第六章 封印の代償
祭壇の石が、光り始めた。
刻まれた文字の一つひとつが青白く輝き、その光が筋となって祭壇の中心部へ集まっていく。セルヴァスが術式の準備を整えるにつれ、谷全体が微かに震えた。地の底から、何かが応えるように。
《原初の腐食》が、目を覚ましつつあった。
「急げ」セルヴァスが言った。「気配を感じ取っている。じきに《腐食者》の群れが来る」
カイは祭壇を見上げた。中心部には人の手のひら大の窪みが二つ、並んで刻まれている。そこに手を置くことで術式が起動する。
「順番を確認する」カイはセルヴァスに言った。
「お前が右の窪みに触れ、術式を起動する。リナが左に触れ、力を補助する。術式が完成する瞬間——光が最大になる一点だ——リナは自分の意思で手を離す。それだけだ」
「その一点を、どうやって見極める」
「わかる。必ずわかる。全身に走る衝撃が、一瞬だけ止まる。その瞬間だ」
カイはリナを見た。少女は頷いた。怖いはずだ。怖くないはずがない。それでも目が揺れていなかった。
「行こう」リナが言った。
その時、霧の向こうが動いた。
一体ではない。十体でもない。
霧の壁が、黒く染まった。
無数の《腐食者》が、谷の入口から溢れ出してきた。大小様々、強化型も混じっている。群れというより、潮だった。黒い潮が、祭壇へ向かって押し寄せてくる。
「来た」セルヴァスが呟いた。「《原初の腐食》が召集している。術式を阻止しようとしている」
「時間はどれくらいかかる」カイが問う。
「術式の完成まで、早くて十分。遅ければ二十分」
「多すぎる」
「わかっている」
カイは剣を構えた。二十分、あの数を足止めする。普通なら不可能だ。だが——
「セルヴァス」カイは言った。「お前は術式に集中しろ。リナ」
「うん」
「お前も祭壇の準備をしていろ。俺が時間を稼ぐ」
リナが目を見開いた。
「一人で?!」
「他に方法がない」
「死ぬよ!」
「死なない」
「根拠は?」
カイは少し間を置いてから、静かに言った。
「お前が待っているから」
リナは息を飲んだ。
カイはそれ以上何も言わず、《腐食者》の群れへ向かって走り出した。
最初の波が来た。
カイは止まらなかった。走りながら剣を振るい、先頭の三体を切り抜ける。速度を落とせば囲まれる。囲まれれば終わりだ。動き続けること、それだけが生存の条件だった。
四体目が横から飛びかかる。身を沈めて躱し、すれ違いに喉を断つ。五体目の爪が肩を掠める。痛みを無視して踏み込み、腹部へ剣を通す。
肋骨のひびが悲鳴を上げた。
構わなかった。
七体、八体、九体。カイは群れの中を縫うように動いた。一箇所に留まらず、常に移動する。《腐食者》たちは互いに邪魔をしながら、思うように追えていない。
十二体目を倒したとき、強化型が来た。
さっきの個体より大きい。四メートルを超える巨体が、地響きを立てて迫ってくる。
カイは正面から向かった。
巨体が両腕を振り下ろす。カイは真横へ跳び、腕が地面を砕く衝撃で舞い上がった土煙に紛れ、巨体の背後へ回り込む。首の後ろ、頸椎への一撃。だが今度は一度では足りなかった。
強化型が振り返り、尾のように変異した脚でカイを薙ぎ払った。
直撃した。
吹き飛んだ。転がり、岩壁に叩きつけられる。全身に衝撃が走る。肋骨が、今度こそ折れた感触があった。立ち上がろうとすると、右膝が笑った。
強化型が迫ってくる。
カイは歯を食いしばり、立った。
膝が笑っていても、立てる。肋骨が折れていても、剣は振れる。痛みは感じている。だが痛みは、動けない理由にはならない。
強化型が跳躍した。
カイは動いた——右ではなく、真っすぐ前へ。巨体の着地点へ向かって走る。巨体が着地した瞬間の一瞬の静止、その隙に潜り込み、首の傷口へ剣を深く押し込んだ。
