにしていた。うっすらと茶色がかったレンズのメガネをかけ、マスクをしている。濃いグレーのスーツにヒールが低い黒のパンプスという姿は、どこか学校の教員や営業の仕事でもしているような印象を受けた。
一見、理奈子とさほど変わらないくらいの年齢かと思われたが、髪の生え際やうなじあたりをよく見ると、黒髪の隙間から縮れた白髪がはみ出し、ヘアウィッグを着けているのがわかる。身ぐるみ剥がしたら、だいぶ印象の違う女になるかもしれない。
女は周囲を警戒しながら、理奈子を物陰に誘導した。塀の内側で低木がいくつか植えられたあたり、イチジクの葉が茂る一角で二人してしゃがみ込んだ。
そして女は持参してきた黒いビジネスバッグから細い注射器と止血バンド、水が入ったペットボトルを取り出し、それらを近くにあった室外機に揃え、慣れた手つきで注射の準備を始めた。
「お金、持テキタ? 6ニスル? 8?」
カタコトの発音で、女が理奈子に訊ねた。
分量についてはアプリでやりとりをしていた時にあらかじめ適量を教えてもらい、少し迷ったが、最初は6mgにすると言った。体調への不安もあったが、その時の持ち合わせがあまりなかったのもある。また、いろいろとリスクを背負った割に、さほど効かなかったら後悔すると思い、少量でお願いした。
女から言われるままに、理奈子は格安トライアルということで、四千円を財布から取り出して手渡した。
理奈子の右腕に止血バンドが巻かれ、水を吸い上げた注射器の中で結晶状の粉末が溶けるまで、その時間はおよそ一分とかからなかった。女の手際のよさに、理奈子は軽く感動を覚えた。
右腕の静脈を目がけ、針を刺された。
こんなもの、いったいどれほど効果があるだろうかと首をかしげつつ、チクリとしたかすかな痛みを受け止める。薬液が注入された。
と、次の瞬間、考えるよりも先に言葉が口からあふれ出した。
「いやだ、何これ。すごい。このアパート、こんなに素敵な場所なの? てゆーか、あなた、本当に手際がいいのね。看護師さん? 空が青いわ。ちょっと待って、私、何かおかしい? おかしくない? わーっ、見て、このイチジク! もう実ってる。まだ少し青いけど、熟したら食べられるかな。ねぇ?」
目に映るものすべてが素晴らしいと感想を言いたくなり、理奈子の口はよく動いた。
いきなり幼女のようにはしゃぎ始めた理奈子の様子を見て、女の目がにやりと笑う。マスクの上からでも満足そうな笑みを浮かべているのがわかった。そしてマスクをした口元に人差し指を立て、理奈子のおしゃべりをなだめた。
「ダメヨ、静カニ。コレ、絶対、秘密ヨ」
ぼそぼそとつぶやくような声で理奈子に口止めし、女はティッシュで理奈子の腕に止血をさせた。しばらく抑えておけと言われ、理奈子はその通りにした。
理奈子が丸めたティッシュで注射の痕を抑えている間、女は目にも鮮やかな速さで瞬く間に使用済みの注射器、外した止血バンド、ペットボトルなどを片付け、バッグにしまい込んでいった。
やがて一分ほど経過し、理奈子の注射痕が止血されたのを確認すると、女は血の点が付着したティッシュを理奈子から取り戻し、それもバッグにしまって帰っていった。
「ぃやぁっ、ちょっと、竜馬君。やめて……あぁ」
いつか理奈子が人魚を真似た時の青海波のベッドカバーに包まり、ベッドの上で理奈子は竜馬による長い愛撫に酔いしれていた。
お互いに横向きで寝転がった状態で、彼が両手でずっと理奈子の乳房を揉みしだき、しばらく右の乳首を舐めていたところ、いきなり左の乳首に吸い付いたため、はしたない声が漏れて理奈子は悶えてしまった。
