第六話 お前が?
リーベン侯爵家からの使者がオイゴット伯爵家へ到着したのは、翌日の朝食中だった。
家族全員がそろっていた。
伯爵夫妻、長男夫婦、次男、それから姉とウィルフレッド。結婚して別の屋敷に住んでいる姉まで朝からいたのは、弟の婿入り話が気になって前夜から泊まっていたためである。
オイゴット家は、ウィルフレッドのよいところをいくらでも挙げられる家族だった。
ただし、リーベン侯爵家が本当に彼を選ぶかと聞かれれば、話は別だ。家族の愛情と、世間からの評価は両立する。冷静な家族である。
使者から渡された封書を、オイゴット伯爵は食卓の上で開いた。
便箋を一枚取り出し、上から下まで読む。そしてもう一度、上から読んだ。
「あなた?」
妻に呼ばれ、伯爵は眼鏡を外した。
「……ウィルが選ばれた」
「まあ!」
「お前が?」
長兄が、末弟を見る。
「僕だと思います」
ウィルフレッドはパンを置いた。
「ほかにウィルフレッド・オイゴットはいませんから」
「本当に?」
今度は姉が、父親の手から便箋を取った。
「本当に、あなたに決めたと書いてあるわ」
「だから、そう言っているでしょう」
「昨日、あなたのよいところを書いた紙を忘れたのよね?」
「はい」
「それなのに?」
「……紙がなければ選ばれないほど、僕にはよいところがないのですか」
「あるわよ。家では」
「姉上」
家では通用するらしい。
次兄が便箋をのぞき込み、リーベン侯爵家の封印を確かめた。
「偽物ではないな」
「なぜ、そこから確かめるんです」
「返事が早すぎる。昨日、二度目に会ったばかりだろう」
「侯爵家には期限がありますから」
「それにしても、お前だぞ」
「先ほどから、皆さん少し失礼ではありませんか」
「何をしたの?」
母が尋ねた。息子の婿入りが決まった喜びより、侯爵令嬢へ何をしたのかという心配が先に来ている。
「何もしていません」
「何もせずに選ばれたの?」
「いくつかお話はしました」
「どんな?」
「最初の日は、アストリッド嬢を泣かせました」
食卓から音が消えた。長兄の妻が、持ち上げたカップをそっと皿へ戻す。
「何を言ったの」
母の声が低くなった。
「ご両親を亡くされて、大変でしたね、と」
「ああ」
母の声が元へ戻った。
「そうしたら泣かれたので、僕が泣かせたのだと思ったのですが、違うと言われました」
「そこで何か慰めたのか?」
父に尋ねられ、ウィルフレッドは首を傾げた。
「いいえ。何と言えばよいか分からなかったので、待っていました」
「それだけ?」
「はい」
家族が顔を見合わせる。
何か気の利いたことをしたわけではない。相手の悲しみを見抜いたと胸を張るわけでもなく、言葉が出てこなかったので黙っていた。
ウィルフレッドの場合、考えた末の慎み深さと、ただ困っている状態は外から見るとよく似ていた。
「二度目は何を話したの?」
姉が便箋を父へ返しながら聞いた。
「この縁談が、うちにとって都合がよいことをお伝えしました」
父の眉が寄った。
「最初からか?」
「はい」
「それで?」
「大学に残りたかったことも」
「ほかには?」
「領地経営も財政も分からないと」
「ウィル」
「嘘は言えませんから」
母が額へ手を当てた。
「それで、なぜ選ばれたの?」
「分かりません」
「何か一つくらい、ご自分を売り込まなかったの?」
「文章を読むのは速いと申し上げました」
「……そう」
それだけは、家族全員が知っている。
食卓に届いた手紙や新聞を、最初にウィルフレッドへ渡すと話が早い。内容を尋ねれば、人の名前も日付も覚えている。だが、眼鏡がどこにあるかは時々忘れる。
「まあ、選ばれたのならよいではないか」
次兄が焼いた肉を切りながら言った。
「ウィルは人に教わるのを嫌がらない。分からないことを任せられても、勝手には進めないだろう」
「その代わり、誰にでも聞くぞ」
長兄が言う。
「以前、うちの納屋の鍵が開かなかった時、庭師から料理長まで六人に聞いて回った」
「最後に鍵を持っていたのは、兄上でした」
「あれはたまたまだ」
「最初から兄上に聞けば、五人は必要ありませんでした」
「仕事を任せるなら、まず誰に聞くべきかを教えたほうがよさそうだな」
「それはリーベン家の家令がなさるでしょう」
父が便箋を畳み直す。
「案外、よい婿になるかもしれん」
「案外とは何ですか」
「お前は末っ子だからな。人の話を聞くことには慣れている」
「聞かなければ、誰も僕の話を聞いてくれなかっただけです」
「それで、自分の話を聞いてもらえる時には長い」
近代詩の話が始まると、確かに長かった。