今度は、頸椎を断つ手応えがあった。
巨体が崩れ落ちる。カイはその背から転がるように降り、膝をついた。
息が荒い。視界が滲んでいる。右手が震えていた。
だが群れはまだいた。
二十体以上が、まだ動いている。
「カイッ!」
祭壇の方からリナの声がした。
振り返ると、祭壇の脇に数体の《腐食者》が回り込んでいた。セルヴァスが術式に集中している隙を狙ったのだ。
カイは走った。折れた肋骨が悲鳴を上げる。膝が痛む。それでも走った。
祭壇へ向かう《腐食者》の背後から斬りかかる。二体を連続で倒し、三体目と対峙した瞬間——リナが横から短剣で足首を切った。崩れた《腐食者》の首に、カイが剣を通す。
「大丈夫?」リナが叫んだ。
「問題ない」
「全然問題ありそう!」
「術式は」
「セルヴァスさんがあと五分って——」
その時、地面が揺れた。
大きく、深く。
祭壇の光が一段と強まった。青白い光が柱となって空へ伸びる。《腐食者》たちが一斉に怯んだ。
「起動が始まった!」セルヴァスが叫んだ。「二人とも、今すぐ祭壇へ!」
カイはリナの手を掴み、祭壇へ走った。
《腐食者》が追ってくる。だがカイは振り返らなかった。
祭壇の段を駆け上がり、中心部に辿り着く。二つの窪みが光っている。
「いいか」カイはリナに言った。
「うん」
「絶対に、手を離せ。わかったか」
「わかった」
「誓え」
リナはカイを見た。真っすぐ、迷いなく。
「誓う。でもカイも誓って」
「何を」
「生きて、私の隣に立つって」
カイは一瞬、黙った。
それから、静かに言った。
「誓う」
二人は同時に、窪みへ手を置いた。
世界が、白くなった。
音が消えた。《腐食者》の遠吠えも、風の音も、何もかもが消えた。
ただ光だけがあった。
カイの全身を、何かが貫いていく感覚があった。熱くはない。冷たくもない。ただ、圧倒的な力が流れ込んでくる。《原初の腐食》の力だ。それを押さえ込もうとする術式の力と、ぶつかり合っている。
痛かった。
さっきまでの肋骨の痛みや膝の痛みとは、次元が違う。全身の細胞が一つひとつ引き裂かれるような感覚だ。
それでもカイは手を離さなかった。
隣でリナが呻く声がした。
「リナ」
「……大丈夫」掠れた声が返ってきた。「まだ、大丈夫」
光が増していく。術式が進んでいく。
カイは意識を繋ぎ止めながら、術式の流れを感じ取ろうとした。セルヴァスの言葉を思い出す。全身に走る衝撃が、一瞬だけ止まる。その瞬間だ。
まだだ。まだ来ない。
光がさらに強まる。リナの呻き声が大きくなった。
「リナ、もう少しだ」
「うん……」
「手を離す準備をしておけ」
「わかって……る」
《原初の腐食》が抵抗した。
突然、光の中に暗闇が混じった。黒い波が術式を飲み込もうとする。カイの視界が歪む。意識が遠のきかける。
——諦めるな。
師の声が聞こえた。
今度は霧の声ではない。記憶の中の声だ。カイが初めて剣を握った日、師が言った言葉。
——剣士は、最後まで諦めない。それだけが、強さだ。
カイは意識を引き戻した。
術式を押し込む。《原初の腐食》の抵抗を、全身で受け止めながら、押し込む。
そして——
衝撃が、止まった。
一瞬だけ。
「リナ、今だ!」
リナは手を離した。
光が爆発した。
祭壇全体が白く輝き、青白い柱が天を貫いた。地面が大きく揺れ、《腐食者》たちの絶叫が響いた。
カイの意識が、遠のいた。
静寂。
カイが目を開けると、空が見えた。
灰色ではなかった。
薄いが、確かに青かった。
体を起こそうとすると、全身が悲鳴を上げた。折れた肋骨、傷だらけの腕、膝の痛み。生きている証拠だ。
隣を見た。
リナが倒れていた。
