表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

【10章~終章】

      10


 指示された通りの金額を降ろし、紙幣でだいぶ膨らんだポーチを、竜馬は理奈子に手渡した。運転席のドアを閉め、彼は背もたれに身を預けてため息をつく。

「この後は? どうするの、理奈子さん」

 ポーチの中身をざっと確かめた理奈子は、そう訊かれても具体的な答えが出せず、肩を落として思案に暮れた。どこか遠くへ連れ去っていってほしい。警察や麻薬取締課の目が届かない所であれば、どこでもいい。でも、いったいそれはどこへ?

 いま、車は埼玉の西寄り、少し山深くなりつつある郊外の片隅に停まっていた。

 息子を理奈子の実家に預けた後、追いかけてくる颯太を振り切った車は、理奈子たちを乗せたまま、あてもなく埼玉の西部に向かって走り続けた。どこか、目的があってたどり着いたわけではない。ただ、理奈子が少しでも人通りがない所、人目がつかない場所を目指してほしいと竜馬に懇願し続けた末に、そこにさまよい着いたようなものだった。

 途中、東京ほどではないにしろ、まだ民家が密集しているあたりの町でコンビニを見つけ、彼らはそこで食材を買い求めた。おそらく店内に防犯カメラが設置されているであろうことを危惧した理奈子は、紙幣だけを渡して竜馬に食品をいくつか買ってもらった。

 サンドイッチやおにぎり、サラダ、飲み物をいくつか買い込み、それに理奈子が自宅から持ち出した缶詰を開け、彼らは車内で簡単な昼食を済ませた。とりわけ美味いと感じたわけではなかったが、少しは固形物を食べられてえずきもしなかったことに、理奈子は安堵しつつ驚き、また、わずかな恐怖も覚えた。いささか薬の副作用が抜けてきたか、もしくは継続的に投与した薬物により抗体ができて慢性化してきたか、どちらかということだ。

 その後、竜馬の運転で走っていた車は山へと続く道の一歩手前で停まった。走行中、窓の外に映る景色を眺めていた理奈子が、三澤家で使っている銀行のATMを見つけ、ひとまず現金が必要だったことを思い出したからだ。もちろん、現金の引き出しは竜馬に依頼した。口座の暗唱番号を教えて通帳を手渡し、理奈子は車内で待った。

 太陽は、刻一刻と西へと傾き始めていた。

どうするかと問われても、理奈子は何も答えられずにいる。山の中に入り、車内で一夜を過ごすことも考えたが、そのまま奥へと入っていけば、当然その辺りには街灯もなく、夜が更けるほどに、鼻をつままれてもわからないほどの闇に包まれてしまうことは想像できた。また、土地勘がないだけに車が故障でもしたらひとたまりもない。

 考えあぐねていると、竜馬が一つの提案をした。

「そうだ。もし、理奈子さんさえよければ、ちょっと東京の方に戻ってみない? もちろん、都心の方じゃなくて西の、多摩とかそっちの方に」

 竜馬が思いついた案に、理奈子は渋い顔を見せ、すぐには同意できずにいた。埼玉まで来てしまった以上、理奈子としては、できればこのまま北上してしまい、他県の人目につかない場所でひっそりと断薬をしたかったからだ。しかし、竜馬の話は思いがけず、理奈子にとって好都合なものだった。

「実は、俺たち建設作業員が仕事をする時にさ、長期で現場に入る場合、そこの事務所とか仮設の住居みたいなところで寝泊まりすることがあってさ。ちょっと環境はよくないし、本当は見つかったらよくないことなんだけど、確か西東京のどこだったかに、そのプレハブの住居があったと思うんだ。正確な場所は忘れちゃったから、車を走らせながら探すことになりそうだけど」

 その仮説住居に忍び込み、薬が抜けるまで暮らすのはどうかということだった。思いがけない好都合な話に、理奈子は心が揺らいだ。願ってもない話だった。

「そこって、人目につかないような場所なの? 鍵とか、持ってるの?」

 まだいささか疑いの気持ちを抱いて訊ねた理奈子に、運転席でふり向いた竜馬は笑顔で答えた。

「もちろん、人はいないよ。けっこう山深いところだったし、現場の仕事は終わったから、普段は誰もいないし。でも、仮設住居は取り壊す暇がなくて、そのままなんだ。鍵は持っていないけど、まあ、もし鍵がかかってたら、窓かドアを壊すしかないよね。でも、どうせいずれ壊しちゃう住居だし。バレなけりゃいいじゃん」

 あまりにも大胆、かつ、無茶苦茶な考え方だったが、それがもしできるのなら、これほどいまの理奈子にとってありがたい方法はない。都心部ではないとしても、東京に引き返すのはいろいろとリスクもありそうだが、いまは竜馬にすがるしかないと理奈子は思った。また、そこまで自ら危険を背負ってまで、理奈子のヤク抜きに協力してくれようとする竜馬のことがさらにいとおしく感じた。

 理奈子は、彼の提案に小さくうなずいた。

「わかった。竜馬君に任せるよ」

 よかった、と安心した笑顔を見せ、竜馬は車を発進させた。

「とりあえず、今夜はもう日が暮れそうだし、ここにずっといたら怪しまれるから、どこかホテルでも探してそこに泊まろう」

 そう言って、竜馬は携帯によるネット情報とカーナビを駆使して、近くにあって身を隠すのに適したラブホテルを探し、そこへ向かった。

 ふたりで相談して決めたその夜の宿は、場末ながらも贅沢を云わなければ比較的過ごしやすいラブホテルだった。きわどいほどの赤やピンクでライトアップされたそのホテルは、民家から少し離れた場所にあり、駐車スペースも設けられて何かと便利だった。

 警察の捜査やフロントの目を、理奈子は終始気にしている様子だったが、部屋に入って服を脱いでしまってからはだいぶ落ち着いた様子だった。先に汗を流した方がいいと伝え、竜馬は理奈子を浴室へとうながした。

 ボクサーブリーフ一枚の姿になった竜馬は、ダブルベッドに仰向けで横たわり、シャワーの音を聞きながら自身のスマホをいじっていた。そして、ネットサーフをしながら、ここに来るまでのことをふり返り、また、自身がついた些細な嘘に、頭を悩ませていた。

 理奈子に話して聞かせた建設作業員用の仮設住居・事務所など、それを自由に使える建物など、いまどこにあるかさえ竜馬はわからない。東京に引き返すためのはったりであり、理奈子を説得させるための時間稼ぎ、思いつきで述べた嘘に過ぎなかった。

 確かに多少遠方で、長期にわたり作業が必要な現場であれば、事務所や仮設の小屋などを設けて作業員が寝袋ひとつ携え、そこに寝泊まりすることはあった。しかし、許可なく事務所に寝泊まりすることは、本来は法令違反でもあり労働基準監督署にバレたら間違いなく上席や会社がお咎めを食らうアウトな行為だった。たとえそんな場所・小屋を見つけたとしても、鍵を持っていたからと云って勝手に入れるわけもない。

 張りつめた吐息を漏らし、竜馬はスマホでインターネットの画面を開き、あるサイトのページをつれづれに眺めた。そこに記載され、もう何度も読んだ文言を目で追う。

〈薬物依存症とは—―。ひとりで悩まず、ご相談ください〉

 行き着いたページに並ぶそのメッセージを、竜馬は何回読んだことか。そのすぐ近くに掲載されている電話番号にかけてみようと、何回悩んで指を止めたことか。

 「薬物依存症 治療 都内」などのキーワードで、竜馬は幾度となく自身の携帯でネット検索を試みてきた。仕事をしている以外の時間、休みの日や寝る前、ふとした拍子に暇ができた時など、そのネット検索自体が、竜馬にとってある意味依存のような行為・日課となっていたほどだった。肋骨が浮くほど痩せた理奈子の裸身を見てからというもの、彼の心はざわめき始め、少しずつ足元を浸食していくような灰色の波に飲まれていった。

 何か熱い使命感に駆り立てられたわけではない。ただ、何の悪意もなく、ひたすら一緒にいたいという身勝手な無邪気さのために、途轍もなくひどい場所まで理奈子を連れてきてしまい、戻れなくなってしまった。そのことにようやく気づいたような、激しい後悔と自責の念、後ろめたさに苛まれていた。

 薬物でもアルコールでも、ギャンブルでも過度な買い物でも同じことで、依存症を治せないこと、違法なものだとわかっていて手を出してしまうのは意志が弱いせいだと、依存症に陥った患者たちをなじる人たちが一定数いる。しかし、理奈子のことをずっと見ていた、いまの竜馬にはわかる。

 依存症は、自分の意志では、もうどうすることもできないれっきとした病であり、とりわけ違法薬物への依存に苦しむ彼らは、「罪人」である前に「病人」なのだと。

 勇気を出して、専門の機関に相談しようとした。何度も電話をかけようと試みたが、どうしてもそれはできなかった。通話ボタンを押そうとする際に、もう一人の自分自身が執拗に訊ねてきたからだ。

「それは本当に、理奈子さんが望んでいることなのか?」

 心の奥底で、それもすぐに手が届く距離から、もう一人の竜馬は声をかけてきた。

 治療をしてほしい、何とかしてほしいと、理奈子さんがいつおまえに頼んだだろうか。勝手に専門の機関に電話をされ、勝手に自身の違法行為を相談される。それをされて、果たして本当に彼女が喜ぶだろうか。むしろ、心外だと嘆いて傷ついて、逮捕されることを恐れて、一刻も早くおまえから離れていこうとするのが当然じゃないのか。

そもそも、そこまで勝手に踏み込んでいい範囲の話なのか。人の心に、土足で踏み込んでくる。勝手に貫き、訴え出した正義の剣を振り回され、その刃を喉元に向けられる。それは、竜馬、おまえ自身がいちばんされたくないことの最たるものではないのか。おまえがかけようとする一本の電話は、それとなんら変わりなく、ただの「正義という名の身勝手な悪意」に過ぎないのではないか。

 逡巡して、携帯の液晶画面の上で指がさまよっているうちに、もう一人の自分自身はさらに追い打ちをかけてきた。

「誰よりも、おまえはわかっているはずだ。大人たちの勝手な言い分、勝手な意見、教育と名付けた勝手な悪意に、子供の頃から散々振り回されてきた、おまえなら」

 離婚した実の両親は、右も左もわからない頃の竜馬を、どちらも引き取りたがらなかったという。その話を、竜馬は十代も折り返しにかかる前後で知った。しかし、その頃すでに、腹違いも含め兄弟姉妹が多かったせいで、それは仕方ないことだったろうと親に同情してしまうくらいには、物分かりがよすぎる子供に育っていた。その後、親族の家や施設など、あちこち転々とした末に、高校を卒業すると共に就職することを余儀なくされた。否が応でも、生きるためには仕方のない選択だった。

 そんな幼少期に、竜馬が学んだことがある。それは誰にも逆らわず、愛嬌を振りまき相手の希望に沿い続けること。それでも自分にできない、納得できないことがあれば、沈黙で切り抜け、嫌な人間、苦手な人種とは距離を置くこと。それだけだった。

