【序章~3章】
*序章
女は、運転席に乗り込むとすぐにエンジンをかけた。
特に慌てているわけでも急いでいるわけでもないが、なるべく早くその場を去りたかったからだ。さっき使った注射器と止血バンド、栗色のショートヘアのウィッグは座席の背後に置いたブリーフケースにしまってある。
発車する直前、前髪を整えるために傾けたバックミラーを覗くと、そこには少しエラの張った癖のある目つきをした女が写っていた。たった十年、されど十年、付き合い続けたその顔は、貼りつけたように退屈そうな表情を浮かべている。薄い眉毛に尖り気味の鼻、疲れをにじませた深いほうれい線。全体的に角張った顔をしたその女は、あらゆる感情から、喜びや嬉しさなどプラスのものだけを削ぎ落したかのように口をヘの字に曲げていた。
いくらか白いものが交じった黒髪を整えながら、女は中古の軽を発車させた。
隣から、含み笑いの声がする。
「だいぶ、手際よくなったネ」
助手席に座るもう一人の女が、かすかな揶揄を込めた声音で運転席の女を褒めた。彼女が褒めたのは、ハンドルさばきのことなのか、ほんの五分ほど前、シャブを買った客にほどこした静脈注射のことなのか、運転する女にはわかりかねた。
あんたの日本語もだいぶマシになったよとからかったら、助手席の女は気を悪くするだろうか。運転席の女は、ぼんやりとそんなことを考えながらハンドルを切った。
十月に入った大阪は、急に肌寒さを覚えるようになった。
いま、曇天の下、女たちはJRの路線に沿うように、天王寺を右手に見ながら西へ移動しているところだった。
まもなく駅を通過するという一歩手前で、信号機が赤になる。
信号機の色が切り替わるまでの間、指でハンドルを叩いていた運転席の女は、ふと目と鼻の先にある交番が目についた。ついさっき、違法なことをしたばかりだというのに、交番の前を通過するのに平常心でいられる自分に、ひそかに感心して苦笑する。
ところが、交番の脇にある掲示板に、目立つ色味で貼られたポスターと、そこに掲載された女の顔を見て、彼女の心臓はひやりと縮み上がった。一瞬、鏡を見たような錯覚に捕らわれた。
〈絶対に逃がさない! 情報をお寄せください〉
はっきりと太く書かれたゴシック体の文言の上部には、赤と黄色の文字で「重要指名手配」の文字。そして、中央に印刷された女の顔は、紛れもなく、いま車を運転している女が十年前に手放した顔だった。
彼女の名は――。
1
夫と息子を見送った後、理奈子は手早く家事を済ませ、メイクに取りかかる。洗濯をして衣類をベランダに干すまでの間、皿洗いも家の掃除も、勤めに出るようになってから、自分でもほれぼれするほど手際がよくなった。
コンパクトを左右で持ち替えた時、たまたま手鏡に映った左手の甲にひと筋、かすかな傷痕が目立っていた。光の加減か、今日は少し目につく気がする。
その日は、二月の末にしては比較的暖かい気候だった。
先週までは、ウールのコートやダウンか中綿のジャケットを手放せなかったが、今日だけはそれほど厚手の上着は不要かもしれない。
グレーの長袖のカットソーにジーンズを履き、カーキ色の綿のコートを合わせた。靴は、もう五、六年は履いているスニーカー。玄関の姿見で身だしなみを整え、肩より下でふぞろいに伸びた髪を無造作に束ねながら、理奈子は、もうそろそろ髪を切りたいと思う。
しかし、夫の機嫌を損ねないようにびくびくしながら、小学生の息子の世話と家事に追われる日々を顧みると、美容院はおろか千円カットに行く時間もあるだろうかと、ため息をつくしかなかった。
大きな鏡に映る三十路の女は、無難という言葉そのものだった。
ドアを開けると、少し肌寒いくらいの空気が、理奈子の全身を包んだ。
夫には、自分がひそかに働いていることを、理奈子は教えていなかった。夜に家族がそろうまでの間、つまり家の中が理奈子ひとりになる時間帯だけ、地元の惣菜屋で働き始めて、もう半年は過ぎただろう。
いまの理奈子には、とにかく自由を買い取れるくらいの収入が必要だった。
三澤理奈子はいま、西武池袋線の沿線にある、池袋からは電車で十五分程度の住宅街で、夫・厚男と小学二年生になる颯太の三人で暮らしている。
庭付きの二階建てのマイホームで暮らし始めて、早七年弱。新居で過ごし始めた頃、厚男が三十五歳だったことを考えると、いまの自分と同じくらいの年齢だったわけだ。
赤の他人と自宅の話をすると、都心に近い、それでいて住みやすい街に持ち家があるというだけで、誰もが同じような反応を示した。すごいわね、羨ましいわ、という純粋な褒め言葉もあれば、そんな立地条件だと高いでしょう、維持費も大変そうね、という嫉妬にも似た嫌味な言葉もあった。
けれど、いまの理奈子にしてみれば、そうした無責任なお世辞に振り回され、一喜一憂する時代はとっくに過ぎ去った。いまの家で、心から幸せだと実感できたのは、住み始めてほんの二、三年くらいだったのではないだろうか。
高校を卒業後、埼玉県にある実家を出て、理奈子は大学生の頃から東京でひとり暮らしを始めた。雑司ヶ谷にあった1DKの古いアパートは、どこそこ安普請で快適とは言いかねたが、大家さんだったおばあさんはおおらかな人で、いま思えば住み心地のいい面があったことは否めない。
大学を卒業した後、医療機器メーカーに就職し、その後もしばらくは同じアパートで暮らしていたが、結婚を機に引き払うことにしたのだ。
あれは合コンと言えばいいのか。そうだとは知らず、なんとなく同僚の女性社員に誘われるまま参加した飲み会で、何度か席が隣り合う男がいた。それが当時、企業向けに什器の開発・製造・販売を行なっている会社で営業の仕事をしていた三澤厚男だった。
学生時代、ほぼ同年代の異性としか交際することがなかった理奈子にとって、七つも年上の男はそれだけで魅力的に感じた。また、大柄でいつもは真面目な話ばかりしてくるのに、酒が回ると大声で部下や同僚にあれこれ指示を出して立ち回らせる姿が、若かった理奈子の瞳には、とても偉大で頼りがいのある男に映った。傍若無人な口調で放つ、下ネタやジョークにもよく笑わされた。
「俺、何でもできるから。俺だったらさ、理奈子ちゃんの願いなんて何でも叶えてあげられるからね」
タクシーで自宅まで送ってもらう途中、後部座席で手を繋ぎながら、耳打ちされた彼の言葉に、ひどく胸がときめいたのを理奈子はよく覚えている。運転手の目があるのも構わず、熱を帯びた口づけを交わした。
知り合って二ヶ月ほど経った頃、仕事から帰る道すがら、駅の改札でばったり厚男から声をかけられた時はさすがに運命を感じた。
結婚式の直前、周囲の人たちから聞いた話では、どうやら厚男が早々(はやばや)理奈子に目を付け、自分と近づけるように後輩の男性社員たちに協力して仕組んでもらったそうだが、そんな話を聞かされたところで、理奈子にとっては結婚を取りやめる理由にはならなかった。
同僚の女性社員とのランチの席や、学生時代からの女友達とスイーツを食べに行った時など、理奈子ちゃんはモテ筋だものねー、とよく言われたことがある。自分自身、たいして異性からちやほやされた覚えはないのだが、少し心を許して話し込むと、言い寄ってくる男、露骨な優しさを見せてくる男は確かに何人かいた。
小学生の頃、母に用事があって訪れた叔母が、腹ばいになって子供向けのファッション雑誌を眺めていた理奈子を見て、この子は男好きのする顔だねぇ、としみじみ母に話しかけたことを、なんとなく覚えている。
誰もが羨ましがる勝ち組の生活。そう胸を張って言えた暮らしが揺らぎ始めたのは、たぶん、息子の颯太が産まれたあたりだった気がする。
出産の前後、初めて経験する自身の体に起こる変化に、メンタルが追いつかないことが多々あった。
妊娠を夫と喜んだのも束の間、度重なるつわりは重く、鏡を見るのが怖くなるほど、自分の顔色がひどく青ざめているのがわかった。普段は好きだったはずの食べ物は受け付けず、その割には柑橘類などの酸味を帯びた物は無性に食べたくなった。
たびたび襲ってくる吐き気にも散々悩ませられた。その気分の悪さには何もすることができず、朝から夕方までソファーに突っ伏したまま、ぐったりしていることもよくあった。
しかし、そんな妻を夫が労わってくれることはなかった。
仕事を終えた厚男は、飲み会がなければきっちり八時には自宅に帰ってきた。それまでに夕食の用意ができていないと聞こえよがしに舌打ちをするようになった。
「あんだよ、亭主が疲れて帰ってきてメシもねえのかよ」
ったく、ずっとうちにいるくせに、何様のつもりなんだよ、とリビングにいる理奈子の耳に聞こえるように呟くのだ。そして、冷蔵庫を開けて、ろくな物入ってねえなー、最悪だな、とさらに追い打ちをかけるように舌打ちは続く。しばし物色してから、厚男はぞんざいにビールをひと缶取り出し、プルトップの蓋を開けてぐびりと飲み始めた。
理奈子が妊娠中、そんなことが日常茶飯事になっていった。
最初のうち、明らかにイラついている厚男に対し、理奈子は慌てて食事の用意をしようとしていた。
「ごめん、ごめん。どうしても具合が悪くて。ちょっと待ってて、いま用意するから」
「言い訳すんなよ! 俺はそういうのがいちばん嫌いだって知ってるだろっ!」
びくっと肩を震わせ、理奈子はその場で足を止める。急いでキッチンに立つ妻に、ねぎらいの言葉もなかった。
それどころか戸を閉めていても表に聞こえるかのような大声で、いきなり妻を叱責する厚男の声に、足がすくんでしまうばかりだった。気持ちを逆撫でしてしまったことに慌てて、怯える理奈子にはくり返し謝ることしかできない。だが、それ以外にどうしたらいいのか。吐き気に耐えてテーブルに片手をつき、体を支えながらうつむく理奈子は、必死に夫の機嫌取りの策を考えた。
おろおろして怯える妻を冷たい目つきで睨んだ後、厚男は、空になったビールの缶をくしゃっと片手で握り潰し、キッチンの流しに向かって乱暴に投げつけた。ステンレスとアルミが激しくぶつかる音に、理奈子はさらに肩を震わせた。
「外で食ってくる」
大仰なため息をつき、それだけ伝えると、夫はスーツのジャケットをテーブルに放置したまま、財布だけ持って家を出ていった。
厚男が帰宅し、またすぐに自宅を出ていくまでは、ほんの五分間くらいだったろうか。その間の苦痛、気づまりな空気に耐え兼ね、理奈子は流しで胃液ばかりを吐き散らした。
ふり返れば、幼少期からずっと、親に甘えられない生活を続けていた。否、強いられていたと言ってもいい。
理奈子が小学校に上がるかどうかという頃に、弟の亮太が産まれた。その前後から、にわかに両親の仲がこじれてきていたのは、なんとなく勘づいていた。
たびたび両親が諍いを起こしていることがあり、驚いて様子を見に行くと、母が目を真っ赤にして泣きはらしていることもあった。そんな時、父はいつも娘を怒鳴りつけた。
「あっちに行ってろ! 子供のくせに」
その大声に反応したものか、傍らではまだ赤ん坊だった亮太がベビーベッドの上で泣き始める。肩を震わせ、怖くなった少女は自分の部屋に逃げ込むか、外に出て時間を持て余すか、どちらかを選ぶしかなかった。
朝、起きてからずっと、学校から帰ってきて、夜、眠るまでも、週末になって学校が休みの日も、幼かった理奈子には、自宅に自分の居場所が見つからなかった。
そんな中、理奈子はよく母方の祖母の家に預けられることがあった。まだ歩くこともできなかった弟が一緒だった時もあれば、弟だけ叔母の家に預けられていることもあった。
祖母は気立てのいい朗らかな人で、幼い理奈子に料理や洗濯の仕方、掃除のコツなど、家事全般にわたる処世術をそれとなく教えてくれた。
「リナちゃん。ほら、ちょっとやってごらん」
料理では包丁の使い方から始まり、指を切らないように野菜や肉、果物を切るコツを覚えさせられ、米の研ぎ方・炊き方、味噌汁を作る時のだしの取り方も教わった。洗濯機や掃除機の使い方も、手順や効率のいいやり方も、すべて祖母が教えてくれた。
「世の中、勉強ができてもできなくても構わないけど、手に職を付けておけば間違いないからね。仕事ができて、家のことができればなんとかなるもんだよ」
そう優しく諭すように話しかけられ、一緒に野菜が煮込まれていくのを眺めていた日のことを、よく覚えている。
理奈子が小学三年生になってまもない頃、両親が離婚した。
知らないうちに父と母は何度も話し合いの場を設けていたらしく、その場に一度たりとも理奈子が居合わせることはなく、二人は書類上の手続きを速やかに進めていったそうだ。すべてが理奈子にとって事後報告だった。すげない口調で、お父さんはもう帰ってこないのよ、と言う母に対し冷やかな不信感を抱き始めたのは、その頃からだったかもしれない。
そして、幼くして母子家庭となった理奈子の人生に、追い打ちをかけるような出来事が起きた。優しかった祖母が亡くなったのだ。
祖母は、亡くなる一年ほど前から急に体調を崩し、入退院をくり返すようになった。周囲の大人たちがバタバタと慌ただしく動き回り、祖母の世話を見始めたあたりから、理奈子は祖母とゆっくり話をすることはおろか、顔を合わせることもできない状況が続いた。
見舞いに行きたいと、何度か母に訴えたこともある。だが、そのたびに母は面倒くさそうに眉間にシワを寄せ、娘の希望を叶えてくれることはなかった。
「いいのよ、あんたは。子供が見舞いに行ったところで、おばあちゃんがよくなるわけじゃないでしょう。おばあちゃんだって気疲れして、かえって迷惑よ」
それよりも宿題や勉強はちゃんとやったのか、亮太の面倒は見たのか、お姉ちゃんならしっかりやりなさいと、話はすり替えられてしまい、黙り込むしかなかった。近所の病院であればこっそり病室まで訪ねることはできたかもしれないが、入院先の病院は駅をいくつも超えた遠方にあると言われ、結局、病院の名前や場所も教えてもらえなかった。
祖母の病は、すい臓癌だった。病名だけは「スイゾウガン」という言葉だけを覚えるのがやっとで、それがいったいどんな病気かなど、当時、子供だった理奈子には露ほどもわからなかった。けれど、大人になっていくうちに、合点がいく事象の数々に理奈子は思い当たった。
発見された時点で手遅れになるケースがほとんどだという病気であること。また、体調を崩し始めたあたりから、祖母がよく背中など体の節々が痛いと言い出したこと。祖母が作る料理の味付けがおかしいと理奈子が気づき始めた頃には、すでに遅かったということ。
やがて理奈子は知った。父と別れてからずっと、朝早くから夜遅くまで、保険会社と飲食店での仕事を掛け持ちで働いていた母が、孫娘には優しかった祖母とは昔から不仲であったことも。
生活の羅針盤であった祖母を失ったことで、理奈子の心の均衡はもろく崩れた。
小学五年生の頃、春休みが終わる間際に、理奈子は自宅がある集合住宅の外階段で手すりを乗り越え、三階から飛び降りた。幸い、理奈子が落下した場所にはマメツゲの茂みがあり、一命は取りとめたものの、衝撃で気を失い、体中あちこちに擦り傷ができた。
搬送先の病院では、軽傷で済んだことを医師たちは喜んでくれたが、母に目から火が出るほどこっぴどく叱られ、理奈子は、そんな彼らを恨まずにはいられなかった。どうして意識を失っている間に、ひと思いに殺してくれなかったのかと。
その後、小学校を卒業するまでのうち、二回ほど自傷を試みたことがあった。左の手首と甲をカッターナイフで深めに切ってみたのだ。こんなことで命を絶てたらどれほど楽かとぼんやりと思いながら、ゆっくりとあふれ出す鮮血を眺めていた。温かくもずきずきと深くなっていく痛みに耐えていたところで、いずれの時もあえなく他の生徒に見つかり、保健室へと連れていかれた。
傷口を治療されている間、憐れみと困惑に満ちた顔で見つめてくる、中年の女性保健士の眼差しがとても煩わしかった。
迎えに来た母に連れられて帰る途中、理奈子は、人目につかない場所でいきなり母から頬を叩かれた。二発、三発と、往復の平手打ちは理奈子の頬にひどい痛みとほの赤い手形を残した。視界に星が飛んだ。
「どこまで親に迷惑をかけるのよ! 母さんに恥をかかせるのがそんなに楽しい?」
そんなに死にたきゃ勝手に死にな、あんたなんか産むんじゃなかった、と冷やかに罵声を浴びせかける母に対し、理奈子はうつむきながら唇を尖らせ、黙り込んだ。涙は出なかった。ただ、それならさっき、保健士や担任の先生たちの前では、なぜ笑顔で自分を迎えにきて娘の頭を優しく撫でたのか。その暴言も平手打ちも、彼らの前で披露してやればよかったじゃないかと、静かな憤怒に満ちた小さな胸の内でつぶやいていた。
