第4話 道化王、常識を捨てる
門を奪った夜、その門を守ろうとする軍は、たいてい翌朝には旗を失う。
それが、レヴェン王国宰相ラウル・エイム・グレインの持論だった。
理由は単純だ。
奪ったばかりの要塞には、まだ味方の匂いが染みついていない。
石床には敵味方の血が残り、倉庫の扉は開かず、兵糧の数も分からず、捕虜は腹の内で復讐を考え、負傷兵はうめき、勝った兵は浮かれ、負けた兵は怯える。
そんな場所で、次の敵を迎え撃つなど正気ではない。
まして、今のグリム門は最悪だった。
石畳には折れた矢が転がっている。
ひしゃげた槍が壁際に積まれている。
黒ずんだ血が、石の継ぎ目にまだ湿っている。
負傷兵の重い呻きと、僧ニコが手配した炊き出しの湯気が、冷え切った夜気の中で妙に不釣り合いに混ざっていた。
城壁の頂には、掲げられたばかりのレヴェンの赤旗が翻っている。
勝った。
世辞抜きに、そう呼べる戦果だった。
だが、東街道の闇の向こうからは、黒旗の隊列が音もなく迫っていた。
帝国を二分した反乱の首謀者、元帥レオ・ヴィクト・クロム。
その先遣隊。
数は、少なくとも三千。
対するレヴェン側は、奪ったばかりの城内の掌握すら終わっていない。
捕虜の選別。
負傷者の治療。
城壁の補修。
兵糧の確認。
落とし格子の応急処置。
やるべきことは山ほどある。
山ほどあるのに、山の頂で王が笑っている。
ラウルは断腸の思いで告げた。
「陛下。門を閉じます」
それは、兵法書の一ページ目に書かれているような当然の判断だった。
グリム門は、守るための要塞だ。
断崖と湿地に挟まれた細い街道。
重厚な城壁。
跳ね橋。
落とし格子。
弩砲台。
門を閉じ、橋を上げ、上から一方的に射掛ける。
子供でも分かる正解だった。
だが、王は鼻で笑った。
「開けろ」
ラウルの思考が止まった。
「……何を、でございますか」
「門だ」
「聞き間違いか、私の耳が腐ったのだと思いましたので、あえて申し上げます。敵が来ております」
「だから開けろと言っている」
ロア・ヴェル・レヴェンは、事もなげに言った。
「敵が来ているから、閉じる。それが常識です」
「敵が来ているから、開ける。それが俺様だ」
ラウルは無意識に胃のあたりを押さえた。
処刑台で反乱者の縄を断ち、腐敗した徴税官を斬り、帝国の門を奇襲で落とし、その直後に三千の敵を前に門を開けると言い出す。
今夜だけで、自分の寿命は数十年分ほど削られているのではないか。
いや、削られている。
確実に削られている。
「陛下、門とは敵を遮るために存在するのです」
「門ってのは、入るためにあるもんだろ」
「言葉遊びをしている場合ではございません!」
「遊びじゃねえよ」
ロアは城壁の上に悠然と立っていた。
黒い王冠。
真紅の外套。
そして、月光すら吸い込む黒鎌シオン。
夜を背負うその姿は、英雄というより、闇に紛れ込んだ災厄そのものだった。
街道の先では、松明の列が蛇のようにうねっている。
規律正しい。
無駄がない。
恐ろしく速い。
ロアは目を細めた。
「いい兵だな」
「褒めている場合ですか」
「いい兵ほど、面白い壊れ方をする」
「そういう悪趣味な発言は、今だけでも慎んでください」
ラウルの傍らでは、白い鎧を傷つけたままのセナ・リュクス・アークライトが、東の街道を睨んでいた。
彼女にとって、クロム派の兵は主君を裏切った逆賊である。
だが、同時にかつては同じ帝国の旗の下で戦った兵でもある。
その双眸には、怒りだけではないものが沈んでいた。
「門を開ければ、一気に雪崩れ込まれます。防衛線が崩壊する」
セナの声は低く、鋭かった。
「それを待ってるんだ」
「わざと、招き入れると?」
「そうだ。歓迎してやれ」
「正気とは思えません」
「よく言われる。褒めてねえよな?」
「当たり前です」
ロアは黒鎌の石突きで、城壁の石を軽く叩いた。