 かくして、その生き方はだいたい成功していた。

自身の顔立ちに揺るぎない自信があるわけではなかったが、容姿を褒めてくれる大人の言うことには真っ先に従った。彼らが言う通りに着いていくことで、食いっぱぐれることはなかった。やがて、彼らに笑顔を見せ続けるほどに、彼らが竜馬自身に執着を示すようになる、つまりハマる・依存していくことを竜馬は知った。何もできない、自分では何も決められない青少年のひとりを演じることで、とりわけ女もよく釣れた。また、ダメな奴、出来ない男を見せつけて、そんな自分自身に沼っていく彼女たちを見るのが好きだった。それが何より自己肯定感を満たすすべであり、自尊心を築くすべでもあった。

 だが、理奈子の場合は少し違った。彼女を見て、彼女と話をして、彼女を抱いているうちに、竜馬は薄々ながら気がついた。理奈子は、自分と同種だと。

 端からは、すべて満たされた人生を送ってきたように見えるかもしれない。何の悩みもなく器用に生きてきたかのように見えるかもしれない。いいや、違う。誰とも軋轢を生まないよう、誰とも衝突しないよう、相手の顔色をうかがって、ほどよく媚びてきただけだ。

なぜか。生きるためだ。長い道のりの末、結果、生きやすくするために、一時的な生きづらさに耐え続けてきた。それだけだ。

 美味い餌と温かい寝床を得るために、人に懐く犬猫と変わりはない。少年の頃から、竜馬はそうやって生きてきた。自分の笑顔は、飼い主となる大人の足首に、こっそりと鎖をはめ込んでやる武器になると知っていたから。

 ところが、竜馬はしばらく気づかなかったのだ。理奈子もまた、相手の心の足首に枷や鎖を仕掛けてくる人種だったとは。おそらく、彼女自身も気づいていない。恋と依存、その違いもよくわからないまま、理奈子と竜馬は、お互いに鎖を仕掛け合ってしまった。竜馬にとって最大の誤算は、ふたりでがんじがらめになるまで、そのことに気づけなかったことだ。

 竜馬はいま、セイレーンの歌声に惹かれて油断したがゆえに、彼女に抱かれて深海へと沈んでいく水夫だった。理奈子はいま、食うために仕留めた人間の雄を、殺すこともできず、本能のままに抱きかかえ、海底へと泳ぎ続ける人魚だった。

 シャワーの音が、止んだ。

 浴室では理奈子が濡れた体を拭いているようで、磨りガラスの向こうではタオルが肌と擦れる音がしている。その気配に気づき、竜馬は急いで電源を切り、携帯を枕元に置いた。


 九月に入ってからも、埼玉から東京にかけての気温は、おいそれと秋めいたものにはならなかった。だらだらと服の裾を引きずるような残暑が続き、室内でも車の中でも、日中はまだしばらくは冷房を欠かすことができないだろう。

 走行中、クーラーを効かせた車内では、いつも理奈子は窓の外を眺め、時折、落ち着きなくあたりを見回した。また、バッグやポケットから何度か自身の携帯をうっかり取り出そうとして、その連絡手段は自宅に棄ててきたことを思い出し、その都度肩を落とした。

 車を運転している間、ありあわせの食料を口にしている間、夜、眠りにつくその直前でも、竜馬はずっと思い悩んでいた。いつ、本当のことを言おうか。いつ、理奈子を説得して依存症治療の専門機関に連れていこうかと。

 幾度となく、本音や真実は喉元まで出かかったが、頬がこけて細くなった顔で薄く笑う理奈子と目が合うと、どうしてもできなかった。正直に打ち明けることと、このままずっと黙り込むこと、どちらが酷なことだろうかと秤にかけても、竜馬の中で、明確な答えが出る時は永遠に来ないのではないか。そんな気がした。

 パサついたパン生地のサンドイッチをぼそぼそと齧りながら、竜馬と目が合った時だけ、美味しいね、と微笑を見せた理奈子。そのやつれた顔を見た時、ふいに竜馬の脳裏で、今年の春、桜吹雪のもとで写真を撮り合った理奈子の笑顔が浮かんだ。夫の暴力と子育てに悩みながらも、竜馬の前では無垢な天使のように笑っていた彼女の顔が、竜馬の胸を絞めつけ、急に目頭が熱くなった。あふれそうになる涙をこらえながら、駐車場や路肩に停めた車から竜馬は外に出た。

「ちょっと、煙草を吸ってくる」

 挽夏を過ぎてなお、どこか湿気をはらんだ風に紫煙をたなびかせながら、竜馬は深呼吸をして涙をやり過ごした。車内に戻った時、泣いていたことを理奈子に悟られないようにしなければと、気持ちを整理させるのに必死だった。そんなことがたびたびあった。

 ふたりだけのひそかな逃亡生活は、思いのほか神経を使い面倒なものだった。

 外の空気を自由に吸えるとは言え、竜馬は、動く牢屋に閉じ込められたまま、檻ごと逃げ続けているような気持ちになった。

 車を走らせている間、人通りのない場所にさしかかる時、もしくは食事を済ませている時などはいいが、パトカーや警察官の姿を目にすると、理奈子は急いで後部座席の足元に身をかがめ、じっと身をひそめていた。異様なほど彼らに対して警戒しているのが、運転席から見えた。

 また、警察署や交番の前は避けて走ってほしい、職務質問などは絶対に振り切ってほしいとも理奈子から依頼された。竜馬はもちろんその希望に沿って車を走らせたが、いつまで続けられるかは保証できなかった。

 当然ながら、何かと出費がかかることも避けられなかった。

 少しでも体内から早く薬を抜くため、理奈子は頻繁に水を飲む必要があった。防犯カメラや人の目を気にして、理奈子は外食を避けたがったため、食材の買い出しはほとんど竜馬が担い、大きなペットボトルの水とともに、加工しなくてもすぐに食べられそうな物を、あれこれと買い込んだ。

また、車はタダで走っているわけではない。移動はほぼすべて車で済ませる以上、時折、ガソリンスタンドに寄らないわけにはいかず、寝る場所を確保するためには、ビジネスホテルやラブホテルなどの宿泊施設などにも頼らざるを得ない。

 それらの費用の大半を、理奈子は竜馬に降ろしてもらった現金で済ませていた。決して高額な買い物をしていなくても、この生活がしばらく続くようであれば、ポーチはどんどん薄くなっていくだろう。

 家を出る間際、かき集めた現金と通帳の中身を改めてチェックしてみて、理奈子は愕然とした。半年以上も働いた自分の稼ぎが、残りわずかになってきたからだ。何に使い込んだのかは、誰よりも理奈子自身がよく知っていた。

 二回、三回と、薬物や注射器を売人の女から買い求め続けた時、本当は理奈子自身、気づいていた。購入を依頼するたびに、その金額が吊り上がっていたことに。しかし、いざ買おうとなると財布の紐はたやすく緩んだ。静脈に打ち込んだ瞬間の恍惚と興奮は、紙幣をいくらつぎ込んでもその価値があると、その時は信じて疑わなかったから。

 颯太を実家に預けてからまもなくの時、涙が落ち着いてきたあたりで、その話を自嘲気味に竜馬に聞かせた。

「バカでしょう、私。ほんと、バカな女だよね」

運転席でずっと耳を傾け、信号待ちでハンドルを握っていた竜馬は、理奈子が言葉を切るまでしばらく黙っていたが、バックミラーごしに理奈子と目が合うと事もなげに答えた。

「そうかな。俺は、そうは思わないよ。そこまでわかって、学習できて、自ら反省できて、しかも俺を巻き込んでまで薬をやめようと決めた理奈子さんは、偉いと思うな」

 ひと言ずつ、優しさが込められた竜馬の声と言葉を耳にして、理奈子は静かに唇を噛みしめた。竜馬の愛情に耐え切れず、ひっそりと洟をすすり出した理奈子をふり返り、竜馬は、泣くなよ、ほら、理奈子ー、と茶化した。それにつられて、理奈子も懸命に笑ってみせた。

 埼玉から東京に戻り、日中のほとんどを車の中で過ごす生活は意外なほどあっという間に時が過ぎた。竜馬は、過去に当たった現場を思い出すふりをしながら、あちこちへと車を走らせ、都内西部の雑木林や緑地帯、鬱蒼と木々が茂る山裾をさまよった。

 東京に戻ってきてから、ナビとスマホのネット情報を頼りに、あるはずのない仮設住居、使っていない作業現場の事務所を探すふりを続け、一日、二日、三日と、今日もダメだった、今日も見つからなかった、理奈子さん、ごめんね、と頼りなく無駄に謝る日が続いた。

 一日がかりの運転と理奈子をだましているという気の重さから、夜になると、竜馬は心身ともに疲れていたが、シャワーを浴びた理奈子は旺盛に求めてきた。

「怖いの。お願い、抱いてよ。私には竜馬君だけしかいないの」

 優しい言葉で断ろうとしても、竜馬の首に巻きつく理奈子の腕の力は思いのほか強く、耳元でそう囁かれると、断れずに口づけから始めてしまう。また、どんなに疲れていても、抱き合い求め合っているうちに、自然と竜馬の陰茎は勃起していき、切ない痛みを感じるほど硬く膨張した。そして、朝起きてから、もしくは昼時など、理奈子に断っては職場に電話をかけ、渋い声で対応する先輩・上席相手に、体調不良が続いていると嘘を伝えた。

 架空の仮設の小屋を探し始めてから、四日目の朝。あきる野市と羽村市の境い目あたりにあるビジネスホテルの一室で、いきなり理奈子が訊ねてきた。

「ねぇ、竜馬君。教えてくれた仮設の住居って、本当にあるの?」

 ホテルのモーニングサービスとして、一階の食堂で出された朝食を竜馬が部屋まで持ち込み、ロールパンにかぶりついたところだった。竜馬はそのまま、しばらく言葉を失い、上目遣いで理奈子を見返す。その目には、怯えにも似た疑いの光がかすかに宿っていた。

 まだ数日ながら、薬物を断ち、その代わりに食事だけは続けていたせいか、理奈子の頬は心なしか以前よりもかすかな肉付きを取り戻し、血色もよくなりつつあるようだった。

 だが、健康を取り戻そうとする過程で、理奈子が現状に疑問を抱くのは無理もない話だった。初めから存在しないような建物を、あたかもどこかにあるかのように探すふりをして、さまよい続けるという行為にも限界が来ていた。

 竜馬はたじろぎ、視線を泳がせながら、ロールパンをひたすら食べ続けた。とっさの質問にお茶を濁すしかなかった。

「も、もちろん。あるにはあるよ。あったはずだけど。ごめんね、場所の記憶が定かじゃなくて、なかなか」

 そう、とだけ小さくつぶやいた理奈子は、寂しい目をしてスープを啜る。まだ何か竜馬に問いただしたいことがあるような、悶々とした表情を浮かべていたが、それきり、ふたりは黙って食事を続けて朝食を済ませた。

 その日は、一日中、理奈子は落ち着きなく、後部座席の窓からあたりの景色をきょろきょろとうかがい見ていた。それはまるで見えない何者か、得体の知れない敵からの奇襲を警戒しているような様子だった。

