第3話「消された声」
ダニエル・ロウは、約束の場所に来なかった。
旧図書館の窓際で一時間待った。彼は時間に正確な男だった。五分の遅刻すらしたことがない。
嫌な予感が、背筋を這い上がる。
「マリエット。ダニエルの宿舎を調べてきてくれる?」
マリエットが戻ってきたのは、三十分後だった。その顔が蒼白だった。
「イレーネ様……ダニエル様が……今朝、宿舎で亡くなっていたそうです。──急病、だと」
急病。三十歳の、健康な男性が、突然の急病で。
私は自分の爪が掌に食い込んでいるのに気づいた。
「衛兵が周囲を封鎖しているとのことです。宮廷医が検死を行ったと……」
通常、平民の急死に宮廷医が出向くことはない。宮廷医は王族と上級貴族の専属だ。平民の検死は市井の医師が担当するのが通例である。
(なぜ宮廷医が出てきた)
「ノエル様に至急連絡を」
二時間後、ノエルが来た。
「検死報告書を入手した。死因は『心臓の急性不全』とされている」
「されている──その言い方は」
「心臓の急性不全は、毒物による死と症状が類似する場合がある。特にジギタリスのような強心配糖体は、適量を超えれば心臓を止める。原料のキツネノテブクロは古くから庭園の観賞用植物として栽培されてきたが、同時に毒殺に用いられた歴史的記録も多い」
ノエルが一枚の紙を差し出した。
「ダニエルの宿舎から回収された茶葉だ。成分分析を依頼した。結果が出るまで二日かかる」
私は手帳を開いた。記録する。日付、時間、ダニエルの死、検死の異常、茶葉の回収。ペンを持つ指が震えていた。今度は止められなかった。
「……彼は、何かを伝えようとしていた。話したいことがある、と。──それが何だったのか、もう聞けない」
ノエルは慰めの言葉を言わなかった。その代わり言った。
「ダニエルの仕事机を調べる許可を取った。一緒に来い」
◇
ダニエルの仕事机は整然としていた。書類は日付順に整理され、インク瓶の位置まで几帳面に揃えられている。いつもインクで指を汚していた、実直な男の机だ。
だが──一つだけ、違和感があった。
「この引き出し。鍵がかかっているが、鍵穴に擦り傷がある。最近、誰かが無理にこじ開けようとした痕跡だ」
私はログを起動した。三日前の記録。ダニエルはいつも首に下げた細い鎖の先に、小さな鍵をつけていた。
「ダニエルの遺品に、鎖についた小さな鍵はありましたか」
「遺品目録に鍵はない」
(鍵が消えている。そして引き出しには侵入の痕跡)
ノエルが道具で慎重に鍵を開けた。
中には──何もなかった。ただ一枚の紙片を除いて。
走り書きだった。ダニエルの筆跡。
「封蝋に注意。M家、二重──」
途中で途切れていた。
「……M家。メルヴィル家だ」
ノエルが低く呟いた。
「封蝋と、M家──メルヴィル家。二重、とは何を意味するのか。実物を確認しないことには何とも言えないが、文書の改竄に関わる可能性がある」
「ダニエルはそれに気づいた。──そして、殺された」
私は紙片を手帳に挟んだ。
(ダニエル。あなたが見つけたものを、私が引き継ぐ)
「証拠が足りない。成分分析の結果と、封蝋の実物が必要だ。封蝋は宮廷の文書保管庫にあるはずだ」
「今の私にはアクセス権がありません」
「監察局にはある。明日、保管庫に入る」
翌日、幼馴染のリュシアンが訪ねてきた。柔和な笑顔で、「大丈夫か」と私の手を握る。
──その掌が、妙に冷たいことに、私はまだ気づかないふりをしていた。




