第三章 霧の入口
集落を出たのは、夜明け前だった。
見張りの男が止めた。当然だった。南へ向かうと言えば、誰でも止める。だがカイは短く礼を言い、リナを連れて柵の外へ出た。男は何も言わなかった。ただ、二人の背中を見送る目が——もう会えないと知っている者の目だった。
リナは振り返らなかった。
カイも振り返らなかった。
《霧の谷》までは、まだ五日はかかる。
地図はない。師の遺言に記されていた道順は、おおまかなものだった。「廃街道を南へ。黒い森を抜け、枯れた川床に沿って下れ。霧が見えたら、そこが入口だ」——それだけだ。
二日目の午後、黒い森が見えてきた。
名前の通り、木々が根元から黒く変色している。葉は一枚もなく、枝だけが空に向かって伸びている。まるで無数の爪が天を引っ掻いているようだった。
「……綺麗じゃない」リナが呟いた。
「呪詛に侵された木だ。触れるな」
「触れないよ」
森の中は暗かった。木々の枝が絡み合い、灰色の空すら見えなくなる。地面は黒い腐葉土で、踏むたびに湿った音がした。
カイは剣の柄から手を離さず歩いた。
森の中には気配があった。《腐食者》ではない。もっと小さい何かが、木々の間を動いている。姿は見えない。ただ、視線だけが確かにある。
「何かいる?」リナが小声で聞いた。
「ああ。だが今は仕掛けてこない」
「なんで?」
「値踏みしている」
リナは黙った。
一時間ほど歩いたとき、前方の木の根元に何かが座っているのが見えた。
人だった。
老人だ。痩せ細った体に、ぼろぼろのローブを纏っている。目を閉じ、木の幹に背を預けて動かない。死んでいるのかと思ったが、近づくと白い息が口から漏れていた。
カイは立ち止まった。
「罠かもしれない」
「でも生きてる」リナが言った。
「だからこそ罠になる」
それでもリナは足を踏み出した。カイは舌打ちをして、先に前へ出た。剣を半ば抜き、老人の前に立つ。
老人がゆっくりと目を開けた。
白濁した瞳だった。見えているのかどうかわからない。だが老人はカイをまっすぐ見て、しわがれた声で言った。
「灰翼の剣士か」
カイの手が止まった。
灰翼。帝国近衛騎士団の名だ。滅びて三年、それを知る者はほとんど残っていない。
「……誰だ」
「名乗るほどの者ではない」老人は静かに言った。「ただの、生き残りだ。お前と同じように」
カイは警戒を解かないまま、老人の前に膝をついた。
「《霧の谷》へ行くか」老人が言った。問いではなかった。
「そうだ」
「止めはしない。止めても無駄だとわかっている」老人は目を閉じた。「ただ一つだけ、教えてやろう。谷の中では、死者の声が聞こえる。愛しい者の声で、名前を呼ぶ。振り返るな。立ち止まるな。どれだけ本物に聞こえても——それは罠だ」
「知っている」
「知っていても、足が止まる」老人は薄く笑った。「私がそうだった」
沈黙が落ちた。
カイは老人を見た。白濁した目、震える手、黒ずんだ指先。呪詛に侵されている。だがまだ、理性がある。
「谷に入ったのか」
「入った。三十年前」老人は言った。「仲間を二人、連れていった。声に引き寄せられた一人を置いて、私は逃げた」
その言葉の重さが、森の暗さに溶けた。
「後悔しているか」カイが聞いた。
「毎日」老人は目を開け、カイを見た。「だからお前に言う。連れている者を、谷の中で失うな。どんな声が聞こえても、その者の手を離すな」
カイはリナを振り返った。
少女は老人をじっと見ていた。目が濡れていた。泣くまいとして、唇を結んでいた。
カイは再び老人を向いた。
「名前を聞かせてくれ」
「……ガルト。ただのガルトだ」
「ガルト。礼を言う」
老人は何も言わなかった。ただ目を閉じ、再び木の幹に背を預けた。
カイは立ち上がり、歩き出した。リナがついてくる。
十歩ほど進んだとき、老人の声が背中に届いた。
「剣士よ」
カイは足を止めたが、振り返らなかった。
「その娘を、生かして帰せ」
答えなかった。
答えられなかった。
黒い森を抜けたのは、夕暮れ時だった。
枯れた川床が見えた。幅は十メートルほど、白い石が敷き詰められた川底に水はなく、代わりに黒い砂が薄く積もっている。川床に沿って南へ下ると、遠くの地平線に白いものが漂っているのが見えた。
霧だった。
カイは足を止め、その霧を見た。
距離はまだある。明日の昼には着くだろう。だが霧の向こうに何があるかは——今の距離ではわからない。
「あれが《霧の谷》?」リナが聞いた。
「おそらく」
「……大きい」
「ああ」
二人は川床の脇に野営地を作った。焚き火は小さく、煙が出ないよう乾いた木だけを選ぶ。食事は無言で済ませた。
火が小さくなった頃、リナが口を開いた。
「さっきの老人、ガルトさん。また呪詛に侵されていくんだよね」
「そうだ」
「助けられなかったの?」
「俺には無理だ」
「でも……谷の奥の祭壇で呪詛を断てば、ガルトさんも助かる?」
カイは少し間を置いた。
「理論上は、そうなる」
リナは炎を見つめた。オレンジの光が、少女の横顔を照らしていた。
「じゃあ、やらなきゃ」
単純な言葉だった。
だがその単純さが、カイには少しだけ眩しかった。
「寝ろ。明日は早い」
「うん」リナは横になった。「カイ」
「なんだ」
「怖い?」
カイは答えなかった。
暗闇の中、霧の方角を見つめたまま、ただ静かに夜を過ごした。
夜半過ぎ、カイの耳に声が届いた。
風の中に混じった、微かな声。
男の声だった。
深く、落ち着いた声。カイが十年間、ずっと聞き続けてきた声。
——カイ。聞こえるか。
体が、固まった。
師の声だった。
死んだはずの師の声が、霧の方角から流れてきた。
——よく来た。待っていたぞ。
カイの手が、剣の柄を握りしめた。
老人の言葉が蘇る。谷の中では、死者の声が聞こえる。振り返るな。立ち止まるな。
しかしここはまだ、谷の外だ。
それでも声は聞こえる。はっきりと、確かに。
——お前だけが頼りだ。
カイは目を閉じた。
歯を食いしばり、息を整えた。
長い沈黙の後、目を開けた。
声は消えていた。
霧だけが、遠くで静かに揺れていた。
夜明けが来た。
リナが目を覚ますと、カイはすでに荷を整えて立っていた。いつもと変わらない表情で、いつもと変わらない目で、南を向いていた。
「行くよ」
カイは短く言い、歩き出した。
リナは急いで立ち上がり、後を追った。
霧が、近づいていた。




