第十話 手紙の向こう
翌朝、リーベン侯爵家の工務を預かるモリスが、二通の手紙を前に腕を組んだ。
「十日前の雨で、水かさがかなり増えたようです」
「屋敷の周辺では、それほど降りませんでしたよね」
「西の山沿いだけ強く降りました。ベルン村からの定期便が遅れたのも、そのせいでしょう」
アストリッドは地図を広げた。
川は山地から西の領内へ入り、ベルン村の手前で大きく曲がっている。堤が傷んでいるのは、その曲がりの外側だった。
「二か月前に見た時は?」
「石積みの一部が緩んでいましたが、すぐ崩れる状態ではありませんでした。来年の夏までに直せばよいと判断しました」
「十日前の雨のあとには、見ていないのですね」
「はい」
モリスの指が、地図の川下へ動いた。
「手紙に二つの村が加わったなら、低い畑へ水が回ったのかもしれません」
「行きましょう」
アストリッドは地図を畳んだ。
馬車に乗ったのは、アストリッドとエリア、ウィルフレッド。モリスは御者台の隣へ座り、ルイスは屋敷へ残った。
王都へ続く道から外れると、馬車は何度も大きく揺れた。
ウィルフレッドは窓枠をつかみ、膝の上の地図を守っている。アストリッドのほうは、揺れる場所を知っているらしく、先に足を踏ん張っていた。
「よく来るのですか」
「父と一緒に、何度か。西側は春と秋に回っていました」
「僕は、領地を見るというと、馬に乗って丘の上から眺めるものだと思っていました」
「それで分かるのは、領地が広いということくらいです」
馬車の車輪が窪みへ入り、ウィルフレッドの肩が窓へぶつかった。
「道が悪いことも分かりました」
「そこは、今のでよく分かったでしょうね」
ベルン村へ着く頃には雲が切れ、薄い日が差していた。
村長と、川下の二村から来た男たちが、橋の手前で待っている。三人とも長靴に泥をつけ、手には杖と巻いた縄を持っていた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
ベルン村の村長が帽子を取った。
「手紙を読むのが遅くなりました。川を見せてください」
「こちらです」
川沿いの道は、馬車が通れる幅ではなかった。全員で細い畦道を歩く。
アストリッドは裾を少し持ち上げ、泥の深い場所を避けて進んだ。エリアも、そのすぐ後ろを歩いている。
ウィルフレッドは二人の足元を見て、同じ場所へ靴を置こうとした。
片足が、くるぶし近くまで沈んだ。
「そこは踏まないほうがよいです」
村長が振り返って言った。
「はい。もう分かりました」
教わるのが一歩遅かった。
泥から靴を抜き、先へ進む。川へ近づくにつれて、水の音が大きくなった。
傷んだ堤は、手紙に書かれていたより長かった。
川の曲がる場所に積まれた石がいくつもずれ、その下の土が削られている。村人たちが打ち込んだ杭と、束ねた枝で、崩れた部分を押さえていた。
「十日前の雨で、ここまで水が来ました」
村長が、ウィルフレッドの腰ほどの高さを杖で示した。
「石が二つ流されました。その先で水が外へ出まして」
川下から来た男が、畑の方角を指した。
「うちの村の麦畑へ入りました。もう刈り入れのあとでしたから、作物は無事です。ただ、春なら種をまいたあとになります」
「もう一つの村は?」
「水が畑を通れば、その先です。今回は届きませんでしたが」
アストリッドは、モリスと一緒に石積みの近くまで下りた。
「今ある見積もりで、どこまで直せますか」
「最初に緩んでいた部分だけです。雨で削られた場所を含めるなら、もう一度測る必要があります」
「雪が降るまでに、応急の補強は?」
「人を増やせば間に合います。石を運ぶ道の整備も必要です」
「収穫を終えたばかりの村から、大勢の人を出すのは難しいでしょう」
「領内の工事人を回します。村からは、川を知る者を数人出してもらえれば」
話を聞きながら、ウィルフレッドは手紙を取り出した。
「この見積もりは、半年前のものですね」
「はい」
村長が答えた。
「どうして、同じ金額を書いたのですか。今は直す場所が増えています」
「新しい金額は、わしらには分かりません。それに、多く書けば、余計に取ろうとしていると思われるかもしれませんから」
「それで、工事を頼まずに、見に来てほしいと書いたのですか」
三人の男が顔を見合わせた。
川下の男が、帽子の縁を指でつまんだ。
「前の侯爵様と奥様のことは、こちらにも届いております。屋敷が大変な時に、すぐ直せとは言いにくかったのです」
アストリッドが、手にしていた鉛筆を握り直した。
「ですが、三つの村の名前を入れた」
「一つの村だけの話ではなくなりましたので」
ウィルフレッドは、手紙の最後を見た。
次の雪解けを迎える前に、一度見に来てほしい。
大きな要求を書かなかったのは、被害が小さいからではない。相手の事情を知った上で、それでも来てほしいと書いたのだ。
「ここは、今から補強します」
アストリッドが言った。
「詳しい測量は明日から。新しい見積もりを出し、雪が来る前に必要な工事を終わらせます。村から出してもらう人の賃金も、侯爵家で支払います」
「ありがとうございます」
「今後は、金額が分からなければ、分からないまま書いてください。見積もりは、こちらの仕事です」
「はい」
村長は帽子をかぶり直した。
「お父上も、同じことをおっしゃいました」
アストリッドの鉛筆が一度止まり、それから紙の上を動いた。
「では、私も同じようにします」
モリスが縄を張り、工事の範囲を測り始める。村の男たちは、雨の前と後で水の流れがどう変わったかを順に説明した。
ウィルフレッドはその話を聞きながら、地図へ印をつけた。
帰りの馬車では、泥のついた靴を布で包み、足元へ置いた。オイゴット夫人が見れば、家へ上がる前に止める状態である。
「手紙を読んでいた時より、分からないことが増えました」
ウィルフレッドが言った。
「また三冊目に書くのですか」
「いえ。今日は一冊目に書きます」
「教わったこと?」
「はい。手紙の金額が小さいからといって、困っていることまで小さいとは限らない」
アストリッドは、自分の靴についた泥を見た。
「ずいぶん大きな字で書いたほうがよさそうですね」
「そうします」
屋敷へ戻ると、サリーが玄関で二人の足元を見比べた。
アストリッドの靴には、泥が少し。
ウィルフレッドの靴には、泥がたくさん。
「次にお持ちになるものが決まりましたね」
「何?」
「長靴です」
その夜、オイゴット夫人の荷物一覧に、ウィルフレッドが自分で一項目を書き加えた。




