第五章 術師の真実
男の名は、セルヴァスといった。
帝国宮廷術師団の首席。帝国が誇った最高の魔術師にして、呪詛研究の第一人者。そして——三年前の帝都崩壊の夜、行方不明になったとされていた人物だ。
カイは剣を抜いた。
「生きていたか」
「見ての通りだ」セルヴァスは祭壇の頂上から降りてきた。ゆっくりと、恐れる様子もなく。「剣を収めろ。お前と戦うつもりはない」
「信じる理由がない」
「そうだな」男は祭壇の段差に腰を下ろした。五十代だろうか。白髪交じりの髪に、深い皺。だが目だけが、異様に鋭かった。「だが話を聞いてから判断しろ。剣を抜くのはそれからでも遅くない」
カイはリナを背後に下がらせ、剣を構えたまま近づいた。
セルヴァスは動かなかった。
「師から遺言をもらったな」男は言った。「祭壇の術式を起動しろ、と」
「……なぜ知っている」
「私が教えたからだ」セルヴァスは静かに言った。「あの遺言は、お前の師と私が共同で書いた」
沈黙が落ちた。
カイは男の目を見た。嘘をついている様子はない。だがそれが余計に、不気味だった。
「説明しろ」
「座れ。長い話になる」
「立ったまま聞く」
セルヴァスは小さく苦笑した。それから、静かに語り始めた。
「呪詛の源は、この祭壇だ。正確には——祭壇の地下に封じられた《原初の腐食》と呼ばれる力だ。帝国建国以前から存在していた、この大地そのものの病巣といえる」
「帝国はそれを知っていたのか」
「知っていた。そして利用しようとした」セルヴァスの声が低くなった。「皇帝の命令だった。《原初の腐食》を制御し、兵器として使う。私はその研究を命じられた」
カイは黙って聞いた。
「私は十年かけて研究した。そして気づいた——制御など不可能だと。《原初の腐食》は生きている。意思を持つ力だ。人間が御せるものではない」
「だが帝国は止まらなかった」
「止まらなかった」セルヴァスは目を閉じた。「皇帝は私の報告を無視し、別の術師に研究を続けさせた。そして三年前——封印が破れた」
カイの手が、僅かに強張った。
「事故ではない」セルヴァスは言った。「意図的に、封印を破った者がいる」
「誰だ」
「皇帝自身だ」
静寂が、重さを持った。
リナが息を飲む気配がした。カイは表情を変えなかった。だが胸の奥で、何かが冷たく固まっていくのを感じた。
「皇帝が……帝国を滅ぼしたのか」セルヴァスに問う。
「《原初の腐食》を解き放てば、それを制御した者が世界を支配できると信じていた。愚かな話だ」セルヴァスは吐き捨てた。「結果は見ての通りだ。制御などできるはずもなく、帝都は一夜にして灰になった」
「お前はどこにいた」
「逃げた」男は迷わず言った。「事前に察知して、この谷へ逃げた。そして三年間、術式の研究を続けた」
「術式を」
「そうだ」セルヴァスは立ち上がり、祭壇の表面に刻まれた文字を手で撫でた。「《原初の腐食》を再び封じる術式だ。お前の師に遺言を頼んだのも、私だ。剣士一人では、ここまで辿り着けない。術式を起動する者が必要だった」
カイは男を見た。
「二つの命、というのは本当か」
セルヴァスの動きが止まった。
長い沈黙の後、男はゆっくりと振り返った。
「……どこまで読んだ」
「全部だ」
セルヴァスは目を閉じた。それから、深く息をついた。
「本当だ」
男は祭壇の前に立ち、術式の説明を始めた。
《原初の腐食》を封じるには、祭壇の中心部に二つの生命力を注ぎ込む必要がある。一つは術式を起動する者の命。もう一つは——その術式を安定させるための、補助の命。
「補助の命は、必ず死ぬのか」カイは聞いた。
「……九割以上の確率で、死ぬ」
「九割以上」
「術式の衝撃に、人体が耐えられない。ただ」セルヴァスは祭壇の一点を指した。「ここに、わずかな可能性がある。術式が完成する瞬間、補助の者が自らの意思で力を手放せば——生き残れるかもしれない」
「かもしれない、か」
「保証はできない」男は真っすぐカイを見た。「だが私は三年間、その可能性を探し続けた。お前たちを死なせるために、ここへ呼んだわけではない」
