第1話「悪役令嬢の記録術」
記録は、消えない。
どれほど権力があろうと、起きた事実を「なかったこと」にはできない──私はそう信じてきた。
宮廷の大広間に、王太子アルベールの声が響いた。
「イレーネ・アシュフォード。お前との婚約を、本日をもって破棄する」
広間が静まり返った。
いや、正確には──ざわめきが、一拍遅れてやってきた。
蝋燭の炎が揺れる。何百人もの視線が私に集まっている。嘲り、同情、好奇心。それぞれの感情が空気を重くしていた。
私は息を吸った。吐いた。
手は震えていない。震えさせるものか。
「……理由を、お聞かせ願えますか」
声は平坦に出た。書記官として鍛えた声だ。
アルベールの隣に、銀髪の令嬢が立っていた。ソフィア・メルヴィル侯爵令嬢。その瞳にうっすらと涙が浮かんでいる。計算された涙だ──と、私の目が告げていた。
「お前がソフィアを虐げていたことは、多くの証人が認めている」
アルベールが言った。ソフィアが小さく身を震わせる。完璧な演技だった。
(……証人、ですか)
私は胸の奥で、静かにその言葉を記録した。文字通り──記録した。
私の魔法は派手ではない。見聞きした全ての出来事を、魔力で「ログ」として保存する。ただ、それだけ。書記官にはうってつけの地味な能力だと言われてきた。
けれど今、この瞬間。私はこの力の本当の価値を初めて理解した。
「殿下。一つだけ確認させてください。その証人の方々のお名前を、記録させていただいてもよろしいですか」
広間がざわつく。だがアルベールの表情が一瞬揺らいだのを、私は見逃さなかった。
「……必要ない。証人は十分にいる」
「お名前をいただけないのですね。──了解しました。記録いたします」
私は手帳を開いた。ペンを走らせる。日付、場所、宣言の正確な文言。そして──「証人の名前の開示を拒否」。
古くから行政制度において、公的な告発に証人名の明示は不可欠とされてきた。名前のない証言は、法的には「風聞」──つまり噂に過ぎない。
「イレーネ、もういい。潔く受け入れなさい」
私は手帳を閉じた。一礼して広間を出た。一度も振り返らなかった。
◇
屋敷に戻ると、侍女のマリエットが駆け寄ってきた。
「イレーネ様! お怪我は──」
「怪我はないわ。ただ、婚約を破棄されただけ」
「だけ、って……」
マリエットの目に涙が浮かんでいる。この子の涙は本物だ。ソフィアのそれとは違う。
「マリエット。母上に手紙を出してちょうだい。至急、お会いしたいと」
マリエットが走り去った後、私は自室の机に向かった。
今日の記録を読み返す。ソフィアの涙のタイミング。アルベールの視線の動き。
(……ソフィアの涙は、アルベールが「虐げた」と言った後、正確に二秒後に始まった)
自然な感情の発露なら、もう少しずれる。人が本当に感情を揺さぶられた時、反応には大抵三秒から五秒かかる。二秒。あまりにも正確すぎる。
(用意していたのね、ソフィア)
──これから起きることの全てを、私は記録する。
全ての「ログ」は、この手の中にある。
(どうぞお好きに噂を流してください。──私の記録は、一文字たりとも消えませんから)
翌日届いた母からの返書には、たった一行だけ書かれていた。
「あなたの記録を、信じています」
──そしてその翌日。私の元を、予想外の人物が訪れた。
王立監察局。宮廷でも囁かれるだけの、あの組織の人間が。




