第四章 霧の中へ
霧の境界線は、思ったより明確だった。
一歩手前までは枯れた川床が続き、黒い砂が風に舞っている。だが境界を越えた瞬間、空気が変わった。温度が下がる。音が消える。視界が白く染まり、五メートル先が見えなくなる。
カイは足を止め、霧の中を見渡した。
何も見えない。だが気配はある。複数、いや——無数だ。
「手を出せ」
リナに言った。少女が右手を差し出す。カイはそれを握った。リナの目が少し丸くなったが、何も言わなかった。
「離すな。どんなことがあっても」
「わかった」
二人は霧の中へ踏み込んだ。
最初の十分は、静かだった。
霧は濃く、足元の石しか見えない。川床はまだ続いているようだが、傾斜が増している。谷へ向かって下っているのだろう。カイは師の遺言を頭の中で反芻しながら、一歩一歩確かめるように進んだ。
最初の声は、十五分後に来た。
女の声だった。
若い、柔らかい声。カイの知らない声だ。
——リナ。リナ、こっちよ。
リナの手が、強張った。
カイはリナの手を強く握った。リナは足を止めかけたが、歯を食いしばって踏みとどまった。
「お母さんの声」リナが掠れた声で言った。
「偽物だ」
「……わかってる」
それでも足が重くなっていた。カイはリナの手を引き、歩き続けた。
——リナ、どこへ行くの。置いていかないで。
声が追いかけてくる。
リナの息が乱れた。肩が震えている。カイは立ち止まらなかった。立ち止まれば、足が根を張る。根を張れば、二度と動けなくなる。
「前を見ろ」カイは言った。「声は聞くな」
「聞こえる……」
「聞こえても、振り返るな」
——お母さんはここにいるわ。来て。
「リナ」
カイは歩きながら、低く言った。
「お前の母親は、どんな人だった」
突然の問いに、リナは一瞬戸惑った。
「え……」
「話せ。声を出していれば、あの声に集中しなくて済む」
リナは少し考えてから、震える声で話し始めた。
「……料理が上手だった。特に、豆のスープ。帝都が滅びる前は毎週作ってくれて……」
「続けろ」
「笑うと目が細くなる人で、怒るとすごく怖くて……でも怒った後は必ず謝ってくれた。ごめんねって。大人なのに、子供に謝れる人だった」
声が続く。だがリナの足は、もう止まらなかった。
「……強い人だった」リナは言った。「私より、ずっと強かった」
カイは何も言わなかった。
ただ、手を握る力を少しだけ強めた。
母親の声は、やがて霧の中に消えていった。
三十分ほど進んだとき、霧が薄くなった。
谷底だった。
両側に崖が迫り、幅は二十メートルほど。地面は黒い岩盤で、所々に腐食した植物の残骸が散らばっている。霧はまだあるが、ここでは視界が十メートルほど確保できた。
そして、《腐食者》がいた。
数えるまでもない。霧の向こうに、無数の影が蠢いている。
だが動いていなかった。
群れが、道を塞ぐように並んでいる。まるで——待ち構えているように。
「罠だ」カイは呟いた。
「どうする?」
「突破する」
カイはリナの手を離した。リナが短剣を抜く。カイは剣を抜き、息を整えた。
正面の群れ、およそ二十体。
通常であれば無謀な数だ。だが谷底は幅が狭い。一度に相手にできる数は限られる。道を切り開くように進めば——
先頭の《腐食者》が動いた。
カイは走った。
最初の三体は、一息で抜けた。
右、左、正面。剣閃が三度走り、三体が倒れる。速度を落とさず、四体目の腕をくぐり抜け、五体目の喉を断つ。
六体目が横から飛びかかる。
カイは身を沈め、刃を上に向けた。飛び越えようとした《腐食者》の腹が、刃に乗り上げる形になった。重さで刃が深く入り込み、そのまま地面に叩きつける。
七体目、八体目が同時に来た。
一瞬だけ、動きが止まる。
その隙に、背後から鋭い音がした。