カイは長い間、祭壇を見つめた。
九割以上、死ぬ。
わずかな可能性。
師の遺言には書かれていなかった情報だ。師は知らなかったのか、それとも——あえて書かなかったのか。
「カイ」
リナの声がした。
振り返ると、少女は祭壇を見上げていた。
「私が補助をやる」
空気が、固まった。
「聞こえなかったか」カイは低く言った。
「聞こえた。でも、私がやる」リナはカイを見た。真っすぐ、迷いのない目で。「カイは剣士でしょ。術式を起動する方が向いてる。私は補助でいい」
「向き不向きの話じゃない」
「じゃあなんの話?」
カイは答えられなかった。
言えない。お前が死ぬかもしれないから、などと——今更、言えるはずがなかった。
「カイ」リナは一歩近づいた。「私ね、ずっと思ってたんだ。なんでこの人は私を連れて来たんだろうって」
「……」
「最初から、捨てて行けばよかったはず。足手まといだって言ってたし。でも連れてきた」リナは静かに言った。「もしかして、私が必要だったから?」
カイは目を逸らした。
「違う」
「嘘だ」
「……」
「いいよ、別に」リナは言った。「理由がなんであれ、私はここまで来た。カイと一緒に来た。それは私が決めたことだから」
セルヴァスが静かに言った。
「時間をかけろ。焦る必要はない。ただ——決めるなら、二人で決めろ。どちらかが納得していない状態で術式を起動すれば、失敗する」
カイは祭壇から離れ、谷の端まで歩いた。
岩壁に背を預け、目を閉じた。
師の声が蘇る。遺言の最後の一行。
——お前を誇りに思う。
なぜそんな言葉を書いたのか、今ならわかる気がした。師はわかっていたのだ。カイが何を背負ってここへ来るかを。そして何を——選ぶことになるかを。
足音がした。
リナが隣に座った。
しばらく二人とも黙っていた。
やがてカイが口を開いた。
「お前に、隠していたことがある」
「うん」
「師の遺言に書かれていた。術式には二つの命が必要だと。俺はそれを知ったときから——お前を、補助に使うつもりだった」
リナは何も言わなかった。
「最初から、そのつもりで連れてきた。お前に選択肢を与えるつもりもなかった」
「……そう」
「謝らない。謝っても意味がない」カイは言った。「ただ、知っておくべきだと思った」
長い沈黙が続いた。
リナは空を見上げた。霧の谷の奥は、不思議と空が見えた。灰色だが、光がある。
「知ってた」リナはぽつりと言った。
「何?」
「なんとなく、気づいてた。カイが何かを隠してるって」リナは膝を抱えた。「でも、聞かなかった。聞いたら、置いていかれそうで」
カイは何も言えなかった。
「怒ってない」リナは続けた。「怒る気になれない。だって、カイがいなかったら私はとっくに《腐食者》に食われてた」
「それとこれとは別の話だ」
「私の中では別じゃない」
リナはカイを見た。
「ねえ、カイ。一つだけ聞いていい?」
「なんだ」
「私が死んだら、悲しい?」
カイは答えなかった。
答えなかったが——目を逸らさなかった。
それが答えだった。
リナは小さく笑った。泣きそうな顔で、それでも笑った。
「じゃあ、頑張って生き残る。九割がなんだって言うの」
二人は祭壇の前に戻った。
セルヴァスが待っていた。二人の顔を見て、何も聞かなかった。
「始めるか」
「ああ」カイは言った。「説明しろ。一から全部」
セルヴァスは頷き、術式の手順を語り始めた。
祭壇の中央に二人が立つ。カイが右手を祭壇の核心部に触れ、術式を起動する。リナが左手でカイの手に触れ、力を補助する。術式が完成する瞬間——リナが自らの意思で手を離す。それだけだ。
「簡単に言うな」カイは言った。
「簡単ではない。だが、シンプルだ」
カイは祭壇を見上げた。石に刻まれた無数の文字が、微かに光り始めていた。《原初の腐食》が、感知しているのかもしれない。
「行くぞ」カイはリナに言った。
「うん」
二人は祭壇の中央へ向かって歩いた。
霧の向こうで、《腐食者》たちの遠吠えが響いた。
術式が始まろうとしていた。