「セナ。お前なら、この門をどう守る」
「閉じます」
即答だった。
「橋を上げ、油を撒き、弩砲で正面を削る。湿地から回り込む敵には火矢を浴びせる。徹底した籠城です」
「いい答えだ。百点満点の、退屈な答えだな」
セナの眉が動く。
「なぜ、それを否定するのです」
ロアは、街道の黒旗を指差した。
「敵の将、レオ・ヴィクト・クロムはまともな男だ。まともで、強くて、いやになるほど戦争を知っている。だからこそ、あいつは俺たちが門を閉じると知っている」
「……」
「閉じた門をどう叩くか。その準備を完璧に整えて来ている。攻城槌、梯子、盾持ち、火壺。全部、閉じている門を相手にするための道具だ」
ロアの唇が、三日月のように吊り上がった。
「だから、開ける」
ラウルは額を押さえた。
「作戦を逆にするだけなら、子供だってできます!」
「だが、ガキにはできねえ仕上げが済んでる」
ロアが顎で門の内側を示す。
そこには、ニコが負傷者を運び込んだ倉庫がある。
ヴィヴィが火皿に触れている湿地側の通路がある。
バンが壊れた荷車を積み上げている広場がある。
そして、いつの間にかジンの姿が消えていた。
セナが息を呑む。
「もう、始めているのですね」
「気づくのが遅いぞ、白いの」
「セナです」
「じゃあセナ。よく見ておけ」
ロアの顔から、道化じみた笑みが薄れた。
そこにいたのは、無謀な王ではない。
敵の呼吸と地形と恐怖をまとめて喉元へ突き刺す、冷徹な戦術家だった。
「門を開ける。敵の半数だけを入れる。橋を落として分断する」
ラウルの目が細くなる。
「上げるのではなく、落とす……?」
「そうだ。グリム門の橋は狭い堀じゃなく、幅のある水路に架かっている。重装歩兵が密集して渡れば、中央に莫大な負荷がかかる。その瞬間、俺様が仕込んだ支柱を抜けば」
「橋が中折れし、本隊が分断される」
ラウルの声が震えた。
敵の半数を門内に閉じ込める。
後続は崩れた橋で足止めされる。
門内にはバンとジン。
側面にはヴィヴィの幻影と魔法。
上には、ラウルとニコが整えた弓兵の列。
ただの防衛ではない。
敵の常識そのものを罠にする作戦だった。
ロアは笑う。
「余興ってのは、結末を先に教えちゃつまらねえだろ?」
「余興にしないでください。私の心臓が持ちません」
「お前の心臓はしぶとい」
「胃はそうでもありません」
東街道から、軍靴の音が地響きとなって近づいてくる。
距離は、およそ半里。
先頭は盾歩兵。
後方に槍兵と弩兵。
さらに攻城槌を引く隊も見える。
まさに、閉ざされた門を砕くための布陣だった。
「陛下。本当に、開けるのですね」
ラウルが最後の確認をする。
ロアは黒鎌を肩に担いだ。
「何度も言わせるな」
ラウルは重い足取りで、城壁下へ合図を送った。
ぎぎぎ、と耳障りな金属音が夜に響く。
グリム門が、ゆっくりと左右に開いていった。
街道を進む黒旗の隊列に、明らかな動揺が走る。
先遣隊の指揮官、リオット・ベルン。
クロム元帥の忠実な部下であり、軍規を重んじる堅物だった。
彼は、開いた門を前に足を止めた。
罠か。
内通か。
それとも、レヴェン軍は門の仕組みを理解していないのか。
だが、門が開いているのに進まないという選択は、指揮官には難しい。
止まれば、兵の士気が落ちる。
攻城槌を引いてきた兵たちに、開いた門を前に待てとは命じられない。
リオットは短く息を吐き、剣を掲げた。
「盾歩兵、前へ。中庭を確保しろ。深追いはするな」
百余名の盾歩兵が、慎重に門をくぐった。後続も続いてゆく。
ロアが右手を掲げる。
「今だ」
通路の影で、ジンが仕掛けの鎖を一閃した。
同時に、バンが内側から石の楔を蹴り抜く。
ずうん、と地の底から唸るような音が響いた。
跳ね橋の中央が、巨大な獣の背骨のように沈み込む。
完全に落ちたわけではない。