 五日目の朝、前夜に泊まっていたラブホテルから出発するため、車に乗り込んですぐに、後部座席から理奈子が妙なことを言い始めた。

「竜馬君、落ち着いて聞いてほしいんだけど。私たち、誰かに見張られているかもしれない。もしかしたら、尾行か監視されているかも」

 シートベルトを締めようとしていた竜馬の手が、止まった。いきなり何を言い出すのかと、驚いて運転席から背後をふり返った。そこには、座席で小さく膝を抱え、深刻な顔でうつむいている理奈子がいた。膝を抱いた手はかすかに震えていた。

 どういうことかと問いかけ、理由を訊ねると、理奈子はかすれた声で話し始めた。

 理奈子の話では、隣に停まっている車が、昨日か一昨日、ふたりが泊まったホテルでも同じ物を見かけたような気がする、同じナンバーだったと思うということだった。

 普通に考えて、それはないだろうと竜馬は答えた。

「いくらなんでも、考えすぎじゃない? もし本当だとしても、ただの偶然とか」

 だが、理奈子はそんな竜馬の意見に耳を傾けることはなく、間違いなく誰かに監視、もしくは尾行されていると言う。おそらく警察や麻薬取締課の関係者ではないかと。

 本当に自分たちは彼らに見張られているのか、また、彼らはそんなにも早く自分たちを見つけ、ここまで巧妙に接近してきたのか。そんなことがあり得るのかと、竜馬の胸はざわめいた。だが、理奈子が話し始めた一連の仮説を聞き、竜馬は気がついた。

 妄想が、ひどくなっている。覚醒剤による副作用だと。

 理奈子がやつれたように痩せてきたあたりから、依存症治療の機関をネットで探す傍ら、竜馬はその原因となる薬物の種類や効能、また、なぜ違法とされるのかといった関連記事・サイトの文章を拾い読みしていた。その中には、依存症に苦しむ人たちの生々しい声や、逮捕されたことから人生が一変してしまった話などが、多岐にわたって書かれていた。

 とりわけ、覚醒剤の副作用については、ひときわ深刻なケースが取り上げられており、中でも顕著な症状が、幻覚・幻聴、過度な被害妄想や疑心暗鬼の類だという。

 考えすぎではないかという竜馬に対し、頑なに首を横に振る理奈子。彼女が、いままさにその当事者であることに気づいた竜馬は、とっさに異論で説得することをやめた。否定してはいけない。ただ、一旦受け止めるのだ。

「そ、そうなんだ。俺にはわからないけど。理奈子さんがそう思うなら、そうなのかもね」

 苦し紛れに言葉を返したところ、理奈子は思いのほかにこやかな笑顔を見せ、はっと顔を上げた。そして、すがるような目で竜馬を見つめた。

「信じてくれるの? よかった……やっぱり、竜馬君ならわかってくれると思ってた」

 少しばかり声が明るく落ち着いてきたところで、竜馬はひとまず車を出していいか訊ね、出発をうながした。うなずく理奈子を見て、胸を撫でおろした。

 覚醒剤の常習者によくあることの一つとして、過度な妄想がひどくなっていく、というケースがある。それはさしずめ、ある特定の精神疾患に近いもので、思い込みや妄想が暴走し制御できなくなるという。

 関連する様々なHPやサイトに書かれていた適切な対処法として、治療の第一歩として周囲に必要な態勢は、彼らの言葉を否定してはいけないというものだった。かと言って、すべてに同意・同調をするだけでは症状を改善できず、治療のためにはよくないそうで、その匙加減が必要なのだと。

 女には優しく接するようにと祖父から教わった竜馬であったが、いま、理奈子に対しては仔猫やガラス細工どころではない。一触即発で暴発する危険性の高い爆弾をいきなり託されたような気持ちだった。

とにかく、理奈子の発言・妄想を否定しないこと、余計な刺激を与えないために落ち着いて対峙していくことを、竜馬は心がけた。

 その日、午前中まではなんとかなりそうな状況だった。

先月の終わり頃から、実は不審な声や人影、非難する罵声や嘲笑の数々に悩まされていたと、理奈子は言った。いま思うと、あれらはこの嫌がらせや見張り、尾行の序章だったのではないか、とも。

車の後部座席から、訥々と話しかけてくる理奈子の話はどう聞いても現実的ではなく、おそらくすべて妄想だろうと思われたが、それを否定も肯定もしない中立の立場として、竜馬は受け止め続けた。そうすることで、理奈子も次第に落ち着いてくるのか、だんだんと声のトーンにも熱がこもらなくなっていった。

 竜馬は、ハンドルを切りながらそれとなく訊ねた。

「ふーん、なかなか信じられない話だけど。その、少し前からあった人の声とか逃げる影って、いまも聞こえたり見えたりする?」

 バックミラーで目が合うと、理奈子は視線をそらし、自問自答するように首をかしげた。

「いまは……あまり聞こえないかな。なんか、竜馬君と一緒にいる時は聞こえてこないの。なぜかわからないけど」

 覚醒剤の副作用や、常習に伴って見受けられる精神疾患について、素人感覚ながら調べていた竜馬には、そこはかとなくピンとくるものがあった。

 ストレス、フラストレーションが起きる時こそ、それらの幻聴・幻覚がひどくなるのではないか。つまり、精神的にリラックスできている時には、脳神経が少し落ち着きを取り戻し、それらの妄想も影をひそめるのではないか、と。

 それに気づいた竜馬は、ある考えが浮かんだ。このまま理奈子にどんな刺激も与えないように接し、常にリラックスさせた状態をキープさせたらいいのではないか。そして、どんな副作用も現れていない隙を狙い、そこで初めて、依存症治療の話を持ち出し、説得を試みてはどうだろうか。漠然と竜馬は内心でそんな計画を立て、運転を続けた。

 昼時になり、走らせていた車が福生あたりに差しかかったところで、竜馬は目と鼻の先に一軒の蕎麦屋を見つけた。急にさっぱりしたものが食べたくなって、竜馬は店をじっと見つめた。

「こんな小さな店じゃ、まさか防犯カメラもないと思うんだよね」

 車道の脇に車を停め、つぶやいて後部座席をうかがう。

 理奈子の情緒もかすかに安定したようだったこともあり、久々に外食をしてみないかと持ちかけた。いまだ見えない敵や警察・麻薬取締課の目を恐れて、理奈子は渋い顔を見せたが、竜馬は努めて明るい声でさらにひと押ししてみた。

「それじゃあさ、ひとまず店に入ってみて、防犯カメラがなかったらここで昼メシ食おう」

 二十分後、竜馬と理奈子はその店で蕎麦を啜っていた。

 竜馬の部屋に負けず劣らず狭く古い店だったが、店内にはどこそこ清潔感があり、夫婦とおぼしき高齢な男女が店を切り盛りしている。

 いくつかあるテーブル席に座り、竜馬と理奈子は天ぷら蕎麦を頼んだ。東京に戻る途中で買った地味なキャップをふたりして被り、黙々と食事を続けた。時折、目が合うたびに微笑を浮かべる理奈子の顔を見て、竜馬は安堵した。

 予期せぬ事態は、そろそろ蕎麦を食べ終わろうかという矢先に起きた。

カウンター席の頭上に設置された小さなテレビが、ニュースを放送し始めた。画面に映った女性アナウンサーの硬い声が、都内で起きたある事件について伝えていた。

 それは、都内に住む女とその内縁の夫が、自宅で大量の麻を栽培し、乾燥大麻や他の業者から仕入れた合成麻薬などを密売し、逮捕されたという事件だった。

「逮捕された中元純菜容疑者と交際中の男は、二人で共謀して乾燥大麻を作り、それを知人や友人に販売していました。また、顧客となった知人らを、同業者の覚醒剤を密売していた売人らに紹介し、斡旋により発生した売上金も得ていたということで、警察は余罪についても取り調べを—―」

 箸を動かしていた理奈子の手が止まった。よく見ると、その指先は小刻みに震えている。

 しまった、迂闊だった—―。蕎麦を食べ終わった竜馬は、内心、いささか焦り始めていたものの、とっさに箸を持っていない手でその手をつかみ、優しくにぎりしめた。

「大丈夫だから、理奈子さん。とりあえず、店を出よう」

 小声でそう耳打ちをした後、竜馬はそそくさと会計を済ませ、理奈子の肩を抱いて店を後にした。

 車に乗り込んですぐに、後部座席に座った理奈子は膝を抱え、震える声で竜馬を責めた。

「だから嫌だったのよっ。外で食べるなんて。私、どうしたらいいの」

 取り乱した理奈子は、逮捕される恐怖と焦りに苛まれて、次第に口調も穏やかではなくなってきた。停めたままの車内で、いくら竜馬がなだめようとしても、どんな言葉も追いつかないほど妄想の話が加速していくばかりだった。

 本当はここの蕎麦屋に入らせることも、仕組まれたことだったのではないか。店にいた人たちもみんな警察などの関係者かもしれない。こうしている間にも追手が近づいてきているのではないか、など。出会ったばかりの頃の理奈子とは思えないほど、その話は支離滅裂になってきていた。このままでは聞かされている方が病んでしまうのではないかと困惑するほどだった。

「大丈夫だって。さすがにそれは考えすぎだって。理奈子さん、落ち着いて」

 竜馬が優しくなだめる声にも、理奈子は首を振って反発した。

「竜馬君は当事者じゃないからわからないのよ!」

 刺々しくなってきた理奈子の口調に、竜馬は肩を落とし、重いため息を一つついた。緩慢な動きで前方に向き直り、エンジンを入れる。車が動き出してすぐ、理奈子が、あ、と小さくつぶやき、またあり得ない話をし始めた。

「まただ。また、聞こえる。私や竜馬君のこと、バカにしている声がする」

 バックミラーごしで、怯えた顔で頭を抱える理奈子を見て、竜馬はさらにやりきれない気持ちのままハンドルを切った。ふりだしに戻ってしまった。

 車を西へと走らせ、山林が見え隠れしている中、ふたりの間にはギクシャクとした硬い空気が漂っていた。諍いというほどではないにしろ、些細なことで意見がこじれてしまったことで、どうにも気まずい雰囲気になってしまったのだ。しばらく無言のまま、竜馬は運転を続けた。

民家が次第に少なってきたあたりで、竜馬はひと言ふた言、後部座席にいる理奈子に話しかけた。なるべく当たり障りのない雑談を振ってみると、浮かない表情を浮かべながらも、理奈子はそれに返事をしてくれた。

 ふたりの間の空気が和らいでいく中で、異変はすぐには気づかなかった。少なくとも竜馬としては、きちんと返事をしてくれる理奈子に安心していたのだが。

 お互いに言葉が途切れた時など、理奈子の口から思いがけない独り言がたびたび漏れるのだ。

「あー、いま、すっごくシャブやりたい」

 こんな時に氷砂糖があったらなー。どこかでシャブ売ってないかな。追加するなら15 mgからがいいんだよ。竜馬君は自分で注射を打ったことあるー?