目を閉じて意識が混濁し始めたところで、急に体の違う部位に快感が走ったせいで、理奈子の意識は現実に連れ戻された。すかさず、竜馬が片手の指で理奈子の口を無造作に抑え、絹を裂くような声を強引に塞いだ。
「理奈子さん、声、デカい。ほら、静かに」
まるでダッチワイフか人の形をしたオナホールのように、雑な扱いをされながらも理奈子の膣はあきれるほどよく濡れた。身も心も、その逢瀬の数時間を竜馬にすべて託せる信頼があったから。
快感に溺れ、心なしか歪んだ視界の中、向き合った竜馬の顔を見て、理奈子の秘部はさらに潤い始めた。彼の目が、獣のように光った。
ふいに、竜馬がベッドカバーをふたりの膝あたりまでずり降ろした。クーラーによる冷たい空気のせいで、かすかな肌寒さが彼らを包む。理奈子の乳房も毛穴が粟立ち、乳首周辺の産毛がぞわりと逆立った。
竜馬の愛撫は激しさを増していった。乳房を揉まれ、乳首を吸われ、舐められ、指で転がされ、つままれ、何度も口づけをされ、理奈子は自我も理性も見失っていく。その合間にも彼の指はするすると、蛇のように滑らかな動きで理奈子の下腹部へと到達し、そのまま陰毛の茂みの中へと滑り込んだ。そこからずっと細かな振動をくり返し、執拗なまでにめくれた突起や穴を刺激し始めた。
彼の指は、止まらなかった。
「ちょっと……りょ、竜馬君。やめて……あぁ、やめ……ダメ、そんなに」
嫌だ、やめない、と冷たい声を聞き、理奈子はさらに快楽の波浪に飲み込まれていく。耳を塞ぎたくなるような淫らな液体の音が、理奈子の股間でかすかに鳴り続け、彼の指が動くたびに、それに合わせて理奈子の腰も小刻みに震え、動いてしまう。
急に、どうしようもないほどの尿意のような快感が襲ってきた。その凄まじい悦楽のうねりは、とても耐えきれる程度のものではなかった。
ダムが決壊したかのように、理奈子の股間から飛沫が上がった。
悲鳴にも似たかすれた喘ぎ声が漏れ、理奈子は背中と首をのけぞらせて喚いた。理奈子のうなじを支えるように抱いていた竜馬の指が、素早く理奈子の口の中に突っ込まれる。
「あー、すっげー。理奈子さん、ぐっちょぐちょじゃん。びしょ濡れだよ。こんなに潮吹いちゃって、変態じゃん。淫乱なマンコ、やばいね」
生まれて初めて潮を吹くことを経験した理奈子は、羞恥心を覚える暇もなかった。
愛撫の最中、あちこちに飛んでいた理奈子の意識は、夢うつつに行きつ戻りつをくり返し、露わになった体を隠す余裕もなかった。
半ば放心状態になった理奈子は、仰向けのまま口を半開きにし、その端からよだれが垂れるのもかまわず、部屋の天井を仰ぎ見ていた。水から引き揚げられた魚のように、ぱくぱくと口を動かしてかすかな笑みを浮かべている。そこに竜馬がのしかかってきて、彼は強引に理奈子の脚を広げさせた。ずしりと、彼の体重を全身で感じながら、すでに緩んでほぐされた膣で、理奈子は竜馬の硬い肉棒を受け入れた。
腰を振り始めた竜馬に反応し、理奈子の下の唇はにわかに絞まっていく。
忘我の悦びに浸りながら、理奈子は、その細い両脚を竜馬の腰に絡みつかせ、筋肉が隆起した背中にしがみつき、爪を立てた。体が揺れるたびに、自然と、喘ぎ声とも笑い声ともつかない声が、花びらのような唇から吐息に交じって漏れる。
脳裏に、ついこの前、純菜が送ってよこしたメッセージが蘇る。その意味がわかり、あれは本当だったのだと身をもって感じていた。
『そうよ……ドロドロよ(笑)』
夫が呼んでいることに、しばらく気がつかなかった。
「おい。おい、理奈子。ぼーっとすんなよ。耳、遠いんじゃねーのか?」
