表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

第六章 封印の代償

祭壇の石が、光り始めた。

 刻まれた文字の一つひとつが青白く輝き、その光が筋となって祭壇の中心部へ集まっていく。セルヴァスが術式の準備を整えるにつれ、谷全体が微かに震えた。地の底から、何かが応えるように。

 《原初の腐食》が、目を覚ましつつあった。

「急げ」セルヴァスが言った。「気配を感じ取っている。じきに《腐食者》の群れが来る」

 カイは祭壇を見上げた。中心部には人の手のひら大の窪みが二つ、並んで刻まれている。そこに手を置くことで術式が起動する。

「順番を確認する」カイはセルヴァスに言った。

「お前が右の窪みに触れ、術式を起動する。リナが左に触れ、力を補助する。術式が完成する瞬間——光が最大になる一点だ——リナは自分の意思で手を離す。それだけだ」

「その一点を、どうやって見極める」

「わかる。必ずわかる。全身に走る衝撃が、一瞬だけ止まる。その瞬間だ」

 カイはリナを見た。少女は頷いた。怖いはずだ。怖くないはずがない。それでも目が揺れていなかった。

「行こう」リナが言った。


 その時、霧の向こうが動いた。

 一体ではない。十体でもない。

 霧の壁が、黒く染まった。

 無数の《腐食者》が、谷の入口から溢れ出してきた。大小様々、強化型も混じっている。群れというより、潮だった。黒い潮が、祭壇へ向かって押し寄せてくる。

「来た」セルヴァスが呟いた。「《原初の腐食》が召集している。術式を阻止しようとしている」

「時間はどれくらいかかる」カイが問う。

「術式の完成まで、早くて十分。遅ければ二十分」

「多すぎる」

「わかっている」

 カイは剣を構えた。二十分、あの数を足止めする。普通なら不可能だ。だが——

「セルヴァス」カイは言った。「お前は術式に集中しろ。リナ」

「うん」

「お前も祭壇の準備をしていろ。俺が時間を稼ぐ」

 リナが目を見開いた。

「一人で?!」

「他に方法がない」

「死ぬよ!」

「死なない」

「根拠は?」

 カイは少し間を置いてから、静かに言った。

「お前が待っているから」

 リナは息を飲んだ。

 カイはそれ以上何も言わず、《腐食者》の群れへ向かって走り出した。


 最初の波が来た。

 カイは止まらなかった。走りながら剣を振るい、先頭の三体を切り抜ける。速度を落とせば囲まれる。囲まれれば終わりだ。動き続けること、それだけが生存の条件だった。

 四体目が横から飛びかかる。身を沈めて躱し、すれ違いに喉を断つ。五体目の爪が肩を掠める。痛みを無視して踏み込み、腹部へ剣を通す。

 肋骨のひびが悲鳴を上げた。

 構わなかった。

 七体、八体、九体。カイは群れの中を縫うように動いた。一箇所に留まらず、常に移動する。《腐食者》たちは互いに邪魔をしながら、思うように追えていない。

 十二体目を倒したとき、強化型が来た。

 さっきの個体より大きい。四メートルを超える巨体が、地響きを立てて迫ってくる。

 カイは正面から向かった。

 巨体が両腕を振り下ろす。カイは真横へ跳び、腕が地面を砕く衝撃で舞い上がった土煙に紛れ、巨体の背後へ回り込む。首の後ろ、頸椎への一撃。だが今度は一度では足りなかった。

