第2話「王立監察局の男」
婚約破棄から二日後、私の元を訪れた人物は──予想外だった。
「王立監察局局長代理、ノエル・グランヴィル。あなたに話がある」
黒髪を後ろに流した青年が、応接間の入り口に立っていた。監察局の紋章が入った藍色の外套。鋭い目つき。およそ社交界向きではない、硬質な雰囲気の持ち主だった。
「……監察局が、婚約破棄された令嬢に何のご用ですか」
「婚約破棄には興味がない。あなたの職歴に興味がある」
彼は許可も得ずに椅子に座った。形式に時間を割く気がないのだろう。
「宮廷書記官イレーネ・アシュフォード。過去五年間の議事録、会計記録の整理、外交文書の管理。宮廷で最も正確な記録を持つ人物だと聞いている」
「元書記官です。先日付で解任されましたので」
「解任の書類を確認した。手続きに不備がある。正式な査問会を経ていない」
私の手が止まった。通常、宮廷書記官の解任には三段階の査問が必要だ。だが私の解任は王太子の一声で行われた。
(この人、調べている)
「単刀直入に言う。メルヴィル侯爵家の財務に不審な点がある。過去三年分の国庫支出で、侯爵家関連の案件に不自然な増額が見られる。だが──記録が綺麗すぎる」
「綺麗すぎる?」
「本物の記録には癖がある。筆圧、インクの濃淡。人間が書く以上、完全に均一にはならない。だがメルヴィル家関連の記録だけが、まるで──」
「書き直したかのように均一である、と」
ノエルが初めて、かすかに口元を緩めた。
「話が早い。──あなたの魔法で保存された『ログ』に、改竄前の原本データが残っているはずだ」
「なぜ私を信用できるんですか。宮廷では私は悪役令嬢ということになっています」
「噂と事実は別物だ。私は事実しか扱わない」
その言葉に、胸の奥が小さく震えた。事実を見てくれた人は、この人が初めてだった。
「一つ条件があります。私は協力者であって、道具ではありません」
「好きにしろ。──ただし、証拠が揃うまで結論は口にするな。それが監察局の流儀だ」
「書記官も同じです」
◇
その夜、母ベアトリスが屋敷を訪ねてきた。
「監察局の方と手を組んだのね」
母は茶を淹れながら穏やかに言った。大事な話の前に茶を淹れるのは、母の昔からの習慣だ。
「……イレーネ。一つ伝えておくことがある。私が書記官を辞めた本当の理由。──二十年前、メルヴィル家の不正に気づいた書記官がいた。その人は記録を握り潰された上で、病死として処理された」
空気が冷えた。
「証拠はない。記録は全て消された。だから私は辞めたの。あなたを守るために」
母が私の手を握った。指が冷たかった。
「でもあなたには、消せない記録──ログがある。使いなさい、イレーネ」
翌日、私は宮廷会計士のダニエル・ロウに連絡を取った。平民出身ながら正確さと誠実さで信頼を勝ち得てきた男だ。元同僚であり、数少ない理解者。
彼からの返信は短かった。
「話したいことがある。明日の午後、旧図書館で」
──その「明日」が、彼にとって最後の日になるとは、まだ知らなかった。




