表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第四章 霧の中へ

霧の境界線は、思ったより明確だった。

 一歩手前までは枯れた川床が続き、黒い砂が風に舞っている。だが境界を越えた瞬間、空気が変わった。温度が下がる。音が消える。視界が白く染まり、五メートル先が見えなくなる。

 カイは足を止め、霧の中を見渡した。

 何も見えない。だが気配はある。複数、いや——無数だ。

「手を出せ」

 リナに言った。少女が右手を差し出す。カイはそれを握った。リナの目が少し丸くなったが、何も言わなかった。

「離すな。どんなことがあっても」

「わかった」

 二人は霧の中へ踏み込んだ。


 最初の十分は、静かだった。

 霧は濃く、足元の石しか見えない。川床はまだ続いているようだが、傾斜が増している。谷へ向かって下っているのだろう。カイは師の遺言を頭の中で反芻しながら、一歩一歩確かめるように進んだ。

 最初の声は、十五分後に来た。

 女の声だった。

 若い、柔らかい声。カイの知らない声だ。

——リナ。リナ、こっちよ。

 リナの手が、強張った。

 カイはリナの手を強く握った。リナは足を止めかけたが、歯を食いしばって踏みとどまった。

「お母さんの声」リナが掠れた声で言った。

「偽物だ」

「……わかってる」

 それでも足が重くなっていた。カイはリナの手を引き、歩き続けた。

——リナ、どこへ行くの。置いていかないで。

 声が追いかけてくる。

 リナの息が乱れた。肩が震えている。カイは立ち止まらなかった。立ち止まれば、足が根を張る。根を張れば、二度と動けなくなる。

「前を見ろ」カイは言った。「声は聞くな」

「聞こえる……」

「聞こえても、振り返るな」

——お母さんはここにいるわ。来て。

「リナ」

 カイは歩きながら、低く言った。

「お前の母親は、どんな人だった」

 突然の問いに、リナは一瞬戸惑った。

「え……」

「話せ。声を出していれば、あの声に集中しなくて済む」

 リナは少し考えてから、震える声で話し始めた。

「……料理が上手だった。特に、豆のスープ。帝都が滅びる前は毎週作ってくれて……」

「続けろ」

「笑うと目が細くなる人で、怒るとすごく怖くて……でも怒った後は必ず謝ってくれた。ごめんねって。大人なのに、子供に謝れる人だった」

 声が続く。だがリナの足は、もう止まらなかった。

「……強い人だった」リナは言った。「私より、ずっと強かった」

 カイは何も言わなかった。

 ただ、手を握る力を少しだけ強めた。

 母親の声は、やがて霧の中に消えていった。


 三十分ほど進んだとき、霧が薄くなった。

 谷底だった。

 両側に崖が迫り、幅は二十メートルほど。地面は黒い岩盤で、所々に腐食した植物の残骸が散らばっている。霧はまだあるが、ここでは視界が十メートルほど確保できた。

 そして、《腐食者》がいた。

 数えるまでもない。霧の向こうに、無数の影が蠢いている。

 だが動いていなかった。

 群れが、道を塞ぐように並んでいる。まるで——待ち構えているように。

「罠だ」カイは呟いた。

「どうする?」

「突破する」

 カイはリナの手を離した。リナが短剣を抜く。カイは剣を抜き、息を整えた。

 正面の群れ、およそ二十体。

 通常であれば無謀な数だ。だが谷底は幅が狭い。一度に相手にできる数は限られる。道を切り開くように進めば——

 先頭の《腐食者》が動いた。

 カイは走った。


 最初の三体は、一息で抜けた。

 右、左、正面。剣閃が三度走り、三体が倒れる。速度を落とさず、四体目の腕をくぐり抜け、五体目の喉を断つ。

 六体目が横から飛びかかる。

 カイは身を沈め、刃を上に向けた。飛び越えようとした《腐食者》の腹が、刃に乗り上げる形になった。重さで刃が深く入り込み、そのまま地面に叩きつける。

 七体目、八体目が同時に来た。

 一瞬だけ、動きが止まる。

 その隙に、背後から鋭い音がした。