 強化型が振り返り、尾のように変異した脚でカイを薙ぎ払った。

 直撃した。

 吹き飛んだ。転がり、岩壁に叩きつけられる。全身に衝撃が走る。肋骨が、今度こそ折れた感触があった。立ち上がろうとすると、右膝が笑った。

 強化型が迫ってくる。

 カイは歯を食いしばり、立った。

 膝が笑っていても、立てる。肋骨が折れていても、剣は振れる。痛みは感じている。だが痛みは、動けない理由にはならない。

 強化型が跳躍した。

 カイは動いた——右ではなく、真っすぐ前へ。巨体の着地点へ向かって走る。巨体が着地した瞬間の一瞬の静止、その隙に潜り込み、首の傷口へ剣を深く押し込んだ。

 今度は、頸椎を断つ手応えがあった。

 巨体が崩れ落ちる。カイはその背から転がるように降り、膝をついた。

 息が荒い。視界が滲んでいる。右手が震えていた。

 だが群れはまだいた。

 二十体以上が、まだ動いている。


「カイッ!」

 祭壇の方からリナの声がした。

 振り返ると、祭壇の脇に数体の《腐食者》が回り込んでいた。セルヴァスが術式に集中している隙を狙ったのだ。

 カイは走った。折れた肋骨が悲鳴を上げる。膝が痛む。それでも走った。

 祭壇へ向かう《腐食者》の背後から斬りかかる。二体を連続で倒し、三体目と対峙した瞬間——リナが横から短剣で足首を切った。崩れた《腐食者》の首に、カイが剣を通す。

「大丈夫?」リナが叫んだ。

「問題ない」

「全然問題ありそう!」

「術式は」

「セルヴァスさんがあと五分って——」

 その時、地面が揺れた。

 大きく、深く。

 祭壇の光が一段と強まった。青白い光が柱となって空へ伸びる。《腐食者》たちが一斉に怯んだ。

「起動が始まった!」セルヴァスが叫んだ。「二人とも、今すぐ祭壇へ!」


 カイはリナの手を掴み、祭壇へ走った。

 《腐食者》が追ってくる。だがカイは振り返らなかった。

 祭壇の段を駆け上がり、中心部に辿り着く。二つの窪みが光っている。

「いいか」カイはリナに言った。

「うん」

「絶対に、手を離せ。わかったか」

「わかった」

「誓え」

 リナはカイを見た。真っすぐ、迷いなく。

「誓う。でもカイも誓って」

「何を」

「生きて、私の隣に立つって」

 カイは一瞬、黙った。

 それから、静かに言った。

「誓う」

 二人は同時に、窪みへ手を置いた。


 世界が、白くなった。

 音が消えた。《腐食者》の遠吠えも、風の音も、何もかもが消えた。

 ただ光だけがあった。

 カイの全身を、何かが貫いていく感覚があった。熱くはない。冷たくもない。ただ、圧倒的な力が流れ込んでくる。《原初の腐食》の力だ。それを押さえ込もうとする術式の力と、ぶつかり合っている。

