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第二章 血と霧の道

廃都を出て三日が経った。

 カイとリナは、かつて街道と呼ばれていた道を南へ歩いていた。石畳はとうに割れ、黒い蔓植物が大地を侵食している。空は相変わらず灰色で、風だけが音を立てていた。

 リナは文句を言わなかった。

 それだけは、カイの予想を外れていた。

 だが三日目の昼過ぎ、その静けさは終わった。


 最初の予兆は、鳥だった。

 いや、正確には——鳥の不在だった。

 それまで時折、廃墟の瓦礫の上で鳴いていた小鳥の声が、突然消えた。カイの足が止まる。右手が無意識に剣の柄へ伸びる。

「カイ?」

「黙れ」

 低く、しかし鋭く制する。リナが息を飲む気配がした。

 カイは目を細め、周囲の廃屋群を見渡した。かつては商店街だったらしく、崩れた看板や割れた窓枠が並んでいる。風が止んだ。静寂が、重さを持った。

 来る。

 右の廃屋の壁が、内側から弾け飛んだ。

 巨体だった。《腐食者》の中でも上位の個体——膂力が極限まで増幅された「強化型」だ。身の丈は三メートルを超え、両腕は地面を引きずるほど長く変異している。皮膚は黒く硬化し、眼球は爛々と腐食の光を放っていた。

