第八話 持ってくるもの
正式な顔合わせの日、オイゴット伯爵夫妻は、約束の時刻より十分早くリーベン侯爵家へ到着した。
「早すぎたかしら」
馬車を降りた伯爵夫人が、玄関扉の上にある時計を見た。
「お前が三十分前から、遅れる遅れると言うからだ」
「初めて伺うお宅ですもの。道を間違えることだってあるでしょう」
「御者は道を知っている」
「馬が急に、別の道を通りたくなることもあるわ」
その可能性について、オイゴット伯爵は考えないことにした。
ウィルフレッドは馬車から降りると、母が持っていた小さな鞄を受け取った。
「母上。それは何ですか」
「必要になるかもしれないものよ」
「今日は顔合わせです」
「分かっています」
分かっている人の鞄にしては、少し膨らんでいた。
先触れを受けたルイスが扉を開けた。約束より早い客を迎えることには慣れているし、約束より遅れて来て悪びれない客にも慣れている。家令という仕事は、時間に対する人間の考え方を広く知る仕事でもあった。
伯爵夫人は、光沢を抑えた灰紫のドレスを着ていた。帽子にも宝石はなく、小さな黒い羽根が一本添えられている。
祝いの席へ向かう服ではない。
けれど、葬儀へ参列する服でもなかった。
アストリッドの喪中に、婚約の喜びを押しつけないために選んだものだった。
応接室では、アストリッドとエリアが待っていた。
挨拶を済ませ、全員が席につく。ルイスが用意した書類の横には、オイゴット伯爵家から持参された書類も置かれた。
最初に口を開いたのは、オイゴット伯爵だった。
「婚約条件を確認する前に、こちらから申し上げておきたいことがあります」
「はい」
「ウィルフレッドは、母方の親族が持つ子爵家へ養子に入る予定でした。その話は、正式に取り下げます。先方との話し合いも、必要となる費用も、すべてオイゴット家で引き受けます」
伯爵は、持参した書類をアストリッドの前へ差し出した。
「今後、先方からウィルフレッドやリーベン家へ、資金援助の申し入れがあった場合も、こちらへ回してください。お二人で対応する必要はありません」
「ですが、この縁談によって、オイゴット家は立て直しのための資金を出さずに済むのでしょう?」
「ええ。すでにそれだけの利益を受けています」
伯爵はあっさりと認めた。
「だからこそ、それ以上を求めるべきではない。息子を差し出したのだから援助を、などと言い始めれば、婿ではなく売り物にしたことになります」
「父上」
「違うのか」
「違いませんが、もう少し言い方がありませんか」
「お前が選ばれた理由の一つは、都合がよいと自分で言ったことだろう。同じことだ」
父親もまた、正直である。遺伝というものは、髪や目の色だけに表れるとは限らない。
ルイスが二枚の書類を見比べた。
オイゴット家からの要求は、ウィルフレッド個人の衣服や蔵書を持ち込むことと、大学時代の恩師や友人との手紙のやり取りを続けること。年に数度、実家を訪ねること。それだけだった。
「こちらの条件も確認していただけますか」
アストリッドが、自分の前に置いていた書類を伯爵へ渡した。
リーベン家の領地と財産は、アストリッドが相続したものであること。
結婚後も、ウィルフレッドが独断で売却や担保の設定を行うことはできない。大きな支出や新たな借り入れには、二人の署名を必要とする。
一方で、ウィルフレッドは次期侯爵として王宮との折衝や議会への出席を担い、領地経営についてもアストリッドとともに判断する。
仕事をしない夫は困るが、勝手に仕事を増やす夫はもっと困る。候補者との面談を終えた今、その一文を契約書へ入れたいところだったが、ルイスに止められていた。
「当然の内容でしょう」
オイゴット伯爵は書類を息子へ回した。
「お前も読め」
「はい」
ウィルフレッドは一枚目を読み、二枚目をめくった。しばらくして最初の紙へ戻り、一か所を指す。
「ここですが、緊急の場合はどうなりますか。たとえば橋が壊れ、修理を急がなくてはならない時に、どちらかが領地を離れていたら」
アストリッドはルイスを見た。
「従来は、領地の管理責任者と家令の判断で、一定額まで支出できることになっております。支出後、侯爵へ報告いたします」
「では、その規定を残すことも書き加えたほうがよいのではないでしょうか」
「そういたしましょう」
ウィルフレッドは、もう一度書類を読んだ。
理解したふりをせず、分からないことは知っている者に聞く。
先日の言葉を、少なくとも本人は覚えているらしい。
「ほかに、何かご希望はありますか」
アストリッドが尋ねると、ウィルフレッドは眼鏡の位置を直した。
「僕からは、今のところありません。まだ、何を確認しておくべきかも分かっていないので」
「それでは、思いついた時に尋ねてください。私も、すべてを分かっているわけではありません」
「はい。そうします」
婚約書へ署名する。
公に発表する時期と、王宮へ次期侯爵の申請を出す日程も決まった。結婚式は喪が明けてから、身内と領地の主だった者だけを招いて行う。
必要な話が一通り終わったところで、伯爵夫人が膝の上の鞄を開けた。
「では、私からも一つよろしいかしら」
「もちろんです」
「アストリッド様のお母様に代わるつもりはありません。そんなことは、誰にもできませんもの」
鞄の中から、折り畳んだ紙が出てきた。
「ただ、嫁いだ先で困ることや、夫に言いにくいことがあった時、年上の女に聞きたいこともあるでしょう。その時は、私を使ってください」
アストリッドは、差し出された紙ではなく、伯爵夫人の手を見た。
「ありがとうございます」
「無理に母と呼ぶ必要もありません。オイゴット夫人でも、伯爵夫人でも、お好きなように」
「では、今は伯爵夫人と。いつか、違う呼び方をしたくなったら、その時にお願いいたします」
「ええ」
伯爵夫人はうなずき、それから紙を広げた。
「それで、こちらはウィルに持たせるものの一覧です」
「母上」
「枕は必要でしょう。変わると眠れないのだから。予備の眼鏡と、冬の室内着と、新しい寝間着も。あとは本だけれど、全部を一度に運ぶと床が心配だから――」
「母上、僕は今日、引っ越すわけではありません」
「だから今のうちに相談しているのよ」
伯爵夫人は二枚目の紙を取り出した。
「まだ増えます」