また、理奈子が左手に包帯を巻いて登校したことが二回もあったことで、知らないところでその一件はひそかにクラスメートたちの間で広まり、以来、他の生徒たちから、理奈子は腫物に障るような扱いを受けるようになった。理奈子の方から声をかけても、大半の子たちは怯えた顔をしてその場を離れていった。友達が減っていく焦燥感と、無駄な人付き合いが減ったことへの安堵感とで、板挟みになった。
いまとなってはその傷痕もだいぶ目立たないくらいにはなったが、傷痕に気づいた他人はだいたい見て見ぬふりをしてしまうため、理奈子にとっては好都合だった。
両親の離婚が成立した後、父と再会したことは一度もなかった。
当時の理奈子は、父に会いたかった。まだ弟が産まれていなかった頃、何度か肩車をされたり遊園地や動物園に連れていってもらったりした楽しかった記憶が、うろ覚えながらに残っていたから。
だが、母と折り合いが悪くなってからずっと、父は笑顔を見せなくなり、いつも険しい表情を浮かべるようになった。そんな父の顔を、しかと見ることさえできなくなった理奈子に対し、父の方から手紙や電話をよこすようなことは一切なかった。
もしかすると母が当時、二人を引き合わせないように父からの便りを拒絶していたのかもしれないが、小学生だった理奈子にその辺りの大人の事情など理解できるはずもなく、母にそれらを問いただすこともできなかった。父の話を少しでも始めると、急に母は不機嫌になり、いつも気まずい空気になったからだ。
食事中など、テーブルを叩いてまで拒絶した。
「お父さんの話は、もうやめて。私がいま、お父さんの肩代わりをして働いているのがわからないの? あんたたちのためにどれだけ頑張ってると思うの。まして理奈子はお姉ちゃんでしょう。あら、亮太。ごめんねぇ、泣かないで。もっと食べる? おかわりは?」
その頃から理奈子は、大人の顔色を見ながら成長していった。
人一倍、繊細な人種がいる。近年になって、そうした先天的な気質が存在することを知り、それはまさしく自分自身ではないかと腑に落ちることが多々あった。
親の顔色を見て育った。他人の感情を汲みやすく、集団行動が苦手。感受性が豊かで神経質な一面があり、他人の大声やいきなり立てる音を嫌い、怒りや悲しみなど負の感情に敏感。暗い場所・暗い部屋、また一人きりの時間を好む。先のことを見据える・見通す力に秀でており、相手を喜ばせたり楽しませたりする能力、言葉を選ぶ才能がある。
インターネットや心理学関連の書籍などで見つけたチェックリストを見て、すべて当てはまっていることに驚き、また、答えを見つけ出せたことにかすかな安堵も覚えた。
そして、チェックリストの近くに記載された一文を読んで、ひやりとした。
〈こうした一面を持つ人たちの中には、依存体質なケースもあり、それは幼い頃の家庭環境が影響している場合もあります〉
あまりに一致しすぎる内容に、理奈子はその一文からすぐに目をそらし、本を閉じた。
自己肯定感を損なわず、なおかつ、器用に世の中を渡り歩くすべを、理奈子は物心ついた頃から理解しつつあった。誰が教えてくれたわけでもない、本能的に嗅ぎ分けて身に着けたすべだった。理奈子にとっての強み、ひそかに自覚している長所は「中途半端な賢さ」かもしれない。
愛想がいいと言われ、器量もいいと言われた。その場限りの気の利いた言葉、大人たちが使っていたうわべだけでも取り繕える言葉を使うたびに、コミュニケーションのスキルが高いようなことを言われた。そのたびに、理奈子の中でかすかな違和感が生じた。そしていつも、内心では醒めきったもう一人の自分が、話し相手を軽視するのだ。
「あーあ、わかってないなぁ、こいつもか。誰も本当の私を、見てくれていない」
そんな時、理奈子の心を動かしたのが厚男だった。
神奈川県の中でも、おしゃれな街の代名詞とも言われる中心地で生まれ育ち、都内のみならず国内でも偏差値は上位として名高い、東京の私立大学を卒業した夫は、背の高さも味方して理奈子の目にはきらきらと輝くように映った。
実家は、広い庭を設けた屋敷と呼んでもいい規模の家だった。また、どこまで本当の話だったかは知らないが、大学生の頃など、夏休みになると父親が所有していた外国製の車やヨットを乗り回し、サークルなどで知り合った女子生徒たちをはべからしていたという。
知り合ったばかりの頃、彼から招かれた飲み会に出席してみたところ、周囲の友人たちは男女問わず、誰もが口をそろえて厚男のことを褒めそやしていた。
「厚男さんの実家、めっちゃセレブなんすよ。ほんでまた、厚男さんって大学にいた頃からリーダー的存在で、男らしいし頼りがいあるし」
「そうそう、みんな悩み事があると真っ先に厚男さんに相談するもんな」
「前からだよねぇー。大学生の頃も成績優秀でスポーツマンで、女子に超モテてたもの。彼についていけば間違いないって、うちの親も言ってたし」
だが、理奈子は厚男に対し、そういった肩書きや周囲の口コミだけを信用したわけではなかった。厚男と二人きりになった時、話してみて、その無垢と愚かさを合わせたような単純さに心惹かれたのだ。
知り合ったばかりの頃の厚男は、いささか大風呂敷を広げるタイプであり、時に身勝手で多少の傲慢さや気の短さが垣間見える青年ではあったが、他の人とは違う、相手の心の裏を読もうとはしない、憎めないほどバカ正直な一面があった。白いものは白、黒いものは黒と答える潔さがあった。それは、若かった理奈子が、自身にはなくて、ずっと欲しかったある種の才能でもあった。
また、理奈子が母子家庭で育った話をすると、厚男はすかさず、自分が大学を卒業して就職先が決まってまもなくの頃、自身の母親が病死したことを打ち明けてくれた。理奈子の祖母も、同じ病で亡くなったことを告げると、そこから二人の仲は急速に深まっていった。
高級創作料理を出すレストランの、テラス席の片隅でのことだった。まだ若かった二人は、手すりにもたれて夜景を見ながら話していた。
各自の座席でにぎやかに談笑を続ける、他の知人・友人たちの輪から少し離れ、理奈子はうつむき恥じらいながら、自分の両親の悪口をそれとなく愚痴った。誰にも甘えられず育ったことや、父親が出ていって戻らなかったこと、母親が弟ばかりを溺愛していたことなど。
一本の煙草が燃え尽き、厚男がフィルターだけになったそれをアッシュボックスの網目にこすりつけ、汚れた水に落とすまでの間、彼はじっと理奈子の話に耳を傾けてくれた。
そして、厚男は意外なことを言った。
「よかったじゃん。そんな、理奈子ちゃんを見捨てて出ていっちゃう親父なんて、いない方がましだろう。こんなこと言っちゃ悪いけどよぉ、お母さんもバカなんじゃねーの? こんなかわいい娘を悲しませるなんてさ」
いままで知り合った、他の誰とも違う反応だった。まだ知り合ったばかりの男から、自分の親の悪口をここまではっきりと言われたのが新鮮であり、心地よかった。たったそれだけの言葉が、理奈子の心をくすぐり、厚男との交際へと背中を押した。
あの頃、まだ若かった理奈子は、こんな日が来るなど、爪の先ほども思っていなかった。
頼もしい大人の男、どんな時も助けてくれる強い男。厚男のことを、そう信じて疑わなかった。だが、夫婦生活が深くなっていくほどに、夫が纏っていた輝きや完璧さ、男としての魅力は、一枚、また一枚と、薄皮を剥がすように消えてなくなっていった。
恋は、理奈子の心眼を狂わせていたのだ。
子供ができると人は変わるよ、などと周囲からはよく言われていたが、颯太が産まれた後も、厚男の横暴な態度は変わらなかった。
お産の直前、額に汗を浮かべ陣痛に悶え苦しむ理奈子を前に、さすがにいつもとまったく違う様子の妻を見て、夫にも少しは気遣いの色も見えた。しかし、病院まで車を出してくれる厚男の運転は荒く、事あるごとにクラクションを鳴らした。助手席にいた理奈子は、あからさまに苛立ちを隠せない様子の夫の隣で、幾度となく泣き出してしまいそうになった。
颯太が産まれてから、小学校に入学させるまでの時期は、正直、理奈子にとって苦痛の連続だった。
産まれたばかりの颯太は、笑顔を浮かべる時はさすがに愛らしく思えたが、泣き出した時など、理奈子は手も足も出ない自身の不甲斐なさに、自分も泣きたい気持ちになることばかりだった。
いくらあやしても抱きかかえてなだめても、何がそんなに気に入らないのかと戸惑うほど、昼夜問わず泣き始める。インターネットや育児雑誌、かかりつけの産婦人科で子育ての基本について教えられても、一足す一が必ず二となる答えが返ってくることはなかった。
泣きじゃくる颯太をあやしている時、近くに厚男がいると面倒なことが多くなった。颯太の声がうるさいと、厚男は不機嫌極まりないという顔で、スマホや新聞を見ながら眉間にシワを寄せ、ため息と舌打ちをくり返した。いつも通り、理奈子の耳に聞こえるように。
いよいよ我慢しきれなくなると、決まって理奈子が怒鳴られる始末だった。
「おい! うるせーよ、何とかしろよ! おまえ、母親だろう?」
ごめんなさい、と謝っても、どうしていいかわからない、とは言えない。本当の気持ちは言えない。まして、あなたもおむつを取り替えたりミルクを飲ませてくれたり、私の代わりにお風呂に入れてはくれないの?などとは、口が裂けても言えなかった。
これを亭主関白というのだろうか。これが日本では普通の子育てなのだろうか。
実家の母親に電話をして、何度そのことで相談を持ちかけようと思ったことか。
けれど、ちょうど時を同じくして別宅に暮らしている弟夫婦には理奈子よりも先に子供が生まれ、その孫が可愛くて仕方がないのだと、その時ばかりは妙に機嫌よく、電話口で母親は熱のこもった口調で理奈子に話して聞かせた。それも双子の兄弟だそうで、弟の嫁一人ではとても手がかかって仕方がないため、週に何度か弟夫婦の家に行き、孫の面倒を見ているのだという。
気苦労も足腰の疲れもあって大変だけれど、孫の顔を見るとその疲れも吹き飛んでしまうのだと、電話口で母親はうれしそうに語った。
そんな母親の声を聞くと、自身の状況を伝えることに、理奈子は躊躇してしまう。
一から十まで、すべてぶちまけてやろうか。そうすればすっきりなれるだろうか。母は傷つくだろうか。後ろめたく思うだろうか。浮かれた気持ちに水を差してやりたい衝動に駆られたが、その先にある苦痛を伴う会話が想像できてしまい、理奈子の口は堅くなった。
かろうじて、夫の厚男が時折ひどい暴言を吐くこと、理奈子につらく当たること、育児の苦労について理解を示してくれないことなど、少しだけ不満を漏らして伝えられたが、次の瞬間、電話の向こうでは、母の声も口調もすっと冷やかになった。
「そりゃあそうよ。そんなものでしょうよ、男の人にはわからないわよ。私もあんたたちを育てていた時は不安だったもの」
ため息交じりで話す母の声に、触れたくない過去を話題にされたという嫌気がありありと滲んでいた。父の顔を思い浮かべているのだと、理奈子は気づいた。
もう切るわね、と、まるで重い荷物をすぐにでも肩から降ろして立ち去るような口調で、通話が終わった。
ああ、ダメだ。子育ての話題で、母にはもう相談できない。
電話を切った後、理奈子の頭の中で、憤りとも苛立ちともつかない、やりきれない疑問符がたくさん湧いたけれど、そんなものだろうと母から言われてしまえば、問答無用でうなずくしかなかった。
育児と夫の機嫌取りに追われる合間で、理奈子は頭痛薬や胃薬を飲む機会が増えた。
颯太が言葉を覚えるようになってから、ようやく厚男が息子の世話をしてくれる機会が少しずつ増えてきた。それは夫の気まぐれによるものではあったが、理奈子がキッチンに立ち食事の支度をする間、おもちゃで一緒に遊んでくれたりお風呂に入れてくれたりすると、心底ほっとした。
ただ、遊びが夢中になって颯太がやたら厚男にばかり懐くのを見て、理奈子は、自分にだけ面倒なことばかりを押し付けられたような疎外感を覚えることもあり、複雑な心境でもあった。それでも、これでようやく家族そろって楽しい生活が始まると思うと、少しだけ前向きになれた。
だが、その期待もそう長くは続かなった。
颯太がふざけて厚男の発言に口答えをすると、些細なことでも、夫は息子に手を挙げることが多々あった。言葉で諭すよりも先に、厚男の拳や平手が颯太の頭や顔に飛ぶ。それを見て、慌てて止めに入ると、今度は理奈子が怒鳴られた。
「俺はこいつの父親だぞ! 厳しく育てるのは当たり前だろう」
夫が投げつけてくる、もっともらしい言葉の数々は、その場ではいかにも正しく聞こえるのだが、果たしてそれは我が子に暴力を振るっていい正当な理由になるのだろうか。解せないものを感じながら、理奈子は夫をなだめすかし、泣き喚く息子の頭を撫でた。しかし、いくら頭を悩ませ自分でも納得できる言葉を探してみても、厚男の暴言や暴力を怯ませる言葉は見つからなかった。
小学校にあがったばかりの頃、早々と反抗期を迎えたものか、颯太は事あるごとに両親に反発することが増えた。
ある日曜日の夕方、昼間からリビングいっぱいにおもちゃを散らかし、遊んでいた颯太を見かねて、理奈子は部屋を片付けるように言い聞かせた。夕食の時間が迫っていたのもあり、厚男が目くじらを立てるのも面倒だったためだ。しかし、颯太は笑って話をはぐらかすばかりだった。
そこへ、二階のベランダで仕事の電話を済ませた厚男が、リビングに戻ってきた。携帯を片手に、散らかった部屋を一瞥した夫の表情が曇る。
悪い予感が胸によぎった理奈子は、慌てて息子におもちゃを片付けるようにまた説得し始めた。けれど、颯太は理奈子の言葉など意に介さず、生返事をして昆虫の図鑑から顔を上げようともしなかった。すかさず、厚男が声を荒げた。
「おい、颯太。おまえ、さっさとここにあるもの、片付けろよ。邪魔なんだよ」
片付けないと、こんなおもちゃなんかさっさと捨てちまうぞ、と威圧的な口調で厚男は息子を睨んでソファーにどかっと腰をおろした。すると、父親の発言が気に入らなかったのか、颯太が口を尖らせ、小さな声で反発した。
「ふーん。捨てちゃうって、たとえばー?」
息子がそう答えるや否や、厚男は足元にあった物、車など乗り物のおもちゃやクマのぬいぐるみ、積み木やブロックの類などを、手当たり次第に拾い上げ、玄関先に勢いよくぶん投げ始めた。大きな音を立てながら、上がり框一帯が、たちまち玩具の山となっていく。中にはドアや壁にぶつかった拍子に、壊れてしまった物やヒビが入ってしまった物もあった。
「たとえばだと? これも、これも、これも全部だよ、全部捨ててやるよ! ほら、全部いらねえんだろ! 片付けねえなら全部捨ててやるよ!」
怒鳴り散らして次々とおもちゃを投げ捨て続ける厚男の足にすがりつき、颯太はごめんなさい、ごめんなさいと泣き叫んだ。
成長過程の子供が、反抗的な口を聞くのはよくあることだ。しかし夫は、言葉だけでそれを戒めるということができない人間だった。また、颯太自身、いや、理奈子ですら、そこにあらかじめ気づけなかったのだ。
命令口調ではなく丁寧な言葉で、物事を順序立てて伝えれば、颯太は決して理解できない子供ではない。理奈子にはそれがわかっていた。だが、夫は違った。
「パパ! もうやめて! お願い、許してあげて! 颯太も謝ってるじゃないの」
見ているそばから厚男の暴走はひどくなっていき、放っておけばその暴挙は益々エスカレートしていく。それに耐え切れなくなった理奈子は、夫を止めにかかった。だが、真っ赤な顔で怒鳴り続ける夫は怒りを鎮めることができず、しがみつく妻を己の体から引き離し、今度は理奈子の頬を平手打ちした。
小さな悲鳴を上げ、理奈子はその場に倒れ込む。
妻を見下ろし、カッと見開いた厚男の目には、しまったという焦りの色と、鎮火できない憤怒の色が、同時に浮かんでいた。唾を飛ばしながら、厚男は理奈子に矛先を向けた。
「おまえのせいだぞ! おまえが俺をバカにしてるから子供がつけ上がるんだ! おまえがいけないんだぞ!」
おまえがいけない。思いもしなかった言葉に、じんと痛む頬を片手で抑えたまま、理奈子は困惑した。
なぜ、自分が悪いのか。顔を叩かれて、こんな罵声を浴びせられなくてはいけないほどの悪いことを、自分がいつしでかしたのだろうか。ささやかでもいいから一家が楽しく過ごせるよう、子育てと夫の身の回りの世話に追われ、必死に奔走してきただけなのに。それがそんなに悪いことなのか。家族に尽くすことが、そんなにいけないことなのか。
自分がいつ、どうやって厚男をバカにしたのだろうか。バカにした覚えなど毛頭ない。けれど、自分よりずっと年上の男がそういうなら、そうなのかもしれない。身に覚えがなくても、自分自身、そうとは知らずに夫を軽視していたのかもしれない。