 カイは既に動いていた。

 抜刀と同時に横へ跳ぶ。巨大な拳が石畳を叩き、衝撃波が土煙を巻き上げる。着地した瞬間、カイは地を蹴り、《腐食者》の懐へ潜り込んだ。

 剣閃、一。

 硬化した皮膚が火花を散らす。浅い。通常の刃では歯が立たない硬さだ。だがカイは怯まなかった。弾かれた反動を利用して後方へ跳び、体勢を整える。

「リナ、建物の中へ!」

 叫ぶと同時に、巨体が突進してくる。

 カイは正面から受けなかった。紙一重で横に躱し、伸びてきた腕の下を潜る。そのまま《腐食者》の背後へ回り込み、剣を両手で握り直す。

 狙いは一点——頸椎。

 強化型の弱点は限られている。硬化していない部位、それは体の継ぎ目だ。肩と腕の境、膝の裏、そして首の後ろ。カイの師が、血を流しながら教えてくれた知識だった。

 渾身の一撃。

 刃が首の後ろに食い込む。《腐食者》が絶叫した。人間の声帯では出せない、金属が軋むような音だ。だがそれでも倒れない。腕が後方へ振り回され、カイの胴体を直撃した。

 吹き飛んだ。

 廃屋の壁に背中から激突し、木材と瓦礫が降り注ぐ。息が詰まる。肋骨に激痛が走った。折れてはいないが、ひびが入ったかもしれない。

「カイッ!」

 リナの声が聞こえた。

 カイは歯を食いしばり、立ち上がった。膝が笑っている。痛みを意識の外に押しやり、剣を構え直す。

 《腐食者》が振り返る。首の傷口から黒い血が流れているが、動きは止まっていない。

 二度目の突進。

 今度はカイも動いた——しかし躱すのではなく、真正面へ向かって走った。

 リナが息を飲む声がした。

 ぶつかる寸前、カイは地面すれすれまで身を沈め、《腐食者》の股の下を滑り抜けた。すれ違いざまに、右膝の裏へ刃を深く通す。腱を断つ感触。巨体の右脚が崩れた。

 体勢を崩した《腐食者》が前のめりに倒れ込む。

 カイは即座に背中へ飛び乗り、首の傷口へ刃を差し込んだ。今度は深く、正確に。頸椎を断つ手応え。

 絶叫が止まった。

 巨体がゆっくりと崩れ、動かなくなった。

 カイは《腐食者》の背から降り、乱れた息を整えた。右脇腹に手を当てると、鈍い痛みが返ってくる。やはりひびだ。走るのには支障ないが、激しく動けば悪化する。

「カイ、大丈夫?!」

 リナが駆け寄ってきた。カイが右手を上げて制する。

「問題ない」

「問題あるでしょ、血が出てる!」

 言われて見ると、壁に叩きつけられた際に額を切っていた。血が右目の横を伝っている。カイは無言で外套の端で拭った。

「これで終わりではない」

 静かに言い、周囲を見渡す。

 廃屋の影が、複数動いていた。


 五体。

 強化型ではなく、通常の《腐食者》だ。だが数が問題だった。肋骨にひびが入った状態で、五体を同時に相手にするのは——

「私も戦う」

 リナが言った。

 カイは少女を見た。ぼろぼろの外套の下から、短剣を取り出している。刃渡りは二十センチほど。それがどこから来たのか聞く暇はなかった。

「足手まといになるな」

「ならない」

 《腐食者》が一斉に動き出した。

 カイは前の三体を引き受けた。痛みを意識から切り離し、身体を機械のように動かす。一体目の爪をギリギリで躱し、返す刀で喉を裂く。二体目が横から飛びかかる——腰を落として受け流し、勢いを殺さずに地面へ叩きつける。喉元へ剣を通す。

 三体目が躊躇なく突進してくる。

 カイは動いた。だが肋骨の痛みが一瞬、動きを鈍らせた。爪が左肩を掠める。外套が裂け、皮膚が薄く切れた。構わず押し込み、腹部へ剣を叩き込む。

 振り返ると——リナが残り二体と対峙していた。

 短剣を両手で握り、後退しながら間合いを保っている。怯えているのに、足が止まっていない。《腐食者》の一体が腕を振り下ろす。リナは転がるようにして躱し、すれ違いざまに短剣で足首の腱を切った。

 動きを知っていた。

 カイは目を細めた。あの躱し方は、素人ではない。誰かに習っている。

 倒れた《腐食者》へリナが追撃しようとした瞬間、もう一体が背後から迫っていた。

 カイが間に入った。

 剣で爪を弾き、そのまま頸部へ刃を通す。最後の一体だった。

 静寂が戻った。

 リナは肩で息をしながら、短剣を握ったまま立っていた。手が震えている。だが目は逸らしていなかった。

「……どこで覚えた」カイが聞いた。

「父が騎士だった」リナは静かに言った。「少しだけ、教えてもらった」

 カイは何も言わなかった。

 ただ一つだけ、認めた。

「次からは右側をやれ。左は俺が取る」

 リナの目が、わずかに見開かれた。それから、小さく頷いた。


 その夜、小さな集落にたどり着いた。

 廃墟ではなかった。辛うじて、人が生きていた。

 木造の柵で囲まれた十数件の家屋。見張りの男がカイたちを泊め、食事を出してくれた。塩気の薄いスープだったが、三日ぶりの温かい食事だった。

 見張りの男と話す中で、カイは尋ねた。

「南の《霧の谷》について知っているか」

 男の顔色が変わった。

「……何故そんな場所を知っている」

「師から聞いた。そこへ行けと言われた」

「生きて戻った者を、私は見たことがない」男は吐き捨てるように言った。「《腐食者》の密度が、他の場所とは比べ物にならない。しかもあそこの個体は——賢い。罠を張る」

「罠を」

「人を誘い込む。声を真似る。死んだ者の声を」

 カイは黙って聞いた。

 男は続けた。「三ヶ月前、この集落から二人が谷へ向かった。家族を探しに行くと言って。……一人は翌日、《腐食者》になって戻ってきた」


 夜。集落が寝静まった後、カイは師の遺品の筒を取り出した。

 折り畳まれた羊皮紙を開く。何度目かわからない。だが読むたびに、同じ一行が目に刺さる。

術式を起動するには、二つの命が必要だ。

 カイは羊皮紙を折り畳み、筒に戻した。

 小屋の隙間から、リナの寝息が聞こえた。昼間の戦いの疲れか、珍しく早く眠りについていた。

 カイは暗闇の中、南の方角を見つめた。

 《霧の谷》。《腐食者》が群れ、死者の声が響く場所。

 そこへ彼女を連れて行くのか。

 答えは、まだ出なかった。

 ただ一つだけ、確かなことがあった。

 今日、彼女は逃げなかった。震えながらも、剣を手放さなかった。

 それがカイの中で、小さな何かを変えていた。

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