苛立ちの交じった口調に、理奈子は慌てて返事をした。ベランダでプランターに並ぶ草花へと水を与えていた手を止め、顔を上げる。いや、正確に言えば、水をあげていた途中で、とっくに手は止まり、竜馬のことを思い出してぼんやりしていた。
「え、あ、ごめんなさい。な、何かあった?」
聞えよがしな舌打ちをして、二階に上がってきた夫は理奈子の反応が鈍いと嘆いた。
「何かじゃねーよ、ワイシャツ。俺が明日着ていくワイシャツ、クローゼットにかかってねえんだよ。クリーニングに出してねーのかよ」
いつもの場所でハンガーにかかっていない上に、タンスの引き出しにストックもないと言って夫は声を荒げた。
ぼんやりしていた頭をめぐらせているうちに、理奈子は洗濯物がだいぶ溜まっていることに気がついた。
あっ、と声を上げて、慌てて洗濯に取りかかろうとしたところで、夫はわざとらしく大きなため息をついた。そして、理奈子をにらみつけ大声を上げた。
「もう、いまから洗って糊まで効かせるのに間に合わねえだろうがよ!」
焦燥感に駆られながら、そんなことはない、急いで洗濯をして洗濯糊を効かせ、大急ぎでアイロンを当てれば何とかなるはずだ、と理奈子は考えた。だが、それをそのまま伝えれば火に油を注ぐようなもので、ぶちギレた夫が怒鳴り散らすのはよくわかっていた。従順に、新品を用意した方が得策だった。
「ごめんなさい、いま、新しいのを買ってくるから」
急いで外出の支度をして靴を履いているところで、背中ごしに夫の冷たい声がした。
「間違ってもコンビニで済ますなよ」
もっと理奈子が若い頃、千五百円ほどのワイシャツを買ってきた時に、夫が「俺をバカにしてるのか」とひどい剣幕を起こしたことがあった。
それ以来、たとえワイシャツ一枚であろうとわざわざ隣町のスーツ専門店に行って買い揃えた。そうせざるを得なかった。
竜馬の指によって、初めて潮を吹かされてから、およそ一週間が過ぎた。
この一週間、自身の肌に吹き出す汗の量がひどく、理奈子はひそかに戸惑った。ほんの少し体を動かしただけでTシャツやブラウスが肌にへばりつくほど、脇や背中など随所がぐっしょりと湿った。一日のうちに何度か着替える必要があるほどの発汗で、それが氷砂糖の副作用だとあらかじめ売人の女から教えてもらっていなければ、あやうく病院に行って医師に相談するところだった。
注射を打ったあと、およそ半月以上は病院にかかるようなことは控えるようにと、女からきつく禁じられていた。とりわけ、尿検査や血液検査などはもってのほかだと。
そして、薬が抜けていくまでの間、様々な副作用が理奈子の身に起き始めた。
日頃の家事をこなしている時など、少し物事に集中するとざわっと髪の毛が逆立つ感覚が芽生えたり、夜、眠る間際など、部屋のそこかしこでカサカサと小動物が蠢いているような気配を感じたり、いままで経験したことのないような感覚に襲われ、にわかに焦ることがあった。
また、入浴中など、湯船に揺れるお湯のゆらぎが、アルミ製の窓枠にくっきりと映っているのを目の当たりにして、かすかな驚きを覚えた。どこをどう見てもその窓枠の表面は鈍いマットな状態で、鏡面のように何かを映し出すことなど不可能な材質だったからだ。
とりわけ理奈子を不安にさせたのは、胸の底から沸々と湧き出てくる、何かを疑うような気持ちだった。
別れを惜しんで、竜馬とその日、最後のキスを交わしたあと、電車に揺られて自宅に帰り着くまでの間、理奈子は何とも落ち着きのない感情に苛まれた。