 まったく関係のない話をしているというのに、なぜか理奈子が漏らす言葉の端々に、薬物に対する執着心が見え隠れする言い方が耳に障った。覚醒剤の話から遠ざけようと、竜馬が少しでも違う話を振ってみても、理奈子は事あるごとにシャブに関連する話にすり替えようとして、結局、薬物の話に戻ってしまうのだ。

 いつか読んだ、薬物依存症の患者に対するケア、そのよくある症例に関して、関連サイトに掲載されていた内容が思い出された。薬が体内から抜けていく過程で、とりわけ覚醒剤の依存症に悩む患者は、執拗にシャブの話をしたがることがあるという。それはいわゆる依存に対するガス抜きのようなもので、覚醒剤に固執していることをあえて口にすることで、またやってしまうことを回避しようとしている場合もあると。だが、その鬱憤が溜まり、もしくは依存を他のことにうまく移せない、分散できないことで、また注射で気持ちを持ち上げようとしてしまう悪循環が生まれてしまうものらしい。

 理奈子の依存症を治療するべく、ある程度、それらの知識・情報について調べていた竜馬としては覚悟していたことだったが、いざ理奈子も同じような症状が出ていることを目の当たりにし、少なからずショックを受けた。

 シャブとは関係のない話をしようとしても、理奈子の返事は必ずその話にまた戻ってしまうため、半ば匙を投げた竜馬は、ひとまず例の仮設の小屋探しを再開しようと伝えた。

 車は、さらに民家の密集地帯から離れ、青梅近くの雑木林の中に入っていった。だいぶ山深いところまで着いたので、竜馬はその一端に車を停めた。

「理奈子さんはどうする? 車の中で待ってる? 俺はとりあえず降りるよ」

 ひとまず外に出て運転席のドアを閉めた竜馬は、外から後部座席をうかがった。しかし、停車する少し前から理奈子はずっと黙り込んでしまっていた。フロントガラスから覗き見ると、また座席にうずくまって膝を抱えた理奈子の姿が見えた。

 外に出るわけでもなく、待っているとも答えなかった理奈子のことが心配になり、竜馬は車の前から回り込んで後部座席のドアを開けた。一緒に外に出るかそれとも待っているかともう一度訊ねると、うつむく理奈子はもごもごと何かつぶやいた。

「え、何? なんだって?」

 眉間にシワを寄せ、竜馬が訊き返すと、理奈子はぶっきらぼうな口調で驚くことを依頼、いや、命令してきた。

「そこで、服を脱いで。全部、脱いで」

 竜馬は、自身の耳を疑った。何かの冗談だろうか。苦笑いをしながらどういうことかと問いかけると、震える声で理奈子は同じことを言った。顔を上げて竜馬を見つめるその目は、どこか焦点が合わずかすかに血走り、疑惑の色を湛えていた。とても冗談を言っているような目つきではなかった。

「いつになったら見つかるのよ。竜馬君が言う、仮設の小屋はいったい、いつになったら見つかるの? ねぇ、いつ?」

 唇を歪め、泣きそうな声で理奈子は問い詰めた。竜馬が言葉を失くしてしまったところで、すかさず理奈子はひどい妄想の話、様々な疑念に満ちた話をし始めた。

 ここまで追い詰められたような仕打ちに遭うのは、どう考えても警察やその関係者たちに見張られているとしか思われない。その証拠に、自分の耳に揶揄する声がいまもずっと聞こえてくる。その見えない輩たちが、ふたりをずっと監視しているのだと言っていると。

 話はさらに飛躍、もとい、暴走していった。竜馬も警察や麻薬取締課の人間たちとグルになっているのではないか。もし、そうではないとしたら、発信機や盗聴器が竜馬の服に付けられているのかもしれない。いや、そうとしか思えない。だから服を脱いでほしいと。

 とうとうここまで理奈子は変わってしまったのかと、竜馬は肩を落とし閉口した。もはや、竜馬には理奈子を説得する力も言葉も、残っていなかった。胸の痛みは深く、涙も出ないほどだった。いっそ、手放しで子供のように泣き崩れることができたら、どれほど楽だろうか。

 積年の間、虐待されて育った痩せた仔猫が、牙を剥き、爪を立て、威嚇を続けるかのごとく、ひどい剣幕で竜馬を責め立てる理奈子を前に、竜馬はなすすべがなかった。

 雑木林の片隅には、ふたりと三澤家の車以外、誰の姿もない。辺りを少し見回してそれを確かめた竜馬は、車のキーをジーパンのポケットに入れると、その場でおもむろに服を脱ぎ始めた。上着にしていたダンガリーシャツを脱ぎ、Tシャツを脱ぎ、靴を脱いで靴下も脱いだ。砂利と土が足の裏にひやりと当たる。小石がかかとや土踏まずに当たってかすかに痛かったが、かまわずに脱衣していく。ジーパンを脱いで、いつもの癖で簡単にたたんでから竜馬はそれを理奈子が座る座席の傍らに置き、今朝、履き替えたばかりのボクサーブリーフも脱いで車の中に放ってみせた。

 脱げと言ったものの、野外で全裸になった竜馬の姿を理奈子は見ていなかった。唇を歪めたままうつむき、自分の膝をぎゅっと握りしめてばかりいる。

 理奈子がこちらを見ていないとわかっていながら、竜馬は全裸になったまま、その場でゆっくりと一回転してみせた。自然があふれた場所で、吹き抜ける初秋の風はいささか肌寒かったが、構わなかった。

 脱いでしまったついでに、竜馬はジーパンやシャツのポケットもまさぐり、その中身を出してみせた。出てきたものは、車のキーとスマホ、ライター、煙草、くしゃくしゃになったコンビニのレシートだけだった。当然ながら、発信機や盗聴器などありはしない。

いっそのことスマホやライターも壊して中身を見せようかと訊ねようとしたところで、理奈子はさめざめと泣き始めた。

「ごめんなさい……竜馬君、ごめんなさい、本当にごめんなさい……でも、でも私、怖くてどうしても怖くて……ごめんなさい」

 裸のまま、竜馬は後部座席に乗り込み、泣いて謝り続ける理奈子の肩を優しく抱いた。

 もう大丈夫、とは言えなかったが、気にするな、と竜馬は言った。それしか言えなかった。それでも理奈子は、竜馬の腕の中で肩を震わせて泣いていた。


 陽は、だいぶ西に傾いてきていた。竜馬は太陽を追いかけるかのように、多摩川沿いに車を走らせていた。窓の外に目をやると、右手には鬱蒼と茂る緑の山々が連なり、左手には屋根の低い民家がずらりと見える。

 人目につかない雑木林で理奈子の疑念を払うべく、全裸になって身の潔白を証明した竜馬は、その後、車を北西へと走らせた。本当は依存症治療の専門施設が近いため、少し南下して八王子方面か、東に向かって小平の方に行きたいところであったが、いまの理奈子はかなり神経が過敏になっている。精神的に不安定な状態が続いているため、あまりにあからさまな態度で施設に向かえば、途中で取り乱す可能性もある。そうなれば何をするかわからない。事は慎重に運ばなければならない。

 だが、闇雲に車を走らせるわけにもいかず、ひとまず竜馬はその日の宿を探すことも踏まえ、運転を続けた。

 必然的に、多摩川沿いを車は川上へ向かっていた。ナビを見ると、両側を山で挟まれたような地形を進んでいた。

 その一帯にも民家はいくらか密集していたが、都市部とは明らかに町並みの雰囲気が違った。道ゆく人の数は極端に少なく、とうに廃業したのではないかと思われるシャッターを下ろした小さな店舗があちこちにあった。一応、近くを電車が通っているため、数える程度ながら駅はあったが、周辺にある宿はどれも民宿のようで、きちんと仲居が挨拶をしに出てきそうな宿であった。なるべくなら顔を見られたくないため、理奈子は嫌がるだろう。それを念頭に置いて泊まる場所を探すと、安価なビジネスホテルやラブホテルはなかなか見つからなかった。

 手頃な宿泊施設を探して運転していたところ、理奈子がトイレに行きたいと言い出した。竜馬としても少し体を休めたかったこともあり、どこかにトイレを借りられる場所がないか探していた。

 すると、青梅よりも西側、南に向かってV字を描くように多摩川が曲がっている付近で、さほど大きな規模ではないが土産物を売っている店と、店舗の前に駐車スペースを設けた場所があった。平日ながら観光客とおぼしき人の出入りがあったため、理奈子は心配そうな顔をしていたが、他に用を足すのに適当な場所を、このあたりで探すのは困難だった。

 さすがにここなら警察がぞろぞろやってくることもないだろうし、職務質問をされる可能性はないだろうと言って、竜馬は駐車スペースの片隅に車を停めた。

「大丈夫だよ、ここなら。俺もトイレと、煙草を吸うのにこの近くにいるからさ」

 竜馬を疑っていたことが後ろめたいようであり、まだ不安そうな理奈子だったが、竜馬が励ましたりそばにいたりすれば、やはり気持ちは落ち着くようだった。問題は、位置情報を警察などに悟られないようにするため、理奈子が自身のスマホを自宅に置き去りにしてきたことだった。いまの状態では、ふたりが離れてしまったら最後、連絡がつかなくなってしまうからだ。

 渋ってはいても、やはり尿意には勝てなかったようで、結局、理奈子は竜馬に説得されて車を降りることにした。

 先に車を降りた竜馬が待っていると、後部座席で理奈子は自宅から持ってきたボストンバッグの中身をまさぐっていた。何か探し物だろうかと訊ねると、すぐ用意できると答え、何やら細長い物を化粧ポーチにしまい、そのポーチごと持って理奈子は車から出た。

 もし早々と出てきた時は車の脇で待っていればいいと伝え、売店の脇にあるトイレに向かう理奈子の背中を見送り、竜馬はひとまず胸を撫でおろした。

 理奈子が出てくるまでの間、竜馬自身もトイレで小用だけ済ませ、トイレとは反対側にある喫煙エリアで煙草を一本だけ灰にした。時間にしてほんの十分程度だったが、正直、理奈子とは別に行動できたことで、少しだけ肩の荷が下りた気がした。

スマホで時間を確かめると、理奈子がトイレに行ってから十五分ほど経っていた。車の脇にも理奈子の姿はなく、女性だから多少長くなるのは仕方がないと思い、理奈子を待つ間、竜馬は売店の中に入り、土産品をいろいろ物色してみた。

 いま、本当はこんな所で土産を探している暇などないはずだが、束の間、気が軽くなったことで、つい無心になって竜馬は菓子類の売り場で目を泳がせてしまっていた。理奈子が何か喜びそうなものはないかと、目移りしていたところではたと理奈子のトイレ待ちをしていたことに気づいた。スマホで時刻を確かめると、車を降りてからすでに二十分以上経っている。あとわずかで三十分になる。

 急いで車に戻ろうとした、その時、店の表から誰かの悲鳴が聞こえた。

 最初、女の叫び声が店内まで響き、客たちが一斉にその方角へ目を移した。さらに、男の声、他の女の声が重なり、悲鳴が飛び火していく。そして、その悲鳴に重なるように、少女の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

 ただならぬ張りつめた空気に身を強張らせ、竜馬はすぐさま人波を掻き分け、店の表まで走り出した。嫌な予感がした。

 店の前、駐車スペースの片隅で、参事は起きていた。青白い顔をした理奈子が、あろうことか小さな果物ナイフを両手で握りしめ、目を見開いて何かに向かって身構えている。理奈子が握っているナイフの刃先は、真っ赤な鮮血にまみれていた。

