第九話 誰に聞けばいいですか
婚約書へ署名して四日後、ウィルフレッドは三冊の手帳を持って、リーベン侯爵家へやって来た。
一冊は、教わったことを書くため。
一冊は、分からなかったことを書くため。
最後の一冊は、どちらへ書けばよいか分からないことを書くためだという。
「三冊目が一番厚いのですね」
玄関でそれを聞いたサリーが言った。
「たぶん、一番早く埋まるから」
ウィルフレッドは真面目に答えた。
父の書斎では、すでにアストリッドとルイスが仕事を始めていた。
窓際の大きな机をアストリッドが使い、その横に、少し小さな机が置かれている。前侯爵が家令や領地の管理人と話す時に使っていたものだ。
ウィルフレッドは小さな机の前へ座った。
「まず、どこから教わればよいでしょうか」
「領地がどこにあり、何があるかからでよろしいでしょう」
ルイスが大きな地図を広げる。
北部には街道が通り、その先に牧草地と羊毛を扱う町がある。西には川が流れ、流域に大小の村が並んでいた。南東部は果樹園が多く、王都へ向かう荷馬車の道も整えられている。
地図の端には、橋、倉庫、水車、学校、診療所の位置が、小さな印で書き込まれていた。
「これらは、すべてリーベン家が管理しているのですか」
「すべてではありません。橋は三本のうち二本。水車は土地だけが侯爵家のもので、建物は町の共同所有です。学校は二つが領費、残る一つは教会との共同運営になります」
ウィルフレッドは、早くも二冊目の手帳を開いた。
「共同所有の場合、修理費はどのように分けますか」
「その都度、契約を確認します」
「契約は一つではないのですね」
「建てた時期も、相手も違いますので」
書くことが一つ増えた。
「それでは、今日中に領地全体を覚えようとなさらないでください」
ルイスが、地図の横へ書類の束を置いた。
「無理です」
返事だけは早かった。
「今日は、この地図に出てくる地名と、主だった管理人の名前を覚えます。そのあとで、どの仕事を誰に聞けばよいか教えてください」
「仕事そのものではなく、誰に聞くか、ですか」
「僕が橋の修理方法を覚えるより、橋を見ている人を覚えたほうが早いでしょう」
ルイスは棚から、もう一冊の名簿を出した。
正しい質問をすると、書類は減るより増えることが多い。
ウィルフレッドは地図と名簿を見比べながら、順に名前を書き留めた。
北部街道の管理は、王都寄りと領境寄りで担当者が違う。羊毛の検査所は町長ではなく商業組合が管理し、侯爵家からは年に二度、監督役を送る。
西の川沿いはさらに細かかった。堤、橋、水門で、それぞれ担当が分かれている。
「この『延べ二百人』とは、二百人を雇うという意味ではありませんよね」
「一人が十日働けば、十人と数えます。実際に雇う人数は、期間によって変わります」
「では、二十人なら十日。四十人なら五日ですか」
「単純に割ればそうなりますが、大工と土を運ぶ者では賃金が違います」
三冊目の手帳も開かれた。
午前の半分が過ぎた頃、ウィルフレッドは領地にあるものを二十ほど覚え、分からないことを三十ほど増やしていた。初日としては、なかなか順調だった。
サリーが茶を運んでくる。
机の上には地図と名簿が広がっていたが、ウィルフレッドは空いている場所を探してカップを置かせるのではなく、書類を一度まとめた。
「ありがとう」
「お茶菓子もあります」
サリーは、小さな焼き菓子の皿も置いた。
「こちらも?」
「はい。頭を使うと、お腹が空くそうです」
「誰が言ったの?」
「奥様です」
まだ結婚していないウィルフレッドには、どちらの奥様なのか分からなかった。尋ねる前にサリーが出ていったので、三冊目の手帳へ書くほどではないと判断した。
アストリッドの机にも、同じ茶と菓子が置かれている。
「疲れませんか」
「今のところは。覚えられる名前が多いのは、楽しいです」
「名前を覚えるのが?」
「名前のない報告より、人が書いた手紙のほうが好きなので」
ウィルフレッドは、机の端に積まれている領内報告を見た。
「この報告には、もとの手紙も残っていますか」
「はい。要点をまとめた報告書と一緒に、保管しております」
「読んでもよいでしょうか」
ルイスがアストリッドを見た。
「構いません。ただし、今日は全部読まなくていいですよ」
「はい」
答えた時には、ウィルフレッドの手が一番上の束へ伸びていた。
村からの手紙、管理人からの報告、商業組合からの要望。紙の大きさも、文字の癖も違う。
整った文字で簡潔に書く者もいれば、挨拶だけで半分を使う者もいる。肝心の要望を最後の二行へ押し込む者もいた。
ウィルフレッドが紙をめくる音は速かった。
ただし、時々止まる。
「この方は、先ほど名簿にあったベルン村の村長ですね」
「そうです」
「半年前にも、西の堤について手紙を出しています」
ルイスが保管箱から、該当する束を探した。ウィルフレッドはその間に、手元の手紙をもう一度読む。
半年前の手紙では、修繕を求めていたのはベルン村だけだった。冬を越し、雪解けの水が引いたあとに調べてほしいと書かれている。
二か月前の報告では、工事は翌年でも間に合うと判断されていた。
ところが十日前に届いた手紙には、ベルン村の村長のほか、川下にある二つの村の名が加わっていた。
「費用の見積もりは、以前と同じですね」
アストリッドが報告書を確かめた。
「以前の見積もりを、そのまま使っているようです」
ウィルフレッドは二通の手紙を並べた。
「でも、頼んでいる時期が違います。最初は『来年の夏までに』でした。こちらは――」
指先が、最後の数行をたどる。
「『次の雪解けを迎える前に、一度見に来てほしい』となっています」
十日前は、屋敷中が前侯爵夫妻の葬儀に追われていた頃だ。手紙は受け取られ、一覧にも記載されていたが、内容の確認までは進んでいなかった。
「返事は?」
「到着を知らせる定型のものだけです」
ルイスが答えた。
アストリッドは、二通の手紙を自分の前へ移した。
「明日、工務の担当者を呼びましょう」
「その方は、現地を見ていますか」
「二か月前には。ただ、十日前の手紙が届いてからは、まだです」
「では、その人に聞けばいいのですね」
「ええ。それから、私も現地へ行きます」
ウィルフレッドは眼鏡を直した。
「僕も行ってよいでしょうか」
「もちろん。侯爵家へ来る村の手紙が、どこから書かれているのか見ておいたほうがいいでしょう」
ルイスが大きな地図を、もう一度机へ広げた。
ベルン村と、川下の二つの村。
三つの名前は、同じ青い線のそばに並んでいた。