もしかしたら、いきなり私服警察官が声をかけてくるんじゃないか。竜馬の部屋から自宅に戻るまで、ずっと誰かが尾行してきているのではないか。やっと帰り着いてほっとしても、その油断をしているところで警察や麻薬取締の捜査員たちがドカドカと踏み込んでくるのではないか、など。その不安な気持ちはなかなか収まらなかった。
だが、売人の女からアプリで指示された通り、大量の水を飲んで汗を流し、なるべくタンパク質を取った方がいいと言われたので、帰り際に魚肉ソーセージを買ってそれを齧り、いつもと変わらない日常生活にだんだんと溶け込んでいくうちに、理奈子は悟った。
意外と、バレないものなのだと。
ただ、その副作用はじわじわと現れた。些細なことで苛立ちを覚え、何でもないところで舌打ちをしてしまうことがあった。また、数日間に渡り続いた発汗、その汗の量は著しく、寝ても起きてもどこか落ち着かない感覚がしばらく続いた。
気がつくと、ちっ、ちっ、と何度も小さな舌打ちをしながら理奈子は歩いていた。たかがワイシャツ一枚、愛情も薄れた夫のために、隣町まで行って買わなければならないなんて。自分の人生は何なんだろうと、理奈子はふいに悔しい思いに駆られた。
速足で歩いている自分が惨めでもあり、かつ、いまになって憤りや怒りも湧いてきて、歩きながら理奈子は唇を噛みしめた。かすかに涙が滲みそうにもなったが、通行人にそれを見られて怪訝な顔をされるのも恥ずかしくて、胸の底に湧いてくる負の感情に耐えた。
ああ、竜馬に逢いたい。頭の中は、その想いでいっぱいだった。
しかし、残念ながらその週の水曜日は、向こうの仕事の都合で、彼と逢うことができなかった。総菜屋での仕事から帰る途中、理奈子はこらえきれずに電話をした。
彼は会えないことを素直にわびた。申し訳なさそうな竜馬の声と、その背後では明らかに仕事中とおぼしき作業員たちの声や施工中の物音が聞こえてきた。
それを確かめられてから、安心と諦念を胸に、今度は理奈子の方が竜馬にわびて、早々に電話を切った。もしや嘘をついて、他の誰かとひそかに会っているのではないかという理奈子の疑いの気持ちは、わずかな寂寥と引き換えに少し軽くなった。
また、その週は木曜日だけ、夫がリモートで仕事をするというので、理奈子は慌ててシフトの調整を職場の店長に申し出、休みを申請することができた。シフト提出期限のギリギリの時だったため、理奈子はその日、ひどく慌てた。
竜馬に会うこともできず、人生の重荷にしかならなくなった夫が朝からずっといる平日は、理奈子に思いのほか苦痛を与えた。
竜馬に逢いたい。早く逢いたい。理奈子の記憶は、いつの間にか先週の水曜日へと遡り、彼のベッドのシーツをひどく濡らしてしまった羞恥心と、彼の愛撫を全身で感じ溺れ続けて迎えたオーガズムが、いまさらながら鮮明に蘇ってきた。
そして、理奈子を幸せへと導く鍵は、逢瀬の直前に打った甘く危険な注射だった。
最寄りの駅に着き、改札口を通る前で理奈子は足を止めた。切符売り場の脇に身を寄せ、人目につかないところでスマホを取り出す。メッセージが消えるアプリを開き、売人のアカウントのスレッドを表示して、理奈子は文字を打ち始めた。
『また、お願いできますか。氷のお砂糖、手押しで10だといくらですか?』
売人の女から送られてきたURLをタップすると、動画配信サイトによる注射器の使い方・打ち方の説明だった。同時に受け取ったメッセージには、自分で打つ練習をしてみるように書かれていた。
その後、理奈子の自宅近くまで女はやってきて、例の氷砂糖なる結晶状の粉末と注射器を売ってくれた。練習のために、理奈子は注射器を一つ余分に購入した。