 驚愕した竜馬は、息を呑んで理奈子が見つめる先に視線を移した。

 そこには舗装された駐車場にうずくまり、刺された腹を抑えてうずくまる、六十がらみの男が苦しそうな顔をして、懸命に周囲の人たちに助けを求めていた。震える手を宙に伸ばし、かすれた声でもがき苦しんでいる。その手は、自身の血で赤く染まっていた。

 悶え苦しむ初老の男の片隅では、うずくまり、顔を真っ赤にして泣きじゃくる少女がいた。明らかに恐怖で慄いているのがわかった。先ほど、他の男女が発した悲鳴に紛れ、聞こえてきた号泣はこの少女の声だった。

 負傷した男を取り囲み、家族とおぼしき男女が助けを求め始めた。

「誰か! 誰か、救急車を呼んで。早く!」

「お父さん! お願い、しっかりして!」

「おい、その女、誰か捕まえろ! その女が刺したんだ!」

 とっさに、竜馬は走り出した。考えるよりも先に、足が動いた。

 血に染まったナイフを握る理奈子の傍らに駆け寄り、竜馬は、その細い体を羽交い締めにして連れていき、強引に自分たちの車に乗せた。周囲では、逃がすな、あいつが刺した、などと叫ぶ声が続いていた。

理奈子を車に放り込むまでの間、何かわけのわからない言葉を発して果物ナイフを振り回す理奈子の手により、刃先が他の誰をも傷つけなかったことがせめてもの幸いだった。

 飛び込むように運転席に身を滑り込ませ、竜馬はエンジンをかけ、車を急発進させた。

 走り始め、ミラーに売店も駐車場も見えなくなったところで、竜馬は震える声で後部座席に向かって叫んだ。事の経緯を確かめないわけにはいかなかった。

「理奈子さん! いったい、何をしたんだ! 人を刺すなんて」

 後方から、竜馬以上に取り乱した理奈子が、慌てふためいた声で答えた。

「だって……だって、あの男の人、事情聴取をするって、私の後ろでいきなり言い出して。それで、だから、絶対、警察の人だって、私たちを見張って尾行していた奴らだって思って、それで……」

 誰よりも理奈子自身、気が動転しているのはその顔を見て話す声を聞けばわかった。しかし、だからと言って許されることではない。自分が見てないところでいったい何があったのか、子供からケンカの原因を聞き出すような口調で、竜馬は理奈子に問いかけた。

 しどろもどろに理奈子が話した内容はこうだった。

 トイレから出てきた時、竜馬の姿が近くにないことで急に不安になった理奈子は、言われた通りに自分たちの車の近くにいた。しかし、一分、二分と経っても竜馬が現れない。人波が怖くて店に入れなかった理奈子は、遠い位置から売店の中を覗き見るようにして、竜馬を探した。その時、背後で男の声がした。

「さあ、私はおまわりさんです。ジジョウチョウシュにご協力ください」

 ふり返ると、そこには小学生くらいの女児と、しゃがみ込んでその子にほほ笑みかける初老の男がいた。少女は、その男性をおじいちゃんと呼んでいたのに、笑いながら、おまわりさんと呼び始めた。

 その男性は少女に目線を合わせた位置から、近くにたたずむ理奈子を見上げた。そして、怪訝な表情を浮かべつつ、一瞬、不穏な目つきで理奈子と目が合って笑ったという。

「警察か麻取か、それ以外の悪の組織なのか、よくはわからないわ。でも、絶対に目が合ったの。嘘じゃないわ、私が薬をやっていたことを嗅ぎつけてあそこまでやってきたのよ。きっとそうよ。私を逮捕するために、あんな小さな女の子まで使って」

 男は確かに、意味ありげににやりと笑ったと、震える声で理奈子は言った。恐怖に慄いた理奈子は、すぐさまポーチに手を突っ込んだ。そして、車を降りる際に護身用で持ち出した果物ナイフを取り出し、カバーから抜いた後、それを構えて男に体当たりしたのだと。

 心底悔しそうな顔をして、真面目な口調で唇を噛みしめる理奈子をミラーごしに見ながら、話を聞いた竜馬は一瞬、呆然としてしまった。対向車線から来た車にあやうくぶつかりそうになり、間一髪、ハンドルを切って接触は免れた。苛立つ運転手の顔が見えそうなほど、大きなクラクションが響き後方へ遠ざかっていく。

 どう考えても、理奈子をつけ狙った輩の話ではない。見ず知らずの家族があの売店に来て、祖父と孫が戯れていた。のどかなひと幕に過ぎない。一部始終を聞いて話を整理してみれば、何のことはない、おそらく孫の面倒を見ていた祖父が、遊びの流れで「おまわりさんごっこ」に付き合わされることになった。ただ、それだけのことだ。

 脈打つ心臓の鼓動が、さらに上昇していく。八方塞がりになっていく状況で、竜馬は、運転を誤らないようにハンドルにしがみつくだけで精いっぱいだった。

 苦悩の表情を浮かべたまま、無言になってしまった竜馬の後ろから、理奈子が必死に話しかけてきた。

「だって、本当だったのよ。私は絶対、命を狙われていたから、だからつい、カッとなって、私もナイフを。ねぇ、どうしよう、私、どうしたらいいの。ねぇ、竜馬君、ごめんなさい、私、どうしよう、どうしたらいいの……ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……」

 最初は言い訳ばかりを伝えようとしていたが、やがてそれは謝罪の言葉に変わっていく。消え入りそうに震える声で謝り始めた理奈子。その声は、親に怯える子供のように悲痛な響きを孕んでいた。事の重大さを少しずつ理解し始めたような口調で、懸命に謝り続けていた。竜馬にしてみれば、すでに時は遅く、謝る相手も完全に間違えているのだが。

 泣き出しそうな理奈子を制し、竜馬はどこか人目につかない場所で休みたいと言った。

「とにかく、落ち着いて考えよう。この先どうするか、ちゃんと考えよう」

 胃痛に耐え、それだけ伝えるのがやっとだった。


 時刻を見ると、十六時半を過ぎている。太陽はだいぶ傾き、黄昏迫る西の空は橙色が濃くなってきている。

土産物屋を逃げるように去って、車を飛ばした末に、ふたりは奥多摩の山裾にたどり着いた。人の居住地域からはかなりそれた、木々が茂る場所だった。まだ、車内で明かりを点けなくても足元はかろうじて見えるが、このままでは宵闇に閉じ込められるのも時間の問題だろう。

 萩などが生い茂る傍らの獣道に車を停め、竜馬は深いため息をついた。そして、ハンドルに肘をつき、両手で額を抑えた。ちらっと背後を見やると、そこには蒼白な顔をした理奈子がうつむき、憔悴しきった顔であらぬ方角へ視線を投げている。

 しばらくの間、沈黙が続いた。先に口を開いたのは理奈子だった。

「ねぇ、竜馬君。いままで、いろいろ迷惑かけて、ごめんね。もう、大丈夫だから。ここから先は私、自分で何とかするから。竜馬君、ひとりで帰ってくれてもいいよ」

 控えめな口調で、頼りなく何かに怯えたような声で、理奈子は疲れた笑みを浮かべ、竜馬にそう話しかけた。

次の瞬間、ハンドルを拳で殴りつけた竜馬の、怒鳴り声が車内に響いた。

「できるわけないだろう! そんなこと!」

 一瞬だけ、車の中は水を打ったように静かになったが、いままで聞いたことがないほどの怒りと憤りに満ちた竜馬の声に、理奈子は肩をすくめ強張らせ、さめざめと泣き始めた。

 ごめん、とつぶやくように謝った竜馬の声も、届きはしなかった。

 身を震わせて泣く理奈子は、ひたすら竜馬に謝り続けた。

「ごめんなさい……でも、あの時、竜馬君がいなかったから、私、怖かったの……ごめんなさい。だって、不安だったんだもの。それで私、急に怖くなって……ごめんなさい」

 言い訳をしては謝り、謝っては言い訳をする。しゃくり上げながら、くり返すその悲痛な謝罪の声にほだされ、竜馬は怒鳴ってしまったことをわびた。だが、何度謝罪の言葉をくり返しても理奈子は泣き止まず、「でも」と「だって」をくり返した。

 やがて、また誰かの声が聞こえる、自分たちをバカにしていると理奈子が言い出したため、竜馬は一度車を降りて、後部座席に乗り込んだ。泣きはらした顔で、幻聴に怯える理奈子の肩を抱き寄せ、竜馬は赤子をあやすように理奈子の髪を優しく撫で続けた。


 夜は、闇を伴って忍び寄ってきていた。

 沈みゆく太陽は、老いていく生き物のようにその光を弱め、次第にその姿は山の稜線へと消えていった。いま、車の内外ではゆっくりと、だが、確実に闇が深くなってきている。

 後部座席を水平に近くなるまで倒し、竜馬は理奈子を片腕で抱き寄せながらそこに身を横たえた。どのくらいの時間、そうしていただろうか。理奈子が泣き止んで、少し気持ちが落ち着いてから、とりとめのない話をして過ごした。

「まだ、声は聞こえる?」

 会話が途切れ、静寂が訪れたところで竜馬が訊ねた。

「さっきよりは、だいぶ小さくなったかな。聞こうと思えば聞こえる気もするけど。いまはそんなでもない」

 小首をかしげながら、理奈子は鼻声で答えた。

 時折、スマホで時間を見ることで、その明かりを頼りにお互いの顔はかろうじて見えているが、近くに街灯一本すらないこんな場所では、このまま眠りについてしまったが最後、一寸先も見えない闇に飲み込まれてしまうだろう。

闇夜が迫りくる中、木々の狭間に停めた車内で、竜馬はずっと嘘をついていたことを告げ、理奈子に謝った。自分が話して聞かせた仮設の住居、使われていない事務所などはなく、たとえどこかにあったとしても、たやすく入って数日間過ごせるようなものではないと、正直に打ち明けた。

「そうだと思った。全然見つからないものね」

 そう言いながら、理奈子はかすかに苦笑した。

 暗がりの中で、輪郭もパーツもぼやけた理奈子の笑顔を見て、思い切って竜馬はさらにその理由まで述べた。

「俺、理奈子さんのこと、騙していただけじゃないんだ。依存症治療の専門機関が東京の西側にいくつかあって、そこに連れていこうと思ったんだ。それで、東京まで連れて戻ってきちゃった。何とかして、理奈子さんの薬物依存を治療してあげたくて。傲慢な考えだよね。勝手なことして、ごめん」

 理奈子の額に顎を当てたまま、竜馬は低い声で話した。

「怒ってる? 俺のこと」

「全然。どうして私が怒るの? 竜馬君が決めたことなのに」

 穏やかな声で、理奈子は少し笑ってそう答えた。小さく首を振るせいで、竜馬の口元で、さらさらと理奈子の前髪が揺れた。

 理奈子から口づけをねだられ、竜馬はその花びらのような唇に自身の唇を重ねた。ふたりにしては珍しく、服を身に着けたままの長いキスだった。その甘やかな時間こそ、お互いに本当に渇望していたものだったのではないかと、ふたりとも感じていた。