胸の内で、腑に落ちないものがたくさん渦巻いているのだが、ひどい言葉の数々で厚男からなじられているうちに、言い返す言葉は思いつかず、夫の言い分にうなずいてしまう。
結局、あふれる涙をそのままに、理奈子はさめざめと謝るしかすべがなかった。
夫に対して不満を覚え始めたのは、暴言・暴力だけではなかった。
一日の終わりに、自分なりに必死で家事に追われ、くたくたになりながらも、シャワーを浴びていささか生気を取り戻した理奈子は、少しでもいいから厚男から優しくされたいという気持ちがあった。
夜、ベッドに身を横たえた厚男の隣に、そっと自分の体を滑り込ませ、夫の肩に頭をもたせかける。それでもなかなか手を出してこないことに痺れを切らせて、理奈子は片手を厚男の胸に置いた。
彼のパジャマのボタンに指を這わせ、脱がせてみればおざなりにでも自身を抱いてくれるのではないかと期待した。
けれど、厚男はそんな理奈子の手をぞんざいに払い、むにゃむにゃと何事かつぶやきながら、もったりと背中を向けてしまった。
背中を向けたまま、夫は面倒くさそうに言った。
「勘弁してくれよ。明日、朝早いんだ。子供を産んだらもう、女じゃないだろう」
理奈子は、自身の耳を疑った。
子供を産んで、母親になった女は、もう「女」ではない。ならば、いまここにいる自分自身はいったい何者だというのか。
また、夫の言葉にショックを受けると同時に、抱いてもらおうとした自分が急に恥ずかしくなった。
厚男の言葉は理奈子の心に、あまりにも深い傷を残した。唇を噛みしめながら、理奈子は背中を向けたまま安らかな寝息を立てる夫に、怒りとも憤りともつかない非難の気持ちを沸き立たせ、涙をこらえた。
夫の背広から、未使用のコンドームとピアスが転がり落ちたのは、ベッドで拒絶されてからいくらもしない頃だった。
脱ぎ捨てられた背広を拾い上げ、そろそろクリーニングに出そうかとポケットに手を突っ込んだ拍子に、それらが床に転がり落ちた。
金の枠内に小さなパールと珊瑚のビーズをあしらった片耳だけのピアスは、どう見ても理奈子の物ではない。避妊具は夫が用意したものだろうか。いずれにしても、あまりに古典的な自己顕示の手口に、ため息をついた。
それ以来、夫の浮気は露骨なほど、理奈子の目につくようになってきた。
夫の携帯の液晶画面に知らない女の名前が表示されると、素知らぬ顔で彼は携帯を持ち去り、トイレや二階のベランダへと逃げていく。また、情事の後で夫はシャワーも浴びないのか、香水かファンデーションか、明らかに女性用化粧品の匂いをぷんと身にまとわせ、帰ってくることもあった。
正面からぶつかって問い詰めることはできなかった。そんなことをしようものなら、開き直ってまた理奈子に手をあげるに違いなかった。
理奈子が真実を問いただそうとしないことを見越してか、もはや浮気を隠そうともしない夫の態度に、理奈子の怒りや嫉妬は、次第に無関心へと変化していった。沸き上がる負の感情を、冷たくなっていく心で蓋をするしかない。さもなければ、日々の暮らしをやり過ごすこともできなかったから。
夫婦の仲が、刻一刻と冷えきっていくのを肌で実感していた。月に一、二度ほど、仕事の都合で夫が数日でも他県に出張するたびに、もう帰ってこなければいいのに、と心ならずも願うほどだった。その一方で、そう願ってしまう自分はひどく悪い嫁なのではないか、妻として失格なのではないかと罪悪感に苛まれることも多くなった。
そんな矢先、南アジアのある国から、流行病が国外へと感染拡大しているニュースが広まった。
風邪でもインフルエンザでもない、謎の高熱と咳に見舞われ、重度の倦怠感の末に亡くなる著名人が続々と増えていく中、国内では外出時のマスク着用と、飲み会・集団による食事の禁止を余儀なくされた。
得体の知れない流行病がもたらすしわ寄せは、三澤家にも訪れた。
家からなるべく出てはいけない。集団での飲み会・食事会をしてはいけない。国を挙げてそれらのスローガンが掲げられ、その規律・約束を破る人物がいると厳しく糾弾された。
インターネットやテレビでは連日、ウイルス感染に関する話題で持ち切りとなり、嘘か真かさだかではない情報が錯綜し、加熱した報道がくり返された。
自宅待機をしろ。飲みには行くな。上からそんなことを連呼されれば、当然、厚男の仕事にも影響が出てきた。どうしても必要な場合のみ、出勤は週に一、二度と取り決められ、可能な限り、打ち合わせは自宅のパソコンを通したテレビ電話による会議を義務付けられた。
四六時中、自宅で過ごす時間が増えた厚男は、慣れない仕事のくり返しで、明らかにストレスが溜まっているようだった。夫がいつも以上に神経を逆立てているのを、理奈子はずっと肌で感じていた。
夫が家にいる機会が増える。それはすなわち、理奈子や颯太にとっても苦痛が増えることを意味する。仕事で嫌なことがあったのか、何のストレスが原因なのか、夫は苛立ちを隠そうとも抑えようともしない。それはまるで猛獣と同じ檻の中で同居しているようなものだった。
些細なことで理奈子が夫から怒鳴られることもあれば、悪ふざけが過ぎて颯太がひどい仕打ちを受ける日もあった。家の中が息苦しいほど重い空気になると、我関せずとばかりに夫は携帯と財布だけ持って車に乗ってどこかに行ってしまう。そんな時、夫に自宅待機するよう強く言うことなど、もちろん理奈子にはできるはずがなかった。
夫が家から出ていった後の自宅は、台風が過ぎ去ったような有様だった。観葉植物の植木鉢が派手に倒れていたり、皿がいくつも割れていたり。それらを理奈子と颯太で一緒に片付けている間、おそらく、夫はどこかの女と相手の部屋にいるか、ホテルにいるかのどちらかだろう。夫が言うところの、まだ「女」を身に着けている女と。
場の空気が重くなったり、ひそかに理奈子が涙を浮かべていたりすると、颯太は、いつもその闇を払拭させようとしてくれた。たとえば、颯太自身がトイレに入っている時でも。
「ママー、ほら、見てみてー。カメさん、カメさん」
息子に呼ばれるまま、何事かと思ってトイレのドアをそっと開けると、そこにはえくぼを見せて低い視線で母親を見上げる颯太がいた。彼は自身の体を便座に伏せて、便器の蓋を背中に乗せ、亀の真似をしておどけてみせた。
何をくだらないことを、と言いそうになったが、ふざけて手足をバタつかせる颯太の仕草があまりにも滑稽で、思わずぷっと吹き出して笑ってしまった。
颯太は、その場の空気を読み、親に気遣いをする非常に聡い子供に育った。
顔の輪郭や挙動は夫に似ていたが、目鼻立ちや性格は理奈子に似たようだ。
両親の機嫌が悪いことに気づくとそれとなくその場を離れ、聞こえよがしに自室で宿題をすると言う。また、夫の機嫌の悪さや浮気に悩まされ、理奈子が何もする気が起きずに身を横たえていると、胃薬や頭痛薬とコップ一杯の水を近くに置いてくれる。そのさりげなさがあまりにも不憫で、理奈子は涙をこらえて我が子をかき抱いたこともあった。
颯太がそうやって何かと気を利かせてくれるたびに、理奈子はしみじみと実感する。この子もまた、自分と同じように親の顔色、大人の顔色を見ながら育ってしまった。そうせざるを得ない環境で育ってしまったと。
両親の不仲をとりなすように、気まずい空気を払拭しようとする息子の健気さに理奈子が心痛め、およそ二年の時が過ぎようとしていた。パンデミックによる、半強制的な自宅待機の苦痛が続いた。
いつ頃からだろうか、夫の酒量が増えてきたのは。
以前まで、酒気を帯びて帰ってくることなど週末に限ることだったのが、ほぼ自宅に軟禁状態の日々が続き、ひとり自宅で酒を飲むことが増えた夫は、夜通し飲んだものか、明け方、ビールやチューハイの空き缶が山となったダイニングテーブルに突っ伏して寝ている機会が増えた。ひどい時にはそれが二日に一回ほどの週もあった。
さすがに肝臓の具合やアルコール中毒を心配して、天ぷらをつまみながらビールを勢いよく煽る夫に、それとなく酒量を減らしてみてはと持ちかけたが、案の定、夫は小バカにしたように軽く笑うだけだった。
「バカ言え。こんなつまんない家にずっと閉じ込められて酒がやめられるかよ」
衣に包まれたエビをまた口に放り込み、とろんとした目つきで夫はテレビのプロ野球中継に見入る。理奈子は夫の体のことを思って揚げ物はなるべく避けたかったが、野菜の煮物や焼き魚ばかりを出すと、夫はろくに箸もつけないままぷいと外に出て、出来合いの惣菜を買ってくる。そして理奈子に見せつけがましく、パックに入ったトンカツや鶏の唐揚げを食べ始めるので、なおさら始末が悪かった。
なおも理奈子が説得しようと口を開きかけたが、夫が舌打ちをして大仰なため息をついたため、やめた。
夫がアンチにしているチームの選手がホームランを放ち、逆転されたからだ。これ以上、この場で健康管理の話を続けたら、また理不尽に怒鳴られるだけだ。歳月とともに夫の肉体もたるんではきたが、入院するほどではないだけマシかと目をつぶるしかなかった。
いよいよ夫に愛想をつかしたきっかけは、それからまもなくのことだった。
ある朝、大きな物音で目を覚ました理奈子は、頭痛と微熱に浮かされ、ふらつきながら寝室のドアを開けた。目を覚ました時、ベッドの隣には夫がいなかった。
その日の前日、理奈子は風邪をこじらせたようで、朝から寝たり起きたりをくり返し一日の家事を済ませたのだが、寝る前に市販の風邪薬を飲んだものの、翌朝目が覚めても体調はあまり改善したような気配がなかった。
颯太のすすり泣き、謝る声が聞こえてきたのは、寝室を出てすぐだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい! もうしません!」
泣き叫ぶ声に交じり、何かを手ひどく叩く音がする。そのたびに颯太の号泣する声が響いた。その合間に、息子を怒鳴りつける夫の罵声も聞こえる。
「貴様、何やったかわかってんのか! 泣くな! うるせぇ!」
微熱で朦朧とするまま、理奈子は小走りにリビングのドアを開けた。そこには、真っ赤な顔をくちゃくちゃにして泣きはらし、頭を抱えてソファーの隅でうずくまっている颯太と、掃除機のノズルヘッドが付いたままの延長管を握りしめ、真っ赤な顔をして目を見開き、憤怒に震えて突っ立っている夫がいた。
「このガキがよぉー、俺の酒を捨てやがったんだ」
何事かと問うと、呂律が回らない口調で、颯太を叱っている理由を夫が理奈子に説明して聞かせた。どんよりと、目が異常に据わっている。
いつもより早く起きた颯太は、夫がテーブルに突っ伏したまま寝ているのを見て、その場に散らかっていたアルコールの空き缶の山を、夫が寝ているうちに片付け始めたのだという。キッチンにあった、ゴミ袋として使っている大きなビニール袋に、颯太はそのたくさんの空き缶を捨て始めた。
その時、缶の中に少し余っていた酒の残りを、もうわずかだったので流しに捨てたのだと。理奈子がいつもやっていることを見よう見まねでやって、使った皿も洗おうとしていた矢先、物音で夫が目を覚ました。そして皿を洗おうとしていた颯太を、キッチンにやってきた夫が殴り飛ばした。逃げようとする颯太の襟首をつかみ、近くに立てかけてあった掃除機でさらに躾をしているのだと、夫は答えた。
泣きじゃくる颯太を見つめながら、理奈子には息子の気持ちが痛いほどわかった。悪意なんかではない。少しでも家をきれいにしようとする気遣いだったのだと。両親が起き出す前に掃除を済ませておこうとしたのだと。
「男のくせに泣くんじゃねえよ! うるせえよ、おまえが悪いんだろうが!」
何度叩かれて殴られたものか、唇の端に少し血が滲み、目尻や頬に痣を付けたまま、身を縮こまらせて震え、泣きじゃくる颯太を夫はさらに怒鳴りつける。掃除機のパーツを片手に持ったまま、近づいてなおもそれで殴ろうとする夫を、理奈子は必死になって止めた。振り払われても、何度振り払われても構わず、理奈子は、夫を止めにかかった。しかし力で勝てないと知り、それならばと息子を抱きかかえ、理奈子もその場にうずくまる。
夫は、息子も理奈子も、どちらに当たるとも構わず掃除機のパーツを振り下ろした。呂律の回らない口調で、怒鳴りつけながら。
「どけよ、どけ! 邪魔だ! おまえが悪いんだぞ! おまえの教育が悪いから息子がこんなクソガキに育ったんだぞ! おい、どけよ!」
夫の暴走はどれほど続いたであろうか。しばらくするとさすがに疲れたのか、夫はその場で倒れ、リビングの床に大の字になった。そして、ぐだぐだと訳のわからない汚い言葉を吐き散らしながら、やがて大きないびきを立てて眠ってしまった。
自分の腕の中で、痛みと恐怖に怯えて泣きじゃくる息子の背中をさすりながら、理奈子は深いため息をついた。その後、どうやってその場をやり過ごしたのか、よく覚えていない。
家を出よう。ある時、理奈子はそう決意した。
このまま心の通じない夫の暴力に耐え、暮らし続けていたらきっとどちらかが命を落とすことになってしまう。颯太の身に危険が及ぶ可能性だって充分にある。それだけは避けたかった。
百歩譲って、シラフで不機嫌であったり隠れて浮気を続けていたりするくらいまでは、理奈子も我慢をしてきた。だが、浴びるほど飲んだ挙句の暴力・暴言には耐えかねた。
この家を出よう。そのためにはまず、自分自身だけの貯えと収入が必要だった。自分の預金通帳をしげしげと睨みつけ、家の中にあるはした金をかき集め、理奈子は思案した。
いますぐとはいかない。颯太を連れて、いま、いきなり出ていくのは無謀だった。何事にも準備が必要だ。理奈子は、家事の合間を縫ってスマホで求人情報をチェックし始めた。
地元で、なおかつフルタイムは困難なのでパートで働ける所はないか。買い物のついでにフリーペーパーや本屋の就職情報誌をチェックした。
流行病による自宅待機を強いられた期間が過ぎ、日本中でワクチン接種した人が多数となり、世間は少しずつだが、普段通りの生活を取り戻しつつあった。外出時にマスクを着けることも、少し緩和されるニュースが流れた。それに伴い、夫も以前のように会社に出向いて仕事をする必要が出てきた。勤務先の命令であればさすがに従わないわけにもいかず、四六時中、酒の匂いをさせて家を出るわけにはいかない。出社時間は以前よりも短くなったが、夫が自宅にいない時間帯が増えた。
この時を、理奈子は喉から手が出るほど渇望していた。いま、この緩和された期間が続いているうちに、家を出て、なおかつ、息子と二人だけで暮らせるように自立しなくてはならない。そう、決意した。
あちこちの求人情報を漁った結果、一件、普段よく通る商店街の片隅で、たまに利用していた総菜屋にて、パートタイムで働ける人員を募集していた。
近くにあった大型スーパーよりも若干割高な店だったが、味がいいので生活に余裕がある時は、理奈子もたまに頼る店だった。その証拠に、いつもひっきりなしに客が入っていたし、イートイン・スペースは設けず、オンラインによる惣菜販売も行なっていたため、パンデミックの時期、数々の飲食店が潰れていく中、閉店を免れ生き残った数少ない店の一つであった。
募集している仕事内容や、給料・勤務時間・週のうちの日数など、どの条件を見てもいまの理奈子にぴったりだった。理奈子はさっそく履歴書と職務経歴書を用意し、その店に電話をして面接の予定を組んでもらった。
採用の連絡が来てまもなく、理奈子は、夫が不在の昼時に、おやつとしてパンケーキを息子に出してやった。好物だったスフレ状に仕上げたパンケーキを、これでもかとうれしそうな顔で頬張る颯太の目をじっと見つめ、理奈子は彼に話し始めた。
「いい? 颯太。これからお母さんね、昼間のうち、近くのお弁当屋さんで働くことにしたの。平日の間だけだから、お父さんが帰ってくる前には家に戻ってこられるけど。ただね、これは秘密ね。お父さんには絶対に内緒。お母さんとの、秘密。わかった?」
張り詰めた声音で話しかける母親に、何かの思いを察したのか、颯太はフォークを皿に置いてまじまじと理奈子の目を見つめた。さっきまでの笑顔が消えた。
いろいろと聞きたそうな表情でもあったが、少し逡巡した後、颯太はうなずいた。
「うん、わかった。それでお母さんもぼくも助かるなら、いいよ。たぶん」
目を伏せてまたフォークを動かし始めた息子の頭を、理奈子は優しく撫でた。つくづく物分かりの良さに愛しさがあふれた。
「いい子ね。颯太は本当にいい子。お母さん、颯太のために頑張るからね」
母親と息子による秘密の共有。それは颯太にとって、父親である厚男への裏切りかもしれないが、理奈子にとっては、厚男に対する最大の復讐であり、自由を手に入れるための鍵であった。