夫や息子が家を出てすぐ、朝の短い時間は注射器の使い方の練習に充てられた。売人の女から教わった通り、生理食塩水を使って何度か試し打ちをしてみる。もちろん、薬液を使った時のような爽快感や恍惚はなかったが、チクリとした針の痛みは、理奈子の海馬をじわじわと刺激し胸を騒がせた。
ある程度使い方に慣れたところで、次回までの楽しみが増えたことに満たされた気持ちになり、理奈子はひとり、にんまりと笑った。
次の水曜日。次もまた、竜馬との密会で楽しもう。それまでの辛抱だから。理奈子はそう強く自分に言い聞かせた。
うれしい報せは、金曜日の昼休憩の時に届いた。午前中の業務を片付け、休憩室に戻る途中、携帯に一件のメッセージが届いていることを知る。アプリを開くと竜馬からだった。
『理奈子さん、お疲れ様。この前の水曜日は、ごめん。それでちょっと提案なんだけど、明後日の日曜は会えないかな? 旦那さんが自宅にいると厳しい? ほんの少しでも、会えないかと思って』
ロッカーから弁当を取り出すことも後回しにして、理奈子は慌ててトイレに駆け込み、個室の中で返信を打ち始めた。日曜日だと、あいにく夫は終日家にいるかもしれないが、昼食の用意だけして、あとは買い物が長引いたフリをしておけば何とかなるかもしれない。
液晶画面に指を滑らせながら、自宅に隠した注射器と粉末のことを思い出し、理奈子はほくそ笑んだ。
情欲で乱れた呼吸を落ち着けつつ、理奈子は竜馬の厚い胸板に頬を寄せ、そのまま頭を預けた。天井を見上げて、満ち足りた笑みを浮かべる。汗が、止まらなかった。
日曜日の昼間、早めに昼食の用意だけ済ませ、颯太と夫が箸を付け始めたのを確認したところで、サラダ油や些末な日用品を切らしてしまったと芝居を打ち、買い物に行ってくると伝え、そそくさと外出した。帰りがけに、さもあれこれと買って時間がかかってしまったと大荷物を下げて帰宅すればいい。そう企んで、理奈子は家を出た。
当然、向かった先は要町だった。
竜馬のアパートに着いてから、初めて売人の女にやられた時と同様に、理奈子はイチジクの茂みの陰にしゃがみ込み、人目がないことを確認した上で、注射器の中に薬剤を仕込み、途中で買ったペットボトルの水でそれを溶かした。
葬式で使う夫の黒いネクタイを止血バンドの代わりにして上腕に巻きつけ、左腕に針を刺し、10mgの氷砂糖を溶かした薬液を注入した。
その瞬間、理奈子の意識は雲を突き抜け、空へとぶっ飛んだ。
髪の毛は毛根からぞわっと逆立ち、得も云われぬ多幸感と興奮に襲われた。口元がにやつくのを抑えられない。それはまるで座ったまま心臓だけがジェットコースターに乗せられ、絶頂から急降下するような感覚だった。凄まじい恍惚を覚えた理奈子は、その状態で竜馬の部屋を訪れ、ベルを押したのだ。
慌ただしく唇を重ねたふたりは、引きちぎるような手つきでお互いの服を脱ぎ捨て、あっという間に全裸になって求め合った。
汗だくになったふたりは、触れ合う肌を滑らせながらとりとめもない話をした。
「すごかった……竜馬君、相変わらず、すごいね。さっきのキスも乳首の吸い方も、アソコの舐め方も、めっちゃよかったよ。私、ちょっと意識失くしてたもの」
ふくみ笑いをしながら、竜馬が答える。
「よかった、満足してもらえて。理奈子さん、また白目剥いてたね。やべーなって思った。すげー声出てたし、濡れ方とか尋常じゃないし。ちょっと心配だった」
それを聞いて恥ずかしくなった理奈子は、顔をそらして竜馬の乳首を少し強めにつまんだ。くすぐったい、と言って彼は身をよじって苦笑した。