 リナだった。

 右側から迫っていた《腐食者》の足首に短剣を深く刺し、動きを封じている。倒れた《腐食者》の首に、今度は迷わず刃を通した。

 カイは七体目を斬り、八体目の腕を弾いて胸へ蹴りを入れた。よろめいた隙に首を断つ。

 残り十二体。

 群れが一斉に動いた。

 カイは深く息を吸った。肋骨のひびが痛む。それでも剣を握る手は震えない。

「リナ、後ろへ下がれ」

「でも——」

「崖際だ。右側は任せる」

 リナが崖際へ移動する。カイは正面の群れへ向かって踏み込んだ。

 一対多の戦いに、技巧はいらない。必要なのは——動き続けることだけだ。

 剣を振るい、躱し、踏み込む。一体を倒す間に次が来る。腕を掠められ、外套が裂ける。足首を掴まれ、振り払う。転びそうになりながら、それでも剣を手放さない。

 十体、十一体、十二体。

 最後の一体がカイへ向かって跳躍した瞬間——横から短剣が飛んだ。

 リナが投げたのだった。

 刃が《腐食者》の側頭部に刺さり、軌道がずれる。カイはその隙に剣を通した。

 静寂。

 カイは肩で息をしながら、周囲を確認した。動くものはない。

 リナが駆け寄り、倒れた《腐食者》から短剣を引き抜いた。手が血で汚れている。それでも表情は、思ったより落ち着いていた。

「……うまく投げられた」リナが言った。

「当たるとは思わなかった」

「私も思わなかった」

 カイは思わず、息を吐いた。笑ったわけではない。ただ、少しだけ——力が抜けた。


 谷をさらに進むと、霧が再び濃くなった。

 今度はカイの番だった。

 師の声ではなかった。

 聞こえてきたのは——仲間の声だった。

 帝都が滅びた夜、カイの目の前で死んでいった「灰翼」の騎士たちの声だ。名前を呼ばれるたびに、あの夜の光景が蘇る。青白い炎。崩れる城壁。間に合わなかった、自分の手。

——カイ、なぜ助けに来なかった。

——お前だけが逃げた。

——俺たちを見捨てたくせに。

 足が止まった。

 リナがカイの手を強く握った。

「カイ」

 低い声だった。さっきカイがリナにしたように、リナが言った。

「偽物だよ」

 カイは答えなかった。

「偽物。わかってる?」

「……ああ」

「じゃあ話して。あなたが守ってた騎士団、どんな人たちだったの」

 カイは歩き続けながら、低く言った。

「……隊長は、豪快な男だった。よく笑い、よく飲んだ。弱い者には優しく、強い者には容赦なかった」

「他には?」

「副隊長は女だった。口が悪く、剣は俺より上だった。俺が入団した日、一言だけ言った。——死ぬな、と」

 声が続く。だがカイの足は、止まらなかった。

「みんな、強かった」カイは言った。「俺より、ずっと強かった」

 リナは何も言わなかった。

 ただ、手を握る力を強めた。

 仲間たちの声は、やがて霧の中に消えていった。


 霧が晴れた。

 突然だった。

 一歩踏み出した瞬間、視界が開けた。

 広い空間だった。谷底が広がり、中央に巨大な石造りの祭壇が鎮座していた。高さは十メートルを超え、表面には無数の文字が刻まれている。かつては美しかったのだろう、今は苔と黒い腐食に覆われている。

 祭壇の周囲に、《腐食者》はいなかった。

 ただ、静かだった。

 不自然なほど、静かだった。

「あれが……封印の祭壇」リナが呟いた。

「そうだ」

 カイは祭壇を見つめた。師が遺言に書いた場所。呪詛の源。そして——二つの命を必要とする場所。

 足を踏み出そうとした瞬間。

 祭壇の頂上に、人影が立っているのに気づいた。

 ローブを纏った、細い人影。

 その人影がゆっくりと振り返り、カイたちを見下ろした。

 顔が見えた。

 カイは息を飲んだ。

 知っている顔だった。

 死んだはずの——帝国の術師の顔だった。

「来ると思っていた」

 静かな声が、霧のない空間に響いた。

「灰翼の最後の剣士よ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