颯太の柔らかい髪を撫でながら、理奈子はもう後には引けないと改めて心に誓った。
2
また、来た。
理奈子はレジで金額を提示し、客の小柄な女性が財布から小銭を出すまでの間、彼女の背後に立つ、色黒の青年のことをちらっと一瞥した。女性客の次に会計を待つその青年の精悍な威圧感が気になり、伏し目がちな彼の表情を観察していたが、目が合いそうになったのですぐに理奈子の方から視線を女性客に戻した。
七十はとうに過ぎたかと見える客の女性は、買った惣菜の代金を支払うため、財布から懸命になって硬貨をまさぐっているが、指がうまく効かないものか、いささか焦った様子で小銭を数えている。彼女がレジに置いた惣菜のパックは、理奈子によってとっくにビニール袋にひとまとめにされている。
あまりに指が思うように動かないせいか、客の女性はなおさら焦っているようだった。
「大丈夫ですよ。慌てないで、ゆっくりお支払いください」
理奈子が声をかけると、眉間にシワを寄せていた女性の顔がぱっと明るくなった。少し頬を染め、ぴったりの金額の硬貨をカルトンに置き、申し訳なさそうな声で答える。
「本当にごめんなさいね。ああ、やっと取り出せた。歳を取るとこれだから」
自嘲気味に笑う女性の表情に、理奈子もほっとしながら会計を済ませた。理奈子がまだ幼い頃、母の実家に預けられるたび、唯一自分を大事にしてくれた祖母に少し似ていた。
お礼を述べてレシートを手渡すと、小柄なその女性は理奈子に深々とお辞儀をして店を出ていった。
後ろにいた青年が、焼肉弁当をレジの前に置いた。平たいプラスチックの弁当箱の上には、いつも通り小分けにした惣菜一品のプラカップが乗っている。今日は鶏肉の筑前煮だった。
お待たせしました、と理奈子は弁当の金額を提示する。アプリ決済を希望した彼が、自身のスマホでバーコードを読み込ませている間、理奈子は青年の姿をちらりと盗み見た。
理奈子よりは明らかに年下だろう。二十代の後半あたりか。
短めに切った髪は金色に染められ、連日の直射日光によるものか、それとも日焼けサロンに通っているのか肌は浅黒く、夫ほどではないがすらりと長身で、いつもペンキや土の汚れが付いた作業服を着て店にやってくる。おそらくどこかの現場で、建設業・鳶職などをしているのだろう。動物にたとえれば黒豹。だが、その黒目がちなまなざしは子鹿を思わせるほど純朴そうな目をしていた。
彼は、昼を過ぎるとよくこの店を訪れ、品物をいくつか買っていった。弁当だけの時もあれば、その他にサラダや煮物など、副菜の惣菜を少しだけ買っていく時もある。二日に一度くらいのこともあれば、三日続けて姿を見せることもあった。
弁当と惣菜のカップが入ったビニール袋を手渡すと、青年はふり向きもせずに店を出ていく。その背中を、理奈子は心ひそかに、前の人を待てるくらいには優しいのね、とつぶやきながら微笑ましく見送った。
「三澤さん、私、そろそろ代わるから。お昼にしちゃって」
理奈子より一年ほど先に店に入っていた先輩の女性店員が、レジを交代すると言った。
彼女にお礼を述べて、マスクを外してバックヤードの休憩室に入る。家で適当に作った惣菜を詰めた弁当で済ませるつもりだ。
結婚して以来、およそ七年ぶりに仕事をし始めた理奈子は、朝九時の始業から午後三時か四時くらいまでの間、身を粉にして働いた。
採用されて数日のうちは、慣れない作業に戸惑い、帰宅してから夕食の準備をすることも億劫で仕方なかった。夫とは当たり障りない会話でやり過ごし、入浴後は泥のように眠った。夫が家にいる土日以外は、だいたいそんな毎日だった。
自分が平日の昼間だけ働き始めたことを、夫はいつ気がつくだろうかと、薄氷を踏む思いの生活がしばらく続いたが、ひと月もするとそんな心配は杞憂に終わった。
会社から帰ってきて食って寝るだけのルーティンをやり過ごしている夫は、妻子がご機嫌取りで言いなりになっているうちはおとなしく、飲酒のペースがひどくなければさほど揉め事を起こすことはなかった。
拍子抜けするほど、夫は鈍感だった。理奈子に対して、あらゆる意味で興味が薄れていたことが功を奏した。もし、理奈子が趣味でヨガやパッチワークの教室に通い始めたと言っても、夫は小バカにして薄笑いを浮かべるだけで済んだかもしれない。
年末に差し掛かり、パートで働き始めて三、四ヶ月ほど過ぎた頃には、理奈子はひと通りの仕事を覚え、先輩の店員たちからいろいろ頼りにされるようにもなった。
そして年が明け、勤めに出て半年。理奈子は稼ぎを得ること以上に、自分自身が誰かに必要とされている、仕事をしていること自体が誇らしく思えてくる時があった。
昼休憩で、バッグから弁当箱にしていたタッパーを取り出し、割り箸を裂く。そこへ理奈子に続いて休憩室に入ってきた、テーブルを挟んで斜向かいの席に座った女性店員から声をかけられた。
「お疲れ様です。理奈子さん、最近、化粧品とか変えました?」
話しかけてきたのは、理奈子より半月ほど早く採用された斉藤真希子だった。確か歳は理奈子より二つ、三つ若く、店のスタッフからは「マキコさん」と呼ばれている。黒い前髪を眉が隠れるくらいで切りそろえ、後ろ髪はうなじで束ね、いつも銀縁メガネをかけている。無類の読書家だそうだ。
いつも理奈子よりも地味な印象の彼女から、そう切り出されて理奈子は戸惑った。
「え? 何も変えてないけど。なんで?」
「ふーん、そうなんだ。なんか最近めっちゃ生き生きとしてません? きれいになったなぁって」
あからさまに容姿を褒められ、理奈子は吹き出して笑った。
「何よ、それ。まるで元々が汚くてブスだったって言いたいの?」
苦笑いしてそう訊ねると、確かに、私、すごい失礼ですね、とマキコが返し、二人で笑った。歳も近いせいか、理奈子にとって、マキコは職場でいちばん気兼ねなく話せる相手だった。
生き生きとしている—―。確かにそうかもしれない。
身を固めてからというもの、専業主婦として理奈子はすっかり家を守る役割を担ってきた。子育てはほぼ理奈子に丸投げされ、憧れと尊敬の念を抱いて結婚した夫は、メッキが剥がれていくように横暴でろくでもない男に成り下がった。
いまこそ、理奈子は自分自身のために、充実した毎日を送り始めたのだ。
理奈子は昼食を済ませた後、休憩時間が終わるまでの間、マキコから好きな映画やおすすめの本の話、最近話題のドラマについて教えてもらった。
総菜屋でパートとして働き始めてまもなく、こうしてマキコや他の従業員たちと休憩中に世間話をしていて、はたと思い当たったことがある。彼女たちの話題についていけない自分がいたのだ。
専業主婦になってしばらくはテレビやインターネットを見る機会もあったのだが、子育てに追われるようになってからは、映画はおろかテレビでワイドショーやドラマをゆっくり見る暇もなかった。朝晩に、スマホでニュースを斜め読みするくらいが関の山で、本に関しては育児雑誌や料理のレシピ本以外、小説やマンガどころかファッション誌を手に取る機会もなかった。
時代の波に取り残されているのではないか。そう思った。
かすかな焦りを感じるとともに、マキコたちから教えてもらう昨今のトレンド情報は、理奈子に少なからず様々な刺激を与えた。
自身の過去をふり返ってみると、理奈子にはたいして趣味と言えるほどのものがなかった。学生時代、ほんの気まぐれで興味を抱いたギリシア神話や、それに関連する研究資料の書籍、美術品の写真集などをつれづれに読んだり眺めたりしていたくらいだ。
その日その日をやり過ごすのが精いっぱいな半生だった。
昼休憩が終わり、理奈子とマキコはそれぞれの業務に戻っていった。
三月も半ばに入り、ようやく寒いばかりの毎日でもなくなった。
稀に陽が照ってとても暖かい日もあり、道行く人たちの装いも明らかに変わっていった。理奈子が出勤時に羽織る上着も、いよいよ春向けのものになった。
街では街路樹の山桜、緋寒桜が早々と開花を始め、月末に向けてソメイヨシノの蕾も膨らみ始めていた。
「おまえ、何かいいことでもあったのか?」
ある夕食時、刺身の盛り合わせを並べたテーブルに向かい、ふいに夫が理奈子にそう訊ねてきた。理奈子が箸や小皿の用意をしている時だった。
「どうして? 特に何もないけど」
夫にはひた隠しにしている昼間の仕事がバレたのかと、内心ひやりとしながらも、理奈子は平然とした口調で返した。夫の向かい側に座る颯太をちらりと見ると、息子は両親の会話など聞こえないような顔で食事を続けている。
夫の話によると、先週末のよく晴れた土曜日、理奈子は庭先で洗濯物を干しながら鼻歌を歌っていたのだという。理奈子自身、無意識でしていたことだった。
その話を聞き、どぎまぎしながら理奈子は苦笑した。
「そりゃ、私だって鼻歌くらい歌うわよ」
ふーん、あっそ、とだけつぶやき、夫はビールを煽り、何事もなかったかのようにマグロの切り身に箸をつけ始めた。味噌汁を啜りながら、理奈子は、心臓の鼓動がいつもより速いのを感じていた。
次第にはつらつとした表情を見せるようになった理奈子に対し、夫は訝しい顔をしながらも、妻をたまに抱くようになった。
理奈子が昼間の仕事で疲れていても、週末の夜ともなると、夫は緩慢な動きで理奈子の部屋着を脱がせてくる。理奈子としては気分が乗らず、断りたい気持ちの方が強かったが、男の力に勝てるはずもなく、あっけなく乳房を揉みしだかれる。
繊細さに欠ける手つきにはまったく愛情が持てず、さほど濡れてもいない膣に無理やり陰茎を差し込もうとする夫の強引さに、理奈子は苦痛を覚えた。ずっしりと重い、たるんだ体がのしかかってくることも耐え難い。
だが、それを拒否すれば夫はすぐに機嫌を損ね、理奈子にどんな暴力を振るうかわかったものではない。ほんの数十分の間、苦行のような性行為に耐え、出すものを出してしまえば夫はどうせおとなしくなる。そうわかっていたから、理奈子は耐えた。眉間にシワを寄せ、自身の体の上で単調に腰を振るだけの夫に辟易としながら、果ててすぐに彼が背中を向けて寝てしまうことを、ひたすら待った。そんな週末が何度か続いた。
その日は土曜日だったが、仕事の都合で朝から夫は家を出ていた。理奈子は午前中のうちに買い物を済ませてしまおうと、自転車を走らせてスーパーと商店街をハシゴしていた。
すっかり春が幕を明けたような暖かさもあり、しかし時折思い出したかのように冷たい風が吹く、清々しい陽気の日だった。
ひと通り買い物を済ませた理奈子は、自転車の前後のカゴいっぱいに、食材や日用品が詰まったビニール袋を載せていた。そろそろ帰ろうかと、自転車のペダルを踏んで漕ぎ出し、ある曲がり角に差し掛かった時だった。
何者かと、正面からぶつかった。
自転車を急停止させ、理奈子は小さな悲鳴を上げた。
とっさに両足でバランスを取り、踏ん張ったおかげで横倒しに派手に倒れることはなかったが、うっかり体勢を崩した理奈子はよろめき、その拍子に自転車の前カゴに載せていた買い物袋の山から、卵を一パック、地面に落としてしまった。透明なパックの中に詰まった卵から、黄身と白身がちらりと覗き見えた。割れたのは一目瞭然だった。
割れないように、あえて他の品物の上に載せていたのがまずかった。
何か失敗した時に、夫から怒鳴られたり舌打ちをされたりすることが常となっていた理奈子は、いつもの癖でぶつかった相手に即座に謝った。
「ごめんなさい!」
「ごめんなさい!」
ところが、ほぼ同時に相手が同じ言葉を発したことで、理奈子は面食らった。謝った相手の声は男のものだったから、なおさらだった。
ぶつかった相手と目が合い、はっと息を呑んだ。黒豹を彷彿とする浅黒い肌に、すらりとした長身。黒目がちな子鹿の瞳。金色の短い髪。いつもは汚れた作業服なのに、今日はやけにさわやかな白いTシャツとくすんだ色のジーパン。
平日の昼間、理奈子が勤めている店にやってくる青年だった。理奈子のことを覚えているものかどうか、彼も理奈子の顔を見て、はっとした表情を見せた。しかし、ついとそらした視線の先、無惨に割れたパック入りの卵に気づいたその青年は、慌てて体勢を立て直し、理奈子に平謝りした。
「やべっ、ごめんなさい! 本当にすみません、まさかこんな……あの、本当にごめんなさい! どうしよう」
目を丸くして申し訳なさそうな表情を浮かべた若い黒豹は、理奈子がケガをしていないか訊ねた。たいしたことはないと笑った理奈子に、なおも青年は謝り続けた。そして中身が割れた卵のパックを拾い上げる。地面に接触した面をふたりで見て確かめると、卵はほぼすべてが割れてしまっていた。
青年はため息を一つこぼし、卵を弁償すると申し出た。理奈子は慌てて首を横に振った。
「いいのよ、いいの。卵は三パック買ったから。これくらい何でもないし。それにすぐに使っちゃえばいいから」
苦笑いを浮かべて手を振った理奈子に対し、今度は青年の方が、それはいけないと頑なに首を横に振った。
「ダメです。それじゃ、これは俺がもらいますから。代わりの分を買ってきます」
そう言うと、半ば強引に青年は理奈子に自転車をその場に止めさせるように言って、鍵をかけさせた。そしてカゴに詰めていた大きな買い物袋を二つ、青年は軽々と両手に持って、すぐ近くにあったスーパーにふたりで立ち寄ることになった。
仕方なく、理奈子はうながされるまま、青年についていった。いつも買っている卵はどれかと訊ねられ、正直にその卵を手に取ると、こっちにしましょう、と言って、青年はいくらか値段が高い卵を手に取った。無農薬で質のいい餌を鶏に食べさせて産ませたと謳っている、産地も明記された国産の卵だった。
断ろうとした理奈子の申し出を振り切り、高い卵を持って青年はレジに向かってしまう。戸惑いながら、仕方なく彼についていく理奈子は、完全に彼のペースに押し切られ、結局、そのままふたりでレジに並んだ。
スーパーを出て、新しく買ったいつもより高い卵を理奈子に手渡し、青年は頭を下げた。
「ほんとにすみません。これで許してもらえたらいいんですが」
かすかに頬を染め、伏し目がちに謝る青年に、こちらも恐縮しながらお礼を述べる。遠慮がちに卵のパックを受け取り、理奈子はビニール袋にそれを納めた。
理奈子は自転車を押しながら足を進め、青年は割れた卵のパックが入ったビニール袋を片手に、どちらからともなく、連れ添い歩き始めた。
何か話をするべきかと理奈子がためらっていると、彼の方から話しかけてきた。
「確か、自分がいつも行く総菜屋さんにいますよね」
彼に認識されていたことに、理奈子は爪の先ほどの喜びを覚えた。笑顔でうなずいたのを機に、ふたりの会話は弾んだ。お互いの名を名乗り、他愛もない話をした。
青年の名は、青木竜馬。
高卒で青森の実家を出て以来、職を転々とし、いまは建設作業員として働いている。今年の五月で二十八になるという。
引き締まった体つきは、ジムに通わなくても身に備わった仕事柄によるものだった。
上京してからは住まいも何度か変わったそうで、仕事で知り合った友人宅に間借りをさせてもらったこともあれば、社員寮にいたこともあったらしい。いまは、三年ほど前から要町にある古いアパートでひとり暮らしをしているそうだ。
「いまの現場が、ちょうどこの街にあって。ほら、駅前で工事中の建物があるでしょう? あそこの外壁補修と塗装をやってるんです」
そう言われて、理奈子は思い出した。
たまに最寄り駅の近くで用事があり、そこまで行くと、付近に仮設の足場を設けた建物がいくつかあった。今日、竜馬は半休で、午前中だけ現場にいる社員との打ち合わせなどがあり、この街に来ていたという。もしかしたら、何かのタイミングで知らないうちに竜馬とすれ違っていたのかもしれない。
家族の話題になり、理奈子は竜馬の家庭環境がいささか複雑だったことを知った。両親、祖父母ともに離婚しており、腹違いの兄弟・姉妹がいるという。また、幼少期は自身を育ててくれた人が何度も代わったそうだ。
いろいろあったのね、とつぶやくように言った理奈子に、そうっすね、いろいろありました、と竜馬は自嘲気味に笑った。
教えられてすぐには覚えられない竜馬の家族構成を聞き、暴力的な夫に耐えてきた自身の半生を、理奈子は顧みた。いまの自分は決して幸せだとは言い切れない日々を送っているが、誰を頼ればわからない幼少期を過ごしたであろう竜馬の過去を思うと、自分の労苦もまだマシな方ではないのかと、ちらりと考えた。どこに誰の物差しを当てても、正解とは言えない話ではあるが。
連れ添い歩きながら、いつのまにかふたりは近くの緑地帯が広がる公園の片隅にたどり着いた。大きな池と近くに川が流れる場所で、目についたベンチに座り、それとなく話し込んでしまっていた。
