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では、一番条件の悪い方を婿にします ~侯爵令嬢が選んだのは、伯爵家の眼鏡三男でした~  作者: さんけい


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第四話 大変でしたね

 三人目の婿候補は、玄関へ入る前に眼鏡を拭いた。

 馬車を降りた途端、細かな雨が降り始めたのである。濡れた眼鏡では足元もよく見えず、扉の前で手袋を外し、上着の内側から布を取り出した。

 その間に、玄関へ急いでいたサリーがハンカチを落とした。

 白い布が、磨かれた床へ落ちる。


「あの」


 声をかけられてサリーが振り返ると、眼鏡をかけ直した青年がハンカチを拾うところだった。


「落としましたよ」

「あ、ありがとうございます」

「こちらで合っていますか?」

「はい。私のです」


 受け取ってから、サリーは端に青い花が刺繍されていることを確かめた。


「踏んでませんね」

「え?」

「何でもありません」


 ちなみにアストリッドは、この場面を見ていない。

 見ていたのは玄関番とサリーだけだったので、もちろんハンカチ一枚で婿が決まったわけではない。少なくとも、アストリッドはそう思っているだろう。


 ウィルフレッド・オイゴットは、応接室へ入ってきた時から少し緊張していた。

 濃紺の上着は仕立てもよく、喪中の家を訪ねる服装として問題はない。眼鏡の奥にある灰色の目も、まっすぐアストリッドへ向いている。

 ただ、最初の礼がわずかに深すぎたかもしれない。


「お初にお目にかかります。ウィルフレッド・オイゴットと申します。本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」

「アストリッド・リーベンです。どうぞお掛けください」

「はい。失礼いたします」


 座る前に椅子との距離を確かめたところを見ると、眼鏡の度が合っていない可能性もあった。

 あるいは、単に椅子を倒したくなかったのかもしれない。初めて訪れた侯爵家で椅子を倒せば、誰でも少し困る。

 ウィルフレッドは腰を下ろすと、膝の上で手袋を重ねた。


「まず、このたびは、ご両親のこと……心よりお悔やみ申し上げます」

「ありがとうございます」

「僕は、お二人に直接お目にかかったことはありません。新聞で事故の記事を読み、お名前は存じ上げていましたが…… すみません。このような時は、何か思い出をお話ししたほうがよいのでしょうけれど、知らないことを知っているようには言えませんので」

「構いません」


 アストリッドはそう答えた。

 少し変わった弔意だった。

 前侯爵は立派な人だった、国王も惜しんでいる、領民が悲しんでいる。多くの人がアストリッドの知らない父の姿を教えてくれた。父と話したことがない人まで、父の人柄を褒めた。