リナだった。
右側から迫っていた《腐食者》の足首に短剣を深く刺し、動きを封じている。倒れた《腐食者》の首に、今度は迷わず刃を通した。
カイは七体目を斬り、八体目の腕を弾いて胸へ蹴りを入れた。よろめいた隙に首を断つ。
残り十二体。
群れが一斉に動いた。
カイは深く息を吸った。肋骨のひびが痛む。それでも剣を握る手は震えない。
「リナ、後ろへ下がれ」
「でも——」
「崖際だ。右側は任せる」
リナが崖際へ移動する。カイは正面の群れへ向かって踏み込んだ。
一対多の戦いに、技巧はいらない。必要なのは——動き続けることだけだ。
剣を振るい、躱し、踏み込む。一体を倒す間に次が来る。腕を掠められ、外套が裂ける。足首を掴まれ、振り払う。転びそうになりながら、それでも剣を手放さない。
十体、十一体、十二体。
最後の一体がカイへ向かって跳躍した瞬間——横から短剣が飛んだ。
リナが投げたのだった。
刃が《腐食者》の側頭部に刺さり、軌道がずれる。カイはその隙に剣を通した。
静寂。
カイは肩で息をしながら、周囲を確認した。動くものはない。
リナが駆け寄り、倒れた《腐食者》から短剣を引き抜いた。手が血で汚れている。それでも表情は、思ったより落ち着いていた。
「……うまく投げられた」リナが言った。
「当たるとは思わなかった」
「私も思わなかった」
カイは思わず、息を吐いた。笑ったわけではない。ただ、少しだけ——力が抜けた。
谷をさらに進むと、霧が再び濃くなった。
今度はカイの番だった。
師の声ではなかった。
聞こえてきたのは——仲間の声だった。
帝都が滅びた夜、カイの目の前で死んでいった「灰翼」の騎士たちの声だ。名前を呼ばれるたびに、あの夜の光景が蘇る。青白い炎。崩れる城壁。間に合わなかった、自分の手。
——カイ、なぜ助けに来なかった。
——お前だけが逃げた。
——俺たちを見捨てたくせに。
足が止まった。
リナがカイの手を強く握った。
「カイ」
低い声だった。さっきカイがリナにしたように、リナが言った。
「偽物だよ」
カイは答えなかった。
「偽物。わかってる?」
「……ああ」
「じゃあ話して。あなたが守ってた騎士団、どんな人たちだったの」
カイは歩き続けながら、低く言った。
「……隊長は、豪快な男だった。よく笑い、よく飲んだ。弱い者には優しく、強い者には容赦なかった」
「他には?」
「副隊長は女だった。口が悪く、剣は俺より上だった。俺が入団した日、一言だけ言った。——死ぬな、と」
声が続く。だがカイの足は、止まらなかった。
「みんな、強かった」カイは言った。「俺より、ずっと強かった」
リナは何も言わなかった。
ただ、手を握る力を強めた。
仲間たちの声は、やがて霧の中に消えていった。
霧が晴れた。
突然だった。
一歩踏み出した瞬間、視界が開けた。
広い空間だった。谷底が広がり、中央に巨大な石造りの祭壇が鎮座していた。高さは十メートルを超え、表面には無数の文字が刻まれている。かつては美しかったのだろう、今は苔と黒い腐食に覆われている。
祭壇の周囲に、《腐食者》はいなかった。
ただ、静かだった。
不自然なほど、静かだった。
「あれが……封印の祭壇」リナが呟いた。
「そうだ」
カイは祭壇を見つめた。師が遺言に書いた場所。呪詛の源。そして——二つの命を必要とする場所。
足を踏み出そうとした瞬間。
祭壇の頂上に、人影が立っているのに気づいた。
ローブを纏った、細い人影。
その人影がゆっくりと振り返り、カイたちを見下ろした。
顔が見えた。
カイは息を飲んだ。
知っている顔だった。
死んだはずの——帝国の術師の顔だった。
「来ると思っていた」
静かな声が、霧のない空間に響いた。
「灰翼の最後の剣士よ」