西の空へ太陽が傾いてきたことに気づき、腕時計を見るとだいぶ時間が過ぎていた。竜馬と歩きながら話を始めて、とうに一時間半も過ぎていたことに理奈子は驚いた。ほんの三十分くらいのつもりでいた。
「もうこんな時間。そろそろ帰らないと。ごめんね。でも、すごく楽しかった」
申し訳なく竜馬にそう伝えると、彼も驚いたように自分の携帯で時刻を確かめた。竜馬も、これほど時間が経っていたことが意外なようだった。
「なんか、あっという間でしたね。ちょっと名残惜しいけど」
寂しそうにつぶやいた彼の目を見て、理奈子は苦笑いでうなずいた。本当に、理奈子の方も心から寂しい気持ちがあった。
ベンチから立ち上がり、理奈子は目の前に止めていた自転車の鍵を外す。自宅に向かう道順を考えながら、竜馬に向き直った。そして卵を弁償してくれたお礼を述べた。
サドルに跨ったところで、竜馬が訊ねた。
「あの、理奈子さんは、いつも昼時にいるんですか? あのお店には」
視線をあちこちにそらしながら、ぎこちなく訊く竜馬に理奈子は微笑んだ。
「そうね。平日の間だけだし、十二時か十三時、だいたいどちらかでお昼休みになるけど」
そう答えると、わかりました、と竜馬はうなずき、また飯を買いに行きます、とだけ理奈子の目を見ずに言った。
ぜひ来てほしいと改めてお礼を伝え、理奈子はペダルを踏んだ。
いつまでもそこにとどまっているわけにもいかず、風を切って自転車を走らせる。家路へと向かう間、自転車のペダルがいつもより軽やかに感じられた。
その夜、夕食に作ったカニ玉とオムレツをひと口食べ、うまいな、と夫は目を丸くした。息子の颯太も美味しいと連呼して笑った。それもそのはずで、いつもより高い卵を四つも使ったことを、理奈子は微笑を浮かべただけで黙っていた。
今日、初めて名前を知ったばかりの男が買ってくれた卵を、ひそかに夫に食べさせるという行為は、わずかな毒を料理に盛るような、ささやかな快感を理奈子にもたらした。
翌週から、約束通り、竜馬は平日の昼間に必ずと言っていいほどの頻度で理奈子が勤める総菜屋に姿をあらわした。
買っていくものは相変わらず、焼肉や生姜焼き、唐揚げなど、肉料理の弁当をメインに、いくつか副菜になる惣菜を少しだけ足して買っていく。
理奈子がレジを打っている時に当たると、彼はとてもうれしそうに話しかけてくる。ひと言ふた言、短い話をすることもあれば、忙しい時間帯でレジの前に長い列ができた時など、竜馬は店の前でひとり携帯をいじり、客がはけたのを見計らって弁当を買っていくこともあった。
貴重な休み時間を削ってしまっているのではないかと理奈子が問うと、十分もあれば口にかき込んで済ませるから平気だと彼は笑った。
卵を割られて、親しく話をするようになってから二週間ほど過ぎた頃、理奈子がいつも通りにレジに立って会計をしていたところ、選んだ弁当や総菜を持って竜馬がやってきた。彼がその日に選んだのは、珍しく幕の内弁当だった。副菜は、鶏の筑前煮とトマトのサラダ。
幕の内弁当は、いろんな食材・惣菜が詰め込まれ、手間もかかるため、その店で出している弁当としてはいちばん高い。
いつも肉料理の弁当ばかり買うため、不思議に思った理奈子だったが、金額を提示したところ、竜馬は現金で払うと言う。普段、たいていスマホでのアプリ決済をするため、理奈子はなおさら珍しいと感じた。
そのことを伝えようとしたところ、折り曲げた千円札を二枚、彼は理奈子に差し出した。そして、その差し出された紙幣の下に、何か白い紙があった。よく見ると、それは過去に発行されたこの総菜屋のレシートだった。ポケットに入っていた物を捨てそびれ、間違って紙幣と一緒に出してしまったのだと思ったが、紙幣と一緒に広げてみて、理奈子は目を見開いた。
くしゃくしゃになったレシートの裏側、白い紙面には、携帯の電話番号とメッセージアプリのIDが走り書きされていたのだ。
え、と声ならぬ声を漏らし、理奈子は竜馬を見上げた。すると、彼はにっこりと微笑を浮かべ、他の客や従業員には気づかれないように、そっと片目をつぶってみせた。
久しく経験していなかった異性との連絡先交換に、理奈子は一瞬面食らったが、そそくさと金額を打ち込んで紙幣を開いたレジスターにしまい、おつりを取り出して竜馬に手渡した。その一連の動きが終わるまでの間、電話番号を書いたレシートは雑に折りたたまれながらも、理奈子の指と指の隙間で大切に隠されていた。
弁当と惣菜が入ったビニール袋を竜馬に手渡す時、彼の指が、ほんの一瞬だが意味ありげに優しく理奈子の指を握った。彼の体温を感じて、理奈子の心が色づき始めた。硬く閉じた蕾が、一瞬にしてほころび、鮮やかな色の花びらが見えたような、甘美な感情が全身を駆けめぐっていく。
ほんの数秒間、ふたりは見つめ合った後、竜馬は背を向け、何もなかったように店を出ていった。それを見送った理奈子は、防犯カメラの死角になる場所で、他の従業員たちの目が届かないように、そっと指に挟んだままのレシートをエプロンのポケットにしまった。
その日の夜から、こっそり蜜を舐めるような幸せを理奈子は味わい始めた。
仕事から帰宅した後、真っ先に自分のスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。レシートに書かれたIDで検索をかけると、すぐに竜馬のアカウントが表示された。
追加登録をして、ドキドキしながらメッセージを送る。
文章を、何度か打ち間違えては書き直した。操作する指が、かすかに震えた。
思いのほか、すぐに既読が付いたのを確かめ、ほっと安堵のため息をついた。
そこからは、長いメッセージのやりとりとなった。
ベッドで眠りにつくまでの間、理奈子は夫や颯太から怪しまれない程度に、スマホの液晶画面を夢中になってチェックしていた。
竜馬からのメッセージは、男特有の単調さがありながらも、こちらの気持ちをうかがうような言葉を選んでいる気遣いが見られた。大人たちの顔色を見て育ってきた者の、心の余裕めいたものすら感じてしまう。むしろ、いままで年下の男と親しくなった機会のない理奈子の方が、どう接して言葉を返していいものかと躊躇するぐらいだった。
勤め先にいなくても、いつでもやりとりできる状態となり、理奈子の心は弾んだ。
相手の顔が見えない気安さもあり、理奈子はいままでの愚痴や不満を吐露するかのように、自分の現状について竜馬に洗いざらい伝えた。
年上の夫と小学生の息子がいること以外に、夫からの暴力・暴言に傷ついてきたこと、夫には秘密にして昼間働いていること、いつか貯蓄を増やして離婚した後、家を出ようと考えていることなど、できる限り端的に、救いを求めるかのように言葉を打ち込んだ。
一度こぼれ出した言葉は、堰を切ったようにほとばしり、誰かに訊ねなくては気が済まなかった。自分は間違っているのか。間違っているなら、何をどうすればいいのか。必死な気持ちを託したメッセージはとめどなく続いた。
ひとしきり長文を送った後、既読の印がついてしばらく静かな時間が過ぎた。まずかったか。連絡先を交換したばかりだというのに、調子に乗ってかなりぶちまけてしまったことを、理奈子は悔いた。竜馬が興ざめしてしまったのではないかと、やきもきしてすぐ、彼からまた返信があった。
『理奈子さんは、何も間違っていないし、悪くない。ただ、出会った相手が間違っていたんです』
そのひと言に、理奈子は稲妻に打たれたような衝撃を覚えた。
なぜいままで気づかなかったのだろう、こんな簡単なことに。ずっとくどくど思い悩んでいたことが、竜馬からのこのひと言で、一撃の雷の後、空が瞬く間に晴れ渡っていくような心地だった。
その後、理奈子をフォローする彼からの優しいメッセージに、あふれる涙が止まらなくなった。ベッドの隣をちらっと見やると、夫がぽっかり口を開けて高いびきを立てて眠っている。それを幸いに、理奈子は盛大に洟をかんだ。
竜馬は、理奈子の加勢をして夫を悪し様に言うことは微塵もなかった。それどころか、話を聞いた限りでは夫自身、なんらかの心の病を患っているのではないか、夫こそ不幸な身の上かもしれないと、切々と理奈子を気遣う文面を送ってよこした。
『たぶん、旦那さんの方が理奈子さんよりもかわいそうな人なんです。どうか責めないであげてほしいと思います』
竜馬の心根の優しさ、寛大さに一層心ほだされた。彼に対しての親愛の情が、激しい愛しさの波と化して理奈子の胸を打った。
『俺に何ができるかわからないけど、理奈子さんの悲しみや辛さを受け止めることはできると思う』
だからできる限り、ひとりで悩まずに相談してほしいと、竜馬は最後にそう伝えてきた。その一文を読んで、理奈子は声を押し殺して泣いた。
久しく感じたことのない感情が、理奈子の胸の底から湧き上がってくる。この気持ちを、恋と呼ばずして何と呼べばいいか。
会いたかった。いますぐに、竜馬に会いたい想いがあふれた。だが、理奈子の左手の薬指には痕が残るほどに指輪が嵌められ、その足には、結婚という名の見えない重い鎖が繋がれている。
存分に涙を流しきって胸の昂ぶりが少し落ち着いたところで、メッセージを打った。
『いろいろ愚痴って、ごめん。ありがとう! 今度、時間ができた時にまた会えないかな?』
一瞬、送ろうかどうか迷ったが、理奈子はそのまま送信した。
ランチタイムで大勢の客が出入りした後、少しだけ人の波が落ち着いたところを見計らい、理奈子は店のショーケースに惣菜を盛り付けた大きな器を次々と陳列していった。半年も同じことをくり返していれば、その手際の良さも鮮やかだった。
あっという間に、またガラスケース内が色とりどりの料理で埋まったのを見届け、理奈子は壁の時計を見る。時刻は二時。今日は、そろそろ引き上げる時間だ。
バックヤードに向かう途中、タイムカードを打刻したところで、マキコに声をかけられた。
「あ、もうそろそろですね。お疲れ様です。理奈子さんも大変ですねぇー。お父さんの介護、あんまり頑張りすぎないでくださいよ」
ねぎらってくれるマキコの言葉に理奈子は微笑み、エプロンを外しながら礼を述べた。
竜馬の休みは、日曜日以外は水曜日に当たることが多いと聞き、理奈子は店長に、水曜日は一時間早く上がれないかと思い切って相談した。母親の都合で、実家の父親の介護が必要になったと、思いつきで述べた嘘の理由を店長はあっさりと信じてくれた。
父親の顔など、理奈子が小学生の頃、家を出ていって以来よく覚えていないというのに、理奈子の水曜日だけの早退を、周囲はたやすく受け入れてくれた。
不思議と、罪悪感は微塵も湧かなかった。
手早く着替えを済ませ、お疲れ様です、と周りに声をかけてから、理奈子は若草色のスプリングコートを羽織った。この日のために、池袋のデパートで新調したものだ。取り立てて高いものではなかったが、いまの理奈子にとっては精いっぱい背伸びしたおしゃれだった。髪も、夫に気づかれない程度にカットしてもらっていた。
新しいコート以外は、ほぼ普段着のままだった。淡いグレーの綿製のカットソーは、七分袖のボートネック。下はいつも履いている、ゆったりしたソフトデニムのパンツだ。
あまり派手に身を飾ると、職場の人たちにも不審がられてしまうため、さりげなさを意識した服装にした。コートも数日前から普段使いにしていた。
職場を出て、最寄り駅からほど近いショッピングモールに入り、理奈子は建物内にあるトイレで手早く化粧直しをした。そして、バッグの中にあらかじめしのばせていたアクセサリーを取り出した。四つ葉のクローバーをモチーフにした、プラチナのペンダントを首に下げ、ピンクのフラワーモチーフのピアスを両耳に着ける。どう見ても、これから親の介護をする娘のようには見えないと、鏡に向かって理奈子は薄く笑った。
仕上げに、化粧ポーチから取り出した小さなボトルの蓋を取り、首にリボンの飾りが付いたその香水を手首と指、髪に軽く噴霧した。コートを買った時に、一緒に奮発したものだ。ミス・ディオールのトワレが、バラや芍薬、スズランなどの花束を持たされたような錯覚を起こさせる。
四月の頭、街は、いよいよそこかしこで春を迎えていた。
都内ではあちこちで桜の開花宣言が始まり、テレビの情報番組やネットでは、桜や抹茶、苺などを使った、いま話題の新作スイーツの話が漏れ聞こえていた。街を行く人たちも、すっかり春の装いに変わっている。
水曜日に早退をすることにした理奈子は、たびたび竜馬と待ち合わせ、人目を忍んで隣町のカフェなどで会うようになった。
最初のうち、理奈子は変装しているかのように、普段はあまり着ないような黒っぽい服を着たり、竜馬と会う直前まで帽子を目深に被ったりしていた。職場の人など知っている人にばったり出くわさないかと、ひやひやしながらの逢瀬だったが、意外なほどそうした事故は起きなかった。
そして今日、理奈子は竜馬と、いつもよりも長く過ごせることに、叫び出したくなるほどの喜びを感じていた。この春の陽気な時期に、夫が仕事の都合で名古屋へ二泊ほど出張することになったのだ。また、颯太は学校で、ほぼ一日がかりの移動教室に参加することになっているそうで、バスで帰ってくるのが夕方の六時くらいになるという。何でもひとりでできるように育った颯太には、鍵を持たせている。
「今日はね、お母さん、お友達とちょっと用事があって帰りが遅くなるかもしれないの。だから、帰ってきたら一人で夕飯を食べててくれる? もちろん、その話もお父さんには内緒だからね」
今朝、微笑みながら唇にそっと人差し指を当て、理奈子は息子の瞳を覗き込んで言い聞かせた。颯太は、何一つ反論も質問もせず、こくんとうなずいてくれた。
理奈子は一人分のハンバーグとサラダを作り、冷蔵庫に入れておいた。幸い、電子レンジも炊飯器も、颯太の身長でも届くところに置かれているため、何も問題はなかった。
何かあったらお母さんの携帯に電話するようにとだけ伝え、理奈子は家を出た。
化粧ポーチをバッグにしまった理奈子は、足取りも軽く、ショッピングモールを出て待ち合わせ場所へと向かう。普段使っている最寄り駅と、竜馬と逢引する店がある隣町の駅と、その中間あたりに川があり、その近くにあるベンチで落ち合うことになっていた。
指定された場所に近づき、理奈子は一瞬、足を止めた。
川沿いに並ぶ二十本以上はある桜並木が、いっせいに薄桃の花を咲かせ、風がそよぐたびにちらほらと花びらを散らせていた。その見事な春のひとコマ、頭上で花が舞い散る木々の下では、散歩で犬を連れた人や、寄り添い歩く老夫婦が行き来していた。言葉を失くすほどの美しい景色でありながらも、平日のせいか、その場にはごった返すほどの人だかりはなかった。
なんて贅沢な景色、贅沢な時間だろうかと笑みを浮かべ、歩き出してまもなく、竜馬から指定された橋のたもとに、彼を見つけた。間に合わせのように石で造られた椅子に座り、スマホをいじっていたが、理奈子の気配に気づいたのか、彼は顔をあげた。
理奈子と目が合ってすぐ、彼はまぶしい光を見るかのように表情をほころばせた。
「お待たせ。ごめんね、だいぶ待った?」
歩みを速めて近づいた理奈子の姿をまじまじと眺め、竜馬は微笑を浮かべてばかりいる。怪訝に思った理奈子は、さらに訊ねた。
「どうしたの?」
「いや、その、理奈子さんって、こんなにきれいな人だったかなぁって」
あまりにまっすぐな褒め言葉に、理奈子は頬が火照るような照れくささを覚えた。ここまで率直に男に賛美されたのは何年ぶりだろうか。
今年に入ってから、職場の人にもそう言われて褒められた話を笑いながら伝えると、竜馬は、やっぱり、そう感じたのは俺だけじゃなかったのかと、語気を強めて微笑んだ。
歩き出してすぐに、竜馬は理奈子と手を繋いできた。そのさりげないリードに、理奈子の胸はさらにときめいた。
ゆっくりと歩きながら、頭上を見上げてふたりは桜を賞賛した。
竜馬の話によると、ここの桜は隠れた春の名所だという。目黒川や千鳥ヶ淵と比べるとその規模ははるかに小さいが、誰かと少しだけ春を楽しむにはもってこいだと。
さらに、竜馬は自分の生まれ故郷である、青森の桜についても教えてくれた。
「確か、青森だったら弘前の桜が有名だよね」
なんとなく聞きかじった程度の知識で話をすると、竜馬は目を見開いてうなずいた。
「ああ、そっか。理奈子さん、弘前城の桜、見たことないのか」
そりゃそうよ、青森には縁もゆかりもないもの、と苦笑いで返すと、竜馬はぜひとも一生に一度は見てほしい景色だと言った。
「いつか、理奈子さんと一緒に行きたいなぁ。もちろん、春の桜が咲く頃に」
