第一章 終わりの始まり
世界が終わった日のことを、カイは今でも覚えている。
炎の色は赤ではなかった。青白く、冷たく、まるで死そのものが形を持ったかのような光だった。帝都アルヴァインの城壁が崩れ落ちる音。何万という人間の断末魔が混ざり合い、それがやがて沈黙へと溶けていく瞬間。あの静寂こそが、もっとも残酷だった。
生き残ったのは、ほんの一握りだった。
そしてカイは、その中にいた。——望んでいなかったにもかかわらず。
廃墟となった帝都の外れに、一人の男が立っていた。
年のころは二十代の前半だろうか。長い黒髪は無造作に後ろで束ねられ、右目には古い火傷の痕が走っている。着込んだ外套は所々が焦げており、腰に吊るした長剣の柄だけが、かつての騎士団の紋章を残していた。
名をカイ=ヴァルツという。
かつては帝国近衛騎士団「灰翼」の一員であり、その中でも最年少で上位階位に昇りつめた剣士だった。だが今は違う。帝国は滅び、騎士団は消え、彼が守るべきものは何ひとつ残っていない。
あるのは剣と、消えない傷と、一つの誓いだけだ。
「……また増えたな」
低く、感情の乏しい声でカイは呟いた。
廃墟の向こうから、影が動いている。人の形をしているが、人ではない。《腐食者》――帝国を滅ぼした災厄の産物だ。人の魂が呪詛に侵食され、理性を失った存在。かつては市民だった者が、今は化け物として群れをなしている。
数は七。
カイは静かに外套を払い、剣の柄に手を置いた。
最初の一体が飛びかかってくる。
腕は二倍の長さに変異し、爪は鉄のように黒く硬化している。速い。普通の人間なら視認すら困難な速度だ。
だがカイにとっては、遅かった。
身をわずかに横にずらし、伸びてきた腕の内側に潜り込む。抜刀は最小限。刃が首の側面を薄く裂いた瞬間、《腐食者》の動きが止まる。一瞬の静止。そこへ返す刃で喉を断つ。
倒れる前に次の一体が来ていた。
カイは跳躍を捨て、地を這うように低く動いた。剣閃は一度。ただそれだけで、突進してきた《腐食者》の膝から下が地面に残る。絶叫もなく崩れ落ちる姿を踏み越え、三体目の腕をくぐり抜けながら、心臓の位置へ正確に刃を通す。
七体。
時間にして、三十秒も経っていなかった。
カイは剣の血を外套の端で拭い、ゆっくりと鞘に収めた。息は乱れていない。鼓動も平静だ。恐怖も、高揚も、そこにはない。ただ、仕事を終えたという感覚だけがあった。
それが、もっとも恐ろしいことだと、彼自身もわかっていた。
廃墟の瓦礫の陰から、小さな影が飛び出してきた。
「た、助かった……!」
少女だった。十二、三歳といったところか。ぼろぼろの服を着て、頭に包帯を巻いている。大きな瞳がカイを見上げ、濡れている。
カイは少女を一瞥してから、歩き出した。
「待って! あなた、どこへ行くの?」
「関係ない」
「……ひとりなの。家族も、みんないなくなった。どうか、一緒に連れて行って」
足が止まった。
振り返りはしなかった。ただ、止まった。
長い沈黙の後、カイは低く言った。
「俺について来ても、いいことはない」
「それでもいい」
「死ぬかもしれない」
「ここにいても死ぬ」
カイはゆっくりと振り返り、少女の顔を見た。泣きそうなのに、唇を結んで必死に堪えている。その目に、かつて自分がよく知っていた光があった。——失うものを失い果てた者の、それでも生きようとする光だ。
深く、息をついた。
「名前は」
「リナ」
「リナ。俺はカイだ」それだけ言って、再び歩き出す。「遅れるな」
少女が駆け足でついてくる気配がした。
カイは空を見た。灰色の雲が地平線まで広がり、太陽の輪郭だけがぼんやりと透けている。どこかで《腐食者》の遠吠えが響いた。一つではない。十、いや、もっと多い。
帝国を滅ぼした呪詛は、まだ世界を蝕み続けている。
それを止める方法が、一つだけある——とカイは知っていた。
死んだ師匠が、最後に残した言葉の中に。
だがそれは、帝国が最も恐れた禁忌の地への旅を意味していた。
灰燼の時代が、始まろうとしていた。




