第五話 都合のよい縁談
ウィルフレッドは、二度目の訪問にも同じ上着を着てきた。黒い手袋も、濃紺の上着も昨日と同じである。
だからといって困ることは何もない。喪中の侯爵家へ婿候補として訪ねる服を何着も持っている青年がいたら、そちらのほうが少し気になる。
今日は椅子との距離も確かめず、ごく普通に腰を下ろした。
人は一日で成長するものである。
「昨日は、失礼いたしました」
アストリッドが言うと、ウィルフレッドはすぐに首を横へ振った。
「失礼なことは何もありませんでした」
「あなたの前で、ずいぶん泣いたわ」
「はい」
「そこは否定してくれてもいいのよ」
「ですが、ずいぶん泣いておられましたので」
アストリッドはカップを持ち上げた。
嘘をつかないことと、気が利くことは、必ずしも同じではない。
それでも今日は、茶を飲めそうだった。
「昨日できなかったお話をしましょう。いくつか、率直に尋ねてもいいかしら」
「はい。そのつもりで参りました」
「では最初に。あなたは侯爵になりたいですか」
ウィルフレッドは返事をする前に、眼鏡を押し上げた。
考える時間が必要なのか、答え方を探しているのかは分からない。
「……いいえ」
侯爵家の婿選びで、その返事が正解になることはめったにない。
少なくとも、ウィルフレッドの父親が隣に座っていれば、一度は咳をしただろう。
「なりたくないの?」
「侯爵位を嫌っているわけではありません。ただ、もともと考えていた将来とは違います」
「どのように違うのかしら」
「できれば、大学に残りたかったのです」
「文学を続けるために?」
「はい。今は近代詩を専攻していますが、古い叙事詩にも関心があります。各地に残る異本を比べて――」
そこでウィルフレッドは口を閉じた。
「申し訳ありません。これは今、申し上げることではありませんね」
「どうして?」
「侯爵家の仕事に役立つ話ではありませんから」
「でも、あなたが何をしたかったのかは分かるわ」
「そうですね。では、もう少しだけ申し上げても?」
「ええ」
許可を得たウィルフレッドは、大学の書庫に保管された写本について話した。
昨日のパーシバルは、アストリッドが何を答えても自分の話へ戻った。ウィルフレッドも今は自分の研究について話している。
ただし、こちらは頼まなければ途中でやめた。
古い物語の一部が、地方によって違う形で伝わっていること。写本の年代を調べるには、紙や文字の癖も見なくてはならないこと。話している間、ウィルフレッドの声から少しずつ硬さが抜けていく。
「好きなのね」
「はい」
「それなら、なぜこの縁談を受けたの?」
ウィルフレッドは、今度はすぐに答えた。
「オイゴット家にとって、都合のよいお話だからです」
ルイスの視線が上がった。
エリアも茶器を置く手を止めた。
ウィルフレッドは二人の反応に気づき、少し姿勢を正す。
「先に申し上げるべきだと思っていました。僕の実家は、今すぐ立ち行かなくなるほど困窮しているわけではありません。ただ、ここ数年は領地の収入が落ち、橋や水路の修繕も重なりました。以前ほど余裕がないのは事実です」
「あなたが婿入りすると、実家が助かるの?」
「はい」
「どのように?」
「僕には、母方の親族が持つ子爵家を継ぐ話がありました。後継ぎがいないため、卒業後に養子へ入る予定だったのです」
「では、そのお話を断って?」
「子爵家の領地も、あまり状態がよくありません。継がせてもらうというより、実家から資金を出して立て直した上で継ぐ予定でした。以前なら可能でしたが、今のオイゴット家には負担が大きい。僕がこちらへ婿入りすれば、その資金が不要になります」
なるほど、都合がよい。
伯爵家の三男を一人送り出すことで、立て直しの必要な子爵家まで抱えずに済む。息子は侯爵となり、実家との縁も残る。
パーシバルなら、これをオイゴット家とリーベン家の双方に利益のある新しい関係、と説明したかもしれない。
ウィルフレッドは、実家にとって都合がよい、と言った。
「こちらからオイゴット家へ援助することも、条件に入っているのですか」
ルイスが尋ねた。
「いいえ」
「今後、ご実家から求められた場合は?」
「僕だけで決めることではありません。アストリッド嬢と、リーベン家の方々へ相談します」
「お断りにはならない?」
「理由と金額によります。家族が困っていれば助けたいとは思います。ただし、リーベン家のお金を、僕が自由に使えるとは考えていません」
「ご実家には、その点をお話しですか」
「父にも兄にも伝えました。僕の婿入りを理由に金銭を求めるなら、このお話は受けないと」
「それで、お父上は?」
「怒られました」
ウィルフレッドは少し目を伏せた。
「そのようなみっともない真似をすると思っていたのか、と」
「思っていたの?」
「念のためです」
家族への信頼と、金銭の確認は別らしい。ルイスが手元の紙へ何か書いた。
「あなたご自身に借金は?」
「ありません」
「女性関係は?」
「ありません」
「結婚後も続けたい、親しい女性とのお付き合いは?」
「母と姉には、結婚後も会いたいと思っています」
「そういう意味ではありません」
「ああ」
ウィルフレッドはようやく気づき、耳を赤くした。
「いません」
「本当に?」
「はい。女性に限らず、そのような関係の方はいません」
「大学にお友達は?」
「おります。男女ともに。ただ、皆で本や詩の話をするくらいです」
トラヴィスと似た言葉なのに、内容はずいぶん違った。