カイは這うように近づき、少女の顔を覗き込んだ。
胸が、動いていた。
息をしていた。
カイはしばらく、その事実を確認し続けた。何度も、何度も。
やがてリナがゆっくりと目を開けた。
霞んだ目がカイを見て、焦点が合う。
「……カイ」
「ああ」
「生きてる?」
「生きている」
「私も?」
「お前も」
リナは目を閉じ、それから小さく笑った。
「言ったでしょ」掠れた声で言った。「九割がなんだって」
カイは答えなかった。
ただ、少女の手を握った。
握ったまま、空を見上げた。
青い空だった。
三年ぶりに見る、青い空だった。
セルヴァスが近づいてきた。
老いた術師の目が、珍しく潤んでいた。
「終わった」セルヴァスは静かに言った。「《原初の腐食》は封じられた。《腐食者》たちは、じきに人に戻るか、あるいは静かに眠るかのどちらかだ」
「ガルトは」カイが言った。
「黒い森の老人か。呪詛が断たれれば、侵食は止まる。今からでも遅くはないかもしれない」
カイは頷いた。
リナがゆっくりと上半身を起こした。カイが支える。少女は祭壇を見た。光は消え、ただの古い石造りに戻っていた。
「終わったね」リナが言った。
「ああ」
「これからどうするの?」
カイは考えた。
帝国はない。騎士団はない。守るべき主君も、帰るべき場所も、ない。
ただ——
「歩く」カイは言った。「世界はまだ、壊れたままだ。《腐食者》から逃げている者たちがいる。ガルトのような者たちがいる」
「一人で?」
カイはリナを見た。
少女は待っていた。答えを。
「……お前が来るなら」カイは言った。「一人ではない」
リナは今度こそ、声を上げて笑った。疲れ果てた顔で、傷だらけの体で、それでも笑った。
「当たり前でしょ」
二人は祭壇を後にした。
霧は晴れていた。
谷の出口へ向かう道に、《腐食者》の姿はなかった。ただ、動かなくなった体だけが転がっている。その一つの顔が、安らかだった。
リナはその顔を見て、立ち止まった。
「……人に戻れたのかな」
「わからない」カイは言った。「だが苦しんではいないだろう」
リナは小さく手を合わせ、また歩き出した。
谷を出ると、枯れた川床が続いていた。黒い砂が風に舞っている。だが空は青く、光が届いていた。
カイは北を向いた。
黒い森の方角だ。
「ガルトのところへ行くの?」リナが聞いた。
「ああ」
「よかった」
二人は歩き始めた。
剣士と少女。
帝国の残骸と、世界の傷跡の中を、二人は歩いていく。
終わりではない。
ここから始まる。
エピローグ
黒い森は、変わっていた。
枯れて黒く染まっていた木々の一部に、小さな緑の芽が出ていた。わずかだが、確かにある。
ガルトは、まだそこにいた。
木の根元に座り、目を閉じている。カイが近づくと、老人は目を開けた。白濁していた瞳が、少しだけ澄んでいた。
「……来たか」老人は言った。
「呪詛は断たれた」カイは言った。「もう広がらない」
老人はしばらく黙っていた。
それから、震える手で木の幹を撫でた。
「芽が出ている」老人は掠れた声で言った。「この木に芽が出るのを、初めて見た」
「そうか」
「……三十年前に置いてきた仲間の名前は、エルトといった」老人は空を見た。「いつか、墓を作ってやろうと思っていた。ずっと、行けなかった」
「今なら行ける」
老人はカイを見た。
「……そうだな」
リナが老人の隣に座った。
「一緒に行きましょう」リナは言った。「私たちも、ついていきます」
老人は少女を見た。それからカイを見た。
皺だらけの顔が、静かに綻んだ。
「……世話になるな」
カイは空を見上げた。
青い空が広がっていた。
まだ傷だらけの世界の上に、しかし確かに、青い空が広がっていた。




