表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第三章 霧の入口

 集落を出たのは、夜明け前だった。

 見張りの男が止めた。当然だった。南へ向かうと言えば、誰でも止める。だがカイは短く礼を言い、リナを連れて柵の外へ出た。男は何も言わなかった。ただ、二人の背中を見送る目が——もう会えないと知っている者の目だった。

 リナは振り返らなかった。

 カイも振り返らなかった。


 《霧の谷》までは、まだ五日はかかる。

 地図はない。師の遺言に記されていた道順は、おおまかなものだった。「廃街道を南へ。黒い森を抜け、枯れた川床に沿って下れ。霧が見えたら、そこが入口だ」——それだけだ。

 二日目の午後、黒い森が見えてきた。

 名前の通り、木々が根元から黒く変色している。葉は一枚もなく、枝だけが空に向かって伸びている。まるで無数の爪が天を引っ掻いているようだった。

「……綺麗じゃない」リナが呟いた。

「呪詛に侵された木だ。触れるな」

「触れないよ」

 森の中は暗かった。木々の枝が絡み合い、灰色の空すら見えなくなる。地面は黒い腐葉土で、踏むたびに湿った音がした。

 カイは剣の柄から手を離さず歩いた。

 森の中には気配があった。《腐食者》ではない。もっと小さい何かが、木々の間を動いている。姿は見えない。ただ、視線だけが確かにある。

「何かいる?」リナが小声で聞いた。

「ああ。だが今は仕掛けてこない」

「なんで?」

「値踏みしている」

 リナは黙った。

 一時間ほど歩いたとき、前方の木の根元に何かが座っているのが見えた。

 人だった。

 老人だ。痩せ細った体に、ぼろぼろのローブを纏っている。目を閉じ、木の幹に背を預けて動かない。死んでいるのかと思ったが、近づくと白い息が口から漏れていた。

 カイは立ち止まった。

「罠かもしれない」

「でも生きてる」リナが言った。

「だからこそ罠になる」

 それでもリナは足を踏み出した。カイは舌打ちをして、先に前へ出た。剣を半ば抜き、老人の前に立つ。

 老人がゆっくりと目を開けた。

 白濁した瞳だった。見えているのかどうかわからない。だが老人はカイをまっすぐ見て、しわがれた声で言った。

「灰翼の剣士か」

 カイの手が止まった。

 灰翼。帝国近衛騎士団の名だ。滅びて三年、それを知る者はほとんど残っていない。

「……誰だ」

「名乗るほどの者ではない」老人は静かに言った。「ただの、生き残りだ。お前と同じように」

 カイは警戒を解かないまま、老人の前に膝をついた。

「《霧の谷》へ行くか」老人が言った。問いではなかった。

「そうだ」

「止めはしない。止めても無駄だとわかっている」老人は目を閉じた。「ただ一つだけ、教えてやろう。谷の中では、死者の声が聞こえる。愛しい者の声で、名前を呼ぶ。振り返るな。立ち止まるな。どれだけ本物に聞こえても——それは罠だ」

「知っている」

「知っていても、足が止まる」老人は薄く笑った。「私がそうだった」

 沈黙が落ちた。

 カイは老人を見た。白濁した目、震える手、黒ずんだ指先。呪詛に侵されている。だがまだ、理性がある。

「谷に入ったのか」

「入った。三十年前」老人は言った。「仲間を二人、連れていった。声に引き寄せられた一人を置いて、私は逃げた」

 その言葉の重さが、森の暗さに溶けた。

「後悔しているか」カイが聞いた。

「毎日」老人は目を開け、カイを見た。「だからお前に言う。連れている者を、谷の中で失うな。どんな声が聞こえても、その者の手を離すな」

 カイはリナを振り返った。

 少女は老人をじっと見ていた。目が濡れていた。泣くまいとして、唇を結んでいた。

 カイは再び老人を向いた。

「名前を聞かせてくれ」

「……ガルト。ただのガルトだ」

「ガルト。礼を言う」

 老人は何も言わなかった。ただ目を閉じ、再び木の幹に背を預けた。

 カイは立ち上がり、歩き出した。リナがついてくる。

 十歩ほど進んだとき、老人の声が背中に届いた。

「剣士よ」

 カイは足を止めたが、振り返らなかった。

「その娘を、生かして帰せ」

 答えなかった。

 答えられなかった。


 黒い森を抜けたのは、夕暮れ時だった。

 枯れた川床が見えた。幅は十メートルほど、白い石が敷き詰められた川底に水はなく、代わりに黒い砂が薄く積もっている。川床に沿って南へ下ると、遠くの地平線に白いものが漂っているのが見えた。

 霧だった。

 カイは足を止め、その霧を見た。

 距離はまだある。明日の昼には着くだろう。だが霧の向こうに何があるかは——今の距離ではわからない。

「あれが《霧の谷》?」リナが聞いた。

「おそらく」

「……大きい」

「ああ」

 二人は川床の脇に野営地を作った。焚き火は小さく、煙が出ないよう乾いた木だけを選ぶ。食事は無言で済ませた。

 火が小さくなった頃、リナが口を開いた。

「さっきの老人、ガルトさん。また呪詛に侵されていくんだよね」

「そうだ」

「助けられなかったの?」

「俺には無理だ」

「でも……谷の奥の祭壇で呪詛を断てば、ガルトさんも助かる?」

 カイは少し間を置いた。

「理論上は、そうなる」

 リナは炎を見つめた。オレンジの光が、少女の横顔を照らしていた。

「じゃあ、やらなきゃ」

 単純な言葉だった。

 だがその単純さが、カイには少しだけ眩しかった。

「寝ろ。明日は早い」

「うん」リナは横になった。「カイ」

「なんだ」

「怖い?」

 カイは答えなかった。

 暗闇の中、霧の方角を見つめたまま、ただ静かに夜を過ごした。


 夜半過ぎ、カイの耳に声が届いた。

 風の中に混じった、微かな声。

 男の声だった。

 深く、落ち着いた声。カイが十年間、ずっと聞き続けてきた声。

——カイ。聞こえるか。

 体が、固まった。

 師の声だった。

 死んだはずの師の声が、霧の方角から流れてきた。

——よく来た。待っていたぞ。

 カイの手が、剣の柄を握りしめた。

 老人の言葉が蘇る。谷の中では、死者の声が聞こえる。振り返るな。立ち止まるな。

 しかしここはまだ、谷の外だ。

 それでも声は聞こえる。はっきりと、確かに。

——お前だけが頼りだ。

 カイは目を閉じた。

 歯を食いしばり、息を整えた。

 長い沈黙の後、目を開けた。

 声は消えていた。

 霧だけが、遠くで静かに揺れていた。


 夜明けが来た。

 リナが目を覚ますと、カイはすでに荷を整えて立っていた。いつもと変わらない表情で、いつもと変わらない目で、南を向いていた。

「行くよ」

 カイは短く言い、歩き出した。

 リナは急いで立ち上がり、後を追った。

 霧が、近づいていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