だが、橋としての機能は死んだ。
門内に閉じ込められた一千。
門の外で足止めされた二千。
ロアが跳んだ。
赤い外套が夜風を孕み、血のような残像を引く。
黒鎌が月光を呑み込み、門内の石床へ降り立つ。
「ようこそ」
ロアは笑った。
「俺様の門へ」
黒鎌が唸る。
バンとジンが躍り出る。
ヴィヴィの魔法が炸裂する。
だが、その刃は兵の首を刈らなかった。
盾を裂く。
槍を砕く。
兜を弾き飛ばす。
隊長の剣を、柄だけ残して粉砕する。
殺さない。
殺さないが、戦えもしない。
圧倒的な力の差を、命ではなく戦意に叩き込んでいく。
「死ぬか、降るか。選べ」
死神のような笑みを浮かべた王を前に、兵たちは次々と膝をついた。
命を惜しんだのではない。
殺されるよりも恐ろしいものを見たのだ。
自分たちの訓練も、規律も、装備も、何もかもが、この王の前では紙のように裂かれるという事実を。
弓兵は放った鏃の回収をしている。
城壁の上で、ラウルが安堵とも疲労ともつかない息を吐いた。
「……退きましたね」
門外のリオットは、盾を失った。
湿地にはまだヴィヴィの幻影が揺れている。
門内の状況は把握できない。
橋は壊れ、攻城槌は前に出せない。
しかも、ロアは捕らえた兵を殺していない。
進めば味方も巻き込む。
退けば体勢を立て直せる。
堅物の指揮官ほど、この状況では慎重に動く。
リオットは苦渋の表情で剣を下ろした。
「本隊との合流を優先する。全軍、一時後退!」
黒旗の隊列が、じわじわと下がっていく。
ロアは追撃をしない。
セナは、その光景を複雑な目で見つめていた。
「慈悲ではなく、これも戦術なのですね」
「生き残った奴らは喋る」
ロアは、降伏した兵の前で黒鎌を肩に乗せた。
「黒鎌の王は、殺せたのに殺さなかった、とな。その噂は、次に戦う時の迷いになる。死兵の相手なんざ、愚か者のすることだ」
「では、あなたに慈悲はないのですか」
「慈悲なんて軽い言葉で片付けるな」
ロアは退屈そうに夜空を見上げた。
「これは、俺様の趣味だ」
セナは眉をひそめる。
だが、彼女はもう即座に否定できなかった。
門の内側では、帝国兵たちが膝をついている。
彼らは生きている。
血を流し、震え、敗北しながらも、生きている。
その事実だけは、否定できなかった。
「陛下!」
ラウルの声が飛ぶ。
「捕虜の扱いを決めます。負傷者を優先して内部へ。武器を捨てた者には水とパンを与えます。ニコ、あなたは治療班を」
「もちろんです。薬代は」
「無料です」
「……信仰とは試練ですね」
「あなたの信仰は金貨に執着しすぎです」
内側の広場では、バンが不満げに肩を回していた。
「なんだ、もう終わりか? まだ暴れ足りねえ」
「大人しくしててください」
ラウルが即座に怒鳴る。
ヴィヴィは湿地側の幻影を引き、月光の下で銀灰色の幕のように揺らしていた。
「美しく勝ったわね」
「お前の魔法のおかげだ」
ロアが言うと、ヴィヴィは一瞬だけ目を細め、それから当然のように髪を払った。
「分かっているならいいわ」
ジンは通路の影から戻ってきた。
剣は鞘に納まっている。
だが、誰も彼の周囲に近づこうとはしなかった。
「酒は?」
「さっき飲んだだろ」
「醒めた」
「早いな」
「仕事をすると醒める。迷惑な体だ」
ロアは笑った。
「終わったら飲め」
「終わるのか?」
「さあな」
ジンは、かすかに笑った。
その笑いは酔いどれのものではなかった。
刃が、自分の錆を確認するような、冷たい笑みだった。
その時。
黒鎌シオンが、先ほどよりも強く震えた。
ロアの肩に担がれた漆黒の刃に、青白い光の筋が走る。
魔法陣ではない。
もっと精密で、もっと冷たく、星の裏側で組まれた文字のような光だった。
空の雲が、一瞬だけ裂ける。
幾何学的な紋章が、夜空に薄く浮かんだ。
誰もが見たわけではない。
だが、セナは見た。