時計を見ると、すでに二時間を過ぎてしまっていた。そんなに交わっていただろうかと、理奈子は驚いた。ほんの三十分くらいしか経っていないような感覚だったのに。
シャワーも浴びず、汗を垂らしながらふたりは一心不乱に腰を振り続けた。竜馬の上に乗った時は理奈子の方が、理奈子が四つん這いか仰向けになった時は竜馬の方が。
理奈子が数えきれないくらい絶頂を迎えたのに対し、竜馬は一回射精をしただけだった。そのことがなんとなく、理奈子にとっては申し訳なく感じられたが、濃い白濁を数回放出させた後の彼は、非常に満足そうな笑みを浮かべ、数分間だけ目を閉じていた。その表情は、とても幸せそうだった。
体を休めていた理奈子の肩や背中を、優しく撫でさする竜馬の顔を下から見つめ、理奈子はさっきまでの激しい一部始終を思い出していた。
何かに憑かれたかのように、じゅぽじゅぽと唾液で音を立てながら竜馬の肉棒をしゃぶっていた理奈子を見下ろし、冷酷な目つきで笑っていた竜馬の言葉が耳に蘇る。
「俺のちんぽ、うまい?」
何度もうなずき、えずき、えずきながらうなずき、えずきながらしゃぶって、理奈子は彼の陰茎をガチガチに硬くさせた。その時のふたりは、まさに主と奴隷のようだった。
理奈子の髪をそっと梳かしながら、竜馬がいきなり訊ねた。
「また、何かやってるの? ドラッグか何か、いけないやつ」
さすがに竜馬の目はごまかせないのかと、理奈子は少し焦った。さっきの情事で、自分はそんなにもわかりやすい反応だったのだろうか。確かにこの前よりも量を増やした分、感度も勝り、その効果は明らかに自分自身で実感できるくらいではあったが。
彼に隠してごまかすようなことはできず、理奈子は目をそらして小刻みにうなずいた。
「もしかして、前に俺が訊いた時とは違うやつ、やってる?」
思いもかけない竜馬の言葉に、理奈子は驚いて彼の顔に視線を戻した。そこまで見抜かれてしまったことに、たじろがずにはいられなかった。
「どうしてそこまでわかるの?」
理奈子の顔を引き寄せ、口づけをしながら彼は笑った。
「当たり前じゃん。俺にはわかるよ。理奈子さんのこと、ずっと見てきたから」
もっと知りたいんだ、理奈子さんのこと、と言って竜馬は理奈子の頭を撫でた。
観念して、理奈子は正直に話した。最初の頃にキメていたのはラムネと呼んでいた、おそらく合成麻薬と思われる錠剤だったこと。そして、いまは氷砂糖と呼び合っている薬物で、それを水で溶かして注射器で静脈に打っていることを。
「それって、もしかしてシャブ? つまり、覚醒剤?」
寝返りを打って竜馬に背中を向け、わからないわ、と理奈子はつぶやくように答え、たぶん、そうかも、と付け加えた。
ふたりの間に、少しばかり沈黙が続いたところで、理奈子が訊ねた。
「竜馬君の知っている人で、そういうことをしている人は、他にいる?」
「さあ、俺はよく知らない。関わったことはないかな」
淡々と彼は答えた。さして偏見や軽蔑など何も感じさせない口調だった。
「でも、長距離トラックの運転手とか医療関係者で、そういうのに手を出して捕まった話は聞くよね。過酷な労働だと、それがあると助かるんだって。ひと晩中、眠くならないから体を酷使できるって」
その話を聞き、理奈子は大きくうなずきそうになった。確かに、眠気がいっきに覚めて頭が一時的に冴える感覚はあった。
少し躊躇しながら、理奈子はさらに訊ねた。
「竜馬君は、やったことないの?」
「なかったね。やる機会もなかったし、誘いを受けたこともないし」
「やりたいとも、思わない?」