何の衒いも恥じらいもなくそんなことを言う竜馬に、理奈子は自身の頬が染まっていくのを実感した。また、その胸に湧き起こる喜びが、ますますあふれていくのも。
お茶や食事をする時に知った程度ではあったが、竜馬は意外なほど博識だった。理奈子が知らないような話題もよく知っていたし、雑学にも長けていた。頭がいいのね、と率直に褒めたところ、週に一冊読み終わるくらいのペースで小説や実用書などにも目を通しているという。
どこに連れていくつもりか、理奈子は竜馬にうながされるままについて歩いていたが、せっかくだからと、ふいに彼は理奈子の手を離し、川沿いの手すりにもたれさせたり、桜の木の下にひとりで立たせたりした。そのたびに、彼は自分のスマホのレンズを理奈子に向けて、シャッターを切った。
笑って、と指示されるたびに、久しく写真を撮られることもなかったため、面映ゆさに否が応でも笑ってしまう。スマホのデータに収められた自分の写真を見せてもらい、理奈子は驚いた。自分とは思えないくらい、幸せそうな微笑を浮かべた美しい女がそこにいた。竜馬の前では、こんなにも明るい笑顔ができるのかと、信じられない気持ちだった。
その後、何枚か竜馬と一緒に写真を撮って、スマホのアルバムをふたりでチェックした。その時だった。ふっと顔を上げた瞬間、彼がさりげなく首をかしげながら、すばやく理奈子の唇に自身の唇を重ねてきた。
たじろぐ暇もないままに、理奈子は数秒間、唇を吸われていた。このままでは舌を差し込まれるのではないかと不安になったところで、彼は口づけをやめて顔をそらした。そして何事もなかったかのように、また、理奈子の手を握って歩き始めた。
ついていくだけだったが、うつむきがちに歩きながら、理奈子は自分の頬が桜の花びらに負けず劣らず薄桃に染まっていくのを感じた。
「ここ、俺の部屋」
電車で二十分ばかり揺られた末に、ふたりは要町に着いた。
狭くて汚いけど、と前置きされて招かれた竜馬の部屋は、アパートの二階、南西向きに窓がある1Kの間取りだった。むせるような、男の匂いがした。
ベッドを置けば、およそ三分の一の床面積が埋まる寝室と、小さなテーブルと二つの椅子が置かれたそっけないダイニング。その脇に浴室とトイレがあるだけの簡素な造りだったが、室内は思いのほか整頓されていた。部屋の隅にある小さな本棚にはぎっしりと文庫本やハードカバーの書籍が埋まり、その傍らにはダンベル二つとトレーニング用のベンチが折りたたまれてあった。
目の端に見える寝床には、カラフルな和柄のベッドカバーがかけられ、そこだけ遊郭のごとき不釣り合いな淫靡さがあった。
窓の前に立ち止まり、理奈子はふり向きざまに窓を開けていいか訊ねようとした。
次の瞬間、体の両脇から絡め取られるように抱きすくめられた。抗う隙もなかった。無理やり正面を向かされた理奈子は、荒々しく口づけされ、そのまま力強く抱きしめられた。
一度だけ、唇を離す。目の前に、真剣な眼差しで、しかしかすかに口元に微笑を浮かべた竜馬の顔があった。潤む彼の瞳は、理奈子の瞳を覗き込むように見つめ返してくる。そして、彼は額を軽く理奈子の眉間に押し付けた。
「俺、ずっと、欲しかったんだ」
何それ、変なの、と照れ隠しで笑おうとした理奈子の右目から、すっとひと筋、涙が頬を伝い落ちた。それが引鉄となったように、なし崩しに竜馬はもう一度、理奈子に口づけた。さらに、その唇に舌を挿し入れてくる。口内を舌でまさぐられるたびに、理奈子は、膣が濡れていくのを感じた。
熟した果実や死肉に群がる獣のように、ふたりはお互いの唇を貪り合った。
口づけを続けながら、お互いの服を脱がし合う。一分一秒を、惜しむかのように慌ただしく裸になっていく。意外なことに、竜馬はブラジャーの外し方以上に、ピアスやペンダントの外し方がうまかった。
ベッドに放り投げるように理奈子を押し倒した竜馬は、仰向けになった彼女の上に自らの肉体を重ね、理奈子の全身を味わい始めた。ずしりと、竜馬の体重と体温を同時に己の肉体を通して感じ、理奈子は恍惚の表情を浮かべる。
そこから先、理奈子は脳髄がとろけていきそうな快楽の波に溺れ続けた。
愛撫は、どのくらいの時間続いただろうか。
長い口づけを皮切りに、頬から首筋、鎖骨、うなじへとキスの雨を降らせた竜馬の指と唇と舌先は、理奈子の下腹部へと滑っていった。乳房を両手でゆっくり優しく揉みしだかれた末、理奈子は悦楽の海底へと沈められていく。彼の舌先は焦らすように乳輪を舐め取り、乳首の先端を左右交互に、大胆に舐め回した。
乳頭に吸い付かれた瞬間、自分のものとは思えない熱を帯びた声が漏れ、理奈子は背中を弓なりにそらし、全身が火照っていくのを感じた。
竜馬の舌、唇、指はさらに理奈子の腹部を過ぎ、股間の茂みへと到達した。
そこだけはやめてほしいと、理奈子は両脚を内股に曲げ、両膝を上げて懸命に拒んだ。下から竜馬を見つめ、命乞いをするかのように首を横に振る。だが、彼はそれを赦さず、当然のように力ずくで理奈子の両脚をこじ開け、すかさず茂みの奥へと、細く尖らせた舌先を滑り込ませた。
じゅくじゅくと、熱を帯びながら理奈子の花芯は瞬く間に濡れていく。
まるで傷み始めた桃の割れ目を、強引に皮を剥き、したたり落ちる甘い果汁を飲み尽くすように、竜馬は理奈子の突起やひだを舐め回し、その液体を派手な音を立てて啜った。
はしたない声が漏れるたびに、理奈子は、自分がこんなにも淫乱な女だったのかと愕然とした。愕然としながらも、気がつけば自ら脚を開き、竜馬の愛撫と舌の戯れをねだった。
もう我慢しきれないと言って、竜馬は理奈子の両脚の間にその身を滑り込ませ、正面から、硬くいきり立った自らの分身を理奈子の濡れた茂みの中へ挿入してきた。
理奈子の股の間には、体のあちこちがしなやかな筋肉で埋め尽くされた、黒豹を思わせる青年が膝立ちしている。その肉体美は、夫のたるんだ体躯とは似ても似つかない。服を着ている時にはわからなかったが、その胸板は意外なほど厚く、樺色の乳首もすっと刃物で切り込んだようなヘソの穴、その周囲に見える腹筋も、飾っておいてずっと眺めていたいほど、美しかった。
ずぶりと、理奈子の花芯に、竜馬の硬いおしべが突っ込まれた。
「ああああああああああ」
膣が、重い。ずしりと竜馬の陰茎が挿入されて、膣が重かった。しかし、痛みのように感じられたひりひりとした感触は、すぐさま慣れて彼自身を受け入れていく。
「ごめん、痛い?」
繋がったまま、竜馬は体を伏せて、理奈子の耳元で吐息交じりに訊ねた。痛くは、ない。ただ、キツく閉ざしていた花芯が思いのほか濡れて、感激しているだけだ。ねばついた愛液があふれているため、痛くはない。むしろもっと欲しい。奥まで欲しい。
そう、言いたかったが、その時の理奈子には、自分の感情を言葉として紡ぎ出すことは不可能だった。痛くはない。その意思表示のため、震えながら首を横に振るしかできない。
理奈子の気持ちが通じたものか、竜馬は、さらに己の陰茎を理奈子の中へ、奥深くへと、ゆっくりと沈めてきた。竜馬の熱い肉棒を、自分のめしべの奥で感じ、おかしくなりそうで、その快楽に耐え切れず、理奈子は必死になって竜馬の背中にしがみついた。爪を立てても、彼は痛がりもせず、少しずつ速度を上げて腰を振り始めた。
そこからは、竜馬に言われるがまま、理奈子は淫らな女に成り下がった。
上に乗って、と言われれば仰向けになった竜馬と向かい合って彼に跨り、硬くなった彼の陰茎を膣の奥へと沈めていき、四つん這いになって、と言われれば土下座をする体勢で尻を後ろへ持ち上げ、そのまま竜馬の分身を待ち望んだ。
上から下から、前後の体勢になってまで、繋がって、繋がって、繋がり続けた。
竜馬の硬い分身を突き立てられるたびに、理奈子は髪を振り乱し、悶え、喘ぎ、乳首を尖らせて濡れた声で泣いた。泣き声を上げるたびに、竜馬の指は的確に理奈子の乳房や脇腹、尻を愛撫し、尖った乳首を優しく、けれど強めに摘まんだ。そのたびに、いよいよ快感は増して理奈子の花芯は濡れた。また声を上げる。そうすると、彼は片手で理奈子の口を塞ぎ、静かにして、とこればかりは無理な命令をして無邪気な笑顔を見せた。
そして理奈子は、彼の陰茎を、その硬さと熱をもっと感じたくて、ねだって求めて、時として自ら腰を振って、ぐちゅぐちゅと卑猥な液体の音を立て、膣を絞めたり緩めたりをくり返し、猥雑な時間を愉しんだ。
対面座位、という体位を初めて知った。挿入することがこれほど気持ちいいものだと、初めて知った。そして、女にもイくという感覚があることを、理奈子は初めて知った。
すべて、竜馬が初めて教えてくれたものだった。
夫にはもちろん、異性に体を許したことは一度や二度ではない。けれど、いままで経験してきた性的な繋がりは何だったのだろうか。
ついさっき、仰向けになった竜馬の上に跨った理奈子は、長座の姿勢だった彼の上で散々腰を振っていたが、それに飽き足らず、彼は理奈子と繋がったまま、正常位に持ち込んで、今度は彼の方が激しく腰を振った。パンパンと、お互いの肉が打ち付けられる音に欲情しながら、理奈子は泣きわめいて竜馬の顔を見上げた。
彼は、まるで猟奇殺人者のような笑みを浮かべ、そのサイコパスが人間を生きたままナイフで何回も刺し続けるかのように、理奈子の花芯に己の陰茎を愉快そうに突き立てた。何回も何回も、突き立てた。
やがて、竜馬は声を荒げ、いよいよ我慢ができないと言った。理奈子は、自身の理性も顧みず、自分の中でイって欲しいと伝えた。後先など考えず、彼の遺伝子が欲しくなった。だが、彼は放出ギリギリのところで最後の理性を効かせたものか、すんでのところで理奈子の膣から陰茎を抜き、その赤黒い亀頭から勢いよく射精をした。一発、二発、三発と、凄まじい白濁の精液を、理奈子の下腹部にまき散らした。間一髪、膣内での放出は避けられた。
たったそれだけのことだったが、理奈子にとってはかすかな、されど髪をかきむしりたくなるほどの不満を感じさせた。
竜馬の陰茎で膣内をかき回され、何度高みに昇りつめただろうか。
汗だくになったふたりは、呼吸を荒げたまま横になった。
荒げた呼吸が収まるまで、髪を乱した理奈子は、竜馬の腕の中にいた。
ちょうど窓辺にもたれるように、竜馬は低反発素材の枕を立てて、その上に半身を載せ、理奈子は彼に抱きかかえられるように、その身を預けてしばし呼吸を整えた。何も言わなくても、何かが通じ合っている静かな時間が、心地よかった。
竜馬の裸の胸に半身を預け、理奈子は彼の胸に片耳を当て、その鼓動を聴いた。
傾き始めた太陽が、窓辺を鈍いオレンジ色に染めていく。ついさっき、汗だくになった竜馬が窓を開けてくれたおかげで、新しい風が部屋をいささか清めてくれた。
「よかった」
「よかった?」
しばらく乱れた呼吸を整えたところで、お互いにかけた言葉とタイミングが被り、ふたりは屈託なく笑った。
信じられないくらいの快感で何度も絶頂を味合わされた理奈子の感想と、相手を悦ばせることに夢中で少し不安だった竜馬の質問が、絶妙にシンクロしてさらにふたりの距離は一歩近づく。竜馬は、理奈子の髪を解きほぐしながら、優しく口づけた。
事後、日も暮れぬうちから年下の男と睦言を交わしているいま、理奈子は楽園にいるような気持ちになった。いまのこの状態が、永遠に続けばいいと願わずにはいられなかった。
お互いの過去の恋愛遍歴にまで話題が及ぶと、竜馬は自身の初体験についても教えてくれた。
女体の扱いについては、十九の頃、当時お世話になっていた先輩の交際相手だった女性から、いろいろ教えてもらったと。また、還暦で海に出て亡くなったという祖父からも「女を抱く時は仔猫やガラス細工を抱く気持ちでいろ」と言われたそうだ。町のあちこちで浮き名を流し、祖母を散々怒らせたり泣かせたりした人だったという。その話を聞き、理奈子は、竜馬の祖父の色香は孫にことごとく遺伝したのだろうと、ぼんやりと考えた。
彼の過去が紐解かれていくほどに、それを自分だけしか知らないという事実に、理奈子は得も言われぬ発情と優越感を覚えた。
紐解かれていく過去は、竜馬だけではなかった。
愛撫に酔いしれていたところ、はたと気がつくと理奈子の左手のあちこちに、執拗なまでに竜馬は口づけていた。それも、甲と手首に走る、ためらい傷の痕にばかりキスの雨を降らせていたのだ。一瞬、理奈子は自身の手を引っ込めようとしたが、上目遣いにこちらをじっと見つめてくる竜馬の強い視線に気圧され、それをあきらめた。
そして、訊かれてもいないのに、小学生の頃に自分で付けた傷だと告げた。
竜馬は、そう、とだけ答え、それ以上は何も訊かなかった。
ひとしきり、お互いのあけすけな打ち明け話が終わってから、少し肌寒くなった理奈子はベッドカバーを引き上げ、自分の腹部を覆った。
ベッドカバーの派手な和柄は、大小織り交ぜた色彩豊かな青海波のパッチワークだった。
様々な波模様の中で、とりわけ面積の大部分を占める端切れは、光沢のある瑠璃色の絹に金糸で波を刺繍したもので、それらが逆向きになっているため、ちょうど理奈子の下半身にびっしり魚の鱗が生えたように見えた。
聞けば、高円寺あたりのエスニック雑貨を売っている店で見つけ、値段も手頃だったので気に入って買ったという。
腰から下に、生地をぴったりとあてがい、理奈子は閉じた両脚をパタパタと上げ下げしてみせた。
ほら、人魚、とふざけると、竜馬は微笑ましく唇の端を緩めて笑った。いつだったか、便器の蓋を背中にあてがい、亀の真似をした颯太の姿が理奈子の脳裏に浮かぶ。
まるでセイレーンだ、と笑った竜馬は、理奈子の耳元で優しく囁いた。
「こんなきれいなセイレーンなら、歌を歌わなくても人を海に沈められそうだな。俺はさしずめ人魚になった理奈子さんに喰われる水夫かな」
セイレーン。学生時代に読み耽ったギリシア神話に出てくる、半人半魚の怪物の名を竜馬が知っていたことに理奈子は驚いた。どこまで博学な男なのか。
「竜馬君、あなた、よく知っているわね。そんなことまで。でも、私がたとえセイレーンだとしても、あなたが、歌声に惹かれて海に引きずり込まれないよう、マストに縛り付けられたオデュッセウスだったら私に勝ち目はないのよ」
「縛ってもらう必要なんかない。俺はオルペウスだもん。竪琴を弾いて、セイレーンの理奈子さんを追っ払っちゃうパターンだよ」
ホメーロスの神話のひとコマをネタに、理奈子は彼を茶化した。すると竜馬は、紀元前三世紀に書かれた叙事詩『アルゴナウティカ』に出てくる吟遊詩人の名を持ち出し、理奈子を笑わせた。
彼の豊富な雑学に感銘を受けながら、理奈子は久々に本当に楽しい気持ちで笑った。誰の目も気にせず、これほど心の底から笑ったのはいつぶりだろうか。
「歌ってよ。何でもいいよ」
唐突に、竜馬がいささか真面目な目つきになって理奈子を執拗にうながした。彼は窓辺に片手を伸ばし、窓の桟を叩いて、ここ、岩礁ね、と言って笑う。とんでもない、と理奈子は首を横に振り拒んだが、彼はいいから歌ってくれと譲らなかった。
歌や音楽は子供の頃から好きだったが、人前で歌えるほど歌唱力に自信があるわけではない。でも、竜馬に背中を押されると、なぜか小さな自信のともし火が胸に灯った。
理奈子は、鱗のような逆さ青海波の布を胸まで引き上げ、乳房を隠しながら横座りに窓の桟に腰をおろした。人魚の尾びれあたりが、竜馬の下半身を中途半端に隠している。
アルミ製の安っぽい柵に手をかけ、セイレーンは窓辺で歌った。
ひと昔前、日本の女性歌手が歌った歌謡曲を、うろ覚えながら口ずさむ。ワンフレーズ歌い終わると、うまいじゃん、と竜馬は目を丸くして理奈子を褒めた。そして二番も聴きたいと言う。もう、これで終わりだと言って理奈子が恥ずかしがると、竜馬はセイレーンを窓辺から抱きあげて寝床に引き戻し、人魚の鱗を剝がしにかかった。
竜馬の精液と理奈子の愛液を拭き取り、丸めたティッシュがめいっぱい散らかった枕元で、年下の水夫と人に戻ろうとするセイレーンは抱き合い、また熱い口づけを始めた。
潮の匂いがする。ふたりの下腹部からか、乾き始めたティッシュからか。
シーツの波間で、人の雄と妖魔の雌は指を絡ませ、ふたたび愛の海へと沈んでいった。
自宅に帰り着いたのは、夜の帳も降りてすっかり暗くなった頃だった。時刻を見るとすでに八時。
要町から電車に乗って、最寄り駅に着くまでの間、理奈子はずっと竜馬とメッセージのやりとりを続けていた。スマホの液晶画面をのぞくたび、理奈子の唇は何度もほころび、彼に対する返信のため、忙しく指を動かした。