ラウルも見た。
そして、その声を聞いた。
『異常値、拡大』
無機質な声。
温度のない声。
人間の勝利を祝うでもなく、敗北を悼むでもなく、ただ盤面の変化を読み上げる声。
『戦域、再計算』
ロアは空を睨み上げた。
「再計算だとよ」
黒鎌の柄を握る指に、わずかに力がこもる。
「おい。誰かは知らねえが、見物料は高くつくぞ」
セナが低く問う。
「今の声を、あなたは聞いているのですか」
「さあな」
「嘘です」
「お前、俺様の嘘に厳しいな」
「下手だからです」
ラウルは二人の会話を聞きながら、胃よりも深い場所が冷えていくのを感じていた。
黒鎌シオン。
ただの武器ではない。
そう分かってはいた。
だが今の光は、魔法でも呪いでもない。
もっと別の何かだった。
祈りではなく、計算。
神託ではなく、処理。
まるで世界そのものを数字で読んでいる何かが、この戦場を覗き込んでいるようだった。
その重苦しい沈黙を破ったのは、門の隙間から転がり込んできた一人の男だった。
泥まみれの外套。
片耳で揺れる銀輪のピアス。
降伏の意思を示すように掲げた両手。
だが、その顔には怯えよりも、薄い笑みが浮かんでいた。
「構えないでくれよ。こっちは丸腰だ」
バンが鼻を鳴らす。
「丸腰の奴ほど、だいたい腹に何か隠してる」
「腹は減ってる。隠す余裕はないね」
男は軽く肩をすくめた。
「クロム軍の斥候、ユノ・ラッド。所属は昨日までだ。今日からは、できればそっちに寝返りたい」
ラウルが鋭く目を細める。
「できれば、とは随分軽い言い方ですね」
「重く言えば信用してくれるのかい?」
「余計に疑います」
「じゃあ軽くていいだろ」
ニコがにこやかに献金箱を抱え直した。
「寝返りにも手数料が発生しますが」
「聖職者って、もっとこう、心の弱った人間に優しいもんじゃないのか」
「心が弱っている方からは取りません。あなたの口は元気です」
「やだなあ、ひどい人だ」
ラウルは額に手を当てた。
「陛下、斥候を名乗る不審者です。拘束して尋問を」
「待て」
ロアはユノを見ていた。
楽しそうに。
値踏みするように。
そして、どこか懐かしい玩具を見つけた子供のように。
「お前、なぜ逃げてきた」
ユノは笑ったまま、ちらりと黒鎌シオンを見た。
その笑みが、ほんのわずかに引きつる。
「逃げたんじゃない。高い方に賭け替えただけさ」
「俺様が高いと?」
「高いね。危険すぎて、値段がつかない」
「続けろ」
ユノは泥を払うこともせず、ロアの前に膝をついた。
だが、その膝のつき方は忠誠ではない。
芝居だ。
降伏を演じる者の軽薄さがある。
それでも、目だけは笑っていなかった。
「あんたのその黒鎌」
ユノは声を低くした。
「クロム軍の大司教が、震えながら呟いてたぜ」
セナが息を呑む。
ラウルの手が、また胃へ伸びる。
ロアは笑みを深めた。
「何と?」
ユノは黒鎌シオンを見つめた。
青白い光が、刃の奥で小さく脈打つ。
「神を殺す道具が、現世に現れた、ってな」
夜明け前のグリム門に、冷たい風が吹き抜けた。
誰も笑わなかった。
ニコでさえ、献金箱を抱える手を止めた。
ヴィヴィは鏡を伏せた。
バンは肉を噛むのを忘れた。
ジンは酒瓶の蓋に指をかけたまま、動かなかった。
ロアだけが、ゆっくりと黒鎌を肩へ担ぎ直す。
「神を殺す、ねえ」
その声には、恐れなど一欠片もなかった。
むしろ、退屈な夜にようやく本物の玩具が届いたような響きがあった。
「いいじゃねえか」
ロアは空を見上げ、神がいるかもしれない場所へ牙を剥いた。
「だったら、まずは神様に挨拶してやる」
その瞬間。
黒鎌シオンの刃に、青白い文字が浮かび上がった。
『神殺し、起動条件を確認』
ロアの笑みが止まった。
そして、黒鎌の奥で。
死んだはずの皇帝の声が、静かに囁いた。
「ロア・ヴェル・レヴェン。ノアに見つかるな」




