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群像について ユグドラシルいわく  作者: まいち
第3幕 第2場 禁断の果実
56/60

(56)果実について オシアンいわく

 ニアヴを両腕に抱え、ぼくは走った。敢然と怪物に立ち向かった少女に背を向け、腕の中にいる彼女のことだけを思って走った。

 どこへ行けばいいのか。何をすればいいのか。取るべき道もわからず、ただ走り続けた。やがてぼくは、立ち枯れた雑木の根に足を取られた。


「うわ……うッ」


 ぼくは腹ばいに倒れ、腕の中にいたニアヴは目前へ投げだされた。それともうひとつ、木の実が転がった。


「ころころん……ころ……」


 それが今までぼくの手の中にあったことに、ぼくはそのときやっと気づいた。居ても立っても居られず、追いかけて跳びつく。


「あ……ッ」


 ふたたび木の実は、ぼくの手の中に納まった。ほのかな甘い匂いが香ってくる。ぼくは鼻から息を吸いこんだ。


「スゥゥー……」


 穏やかな心地が胸に広がる。そして吸いこんだ息は、安堵のため息になって出てきた。


「ホォォー……」


 それと同時にがく然とし、自分への嫌悪感に吐き気がした。ニアヴを置き去りにして、ぼくはなんで木の実なんか気にしてるんだ。

 ぼくは正気じゃないんだ。こんな木の実なんてどうだっていいのに。木の実なんか捨ててしまえ。そうだ、木の実なんて放っておけばいいんだ。今は木の実なんかのことより、早く彼女の元へ戻らなければいけない。

 頭の片隅へ追いやるように、ぼくは手の中にある木の実から目をそらした。


「ニアヴ……!」


 うららかな朝の日差しに、立ち枯れの雑木がニアヴへ暗影を落としていた。樹影が揺れる彼女のホオも、クチビルも、白く凪いでそこに精気はなかった。

 ぼくは片ヒザをつき、ニアヴをかかえるように支えた。それからぼくは――ぼくは無力だった。ぼくにできることなんて、何もなかった。


「……ニアヴッ……ニアヴッ!」


 ぼくのむなしい呼びかけを、葉がこすれ合う涼しげな音色が払った。それはぼくにとって、命の灯を吹き消す死神の息吹だった。

 身じろぎもなく、ニアヴの温もりは失われていく。そんな彼女とは裏腹に、ぼくの手のひらは熱く胎動した。死神が甘い香りを漂わせ、ぼくにささやく。


「……さやさや……さや……」


 じっとりと滲む汗に滑って落とさないように、さらに強く握って「それ」を見た。幻想がかま首をもたげ、現実に見放されたミジメな男を蠱惑する。


「……生首だけになっても動きまわる、あの生命力……チカラと、命をつなぐ……!」


 それは彼女が語った物語たちの遺児。あるいはぼくの荒唐無けいな空想。そして今、この手が触れる確かな現実。


「悠遠から青葉をたたえ続ける古樹は、その身に奇跡を宿らせる。老いを退け、死を遠ざけ……」


 ――その生きいきとした姿は神魔の在りかだった。はぐくまれた果実は、神威をまとい、魔性をはらみ――


「……人の定めを超越する。人を、命を、条理の向こう岸へと運んでいく」


 運命が爛熟し、とろけるような芳香がぼくをいざなう。それは物語。あるいは空想。そして今、この手の中で結実した――


「……常若の果実」


 意思が遊離した肉体を、衝動が突き動かすような感覚。精神の摂動が肉体に漏出する様子を、残された理性で俯瞰するような錯覚。情欲が侵入し、ぼくをたぎらせる。


「……ハァ……ァ……ハァ……」


 浅く、熱く、吐息がこぼれる。むき出しになった歯が、常若の果実に食いこむ。


「ジブウウゥウゥゥゥゥ……ゥ……」


 口の中にわだかまる悪寒。舌に触れた果肉を、その背徳感ごとかみちぎった。


「……ヂン!」


 昏倒のまぎわに時の流れが滞留したような、そんな味を口いっぱいに食んだ。


「……クッチャ……クッチ……クッチュ……」


 彼女の命が枯れる前に、急がなければいけない。その虚脱したクチビルへ、新たな命を注ぎ入れる。果実の汁は赤く鮮やかで、血を流すようにぼくたちを濡らした。


「ドク……ドク……トク……」


 それは死の猶予だったのかもしれない。常若の呪いが時を緩慢に刻ませ、残り幾ばくもない彼女の命を、ただ引き伸ばしにしただけなのかもしれない。まだ死神は彼女の鼻先にあり続け、口づけの瞬間を今か今かと、まるでぼくのようにせがんで待ち続けているのかもしれない。

 それでもぼくは――


「……天に誓うよ、ニアヴ。この口づけは、終生の契りであることを」

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