竜馬の部屋では、結局、三時間以上、火照った肌を重ねて汗を流し続けた。いよいよ颯太が帰ってきている時刻だと気づき、理奈子は慌ただしくシャワーを借りた。別れ際、名残惜しい気持ちで、彼の部屋の玄関で何度も唇を重ねた。
ただいま、と自宅のドアを開けると、玄関だけ明かりが灯り、廊下は暗い。不安になって足元を見て、そこに見慣れた颯太のスニーカーがあったことに安堵する。
ダイニング・キッチンのドアを開けると、そこだけちゃんと電気が点いており、そこから見えるリビングには、アクセントラグに腹ばいになり、クッションを胸に当ててテレビを見ている颯太の姿があった。理奈子が帰ってきたことに気づき、チラッと振り返った息子は小さな声で、おかえり、とだけつぶやき、またテレビに視線を戻す。
心なしか、その背中は父親の不在にしばし気を休めて伸び伸びとしているようにも見えたし、母親の長い留守を咎めて恨んでいるようにも見えた。
「ごめんね。すっかり遅くなっちゃって」
バッグを椅子に置きながら、理奈子は苦笑いで謝った。長くひとりぼっちにしてしまったのに、母親を責めることもしない。思いのほか突き放した息子の態度に、理奈子はかすかに後ろめたさを覚えた。
流しを見ると、ハンバーグやサラダを盛り付けていた皿はきれいに洗われ、きちんとカゴの中で伏せられている。出来すぎた颯太の行ないを理奈子は褒めた。
「お皿、ちゃんと洗ってくれたの? 偉いねー、颯太は。どうだった? お母さんのハンバーグ、美味しかった?」
コートを脱ぎ、理奈子はリビングにいる颯太に話しかけた。いつもより弾んだ声を意識して、さも、楽しげな時間へ誘うように。だが、息子は、うん、まあ、と気のない生返事をしたきり、黙ってまだテレビを見続けている。液晶画面では、世界で起きた超常現象についてのバラエティー番組が放送されており、そこに出ている芸能人のことを理奈子はほとんど知らなくて話題はすぐに尽きた。
打ち解けた会話をすることもできず、母親との会話を求めてもいなさそうな息子の態度に戸惑い、理奈子は口をつぐんでダイニングに戻りかけた。
その時、ふいに颯太が呼び止めた。
「お母さん。今日、会ってきたお友達って、男の人?」
突然の思いがけない息子からの問いかけに、理奈子は言葉を失った。
なぜそんなことを訊ねるのかと、ゆっくりとリビングをふり向く。息子の後頭部に向かって、理奈子はどぎまぎしながら笑って答えた。
「ううん、女の人だよ。どうして?」
その言葉をどこまで信じたものか、ふーん、そう、と息子は相槌を打つ。
「なんだかいい匂いがするね」
それだけ言って、颯太はテレビに顔を向けたまま、リモコンでチャンネルを切り替えた。
香水。竜馬の部屋でシャワーを浴びた後、せっかくだからもう少しだけ夢を見ていたい、電車の中でも昼間の記憶をとどめていたいと思い、足首や胸元にふりまいてきたのがいけなかった。
背中に、いきなり冷水をぶちまけられたような気持ちになって、理奈子は一刻も早く着替えることにした。
ところが、思いもよらぬことはさらに起きた。
帰ってきてから手を拭くのに、理奈子は除菌用のウェットティッシュを必ず使う。いつもの癖で手を拭いた後、それを丸めてテーブルに残っていた不要なチラシと共に捨てようと、生ゴミ用のゴミ箱の蓋を開けた。
そこには、おそらくひと欠片も食べられなかったであろうハンバーグと、サラダのために刻んでおいた野菜が無惨に棄てられていた。
3
開口一番、夫は明らかに渋い顔をした。
「同窓会? いつ? 今度の金曜だと?」
好物であるトンカツを一切れ、箸で摘まんだまま夫は眉間にシワを寄せた。そして、もりもりと口に放り込み、音を立てて咀嚼する。その音が不快で、今度は理奈子の眉間にシワが寄りそうだったが、なるべく笑顔が曇らないよう意識しつつ、努めて明るい口調で理奈子は話を続けた。
「そうなの、泊りがけなんだけど。会場が池袋にあるイタリアン料理のお店で。あ、もちろん一緒に泊まるのは女友達ばかりよ」
何一つ怪しまれないように、同窓会の詳細について、ある晩の夕食時に理奈子は夫に説明した。あらかじめ何を訊かれてもいいように話の筋書きは作ってあった。嘘は、するすると口をついて出た。
女友達と過ごす、ということだけが本当だった。
高校時代の同級生・中元純菜からメッセージが来たのは、四月も後半に差しかかった、ある夜のことだ。
いつものように入浴を済ませ、髪を乾かしていた時、携帯にメッセージが来ていることに気づいた。名乗られただけではすぐに思いつかなかったが、自分が十七の頃、同じクラスにいた女子生徒だとわかり、理奈子はすぐに返信した。
登録していた電話番号から引き当てたものか、誰か人づてに聞いたものか、なぜ理奈子の連絡先がわかったのか不審にも思ったが、アイコンに載せている顔には見覚えがあったので、理奈子は少し気を許してやりとりを始めた。
純菜は、たいした前置きもなく、久しぶりに会って話ができないかと理奈子に訊ねてきた。それも深夜の都心部へ遊びに出ないかと言う。降って湧いた夜遊びの誘いに、理奈子は躊躇した。
正直、クラスメートだったとは言え、純菜とはそれほど仲がよかった記憶はない。純菜はクラスの中心的な人気の高い女子とばかり遊んでいたイメージがある。それも中枢の生徒たちに金魚のフンのようについて回る、言わば太鼓持ちのように見える子だった。
いまさら理奈子に何の用事か。ネットワークビジネス、マルチ商法や宗教の勧誘か、会ったら壺やお札を高額な値段で売りつけられるのではないかと勘繰ったが、純菜は恋愛相談がしたいのだと言う。
どうやら純菜はバツイチで、いま、新しい男と交際中なのだとかで、彼との再婚までの相談をしたいのだと述べた。また、渋谷の某所でクラブ・イベントがあるという。そこで飲み明かさないかとのことだった。
二十代ではあるまいし、まして深夜の盛り場に出向くなど、理奈子は少し抵抗があった。しかし、遊びに行くハコは純菜にとって馴染みの店であるらしく、会場の入場料は純菜が払ってくれるという。
執拗な純菜からの誘いに、理奈子の心は揺らいだ。
自分が行って楽しめるかどうか、トラブルに巻き込まれることがないかも心配だったが、夫に相談してみると理奈子は返した。
その一連のやりとりの末、夫には「池袋で同窓会が開かれ、その流れで友人宅に一泊する」という作り話が出来上がった。
夫におうかがいを立てる以上、彼の好物である揚げ物で釣るのは必須だった。
頭ごなしに首を横に振られることは、もとより覚悟はしていた。案の定、夫はそれを許さなかった。
「そんなのダメに決まってるだろうが。翌朝の俺や颯太のメシは誰が作るんだ」
口調を荒げだしたところで、理奈子はすかさず部屋着のパンツのポケットから、一万円札を一枚出して夫の手元に置いた。颯太の目には届かない茶碗の陰に滑り込ませ、険しい顔の夫を見つめた。
純菜が払ってくれるクラブのエントランス・フィーに比べると高くついてしまうが、それ以上に、夫に媚を売っておいてでもハメを外してみたい気持ちが勝った。自由な時間を買うための一枚だった。
「なんだよ、これ」
思いがけない金の工面に、少し怯んだ表情になった夫を見て、理奈子は事もなげに微笑んで説得を続ける。
「大丈夫よ。翌朝は始発で帰ってくるから、朝ご飯はちゃんと私が作るわ。それに、いつもあなたにはお仕事、頑張ってもらってるから、これで好きなものでも買ったら?」
土曜日の朝など、八時過ぎまでぽっかり口を開けて寝ているくせに、何様のつもりだと理奈子は胸の内で夫を罵ったが、そんな反抗的な態度など爪の先ほども見せず、理奈子は夫の空いた手に自身の手を重ね、紙幣をそっと握らせた。甘ったるい声で、お願いよ、と言い添えることも忘れなかった。
少しの間、夫は渋い顔で黙っていたが、そそくさと紙幣を折りたたむと、自分のTシャツの胸ポケットにしまい込んだ。
「……ハメを外すんじゃねえぞ。早めに帰ってこいよ」
ぼそぼそとつぶやくように忠告した夫は、味噌汁を啜った。それを聞き、理奈子は小さく弾んだ声でお礼を述べて、自分も箸を取った。
夜の渋谷は、禍々しい活気を見せていた。
久々に足を踏み入れた都心の、不穏な勢いがある熱量に圧倒されそうだった。
週末ともあり、夜の山手線の混み方はひと際激しい。理奈子は、周囲の乗客たちの邪魔にならないように、必死につり革に捕まって立っているのがやっとだった。
純菜と待ち合わせをした金曜日。理奈子は、夕食の支度だけ済ませて出かけた。
自宅のテーブルには、牛肉と野菜の炒め物を作って皿に盛り付け、電子レンジで温めるだけでいいようにしておいた。何かあれば電話をするようにと、颯太にも伝えておいた。
渋谷駅に着くと、電車からは大勢の人たちが我先にとホームを降りていく。その人波に揉まれながら、あくせくと後に続く。履きなれないハイヒールが、アスファルトの上でカツカツと音を立てていた。
この日のために、理奈子はまた服を新調した。
どんな格好で臨めばいいのか純菜に質問したところ、ダサい服装だけしなければいいと言われ、散々迷った末にワンピースを買った。
ハイブランドの服では手が届かないし、クローゼットの奥で色が褪せたような服を引っ張り出してくるわけにもいかない。結局、ふらふらと池袋のデパートや集合商業施設をさまよっていたところ、一つのセレクトショップで目についた物を買った。
淡いクリーム色のシフォン素材の地に、赤やピンクの濃淡も様々な花柄を散らしたワンピースだ。夏に向けたフレンチスリーブのパターンは、大胆に二の腕を見せてしまう。春のうちから着るには少し露出が過ぎたので、理奈子はそこに元から持っていた白いシャツジャケットを合わせた。足元は、ワンピースを買った同じ店で、セレニティーブルーのデニム素材のパンプスを選んだ。
一万円札を数枚手放すことになったが、後悔はなかった。
夫に隠れて済ませた買い物、それも自分を着飾るための出費は、理奈子にささやかな興奮を与えた。また、彼が帰って来る前に出かけてしまいたかったため、シャワーを浴びて着替えるまでは大忙しだったが、仕事に出たり食事の用意をしたりする準備とは全然違う、心躍る気持ちがあった。
家を出る時、玄関先で靴を履いている理奈子を見つめ、颯太は目を丸くしていた。まったく知らない他人を見るような驚きの表情に、理奈子は不思議な満足感を覚えた。
駅を後にして、道玄坂をのぼり円山町へと向かう道すがらは、理奈子がいままで見たこともない都会の喧騒に包まれていた。
そこかしこの道では、派手な装いをした国籍不明な若者たちであふれていた。
けばけばしい服装の女もいれば、腕や顔に入れ墨を施した男もいる。所かまわず座り込んで話をしている人たちや、ファッション誌から飛び出してきたような女子たちが高い声で笑っている光景もあった。
時折、激しいクラクションや誰かの怒声が聞こえてくるかと思えば、すれ違いざま、英語や韓国語とおぼしき言葉も飛び交い、まさに東京のカオスがそこにあった。
風俗やキャバクラのスカウトか、もしくはただのナンパか。なれなれしく声をかけてくる男を二、三人ほど振り切り、理奈子は目的地へと近づいていった。
坂の途中、飲食店やコンビニなどがいくつも軒を連ねていたが、その脇道にそれると卑猥な色味のネオンライトを照らすラブホテルや風俗系マッサージの店舗が、あちこちに建ち並んでいるのが見えた。
雑踏の中を歩きながら、理奈子は若かった頃の自分を思い出す。
渋谷の街に来たのは決して初めてではない。しかし、こんなに夜遅い時間に、しかも結婚してから訪れたのは初めてだった。過去に来た時は、確か大学時代に仲がよかった女友達の数名と、まだ明るい時間帯にカラオケやスイーツの店が目当てで立ち寄った程度だ。
もう、三十代も折り返しにかかった主婦の自分が、こんな所で何をしているのだろうとためらう気持ちが湧く。しかしその一方で、いまだからこそ、いままで耐え忍んだ何かを吹っ切るように、この時間を愉しむべきではないか、とも思う。
深夜の都会に広がる刺激が、嫌いだったわけでも興味がなかったわけでもない。ただ、自分を誘い出してくれる誰かが、ずっといなかっただけだ。
都会の夜は、ひとりぼっちの者にはとてつもなくすげないから。
かくして理奈子は円山町の一角にある、純菜に指定された会場の前に着き、すぐに旧友の姿を見つけた。
出入口の脇、歪んだガードレールに腰をかけ、純菜は澄ました顔で煙草を吸っていた。渋谷区の路上喫煙は禁止だという条例などどこ吹く風だ。赤紫色のマニキュアで染まった長い爪と、彫り物かペイントか定かではないが右の鎖骨下あたりに見える蝶々のタトゥーが、とても堅気とは思われない風情だった。
理奈子と目が合い、少し茶色く染めて、真ん中で分けた肩までの髪をぞんざいにかき上げ、純菜は笑った。
「いやぁー、久しぶり! 理奈子ったら、超きれいじゃん! 元気ぃー?」
わざとらしいほどの高い声で手を振り、話しかけてくる純菜に圧倒され、理奈子は曖昧な苦笑いで返すしかできなかった。ここまでなれなれしく話すほどの間柄だったろうかと、正直、戸惑いを隠せなかった。
十数年ぶりに再会した純菜は、理奈子が怯むほどに派手に着飾っていた。
年甲斐もないとまでは言わないが、ホルターネックのトップスは、肩から腕、肩甲骨を惜しげもなくさらすデザインで、夏の先取りと言えば聞こえはいいが、あまりにも季節感を度外視していた。柄は夜でも目立つほどで、原色の赤や紫、蛍光色のイエローやグリーンのマーブル模様を一面に施している。その下には太腿をさらけ出すほど短いデニムのホットパンツを履き、足元は黒いエナメルのハイヒール。
なんと褒めていいかわからず、服装の華やかさだけを褒めると、純菜は満足そうな笑みを見せ、短くなった煙草の吸殻を道端に弾き飛ばし、シガレットケースとライターをブランドのロゴが付いたバッグにしまった。
うながされるままに、理奈子は純菜の後ろについて会場となるハコに入っていった。
そこには、音と光の洪水があった。
フロアの各所に設置されたスピーカーから、恐ろしいほどの大音量で騒々しい音楽がずっと流され、鼓膜よりも先に臓物が直接震えるようだ。その高速なテンポで流れる曲は、理奈子がいままで聴いたこともない種類の音楽で、その破壊的な音のもと、会場内では客たちの嬌声がひしめき合っている。
物珍しさに天井を仰ぎ見れば、四方八方に鮮やかなライトが明滅し、時折どこかにスポットライトを当てたかと思うとまた消えていく。特殊な照明器具がぐるぐると回り発せられるその激しい光は、よく見ると音に合わせてあちこちに飛び交っていた。
騒ぎ続ける大勢の客たちであふれるフロアの片隅で、これがクラブなるものかと、まるで世界遺産でも眺めるような気持ちで理奈子は立ち尽くしてしまっていた。
「とりあえず、一杯飲もう」
純菜に手招きされ、あっけに取られていた理奈子は彼女についていく。すると出入り口からほど近い広間の、大きなバーカウンターが設けられているエリアに通された。
カウンター内では若い男女がせわしなく動き、客たちから注文を受け、次々とプラカップにカクテルなどの酒を提供していく。にこりともせず、無駄のない所作でアルコールと割り物を配合していくバーテンダーたち。彼らは、顔や手、腕などに一様にタトゥーやピアスを身に着けていて、その容姿に理奈子はかすかな威圧感を感じた。
何をどう頼めばいいのかわからずにまごついていると、純菜はあきれた声で笑った。
「炭酸は飲める? いいよ、一杯目は私が奢るから」
純菜はいかにも慣れた口調でバーテンダーの一人に声をかけ、モスコミュールを二つ注文した。会計ですら手慣れた様子で、理奈子が急いでバッグから財布を出そうとしているうちに、純菜は携帯を差し出してアプリ決済で済ませてしまった。
そしてお礼を述べているそばから、炭酸が弾けるグラスの一つを手渡され、理奈子は問答無用に奥のメインフロアへと連れられていった。
一歩足を踏み入れると、かかっている曲の音量がひときわ大きくなった。空気ごと揺らしているような大音量。話をするにしても耳打ちするように相手の耳に口を近づけなければ意思疎通もままならない環境だった。そこはまさしくハコの中心部で面積も広く、学校の体育館を半分に切ったくらいか。その空間に集い、踊り続ける人ごみに圧倒される。
フロアの端、四辺の随所にはソファーとテーブルがいくつか設けられ、純菜に導かれるままに理奈子たちはそのうちの一つに腰を落ち着けた。座れたことで、ほっと安堵のため息が漏れる。緊張のあまり、ずいぶんと気疲れしていたことを感じた。
炭酸のカクテルをひと口飲むと、甘辛いジンジャーエールの味に混じり、ウォッカがかすかに喉を焼く。
朝までいられるか不安だと述べると、純菜はけらけらと笑った。
「いやだ、理奈子ったら。どんだけうぶなのよ。慣れたらこんなに楽しい場所ないのに」