「偉そうに振る舞うよりはよいでしょう」
長兄の妻が言った。
「侯爵家へ入って、最初から何でも変えようとする方より安心ですわ。長く仕えている方たちもいらっしゃるでしょうから」
「ウィルなら、使用人にも平気で教わりそうね」
姉も続けた。
「大学でも、年下の司書に本の場所を聞いていたでしょう」
「あの方のほうが書庫に詳しいので、当然です」
「そういうところよ」
何がそういうところなのか、ウィルフレッドにはよく分からない。
母が席を立ち、息子の隣へ回った。
「よかったわね、ウィル」
「はい」
「侯爵令嬢のお力になるのよ」
「そのつもりです」
「無理をしてはいけませんよ。分からないことは聞いて、具合が悪ければ早めに休んで、食事もきちんといただくのよ」
「母上」
「寒い時は上着を増やしなさい。あなたは本を読んでいると、部屋が冷えても気づかないのだから」
「僕は婿入りするのであって、嫁ぐのではありません」
「家を出ることに変わりはないでしょう」
「まだ婚約も正式には成立していません」
「でも決まったのよ」
母はウィルフレッドの肩へ両手を置いた。
「幸せになるのよ」
「なりますけれど」
「嫌なことを一人で抱えてはいけません。何かあれば、いつでも帰ってきていいのですからね」
「侯爵になったあと、気軽に実家へ帰るわけにはいかないと思います」
「母親に会うのに、侯爵も伯爵もありません」
トラヴィスが聞けば驚くような意見である。幸い、この場に公爵家の三男はいなかった。
「ウィルの部屋にある本は、どこまで持たせるの?」
姉が尋ねた。
「全部は無理だろう」
父が答える。
「リーベン家にも図書室はあるはずだ。必要なものだけ選ばせなさい」
「全部必要です」
「床が抜ける」
「本で屋敷の床は抜けません」
「お前の部屋の棚は、一度傾いたぞ」
「あれは棚の作りが悪かったのです」
「服も新しく作らなくてはね」
母はもう息子の話を聞いていなかった。
「濃紺ばかりではいけないわ。侯爵夫人――ではなかったわね。侯爵になるのだから、夜会用の上着も必要でしょう。寝間着も新しくしましょう」
「寝間着は侯爵位と関係ありません」
「古いものを持っていくつもり?」
「まだ着られます」
「袖口が薄くなっているわ」
家族の前で寝間着の状態まで明かされた次期侯爵は、眼鏡を外して目元を押さえた。
「母上。まずは、今後の予定を確認させてください」
「分かっています。正式な顔合わせのあとでしょう」
「はい」
「それまでに仕立屋を呼びます」
「分かっていませんね」
「枕も持っていったほうがいいわ。あなた、枕が変わると眠れないでしょう」
「子供の頃の話です」
「去年、旅行先で眠れなかったと言っていたじゃない」
「宿の枕が高すぎたのです」
「なら、持っていきなさい」
「侯爵家へ枕を抱えて婿入りするのですか」
「馬車に積めば見えません」
姉が食卓の端にあった紙を取り、持っていくものを書き始めた。
枕。本。眼鏡の予備。冬の室内着。大学の友人の住所。
「まだ書かなくていいでしょう」
「忘れるから、今書くのよ」
「僕の婿入りです」
「だから、私たちが覚えておくの」
どうやらオイゴット家では、侯爵家への婿入りも末弟の初めての遠出とあまり変わらないらしい。
父は咳払いをして、ようやく話を本筋へ戻した。
「返事を出そう。先方のご都合を伺い、正式に顔合わせの場を設けていただく。それから、婚約の条件を確認する」
「はい」
「ウィル」
「何でしょう」
「お前は本当に、この縁談を受けてよいのだな」
食卓にいた者たちが、口を閉じた。
父は畳んだ便箋を前に置き、まっすぐ末息子を見る。
「家のためだけに行く必要はない。子爵家の話も、時間をかければ別の方法を探せる。大学に残りたいなら、それも考え直してよい」
ウィルフレッドは、昨日の応接室を思い出した。
涙を拭きながら、父と母が死んだのだと言ったアストリッド。
何もできない自分に、分からないことは家令へ聞けばよいと言った人。
「受けます」
「そうか」
「アストリッド嬢は、僕に何でもできるとは思っていません。僕も、できるふりをしなくてよいと思います。それなら、やっていけるかもしれません」
「そうね」
母が、息子の髪を撫でた。
「だから、幸せになるのよ」
「もう分かりました」
「お嫁さんとも仲よくするのよ」
「僕のほうが婿です」
「どちらでも同じです」
同じではない。だが、これ以上説明すると、今度は夫婦とは何かという話まで始まりそうだった。
ウィルフレッドは黙って朝食を再開した。
その横で、姉の紙には新しく「新しい寝間着」が加わっていた。