自由にも種類がある。妻に詮索されたくない自由と、友人と古い詩について話す自由を同じ箱へ入れるのは、箱に少々無理がある。
「では、リーベン家の仕事について伺います」
ルイスは新しい紙を出した。
「領地の管理に携わった経験はございますか」
「ありません」
「財政については?」
「大学で基礎的な講義を受けましたが、家の財政を扱ったことはありません」
「農業は?」
「作物の種類くらいなら分かります」
「使用人をまとめた経験は?」
「ありません」
「王宮でのお役目は?」
「学生ですので、正式な役目には就いておりません」
質問を重ねるたび、ウィルフレッドにできないことが増えていく。
途中からアストリッドは、少し面白くなってきた。
「得意なことはないの?」
「読むことです」
「本を?」
「本も、手紙も。文章なら、かなり速く読めます。人名や地名も、一度読めばだいたい覚えています」
「書くことは?」
「必要な文章は書けます。ただ、簡潔な報告書より論文のほうが慣れています」
「それでは、侯爵家の仕事は何も分からないのね」
「はい」
いっそ立派な返事だった。
「怖くない?」
「怖いです」
「それでも受けるの?」
「アストリッド嬢が僕を選ばれるなら」
ウィルフレッドは膝の上で指を組み直した。
「今の僕が、リーベン家のお役に立てるとは申し上げられません。ですが、教えていただけるなら覚えます。分からないことは、分かる方に尋ねます」
「侯爵になる人が、家令や使用人へ尋ねるの?」
「その方々のほうが知っているのでしょう?」
「ええ」
「でしたら、聞かずに間違えるほうが困ります」
ルイスの持つペンが、紙の上で止まった。
「ご自分で判断なさるおつもりは?」
「覚えたあとなら。ただ、知らないことを知らないまま判断するのは、勇気ではなく……」
ウィルフレッドは言葉を探し、アストリッドとルイスを交互に見る。
「何と申しましょう」
「無謀?」
「それです」
侯爵家の仕事を何も知らない男が、一つ言葉を教わった。覚えると言った以上、最初の一つには数えてよいだろう。
「大学へ残れなくなっても、後悔しない?」
「すると思います」
「するのね」
「したかったことですから。たぶん、しばらくは残念に思います」
ウィルフレッドはそこで一度区切り、カップへ手を伸ばした。
「ですが、後悔したことを理由に、こちらの仕事を疎かにするつもりはありません。僕が選んだ以上は、覚えます」
「選ばされた、とは思わない?」
「この縁談を断ることはできます。父にも、最後は自分で決めろと言われました」
「お父上は、受けてほしいのでしょう?」
「はい。母も兄たちも、かなり」
「かなり」
「朝食のたびに、リーベン家がどれほど立派な家かを聞かされました」
「それは、かなりね」
「昨日は姉から、僕のよいところを紙に書いて持っていくように言われました」
「持ってきたの?」
「忘れました」
ウィルフレッドは上着の内側を確かめ、やはり何も出てこない。
「机の上に置いたままです」
「そこは覚えていないのね」
「人名や文章なら覚えられるのですが、自分の持ち物は時々……」
侯爵家の書類を失くされては困る。そのあたりは、ルイスが厳しく教える必要がありそうだった。
アストリッドは茶を飲みながら、目の前の青年を見た。
侯爵になりたいとは言わない。大学へ残れないことを残念に思う。
実家にとって都合のよい縁談だと認める。領地も財政も使用人の管理も分からない。
婿候補として自分を売り込むなら、もう少し隠しておいたほうがよい話ばかりだった。
「ウィルフレッド様」
「はい」
「今日はここまでにしましょう」
ウィルフレッドは少し背筋を伸ばした。
「承知いたしました。お時間をいただき、ありがとうございました」
「お返事は、追ってお送りします」
「はい」
彼は立ち上がり、丁寧に礼をした。扉の近くまで行ったところで、振り返る。
「今日は、泣かせずに済みましたね」
「それを確認するために振り返ったの?」
「今、思い出したので」
「そう」
「では、失礼いたします」
眼鏡の位置を直し、ウィルフレッドは出ていった。
扉が閉まる。
アストリッドは、ルイスが置いた三人分の記録へ目を向けた。
「パーシバル様は、仕事の知識をお持ちです」
ルイスが言った。
「そうね」
「トラヴィス様には、公爵家の後ろ盾がございます」
「本人も、そう言っていたわ」
「ウィルフレッド様は、現時点では何もお持ちではありません」
「読むのが速いそうよ」
「それが領地経営にどれほど役立つかは、まだ分かりません」
「ええ」
アストリッドは三人の名を順に見た。
できると言う人。自分なら許されると思っている人。何も分からないと言った人。
侯爵家を任せるなら、すでに何でもできる人がよいのかもしれない。
だが、アストリッドが求めているのは、任せきりにする相手ではなかった。一緒に家を残す相手である。
「ルイス」
「はい」
「私、あの方に決めたわ」
「ウィルフレッド様で、本当によろしいのですか」
「分からないことは、あなたに聞くそうよ」
「ずいぶん増えそうでございますね」
「教えてあげて」
「お嬢様がお決めになったのでしたら」
ルイスは三人分の記録から、ウィルフレッドの紙を抜き出した。
廊下の向こうで、サリーが誰かに「眼鏡の方でしたか」と聞いている。まだ知らせていないのに、声が弾んでいた。
アストリッドは残り二枚の紙を裏返した。
「この方にします」




