(56)果実について オシアンいわく
ニアヴを両腕に抱え、ぼくは走った。敢然と怪物に立ち向かった少女に背を向け、腕の中にいる彼女のことだけを思って走った。
どこへ行けばいいのか。何をすればいいのか。取るべき道もわからず、ただ走り続けた。やがてぼくは、立ち枯れた雑木の根に足を取られた。
「うわ……うッ」
ぼくは腹ばいに倒れ、腕の中にいたニアヴは目前へ投げだされた。それともうひとつ、木の実が転がった。
「ころころん……ころ……」
それが今までぼくの手の中にあったことに、ぼくはそのときやっと気づいた。居ても立っても居られず、追いかけて跳びつく。
「あ……ッ」
ふたたび木の実は、ぼくの手の中に納まった。ほのかな甘い匂いが香ってくる。ぼくは鼻から息を吸いこんだ。
「スゥゥー……」
穏やかな心地が胸に広がる。そして吸いこんだ息は、安堵のため息になって出てきた。
「ホォォー……」
それと同時にがく然とし、自分への嫌悪感に吐き気がした。ニアヴを置き去りにして、ぼくはなんで木の実なんか気にしてるんだ。
ぼくは正気じゃないんだ。こんな木の実なんてどうだっていいのに。木の実なんか捨ててしまえ。そうだ、木の実なんて放っておけばいいんだ。今は木の実なんかのことより、早く彼女の元へ戻らなければいけない。
頭の片隅へ追いやるように、ぼくは手の中にある木の実から目をそらした。
「ニアヴ……!」
うららかな朝の日差しに、立ち枯れの雑木がニアヴへ暗影を落としていた。樹影が揺れる彼女のホオも、クチビルも、白く凪いでそこに精気はなかった。
ぼくは片ヒザをつき、ニアヴをかかえるように支えた。それからぼくは――ぼくは無力だった。ぼくにできることなんて、何もなかった。
「……ニアヴッ……ニアヴッ!」
ぼくのむなしい呼びかけを、葉がこすれ合う涼しげな音色が払った。それはぼくにとって、命の灯を吹き消す死神の息吹だった。
身じろぎもなく、ニアヴの温もりは失われていく。そんな彼女とは裏腹に、ぼくの手のひらは熱く胎動した。死神が甘い香りを漂わせ、ぼくにささやく。
「……さやさや……さや……」
じっとりと滲む汗に滑って落とさないように、さらに強く握って「それ」を見た。幻想がかま首をもたげ、現実に見放されたミジメな男を蠱惑する。
「……生首だけになっても動きまわる、あの生命力……チカラと、命をつなぐ……!」
それは彼女が語った物語たちの遺児。あるいはぼくの荒唐無けいな空想。そして今、この手が触れる確かな現実。
「悠遠から青葉をたたえ続ける古樹は、その身に奇跡を宿らせる。老いを退け、死を遠ざけ……」
――その生きいきとした姿は神魔の在りかだった。はぐくまれた果実は、神威をまとい、魔性をはらみ――
「……人の定めを超越する。人を、命を、条理の向こう岸へと運んでいく」
運命が爛熟し、とろけるような芳香がぼくをいざなう。それは物語。あるいは空想。そして今、この手の中で結実した――
「……常若の果実」
意思が遊離した肉体を、衝動が突き動かすような感覚。精神の摂動が肉体に漏出する様子を、残された理性で俯瞰するような錯覚。情欲が侵入し、ぼくをたぎらせる。
「……ハァ……ァ……ハァ……」
浅く、熱く、吐息がこぼれる。むき出しになった歯が、常若の果実に食いこむ。
「ジブウウゥウゥゥゥゥ……ゥ……」
口の中にわだかまる悪寒。舌に触れた果肉を、その背徳感ごとかみちぎった。
「……ヂン!」
昏倒のまぎわに時の流れが滞留したような、そんな味を口いっぱいに食んだ。
「……クッチャ……クッチ……クッチュ……」
彼女の命が枯れる前に、急がなければいけない。その虚脱したクチビルへ、新たな命を注ぎ入れる。果実の汁は赤く鮮やかで、血を流すようにぼくたちを濡らした。
「ドク……ドク……トク……」
それは死の猶予だったのかもしれない。常若の呪いが時を緩慢に刻ませ、残り幾ばくもない彼女の命を、ただ引き伸ばしにしただけなのかもしれない。まだ死神は彼女の鼻先にあり続け、口づけの瞬間を今か今かと、まるでぼくのようにせがんで待ち続けているのかもしれない。
それでもぼくは――
「……天に誓うよ、ニアヴ。この口づけは、終生の契りであることを」