「俺は……そうだね。やらないかな」
「どうして?」
「爺ちゃんが悲しむようなこと、怒るようなことはしないって決めてるから」
苦笑いをしてそう答えた彼に、理奈子は恥じらいとも後ろめたさともつかない気持ちになって、目線をそらした。ためらいがちに、さらに訊ねた。
「竜馬君は、軽蔑してる? 私のことを」
「軽蔑? 理奈子さんを? どうして?」
おかしなことを聞くもんだという口調で、逆に竜馬が問いかけた。
「だって、私は……私は、竜馬君のお爺様が悲しんだり怒ったりするようなことをしているのよ。いまだって、こんなこと、竜馬君にしか言えないのに」
そんなことか、と竜馬は一笑して理奈子の肩を抱きしめた。
「軽蔑なんかしないよ。むしろ、正直に話してくれてうれしかったし」
その反応に戸惑う理奈子の額に、彼は軽くキスをした。
「理奈子さんは理奈子さんだし、俺は俺、爺ちゃんは爺ちゃんだよ。みんな、それぞれ違う考え方、とらえ方で生きているし。誰か一人の正義で、世界はまとめられないよ」
甘く低い声で言われたその言葉に、理奈子は自分の世界が変わっていくのを感じた。同時に、その時ほど夫と結婚したことを後悔した瞬間はなかった。
体調不良のため、店長に今日の仕事を休めないかと電話した。
「え、またですか。三澤さん、大丈夫? ちゃんと病院には行った?」
六月の半ばから七月の上旬まで、月の替わり目を挟んだ三、四週間の間に、突発的な病欠を複数回申し出れば、さすがに心配されても無理はない。遅刻が一回、欠勤はこれで三度目だ。電話口で渋い顔をした、キリっとした顔立ちの女性店長の様子が目に浮かんだ。
申し訳ないという口調で、理奈子は何度もわびの言葉を述べた。どうにも体がだるくてとても日頃の業務をこなせそうにない。仮病ではないし、体調を崩していることは嘘ではなかった。
せめて病院には行くようにとだけ注意を受け、平謝りして通話は終わった。
「すんなり病院に行けたら、苦労はないのよ」
ぽつりとつぶやいた理奈子は、枕元にスマホを放って寝返りを打った。
初めて氷砂糖の注射を打ったあと、薬が抜けるまでの副作用は、仕事ができないほどのことではなかった。ただ、軽微な幻聴・幻覚と、大量の汗に悩まされた。
二回目、少し量を増やした時、その抜け方は少しつらかった。売人の女に教わった通り、眠剤を服用してみたがあまり効かず、ほぼ一日がかりで氷砂糖の効能が続いた。
就寝時、まぶたの裏でチカチカと人の顔のような物が光り、しばらくそれが続いたせいで眠りも浅く、翌朝の寝覚めはすっきりしなかった。
また、食事がまったく受け付けられず、夕食時に鯛の塩焼きを作ったが、少し箸を付けただけでえづいてしまい、夫と息子が食べているのを眺めているのがやっとだった。
三回目、二回目と同量の10mgを買って、今度は薬液を膣から注入してみた。
注射痕が残るのを避けるために、針を取り除いて肛門や性器から注入する方法もあると知り、試してみた。悪くはなかった。注射器を使った同じポンプ式でも、血管から直で吸収しない分、緩やかに効いてくるのがわかった。眠剤の服用と大量の水を飲むことで、抜けはそれほど苦痛を伴うことはなかった。
問題は四回目、ふたたび針を使って、なおかつ量を増やして15 mgで試してみたあとがひどかった。