 唇を離したところで、理奈子が話し始めた。

「私ね、子供の頃、いつだったかなぁ。たぶん、まだ小学生だったと思うんだけど。母親に怒られて、ひと晩ベランダに追い出されたことがあったの」

 藪から棒に始まった理奈子の幼少期の話に、竜馬はいささか身を固くし、耳を傾けた。

「とっても寒い、冬の夜だった。何で怒られたのか、その原因なんて覚えていないんだけど。母親は、私のことを叱りつけて、何度か叩かれたり蹴られたりしたんだけど、私は私で、きっと納得できないことがあったんだろうね。口答えして、絶対に譲らなかったの。それで、母親に散々歯向かったせいで、あの人、キレちゃってね」

 娘の言葉や態度が気に入らなかったのか、母は理奈子の襟首をつかみ、そのままベランダに追い出して窓を閉め、鍵までかけてしまったのだと理奈子は言った。何一つ嘘ではなく、過剰に脚色した話でもなく、事実そのものをありのまま、淡々と理奈子は伝えた。

 寒風が吹きすさぶ、一月か二月のことだった。セーター一枚でも寒い夜だった。

「だんだん体が芯まで冷えてくるのがわかって、私は震えながら窓を叩いて抗議したの。でも、母はそんな私を完全に無視してテレビを見たり本を読んだり、まだ乳飲み子に近いような弟を笑顔であやしたり。私がいくら窓を叩いても叫んでも、平気な顔をしていたの。まるで、私がその場にいないみたいな顔で。信じられないでしょう?」

 闇の中で、かろうじて見える理奈子の寂しい笑顔から、竜馬は目をそらした。たとえ暗闇でも胸が痛んで直視できなかった。

 いよいよ手足がかじかんで感覚がなくなってきたところで、理奈子は我慢しきれず、部屋の中にいる母親に向かって謝った。謝って、謝って、謝り続けた。

「その夜、父親は帰ってこなかったわ。まだ、離婚はしていなかったけど、たぶん、どこかよその女の所にいたのかもね。でも、本当に辛かったのは、その後だった」

 深夜になり、理奈子はベランダの隅でうずくまり、全身を震わせて泣きじゃくっていた。そこで、部屋の明かりがついて窓が開いた。とうとう許してくれるのかと、安堵しながら顔を上げた理奈子の頭上から、母親は鍋に貯めた氷水をぶちまけたのだ。

「私が悲鳴を上げてすぐ、母はまた窓を閉めて鍵までかけてしまったの。で、それっきり、私は朝までずっとベランダで過ごす羽目になって」

 悪寒に襲われながら、身を震わせていた理奈子には、もはや泣く力も残っていなかった。やっと許されて窓を開けてもらい、部屋に戻された理奈子は高熱にうなされ、しばらく寝込んでしまった。

「風邪薬を出してくれながら、あの人、しれっとした顔で何て言ったと思う? 『私に逆らうからこういうことになるのよ』ですって。あきれちゃうよね」

 苦笑いをしながら話す理奈子を、かき抱く腕に自然と力がこもった。竜馬は暗がりの中で洟をすすった。頬が、涙で濡れていることに気づき、彼は空いている方の手の甲で乱暴に頬をぬぐった。

「いまでも、たまに思うの。あぁ、あの時、私、死んじゃえばよかったなって。そうすれば、私の母は殺人犯になって逮捕されたでしょう? それ、いちばんの復讐だったんじゃないかなーって。生き延びるのも、良し悪しだよね」

 笑ってそう話し続ける理奈子の言葉を、竜馬がすかさず遮った。

「違うよ」

 闇の中で、今度は理奈子が身を固くして口をつぐんだ。

「それは違うよ、理奈子さん。そこまでされて、まだ生きていたってことは、やっぱり理奈子さんは、もっと生きて幸せになるべきなんだよ。生きて、生きて、ずっと生きて、幸せになれってことなんだよ」

 震える声で、竜馬は精いっぱいの力強さと優しさを込めて、そう言った。しかし、理奈子を励ます言葉は途中から嗚咽が混じり、語尾はかすれ、歪んだ唇は小刻みに震え、すすり泣きに変わっていった。それにつられ、理奈子の頬にも涙が滑り落ち始めた。

「ありがとう、竜馬君。でも……でもね、私。もう、疲れちゃった」

 涙に暮れながら、竜馬の腕の中で、言葉通り疲弊した微笑を浮かべた理奈子に対し、竜馬はさらに首を振って理奈子を励まし続けた。

 もっと楽しい思い出を増やそう。もっといろんな場所に行って、もっといろんな話をしよう。いつか生活が落ち着いたら、自分と一緒に暮らそう。いつか青森まで行って弘前城の桜を一緒に見よう。いつか、夏は海に行って秋には紅葉を見て、いつか冬が来たらクリスマスも一緒に過ごそう。いつか、いつか—―と、何の約束も保証もできない未来の夢を、次から次へと思いつくままに竜馬は話し続けた。

 そんな彼に対し、理奈子は、そうだね、いつかそんなことができたらいいね、と、力ない微笑を浮かべつつ、うなずくばかりだった。


      11


 車を走らせ始めてすぐ、開けた道に出たところで、やっと視界が少しは晴れた気がした。街灯や町の明かりがちらほら見えてきたためだ。それでも都会の喧騒とはまったく異なり、その明るさはロウソクの火と蛍光灯くらいの違いがある。

 どうしてもシャワーを浴びたいと理奈子が言うので、車を出した。人が住む集落に近づくと不審がられるのではないかと竜馬は気を揉んだが、理奈子はやはり宿を探してほしいと言った。

「わー、星がきれい」

 民家が見えてきたあたりで、背後から感嘆の声が聞こえた。

 前後に車はなかったため、速度を緩め、運転席の窓を開けた竜馬は、首をかしげて窓外の空を見上げた。

 降るような、とは使い古された言い方になるが、そこには本当にいまにも雨あられと降ってきそうな満点の星が輝き、きらめいていた。夜風に揺れているようなその瞬きは、都内の空とはにわかには信じがたいほどだった。

 ゆっくりと車を進ませながら、ふたりは共に星空を眺めた。その昔、こんな風にしみじみと星を見上げて心揺らしたのはいつ頃だったろうかと、竜馬はぼんやりと遠い過去をふり返った。

 子供の頃、青森の夜空はもっとたくさんの星で埋め尽くされていたはずだが、それを特別なことだとは思わずにいた。あまりに日常に溶け込みすぎていた景色だったからだ。

 確かに、竜馬が上京したばかりの頃は、東京の夜空のわびしい闇にがっかりしたような気もするが、記憶も定かではないほど、大人になってからの生活は忙しすぎた。

 ふいに、理奈子が助手席に移りたいと言い出した。驚いた竜馬がふり向くと、すぐに理奈子は車を停めさせ、普段使っている化粧ポーチだけを持って助手席に乗り込んだ。

 夜とはいえ、窓の外からはすぐに顔も見えてしまう。心配してそう伝えたが、理奈子は構わないと答えた。

 それならばとそろりそろりと速度を上げ、竜馬は、山間のいくらか民家が増えてきた辺りまで車を走らせ始めた。

 素泊まりできる程度のホテルであれば、少しくらい粗悪な宿でも構わないと思っていたが、ナビで検索した限り、ふたりがいる周辺にはおよそ適当な宿泊施設はなく、山ひとつ隔てるほどの距離があった。とても今夜のうちにはたどり着けそうにはなく、へたをしたら目的地に着く頃には夜が明けてしまうだろう。

 もとより各家々はどこも点在して建っており、その隙間を埋めるようにいくつもの畑と駐車場で占められていた。まるで広大な空き地に住人たちが無造作に家を構えたかのような町だった。そして、集落の周囲は森で囲まれているだけだ。それ以外で近くにあるものは鉄工所や老人ホーム、すでに店を閉めた大型ショッピングセンターのみで、ネカフェはおろか、コンビニやファミレスすら皆無だった。

 通りを歩く人影はほとんどなく、車はトラックや小型車とたまにすれ違うくらいだ。

 時刻はまもなく九時を過ぎる。竜馬はにわかに空腹を感じた。理奈子が持ってきた缶詰などの食料品はまだ残っているだろうか。

訊ねようとしたところで、助手席の理奈子がくすくすと笑い出した。ちょうど信号が赤に変わったところだ。横断歩道を渡る人間は誰もいないが、竜馬は律儀にブレーキを踏んだ。

 訝しんで、竜馬は何がおかしいのかそれとなく聞くと、理奈子はそっと自身の右手を竜馬の左手に重ね、細い指を絡めてきた。竜馬は握り合った互いの手や指を見つめてから、黙ったまま微笑を浮かべている理奈子の顔を見た。

 何、どうしたの、となおも訊ねた竜馬に、理奈子は答えた。

「また、声が聞こえるの。どこか前よりも遠い、どこかで。私や竜馬君のこと、やっぱりバカにしている声が聞こえるの」

 力の抜けた理奈子の笑顔に、にわかに竜馬は不安な気持ちに襲われた。しかし、理奈子は幻聴にたじろぐ様子はなく、淡々と自身の状況を伝えた。

「何か言ってるわ。私や竜馬君のこと、いつか地獄に落ちるとか、バカ野郎とか、頭がおかしいんじゃないのか、とか。何もできないくせに、まだ騒いでる。おかしいね」

 鎖に繋がれたまま非力ゆえに吠え立てる野犬を見下すような、自分より不幸な者を憐れみ優越感に浸っているような、達観とも見える苦笑いを浮かべ、理奈子は幻聴たちの声を竜馬に伝えた。その横顔は、いつか満開の桜の下ではしゃいでいたものとは違う、悟りを開いた仏にも似た、美しい微笑だった。

 何と答えていいものかわからず、言葉に迷っていた竜馬の手を、理奈子は軽く揺すった。

「あ、青になったよ。信号」

 うながされ、竜馬はまた前方に視線を戻し、車を発進させた。

 ハンドルを切りながら、よくわからない悪意の声について話をする理奈子にどう対処したらいいものかと考えあぐね、竜馬はただ、この先どうしたいのか、どこに行けばいいかと訊ねた。

「それにしても、この辺にはやっぱりホテルがないよ。いちばん近いところでも山を越えないといけないかも。理奈子さん、どうする?」

 なるべく幻聴の話からも遠ざけようと思い、現実に目を向けさせるべく、竜馬は理奈子に問いかけた。理奈子は、どうしようか、と他人事のような返事をした。そして、あれこれと提案した竜馬に対しても、いいよ、竜馬君が決めてよ、としか答えなかった。

 理奈子が助手席に移ってからずっと、運転席と助手席、両方の窓は開け放して走行していたため、少し肌寒いくらいの夜風がさっきから車内に入り込んできていた。

ここ数年、都会の夜は九月でも蒸し暑いことも珍しくないが、山が近いせいかその町での体感温度は昼間よりもぐっと低く、冷房など不要な冷え込み具合だった。

 らちの明かない話を続けながら、竜馬は家々の隙間にある脇道を使い、あちらこちらへと車を流すように走らせていた。

結局、行けるところまで行こうということになり、ふたりは北西を目指して車を走らせることにした。多摩川に寄り添うように伸びる青梅街道を通り、違う町を目指した。

 本通りに出たところで、竜馬は運転しながら右側のサイドミラーをちらっと見て、あることに気がついた。つかず離れずの距離で、一台の自動車が先ほどからずっとこの車の後ろに着いてきているのだ。胸騒ぎがした。