訊ねたところ、彼女は月に二、三回はこうしてクラブ系イベントに顔を出すらしい。このハコも常連のようで、会場内に入ってからソファーに座るまでの間、顔見知りや友人とおぼしき何人かと手を振り合って挨拶していた。
お互いの飲み物が半分ほど減ってきたところで、理奈子は純菜に相談事は何かと問うた。ところが、恋愛相談をしたいと持ちかけた当の本人はきょとんとした顔をして、理奈子を見つめ返した。メッセージの内容を読み間違えたかとにわかに焦り、携帯でアプリを開いて確認したが、やはりそこには純菜からそう綴ってよこしている。
自分で書いた文面を読み返し、純菜が思い出したように笑った。
「あーあー、その話ね。そうそう、新しい彼氏、できそうだったんだけどね。別れちゃった」
何でもないことのように、屈託のない顔で笑う純菜に、今度は理奈子の方が面食らってしまう。余計な話題を振っただろうか。もしや、今夜の夜更かしの道づれは、純菜自身の傷心を癒す目的で、その憂さ晴らしのための時間だったのではないか。そのために呼び出されたのであれば迷惑なような、わざわざ頼ってくれたならば気負って少しは力になりたいような、感傷的で複雑な親切心が芽生えた。
訊かなければよかっただろうかと、理奈子は小さく詫びた。
「いやだ、心配してくれてるの? あーん、もう、理奈子ったら優しい。大丈夫よ、ほんとに私の方は何でもないから」
すでに軽く酔っているのかと思うほど、彼女はオーバーな挙動で理奈子の肩を抱いて甘ったるい声を出した。急に距離を詰めてくる純菜に、理奈子はまだ慣れずにいる。
新しい煙草を一本取り出しながら、純菜は急に、話の矛先を理奈子に向けた。
「ところで、理奈子の方は? 旦那さんとはうまくいってるの? 都心に近いのに閑静な住宅街でマイホームがあって、息子がひとり、だっけ? ずるいー、うらやましい」
模範的なファミリーの理想形じゃーん、といかにも物欲しそうな表情で純菜は笑った。微笑を浮かべて煙草に火を点け、こちらの顔色をうかがい見る純菜に、理奈子は答えに窮した。
目をそらした理奈子の戸惑いに、純菜はめざとく気づいた。
「あれ? 私こそ、変なこと、聞いた? いやだ、ごめん。旦那さんとうまくいってないの?」
しばし逡巡した後、理奈子は旧友に、自身の正直な胸の内を吐露した。
「私、家を出ようと思ってるの」
思い詰めた表情で、炭酸が抜け始めたカクテルを見つめる理奈子。そのプラカップは結露ですっかり濡れてしまい、氷もだいぶ溶けてきている。
理奈子の横顔を見ていた純菜は、それを聞いて煙草を吸いかけた手を止めた。
「え、どうして? それってつまり、別れるってこと? そんなにうまくいってないの?」
こくり、と首肯する理奈子を前に、少し驚いた顔の純菜は煙草の先に増えていく灰をアッシュトレイの上に散らした。
一度口火を切ると、理奈子の唇は止まらなくなった。
子供ができてからずっと、夫からの暴力やモラハラに耐えてきたこと、夫が息子にもひどい仕打ちをすること。そして何よりつらいのは、自分がどれほど努力したつもりでも円満な家庭には近づけず、それどころか最近では息子の態度すら母親の自分に対してすげなくなりつつあることなど、洗いざらいぶちまけてしまった。
どうしても自立して生活を立て直すことが先決で、夫には隠れて平日の昼間だけ総菜屋で働いていることも打ち明けたが、店の客として知り合った青年・竜馬と一線を越えてしまったことだけは、女友達にも話したくはなかった。
ひとしきり耳を傾けていた純菜は、何本目かの煙草を吸い終わると、その火種を消してから、おもむろに自分のバッグの中に手を突っ込み、ごそごそとまさぐり始めた。
てっきり新しい煙草かライターでも出すのかと思いきや、彼女は、自身のポーチを取り出し、そこから小さなビニール袋と薄紙を取り出した。ちらりと見ると、ビニール袋の中には、何やら乾燥した茶葉ともハーブともつかない物が入っていた。一面カビが生えたような草の塊みたいなその粉末状の物を、見ているそばから純菜は薄紙に一直線上に載せ、小さな海苔巻きを作る要領で薄紙を巻いていった。最後に薄紙の一辺を舐め、唾液で濡れた部分でぴったりと貼り合わせると、細い煙草状の物ができあがった。
「それ、何? 紙巻煙草?」
確か純菜は箱に詰められた普通の煙草を持っていて、ついさっきまで吸っていたはずだ。違う銘柄の物をわざわざ持ち歩いているのだろうか。
「そう、紙巻煙草よ。そういうことにしておこうか」
真横で怪訝な顔をした理奈子に対し、純菜は上目遣いで視線を向け、意味ありげに、にやっと笑った。そういうこと、とはどういうことか。
訊ねる間もなく、純菜は出来上がった紙巻煙草の先端に、うやうやしくライターで火を点け、うまそうに一服吸った。肺の奥まで吸い込んで、数秒息を止めてから、ゆっくりと煙を吐き出す。その一連の様子を見ると、先ほどの煙草よりも心なしか煙が濃いような気もした。
「どう? 理奈子も吸ってみる?」
唐突に、純菜はその紙巻煙草という物を理奈子に勧めてきた。返事をする暇もなく、理奈子の片手の指に、先ほど純菜が吸っていた煙草よりも若干細いフィルターを挟まされた。
煙草など、大学時代、成人を過ぎるかどうかという時期に好奇心で友達から勧められて吸ってはみたが、焦げ臭い煙を肺まで吸い込んだだけで盛大にむせてしまい、それが最初で最後の喫煙だった。
なぜあんなまずい物を、喫煙者はうまそうに吸えるのかずっと謎だった。どうせまたむせてしまうのではないか、と訝しく思いながら、理奈子は細いフィルターの、火が点けられたのとは反対側の先端におそるおそる唇を付けた。そしてさっきの純菜がしていた吸い方をそのまま真似てみた。
一回、二回、三回と、ゆっくりと煙を吸引して肺にまで貯め込み、数秒後に煙を吐き出す。その煙は、どこがどう違うとは言えないが、なぜか先ほど純菜が吸っていた煙草とは少し違うタイプの匂いがした。
彼女が最初に吸っていた煙草はただ焦げ臭さが強烈なだけだったが、いま、理奈子が勧められるままに吸った紙巻煙草の煙には、明らかな「草」の匂いがしていた。子供の頃、たまに外で遊んだ時など、公園や緑地帯で繁茂する夏草やツツジの茂みをかき分けたような、一種独特でノスタルジックな気分にさせられる匂いだった。
理奈子の指から、純菜は細いフィルターを取り上げ、また自分自身もゆっくりとその草の香が印象的な煙を吸い込む。
どういうわけか、理奈子はふいに懐かしさにも似た、不思議な安息を感じ始めた。
心地よい脱力感に襲われ、ソファーの背もたれに身を預けると、そのまま沈んでいきそうなほどのリラックスした感覚が芽生えた。自分の身に起きている症状について話すと、純菜が「いいねー、チルしてるねー」と笑った。
全身の緊張や肩の強張りが抜けていく中、さっきまで純菜に延々と打ち明けていた過去の悲しみや苦労の数々、嫌な記憶がにわかに一掃されていくのを感じた。もつれ合い張りつめていた糸がいっきに緩んでほどけていくようだった。
この紙巻煙草は何という銘柄のものか、市販の煙草として売っているのか訊こうとすると、純菜がまたポーチを取り出し、その中から周囲の人目を気にしながら小さく丸めたアルミホイルをつまみ出した。
テーブルの下で、純菜はアルミホイルをそっと広げ、そこにあった粉っぽい錠剤を半分に割って片方を理奈子に手渡した。
これは何かと問う暇もなく、純菜は半ば強引に理奈子の手に錠剤を握らせる。その手つきや人目をはばかる仕草には、まるで賄賂を託すような感じがした。
「ほい、ラムネ。理奈子は知って……いるわけないか」
理奈子はテーブルの下でそっと手を広げ、そこにある粉っぽい欠片となった錠剤を見る。
「これは、何? ラムネ?」
「そう、ラムネよ。早く飲んじゃって」
そう言って、純菜は自分が手元に残したアルミホイルの中身をすばやく口に放り込み、溶けた氷ですっかり薄くなったカクテルで飲み下す。彼女に習い、言われるがまま理奈子もラムネ状の錠剤を酒で飲み下した。子供の頃に食べた、口内でしゅわっと溶ける甘さを期待したが、もろく欠けたその錠剤は薬そのものという特殊な苦みを舌に残した。明らかに菓子類ではないことを指摘したが、純菜はほくそ笑んだ。
「心配しないで。ほんの精神安定剤みたいなものよ。元気になれる薬よ」
プラカップを空にすると、純菜はバッグを肩にかけて新たな酒を買ってくると言う。どうするかと問われ、一瞬悩んだものの、ひとり大きなダンスフロアの片隅に取り残されるのは不安で、理奈子も後に続いた。
女二人は、二杯目のカップを片手に、またメインフロアに戻ってきた。純菜はラムコークを、理奈子はテキーラサンライズを買った。
割と甘いカクテルだと教えられ、名前の通り夕焼けのように鮮やかな色の酒を頼んだが、飲みやすい分、何度か口を付けるほどにアルコールは体内で瞬く間に広がっていく。
純菜に手を引かれて、理奈子はフロアの中心部に連れ出された。
そこには、享楽的な人の群れができていた。
何かに憑かれたかのように大勢の人々が躍り続ける中、彼らに合わせて純菜と理奈子も体を揺らし始めた。激しいテックハウスの渦に巻かれ、現実感は薄れていく。
軽い酩酊状態に陥りながら、理奈子は周囲の人たちの仕草を真似て踊り続けた。
奇妙な感覚が芽生え始めた。
天井から、縦横無尽に飛び交うストロボの光が、妙に奥行きや立体感を持って見えてきた。そして音にもずっしりとした形や重量感があることを知る。何よりも顕著な変化は、自身の体が風邪を引いたわけでもないのにカッと火照り始めたのだ。まるで、長い時間、炎のすぐ近くで踊らされているような錯覚に陥る。
多幸感が、極まっていった。
目に見える景色や色は特別な輝きを放ち、耳に入る音や声は幸せを招く呪文となり、この世にはこんなにも満ち足りた気分にさせるものがあったのかと、理奈子の心は煌めき、さんざめき、打ち震えた。
音楽は、さらに加速していく。客たちは、さらに渦を巻いて踊る。
誰かの嬌声が聞こえる。純菜の笑い声が聞こえる。男たちの指笛と叫び声が聞こえる。女たちの艶めかしくしゃべる声が聞こえる。
理奈子の中で、自由で奔放な、華やぎと強さを纏った女が目を覚ましていく。代わりに、悲しみも苦しみも、気弱で自信が持てず自分の考えをはっきり言えなかった女が、潮が引いていくように消えていった。
これでいいんだ。これこそが幸せの入り口なんだ。颯太のことも夫のことも、純菜のことも、実家の母や職場の人たちのことも、理奈子はさらに愛せる自信が湧いてきた。
そして竜馬。彼をもっと、愛していたい。もっと深く、愛し続けたい。いや、愛さなければならない。彼と出会ったのは必然だった。運命だった。宿命だった。何もかもが、こうなるようにすべて仕向けられたことだった。だから、いままで自分はこうして生きてこられたのだ。理奈子の思考は、いま、まさに頭上で翻るストロボのように、様々な方向へ飛び交った末に、一つの光の出口へとたどり着いた。
肌に浮き始めた汗のひと粒ひと粒が、放埓なまでに華々しい香りをまき散らかす。嗅覚が、研ぎ澄まされていくのがわかった。出がけに身にふりまいた香水だ。トップノートからミドルノートへ、そして理奈子の体温や体臭とリンクして、独自の「女」が覚醒していく。
自分の膣が、いま、竜馬を求め、渇望していることを理奈子は実感した。脳は、頭部にはなく、性器にあるということも。
きらびやかな夜が、横暴なまでの幸福感を降らせ、更けていった。
壁にもたれて、深く吸い込んだ煙を吐き出す。また、昨夜のような脱力感に包まれ、あらゆる不安や疲れから解き放たれ、理奈子は満たされた気分になった。
シャツジャケットとバッグだけ座席に放置し、煙をくゆらせる。初めて入った喫煙所なるものは、長時間、多くの喫煙者たちが吐き出した煙を詰め込まれ、入室した瞬間に辟易する悪臭を感じた。しかし、誰の目から見ても怪しまれずに吸える場所はここしかない。
渋谷のクラブで、夜通し汗だくになるほど踊った末に、理奈子は始発の電車で地元に帰ってきた。そして駅に隣接するチェーン店のカフェに入り、喫煙所で一服することにしたのだ。
純菜とは渋谷駅で分かれた。イベントがあったハコから出る間際に、理奈子はラムネか紙巻煙草をもう一つ譲ってもらえないかと、純菜に訊ねた。純菜は目を丸くして、好奇の色を浮かべた。
「お、理奈子ちゃん、ハマっちゃったー? でも、ごめん。ラムネはもうないんだ。紙巻煙草ならあと一本くらいは巻けるけど。これ、実はタダじゃないんだよねー」
一本でいくらかと訊くと、ちょうど千円分だと言う。それが相場として安いのか高いのかはわからなかったが、迷うことなく、理奈子は財布から千円札を一枚出して純菜に手渡した。持ち主の友人はにやっと笑い、人の出入りがいちばん少ないトイレに理奈子を連れ込み、個室内で手際よく謎の枯れ草を薄紙に巻いてくれた。
決して人前では吸わないようにと、純菜からキツく言われたが、その理由までは教えてくれなかった。
ちょうど明け方で客入りも少ない時間帯なのもあり、カフェは割と空いていた。いま、理奈子がいる喫煙可能なエリアには他に誰もいない。ここなら平気だろうと、巻いた薄紙の先端に火を点けた。誰か他の客が入ってくるまで存分にチルアウトしようと、理奈子は草の香りがする煙をまた吸い込んだ。
時刻は、朝の七時半。この後、急いで帰って朝食の準備をするのは億劫だったが、夫の機嫌を損ねてしまったらなおさら面倒になる。
燃え尽きて煙も弱くなってきた吸い殻を、理奈子は、中に水を溜めたアッシュボックスに捨てた。
吸い殻は必ず持ち帰ってトイレに流して処分するように、と純菜から強く言われていたが、それを思い出したのはすでに店を出て自宅へ歩いている途中だった。カフェに引き返すことはしなかった。
帰宅後、ダイニングテーブルを見て、理奈子はめっきり気が重くなった。
予想はしていたが、昨夜から今朝にかけて、夫は酒浸りになっていたようで、食卓にはビールやチューハイの空き缶がたくさん並び、食べ残した惣菜などが、皿の上やパックに入ったまま放置されていた。どうやら理奈子が作り置きしておいた料理以外に、あれこれ買って食べたようだ。それらのゴミが山積みとなったテーブルに突っ伏し、夫は地鳴りのようないびきをかいて眠っている。
おそらく、野球中継やニュースを見ながら寝てしまったのであろう。テレビはつけっぱなしで、大音量で朝の情報番組が流れていた。
リモコンでテレビの電源を消す。一瞬だけ、室内には静寂が訪れたが、それを掻き消すように大きないびきだけが続く。朝食の準備をする前に、大掛かりな掃除をしなければならないことに、理奈子は苛立ちを覚えた。
着替える前に片付けなければ、なおさらやる気を失ってしまう。
とりあえずキッチンから大型のゴミ袋を持ち出して広げ、空き缶だけを次々と放り込んでいった。アルミのぶつかる音がしても、夫はふてぶてしいまでに目を覚まさなかった。舌打ちをして、理奈子は空き缶回収を続けた。
余った酒が放置されているせいか、ダイニングに入ってからずっと妙な悪臭が鼻につき、気になっていたが、テーブルを回り込もうとして足元の異変に気づいた理奈子は小さな悲鳴を上げた。フローリングの床に、黄土色の吐瀉物がぶちまけられており、あやうく踏みそうになったからだ。
何よこれ、と非難の声が漏れたその時、リビングのソファーの陰で何者かが蠢く気配がした。驚いて肩をすくめ、ビニール袋を持ったまま身構えリビングに忍び寄ってみると、そこにはぐったりとソファーに身を横たえたまま、薄目を開けた颯太がいた。見るからに顔色は悪く、明らかに体調を崩しているのが見てとれた。
何よりも理奈子が驚いたのは、颯太の胸元、よれたTシャツの襟ぐりが渇いた吐瀉物で汚れていたことだ。眠っている間によだれが垂れたものか、口の周りも唾液と吐いた物の欠片で汚れている。吐き戻した後、着替えもせずに床に就いたのか。
心配になったあまり、とっさに大きな声が出た。
「颯太! どうしたの、具合が悪いの?」
顔を覗き込んでくる理奈子に気づき、颯太は目を見開いた。そして、いきなりわっと泣き出して飛び起きたかと思うと、理奈子の脇をすり抜け、自分の部屋へと走っていき、階段を駆け上がった。逃げるように走り出した颯太は、泣きながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と必死で謝っていた。
急な息子の言動に虚を突かれ、理奈子は我が子の名を叫ぶように呼び続け、慌てて後を追った。二階の自室に駆け込んだ颯太は、激しい音を立ててドアを閉めた。ドア越しに颯太のすすり泣く声だけが聞こえた。