竜馬に抱かれて数えきれないほどのオーガズムを感じたその夜、帰宅も夕食の準備もギリギリとなり、あやうく夫からどやされそうになった。また、その夜の覚醒が著しく、一睡もできずに翌朝を迎えた。仕方なくそのまま朝食を作り、夫と息子を見送ったところで軽くソファーに転がったところで寝過ごしてしまった。はっと目覚めると、とうに出勤時間を三十分以上過ぎていた。携帯を見ると複数回にわたる着信が残っており、慌ててかけ直して、その日のシフト担当者に謝って大急ぎで出勤したのだ。
あんたも少しはセーブしなさいと書いてきた、純菜からのメッセージが思い出された。確かに使いすぎかもしれない。
氷砂糖の副作用は、後々になってから思いのほかひどくメンタルに響いてきた。
連日寝つきが悪い夜が続き、やっと眠りにつけたと思うとすぐに朝が来るようになり、その寝覚めは非常に悪かった。肩や背中は鉛でも入れられたかのように重く、とりわけひどい肩こりがしばらく続いた。インターネットで調べたところ、それは常用により筋肉が強張るせいだとわかった。
薬が抜けた後の疲労感は著しく、その重苦しい感覚は、日頃の生理痛や妊婦だった頃に経験したつわりともまた少し違うもので、いくら朝の光を浴びても何もやる気が起きない日が続いた。あれこれ調べている時に見かけた「元気の前借り」という言葉に、心から共感を覚えた。
薬による悪影響は財布と通帳にも及んだ。
量を増やせば増やすほど、回数が重なれば重なるほど、もちろんそれだけ出費がかさむ。理奈子の財布は軽くなり、通帳に記帳された金額も、渋谷で夜遊びをした時から比べると、明らかに三分の二くらいに目減りしていた。
注射器だってタダではないし、使い回すのはどう考えても衛生的によくない。また、何度も使ううちに針先は錆びて皮膚に刺さりにくくなるという。
売人の女に教えられた通り、使用後はペンチで細切れにへし折って、ガムテープなどで包んだ後、拾った空き缶に押し込んで、あちこちの公共のゴミ捨て場、コンビニに設置されたゴミ箱などにさりげなく捨てることをくり返していた。使用している薬物も違法なら、ゴミとしての廃棄方法も違法かもしれないが、案外どこからも咎められることがないことに、理奈子は拍子抜けしてしまった。
午前十一時を回り、小康状態になってきたところで、理奈子はベッドから半身を起こした。食欲はないが、喉が渇いた。水分を摂りたいが、甘い炭酸飲料のようなものが飲みたい気分だった。
けだるく重い気分の中、凝りすぎた肩に手をやった時、枕元のスマホが鳴った。急な休みが度重なったことで、心配しているというマキコからの見舞いのメッセージだった。うっかり既読にしてしまい、また、小さな舌打ちが漏れる。普段は彼女の優しさをありがたく思うべきところだが、なぜかその愛情や親切心が、いまの理奈子にとってはどこか鬱陶しく感じられた。
マキコが理奈子を心配するのも無理はない話で、ここ数週間のうちに、理奈子はたびたび仕事中に些細なミスが続いた。
いつも陳列している料理の並べ方を何度か間違えたり、調理の手順や用具の収納場所を誤ったりと、先輩のスタッフから注意を受けることが幾度かあった。もちろん、理奈子はそのたびに慌てて謝罪したが、なぜそんな初歩的な間違いをしたのかと問われると、自分でも首をかしげるしかなかった。
また、トイレが長いと言われ、お腹でも壊しているのではないかとマキコや他の同僚たちから心配されることもあった。言われて初めて、時間の感覚が少しずつ狂い出していることに気づき、理奈子はひやひやとしながら平然を装って笑ってごまかした。
マキコのメッセージに、何と返信しようか。スマホの液晶画面に指を滑らせかけたが、急にそれが面倒になって、やめた。理奈子は、スマホをまた枕元に放置し、ベッドを出てとりあえず水を飲もうとキッチンへ向かった。