 ナンバーを確かめると、間違いなくほんの五分か十分ほど前から、追いかけてきている後続車と同じだった。

 唾を呑み、竜馬は気づかないふりをして運転を続けたが、自然と肩や腕に、妙な力がかかってしまうのを自覚せずにはいられなかった。もちろん、そんなことを理奈子に教えることはできず、車を走らせた。

 理奈子は、後続の車など気づいてもいないのか、のんびりとした口調でとりとめのない話を続けている。風に吹かれ、長い髪がかすかに乱れている。理奈子が振る話に対し、竜馬は時折、短い相槌を返すだけだった。

 後続車の存在に気づいてから、運転を続ける竜馬の脳裏に、あることが思い出された。

位置情報を警察が突き止められないように、理奈子は自分のスマホを自宅に置いてきたと言った。しかし、カーナビにもGPS機能があったのではないか。それがあるからこそ、目的地を簡単に探せるシステムではなかったかと。

 前方に、多摩川の一部を横切って伸びる、一本の橋が近づいてきた。少し遠くから見ても、橋からその下を流れる川までの高さは、軽く十メートル以上はあるだろう。

 ざっと見通して、橋の長さはおよそ百メートル弱、車道幅は軽や小型の自動車がギリギリすれ違うことができるほどか。橋の上では、二本の虹を平行に渡したようなアーチの隙間を、数本の水銀灯が視界を助けていた。

いよいよ橋が間近に迫ってきたところで、理奈子は話題を変えた。

「ねぇ、アンデルセンの『人魚姫』って、結末、覚えてる?」

「え? さ、さぁ、どうだったっけ?」

「他国のお姫様と結婚した王子を、どうしても殺せなくて、短剣を海に捨てて人魚姫は自分も海に身を投げるの。そして泡になって消えてしまう」

「あぁ、そういえば、そうだったね」

「私もね、やっぱり、本当に愛した人のことは、最後まで守りたいと思うの」

「そ、そうだろうね」

「竜馬君、私、本当に幸せだったよ。竜馬君が言う通り、本当に幸せになれたから。後悔なんてしてないよ。だって竜馬君と出会えたことが、幸せだったんだってわかったから。だから、ありがとうね」

「……え?」

 走行中、予期せぬタイミングで不穏な感じの礼を述べられ、竜馬は戸惑った。ハンドルを握りながら助手席を見ると、夜風に髪をなびかせた理奈子が、穏やかな微笑を湛え、空腹を愚痴るかのような気安さでつぶやいた。

「あーあ、シャブやりたーい」

 と、その時だった。ふたりを乗せた車の前に、サイレンを鳴らして赤いランプを灯した一台のパトカーが現れ、橋の中間まで来たふたりの行く手を遮るように停車した。

 やべっ、と声が漏れた竜馬は、急ブレーキを踏んだ。そして、慌てて車をバックさせようと後方をふり返ったところで、息を呑んだ。先ほどからずっとつけてきた自動車が一台と、その後続でやってきたパトカーがもう一台、ふたりの逃げ道を塞ぐかのように、たったいま走ってきた橋の南側に停車していた。

 橋の上で、完全に挟み撃ちにされたのだ。逡巡していると、すかさず、止まりなさい、とマイクを通した野太い男の声が響いた。

 心臓が、にわかに高鳴り始めた。逃走していた車一台に対し、警察の車両は三台。多勢に無勢で、無理に突破しようとすれば命の保証はない。罪も重なり、不利になるのは火を見るより明らかだった。

 ふたりの車が停車してすぐに、警察の各車両から、数人の警察官たちが物々しい空気を放ち、わらわらと降車した。彼らは、にじり寄るように警棒に手をやり、こちらにゆっくりと近づいてくる。

 ハンドルを握る手や指、アクセルを踏んでいた足が、小刻みに震え出した。どこかで覚悟していた事態ではあったが、いざ窮地を迎えた竜馬は恐怖に慄いた。しかし、そんな竜馬とは対照的なほど、理奈子は落ち着き払った声で、竜馬にほほ笑みかけた。

「もう、あきらめよう。車、降りよう」

 そう言って、疲れた微笑を浮かべた理奈子の顔は、薄暗がりの中、聖母や女神、もしくは菩薩のように穏やかな美貌を宿していた。

 唇を噛みしめ、肩を震わせながら、竜馬は小さくうなずいた。それを合図に、車を降りたふたりは、視線を合わせつつ、ゆっくりとボンネットの方へと近づき、身を寄せ合った。

 前後から、警察官たちが近づいてくるまでの間、竜馬は両手を上げていたが、理奈子は右手だけを上げ、もう片方の左手には化粧ポーチを大事そうに抱えていた。

 マイクを通して、また男の声が響く。

「そこの女性、手に持っているものを放しなさい」

 しかし、理奈子はなぜかポーチを手放そうとはしない。不審に思った竜馬は、声をひそめて理奈子の名を呼んだ。

 近づいてくる警察官たちとの距離は、前後それぞれ十メートルと離れていないくらいまで、こちらに迫ってきていた。

 また、ポーチを手放すようにと竜馬が何度か説得しかけたところで、いきなり、理奈子が竜馬のことを突き飛ばした。

体勢を崩し、竜馬がよろけた。その拍子に、理奈子はポーチの中から果物ナイフをさっと抜き出し、乾いた血で茶色くなった刃先を振り回しながら、橋の脇に伸びる歩道の片側へと走り出した。

 橋の上にいた全員に、張りつめた空気が流れた。

 止まりなさいっ、とマイクから男の大声が響く。それに呼応するかのように、他の警察官たちも怒鳴るように声を荒げ、理奈子の凶行を止めにかかった。数名の警察官たちが、素早く警棒を伸ばした。

「来ないでっ! 来たら、殺す。本当に刺すわ!」

 大人の腰のあたりほどの高さしかない手すりを背にし、汚れたナイフをかざした理奈子が、絹を裂くような声で叫んだ。

 一陣の冷たく強い風が、そこにいる全員の身を包んだ。

「もう、やめようよ! 理奈子さん、お願いだから。もう、そのナイフを捨ててよ!」

 理奈子が何をしようとしているのか、なぜさっき、橋を渡っている途中で急に礼を述べたのか、その理由に気づいた竜馬は、その場に立ちすくみ、少しずつ理奈子に近づいた。だが、ナイフの刃先を光らせ、身構えた理奈子の目は張りつめた色に満ち、一触即発で、誰を傷つけても殺しても構わないという態度にあふれていた。

 近寄ってくる警察官たちを睨みつけながらも、理奈子は竜馬と目が合った時だけ、かすかに柔和な笑みを浮かべ、引きつったように唇をほころばせた。

「竜馬君、いままで、本当にありがとう。迷惑ばっかりかけて、ごめんね」

 捨て身になった人魚に向かい、竜馬は必死で訴え続けた。

「わかった。いいから、わかったから……そんなこと、もう、どうでもいいから。だから、理奈子さん。もう、やめよう。お願いだから、バカなことはやめよう」

 唇を、肩を、手や指を、全身を震わせて叫ぶ竜馬のことを、焦点のブレた眼差しで見つめながら、理奈子は満面の笑みを見せた。だが、その笑みが崩れるように、理奈子の瞳からはとめどなく涙があふれ、乾いた頬を濡らし始めた。

長く咲き続けた花が、色褪せた花びらをいっきに散らすかのようだった。

 花の終わりは、一瞬だった。

 不意を突き、勢いよくナイフを振りかざした理奈子は、刃を手すりの向こうに広がる深い闇へと放り投げた。そして、宙を舞って消えていくナイフの後を追うかのように、自身も手すりを飛び越え、闇の中へと身を翻らせた。


*終章


 東京の西の果て、竜馬と共に警察に追われていた理奈子は、橋の上から川へと飛び込んだ。思いのほか、川の水は冷たく、闇も水位も深かった。

 冷たい水の中で、理奈子はもがいた。迫る死の気配は、予想以上に苦しかった。

上下も前後も左右もわからない闇の中で、このまま本当にセイレーンになれたら、尾ひれを激しく動かして逃げ切れるだろうが、そんな奇跡が起きるわけはなかった。

 鼻腔の痛みと、大量に飲み込んでしまった川の水による胃の膨張感、そして呼吸困難に苦しみながら、いよいよこれまでかと力が抜けた、次の瞬間、顔を上げたところでいっきに酸素が口から肺へと流れ込んできた。

荒げた呼吸を肩で整えながら、川面に浮かんだ理奈子は頭上を見上げ、四方八方に視線をめぐらせた。橋の上では、警察官たちが走り回っているのがおぼろげながら見えた。遠くで、叫び声や怒号が聞こえた。

 とっさに、理奈子は自分に追い風が吹いてきていることに気がついた。

 思いのほか橋から川までの距離は遠く、橋の上に並ぶ電灯の明かりは、川面をはっきりと照らすことはできないようだった。当然ながら、川は干上がらずに流れていた。理奈子が身を落として沈んだ場所からは、思いがけず、だいぶ離れたところで理奈子の体は浮上した。

 また、予想外のことに警察官たちは橋の上でまごついていた。共に飛び込んで追いかけるにはリスクのある闇だった。理奈子の足が尾ひれになることはなかったが、違う奇跡が重なっていった。この機会を、逃す手はなかった。

 川の流れに身を任せるがごとく、運の加勢に背中を押されて、理奈子は泳ぎ始めた。

 聴覚の奥で、大勢の何者かが騒ぐ声が聞こえた。卑怯者、おとなしく引き返せ、逮捕されろと叫ぶ声。それとは逆に、いまがチャンスだ、逃げられるだけ逃げてみろ、やっちまえと揶揄と応援する声。

 理奈子は、迷うことなく後者を選んだ。

 自分の体のどこにそんな力が残っていたのかと驚くほどの底力で、理奈子は岸辺に向かってクロールを続けた。必死だった。

 なんとか目を凝らせば自分の手は見える程度の視界の中、岸辺にたどり着いた理奈子は、車道に出て荒げた呼吸のまま、あてもなく歩き出した。

 そこへ、忍び寄るように、背後から一台の自動車が近づいてきた。

 しまった。パトカーか覆面かと、立ち止まりふり返った目の前で、車は速度を緩めながら運転席側の窓を開けた。

「乗テ。イイカラ、早く。早く乗テヨ!」

 車窓の闇から、慌ただしい女の声が飛んできた。薄暗がりでよく見えなかったがサングラスをかけているようだった。

 助手席に乗り込もうとすると後部座席に乗れと言われ、ずぶ濡れのまま、理奈子は車内に転がり込んだ。

 急発進し速度を上げた車の中、理奈子は震えながら女の素性を訊ねた。なぜか、その声に聞き覚えがあったから。身の震えは、川の水によって体が冷やされたためか、警察の追手に怯える恐怖のためか。