 痛かった。

 さっきまでの肋骨の痛みや膝の痛みとは、次元が違う。全身の細胞が一つひとつ引き裂かれるような感覚だ。

 それでもカイは手を離さなかった。

 隣でリナが呻く声がした。

「リナ」

「……大丈夫」掠れた声が返ってきた。「まだ、大丈夫」

 光が増していく。術式が進んでいく。

 カイは意識を繋ぎ止めながら、術式の流れを感じ取ろうとした。セルヴァスの言葉を思い出す。全身に走る衝撃が、一瞬だけ止まる。その瞬間だ。

 まだだ。まだ来ない。

 光がさらに強まる。リナの呻き声が大きくなった。

「リナ、もう少しだ」

「うん……」

「手を離す準備をしておけ」

「わかって……る」

 《原初の腐食》が抵抗した。

 突然、光の中に暗闇が混じった。黒い波が術式を飲み込もうとする。カイの視界が歪む。意識が遠のきかける。

 ——諦めるな。

 師の声が聞こえた。

 今度は霧の声ではない。記憶の中の声だ。カイが初めて剣を握った日、師が言った言葉。

 ——剣士は、最後まで諦めない。それだけが、強さだ。

 カイは意識を引き戻した。

 術式を押し込む。《原初の腐食》の抵抗を、全身で受け止めながら、押し込む。

 そして——

 衝撃が、止まった。

 一瞬だけ。

「リナ、今だ!」


 リナは手を離した。

 光が爆発した。

 祭壇全体が白く輝き、青白い柱が天を貫いた。地面が大きく揺れ、《腐食者》たちの絶叫が響いた。

 カイの意識が、遠のいた。


 静寂。

 カイが目を開けると、空が見えた。

 灰色ではなかった。

 薄いが、確かに青かった。

 体を起こそうとすると、全身が悲鳴を上げた。折れた肋骨、傷だらけの腕、膝の痛み。生きている証拠だ。

 隣を見た。

 リナが倒れていた。

 カイは這うように近づき、少女の顔を覗き込んだ。

 胸が、動いていた。

 息をしていた。

 カイはしばらく、その事実を確認し続けた。何度も、何度も。

 やがてリナがゆっくりと目を開けた。

 霞んだ目がカイを見て、焦点が合う。

「……カイ」

「ああ」

「生きてる?」

「生きている」

「私も?」

「お前も」

 リナは目を閉じ、それから小さく笑った。

「言ったでしょ」掠れた声で言った。「九割がなんだって」

 カイは答えなかった。

 ただ、少女の手を握った。

 握ったまま、空を見上げた。

 青い空だった。

 三年ぶりに見る、青い空だった。


 セルヴァスが近づいてきた。

 老いた術師の目が、珍しく潤んでいた。

「終わった」セルヴァスは静かに言った。「《原初の腐食》は封じられた。《腐食者》たちは、じきに人に戻るか、あるいは静かに眠るかのどちらかだ」

「ガルトは」カイが言った。

「黒い森の老人か。呪詛が断たれれば、侵食は止まる。今からでも遅くはないかもしれない」

 カイは頷いた。

 リナがゆっくりと上半身を起こした。カイが支える。少女は祭壇を見た。光は消え、ただの古い石造りに戻っていた。

「終わったね」リナが言った。

「ああ」

「これからどうするの?」

 カイは考えた。

 帝国はない。騎士団はない。守るべき主君も、帰るべき場所も、ない。

 ただ——

「歩く」カイは言った。「世界はまだ、壊れたままだ。《腐食者》から逃げている者たちがいる。ガルトのような者たちがいる」

「一人で?」

 カイはリナを見た。

 少女は待っていた。答えを。

「……お前が来るなら」カイは言った。「一人ではない」

 リナは今度こそ、声を上げて笑った。疲れ果てた顔で、傷だらけの体で、それでも笑った。

「当たり前でしょ」


 二人は祭壇を後にした。

 霧は晴れていた。

 谷の出口へ向かう道に、《腐食者》の姿はなかった。ただ、動かなくなった体だけが転がっている。その一つの顔が、安らかだった。

 リナはその顔を見て、立ち止まった。

「……人に戻れたのかな」

「わからない」カイは言った。「だが苦しんではいないだろう」

 リナは小さく手を合わせ、また歩き出した。

 谷を出ると、枯れた川床が続いていた。黒い砂が風に舞っている。だが空は青く、光が届いていた。

 カイは北を向いた。

 黒い森の方角だ。

「ガルトのところへ行くの?」リナが聞いた。

「ああ」

「よかった」

 二人は歩き始めた。

 剣士と少女。

 帝国の残骸と、世界の傷跡の中を、二人は歩いていく。

 終わりではない。

 ここから始まる。


エピローグ

 黒い森は、変わっていた。

 枯れて黒く染まっていた木々の一部に、小さな緑の芽が出ていた。わずかだが、確かにある。

 ガルトは、まだそこにいた。

 木の根元に座り、目を閉じている。カイが近づくと、老人は目を開けた。白濁していた瞳が、少しだけ澄んでいた。

「……来たか」老人は言った。

「呪詛は断たれた」カイは言った。「もう広がらない」

 老人はしばらく黙っていた。

 それから、震える手で木の幹を撫でた。

「芽が出ている」老人は掠れた声で言った。「この木に芽が出るのを、初めて見た」

「そうか」

「……三十年前に置いてきた仲間の名前は、エルトといった」老人は空を見た。「いつか、墓を作ってやろうと思っていた。ずっと、行けなかった」

「今なら行ける」

 老人はカイを見た。

「……そうだな」

 リナが老人の隣に座った。

「一緒に行きましょう」リナは言った。「私たちも、ついていきます」

 老人は少女を見た。それからカイを見た。

 皺だらけの顔が、静かに綻んだ。

「……世話になるな」

 カイは空を見上げた。

 青い空が広がっていた。

 まだ傷だらけの世界の上に、しかし確かに、青い空が広がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