 ウィルフレッドは、知らないと言った。


「本来なら、もう少し時間を置くべきなのだと思います」


 彼は手袋の指先をそろえながら、続けた。


「ご両親を亡くされたばかりの方に、すぐ結婚のお話をするのは、その……順序として、ずいぶんおかしい気がします」

「法律上、仕方がありませんから」

「はい。それは父からも説明を受けました。期限があることも承知しています」

「でしたら」

「仕方がないことと、大変ではないことは、同じではありません」


 ウィルフレッドの指が止まった。


「……大変でしたね」


 アストリッドは返事をしようとした。

 はい、と言えばよかったが、それだけのことなのに、声より先に息が詰まる。

 目の前のカップがぼやける。瞬きをすると、頬へ温かいものが伝った。


「あ」


 声を出したのは、ウィルフレッドだった。

 アストリッドの膝へ、涙が一粒落ちた。

 もう一粒落ちる。


「申し訳ありません」


 ウィルフレッドが立ち上がりかけ、膝を低いテーブルへぶつけた。カップが皿の上で鳴る。


「大丈夫ですか」

「僕より、あなたが」

「私は大丈夫です」

「大丈夫な方は、泣かないと思います」

「あなたが大変だったと言うからでしょう」

「やはり僕が泣かせたのでは」

「そういう意味ではありません」


 エリアがアストリッドの横へ来て、黙って新しいハンカチを差し出した。

 そのあと、冷めかけていた茶を下げる。代わりの茶を頼みに行くでもなく、すぐ後ろへ戻った。

 今は温かい茶を出しても、たぶん飲めない。エリアは、そういうことをよく知っている。


「ごめんなさい。少しだけ待ってください」

「はい。もちろんです」


 ウィルフレッドは椅子へ座り直した。

 何か慰めを言おうとしているのか、二度ほど口を開きかける。しかし、結局は手袋を膝へ置いたまま待っていた。

 ここで気の利いた言葉を重ねなかったことが、アストリッドにはありがたかった。

 もっとも、ウィルフレッドに気の利いた言葉が思いついていたかどうかは分からない。人間は時々、何もできずに座っていただけで、とてもよいことをすることもあるものだ。

 アストリッドは涙を拭いたが、一度出た涙は、なかなか止まらなかった。

 母のドレスを選んだ時も、父の上着の釦を留めてもらった時も、棺が閉じられた時も、目の前には次にするべきことがあった。

 今もするべきことは山ほどある。それなのに、大変でしたね、と言われた。


「私、泣いていなかったの」


 ようやく出た声は、自分で思っていたより小さかった。


「事故の知らせが来てから、一度も。葬儀が終わっても、次から次へと決めることがあって……」

「はい」

「皆、私がこれからどうするのかを聞くの。侯爵家をどうする、領地をどうする、誰と結婚する。私にも分からないのに」

「はい」

「父と母が死んだのよ」


 最後まで言うと、また涙が出た。

 ウィルフレッドは、今度は立ち上がらなかった。膝もぶつけず、ただ一度うなずいた。


「そうですね」


 それだけだった。

 侯爵家の将来も、法律も、結婚も持ち出さなかった。

 アストリッドはしばらく泣いた。

 エリアがそばにいて、ルイスは少し離れた席で書類を閉じている。ウィルフレッドは膝の上の手袋を見つめていた。

 誰も急かさなかった。


 涙が止まった頃、エリアが新しい茶を運ばせた。


「お化粧を直してまいりますか」

「いいえ。このままでいいわ」


 婿候補には、すでに泣いているところも、鼻を押さえているところも見られている。今さら目元だけ整えても、大きな違いはない。


「本当にごめんなさい」


 アストリッドがもう一度謝ると、ウィルフレッドは困ったように眼鏡の位置を直した。


「謝っていただくことではありません。僕こそ、もう少し言い方を考えるべきでした」

「どのように?」

「分かりません。考えていなかったので」


 実に正直だ。


「では、同じことを言うのではなくて?」

「たぶん、言います」

「それでは考えても意味がないでしょう」

「そうですね」


 ウィルフレッドは少し笑った。

 ようやく、アストリッドもカップを持った。茶は熱く、鼻へ近づけると昨日と同じ香りがする。


「今日は、あなたにいくつかお尋ねするつもりでした」

「はい」

「けれど、予定より時間を使ってしまったわ」

「僕は構いません。次の予定もありませんから」

「そうではなくて。私が少し疲れました」

「ああ。そうですね。すみません」

「だから、なぜあなたが謝るの?」

「先ほどから、僕が来てから起きたことなので」


 泣いた。膝をぶつけた。茶を入れ替えた。

 たしかに、いろいろ起きている。


「今日はここまでにしてもいいかしら」

「もちろんです」


 ウィルフレッドはすぐに立ち上がった。今度はテーブルとの距離も十分で、どこにも膝をぶつけない。


「明日、もう一度来ていただけますか」

「僕でよろしければ」

「あなたに聞きたいことがあるの」

「はい。では、明日」


 頭を下げてから、ウィルフレッドは扉へ向かった。

 途中で一度振り返る。


「あの」

「何?」

「今日は、午後のお仕事を少し減らしたほうがよいと思います」

「あなたが決めることではないわ」

「はい。今申し上げることではありませんでした」


 ウィルフレッドはもう一度礼をして、今度こそ部屋を出た。

 扉が閉まってから、アストリッドはルイスを見た。


「どう思った?」

「まだ、侯爵家をお任せできるかどうかは分かりません」

「そうね」

「領地や財政についてのお考えも、何一つ伺っておりませんので」

「そうだったわね」


 一時間近く同じ部屋にいたのに、婿候補として役に立つ話はほとんどしていない。

 それでもアストリッドは、もう一度会ってもよいと思った。

 もう一度会わなければ、何も分からない。

 その理由で十分だった。


「お嬢様」


 サリーが、新しい茶菓子を持って入ってきた。皿を置きながら、閉じた扉を見る。


「眼鏡の方、お帰りになったんですか」

「今ね」

「あの方がいいです」

「なぜ?」

「ハンカチを拾ってくださいました」

「それで決めるものではないわ」

「でも、踏みませんでした」

「それも決め手にはならないわよ」


 サリーは納得していない顔で、菓子皿をアストリッドの近くへ寄せた。


「食べてくださいね」

「一つだけ」

「二つあります」

「見れば分かるわ」

「一つは、さっき泣いた分です」


 泣くと菓子が増える決まりは、この国の法律にはなかった。

 だが、侯爵家の小間使いには、法律より強い決まりがいくつかあるらしい。

 アストリッドは一つ目の菓子を取った。



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