 ひと言ふた言、言葉を交わすうちに、理奈子は気がついた。運転する女が、初めて理奈子の腕にシャブの注射を打ってくれたプッシャーだと。


 下拵えは済んだ。ぶつ切りのタコも、小麦粉を溶いたタネも、青のりやカツオ節、ソースやマヨネーズも充分にある。今日から何日かは持つだろう。

 熱した鉄板の上、いくつも連なる半球の穴に油を薄く敷いていき、昔、理奈子と呼ばれていた女は開店の準備を始めた。

通天閣からぐっと南に下がった、ビジネスホテルと数多の飲食店が軒を連ねる街の片隅、集合住宅の一室で、理奈子は自身の名前も戸籍も、顔さえも捨てて、第二の人生を歩き始めることになった。

そこで元から暮らしていたプッシャーの女がすべてを手配してくれた。間一髪、逮捕は免れて新たな住まいを用意されたが、シャワーを浴びて着替えを済ませた理奈子は、売人の女の部下、もとい、奴隷となった。

「アンタはカネづるだからサ」

 なぜ助けてくれたのかと訊ねると、女は鼻で笑ってそう答えた。

 丸二日に渡り監禁され、カップ麺を啜って空腹をしのいだ後は、断薬のため、ほぼ強制的に奥の部屋で軟禁状態の日々が続いた。名前も知らない錠剤を無理やり飲まされ、少しずつ理奈子のシャブに対する依存は抜けていった。それに伴い、被害妄想や幻覚・幻聴はなりをひそめ、長い時間をかけて理奈子は精神的に安定を取り戻した。

 だが、心身の健康を取り戻した理奈子は口答えも反論も許されず、反発すれば女は冷たく理奈子に言い放った。

「別にイイヨ。簀巻きニサレテ海ニ沈ムカ、警察ニ通報サレルカ、ドチがイイ?」

 白髪交じりのくせ毛を無造作に束ね、勝ち誇った顔で微笑する五十手前の女を、理奈子は何度殺してやろうと思ったか。だが、それができなかったのは、それをすれば二度目の殺人を犯すことになってしまう。罪を重ねてしまうことへの躊躇からだった。

「アンタ、結局、()ッチャタネェー」

 澄ました顔に笑みを浮かべた女からタブレット端末を手渡され、液晶画面を見せられた時、理奈子はあやうくその端末を取り落としそうになった。

 液晶画面には、ある事件のニュースが表示されていた。そこには、東京の西部にある売店の前で、女に刃物で刺された男性が病院に搬送されたが、出血により死亡した事件の詳細が書かれていた。傷害致死事件として、警察は女の行方を追っているという。

 茫然として何度も文面を読み返し、かすかに震える手で端末を持つ理奈子を前に、女は鼻を上に向け、自身のスマホでゲームをしながら鼻歌を歌っていた。

 そんな上下関係に抗えるはずもなかったからこそ、整形と戸籍の詐称を命令された時も、理奈子はうなずくよりほかなかった。

 ある日、部屋に知らない男がやってきた。プッシャーの女は、その男を仕事仲間だと紹介し、理奈子にいくつもの契約書類に署名をさせた。文面を細かく読み通そうとするたびに、いいから、早く、と急き立てられ、女は舌打ちをして理奈子の手から署名された書類の束を取り上げた。男が前科ありの戸籍ブローカーだということを知ったのは、ずっと後になってからだった。

 そこから別人へとなりすます準備は早々に進められていった。

 問答無用で看板も出ていない美容整形外科に入院させられ、整形手術をほどこされた。包帯やガーゼが取り払われ、鏡を見せられた時、あまりに愛嬌も色気もない顔に落胆し、うつむいた。涙も出ないほどの絶望を感じたが、悲しみに暮れる間もなく戸籍は無理やり変更させられ、見ず知らずの他人の名前、保険証・身分証の数々が理奈子の物になった。

 理奈子が乗っ取った女は誰なのかと訊ねると、地方で孤独死した理奈子と同い年の女性とだけ、事もなげに教えられた。

 戸籍を乗っ取られた女性は、運転免許証を持っていなかった。

 顔を変えさせられた理奈子は、プッシャーの女が指示する通りに教習所に通わされ、否応なしに免許証を取得させられた。当然ながら、支払われた学費は理奈子の借金として背負わされた。見えない首輪を着けられた、飼い殺しの人生だった。

 自身の意見や希望が微塵も通らない日々、多額の借金を負わされた第二の人生の中、元・理奈子の顔からは笑顔も泣き顔も消えていった。そして、いつ消えるか保証もない借金の返済のために、違法薬物の売買と、そのカムフラージュとしてたこ焼き屋のアルバイトが新たな仕事となった。それらの仕事すら、売人の女から斡旋されたものだった。


 昼を過ぎて、屋台の前では行き交う人の数がちらほらと増えていった。

 漕げていく小麦粉とソースの香ばしい匂いに交じり、鉄板から立ちのぼる熱で、理奈子の頬は火照った。

夏場は猛暑の中、顔や首筋の汗をぬぐいながらの仕事でキツかったが、秋も深まったいまの時期、仮設テントとはいえ店の中にいる限りは、パーカーとエプロン、下はジーパンだけで充分外気の肌寒さをしのげるため、ちょうどよかった。

 黙々と出来上がったたこ焼きをパックに詰め込み、昼下がりの客足が少し途絶えたところで、理奈子はパイプ椅子に腰を落ち着けた。ポケットからスマホを取り出すと、SNSを通じてメッセージがいくつか届いている。

 理奈子は、指示されるがまま本業として開設した、自身のアカウントを開いた。

〈『セイレーン・カフェ』へようこそ!〉

 水色を基調にしたポップなデザインと、潔白さを売りにした自己紹介文。そして、岩礁に座って髪を梳く人魚のイラスト。紹介文の末尾には、「※当店では違法な物は一切扱っておりません」の文句。

 アカウントに添付されたURLからは別サイトに飛べるようになっており、新たに開くHP上では、現在の薬事法ではいまだギリギリで合法とされている大麻成分のリキッドや、それを嗜むためのベイプと呼ばれる電子パイプを販売していた。

 表向きは合法を謳っているサイトであったが、理奈子はこのサイトを通し、身分を明らかにした会員にのみ乾燥大麻や覚醒剤などを密売していた。一見客はことごとく断り、既存の顧客から紹介されたアカウントのみを受け入れる体制を整えている。すべてプッシャーの女から叩き込まれた入れ知恵によるものだった。

 十年は、あっという間だった。

 いま、逃亡した時の夫の年齢を超えた女は、家を出たいという当時抱いていた自身の願いを叶えた。それと引き換えに、恋も子供も家庭も、三澤理奈子という人生そのものを棄てざるを得なかった。

 ほぼ薬物の密売のためだけに使っているスマホの、液晶画面に指を滑らせる。届いたDMの数は七通。今日もまた、大麻やシャブをねだる客たちからの依頼を受け、その文面をひややかな目つきで眺めながら、理奈子と呼ばれていた女はため息をついた。

 薬物に溺れてもがき苦しんでいた女は、いま、誰かを溺れさせる女になった。客たちの人生を深い依存の海のどん底へと引きずり堕とす仕事は、まさにセイレーンの姿そのもので、その皮肉さはとても笑えたものではない。

 受信してから最も時間が経過しているメッセージに返信をしかけたところで、ひとりの男性客が店頭に現れた。キャップを目深に被り、男はたこ焼きをひとパック買い求めた。

 椅子から立ち上がり、ビニール袋にたこ焼きを入れて会計をする際に、元・理奈子は男の服装をちらりとうかがい見た。

 薄汚れたボア生地の襟が付いたジャンパーを着て、裾広がりで足首だけ絞ったグレーのニッカズボンを穿いている。キャップとマスクのせいで、顔はよく見えない。

 すぐ近くで解体工事をしている建物があった。おそらく、そこで働いている作業員だろう。その昔、似たような背格好の男と激しく交わった熱い日々を思い出し、女は急に狂おしいほどの胸苦しさと懐かしさを覚えた。

 手渡された千円札を受け取り、レジスターから釣り銭を取り出そうとうつむいたその時、いきなり男が呼びかけてきた。

「理奈子さん、だよね」

「—―はい」

 十年も前に捨てた名で呼ばれたのに、平然と答えてしまった女は、あ、と小さな悲鳴を上げ、両手で口を抑えた。その左手を、男は鉄板ごしに右手で荒々しくつかみ、自分の方へと強引に引き寄せた。女の左手には、甲と手首に走る、深いためらい傷の痕。

 しっかりと目に焼き付けるように傷痕を見つめ、男は確信を持った声でうなずいた。そして、自身の左手で、キャップを取り去ってマスクを外した。

 黒豹を彷彿とさせる浅黒い肌に、子鹿の瞳。まばらに染めた短い金髪。三十代を折り返している証拠のような、わずかなシミと目尻のシワ。

目の前に現れたのは、紛うことなく、十年前に本気で愛し貪り合い、恋に溺れた男・青木竜馬だった。

「やっと見つけたよ、理奈子さん」

 潤む瞳に歓喜と追慕の輝きを満たし、その噛みしめた幸せは一滴たりとも漏らすまいとするかのように、きつく一文字に結んだ竜馬の唇は、自信に満ちあふれた不敵な微笑をたたえていた。

「逢いたかった。俺、ずっと逢いたかった」

 放して、とつかまれた左手を振りほどこうと、右手も使って必死に抗い始めたが、所詮、日々の力仕事で鍛え抜いた竜馬の握力には敵わなかった。

 どうして、と震える声で抵抗を続ける理奈子に対し、確信に満ちた声で竜馬は続けた。

「セイレーン・カフェ」

 彼が呼んだサイト名に、理奈子は息を呑んで目を見開き、動きを止めた。

「あのサイト、理奈子さんが運営しているんだろう? 気づかなかったでしょう。俺が偽アカで、同僚の身分証を使って会員になっていたことを。サイトが販売している拠点が大阪で、この地域ではシャブの密売がよくあるって聞いて、俺、すぐに大阪(こっち)に引っ越してきたんだ。もちろん、仕事もこの辺で探して転職した」

 絶対にこの辺りに理奈子がいる。そう確信した竜馬は、信頼できる知人・友人にだけ協力を募り、聞き込みを続けて探し抜いた。左手首と甲に傷がある四十代の女がいないかと。

 やがて、この屋台にたどり着き、店で働く女の様子をひそかに探っていたと、竜馬は打ち明けた。店頭には暖簾が掲げられ、テントの両脇は幕で囲ってあるため、どんな客が近くにいるかは、たこ焼きを買おうとしない限り、店主の側からはわからないことも。

 客の列のすぐ近くでたたずみ、女との会話を、そのやりとりを竜馬は聞き続けていた。

「その声。整形をしても、骨や声帯をいじらなければ、声は変えられないってね」

—―当たり前じゃん。俺にはわかるよ。理奈子さんのこと、ずっと見てきたから。

 いつか、ベッドの中で屈託なく笑った竜馬の声が、顔が変わった理奈子の脳裏をかすめていった。

「理奈子さん、一緒に、警察に行こう」

 呆然と視線を宙にさまよわせている女をじっと見つめ、二度と放すまいと宣言するかのような握力で彼女の左手をつかみ続けたまま、竜馬はそう告げた。

 膝の力が抜けて理奈子がふらついた拍子に、傍らに置かれた、たこ焼きが入ったビニール袋がひとつ、緩やかに地面に落ちていった。


                                         了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