第三話 互いに大人なのだから
二人目の婿候補は、公爵家の紋章を大きく掲げた馬車でやって来た。
別に悪いことではない。公爵家の馬車に公爵家の紋章がついているのは、ごく当たり前である。
ただ、正面玄関の柱へぶつかりそうなほど大きな紋章でなくても、誰もエンゲダー公爵家の馬車だと疑いはしなかっただろう。
トラヴィス・エンゲダーは、アストリッドと同じ二十三歳だった。
艶のある黒髪に、細身だがよく鍛えられた体つき。公爵家の三男らしく服も靴も上等で、胸元には小粒の宝石を留めている。
応接室へ入ってきた彼は、アストリッドの前で正確に一礼した。
「お初にお目にかかります、アストリッド嬢。トラヴィス・エンゲダーです。このたびのこと、父も大変心を痛めております。エンゲダー家一同を代表し、お悔やみを申し上げます」
「ありがとうございます。どうぞお掛けください」
トラヴィスは長椅子へ腰を下ろした。
なお、弔意は、そこで終わった。
昨日のパーシバルは、亡くなった父との短い思い出から羊毛の新規事業へ進んだ。トラヴィスは思い出を持たないぶん、話が早い。
「今回のお話については、私も少々驚きました。侯爵家への婿入りとなれば、父や兄たちともよく相談する必要がありますから」
「急なお話ですものね」
「ええ。もっとも、リーベン家にとっても悪い話ではないでしょう。公爵家との縁ができれば、王宮での立場も今まで以上に安定します」
トラヴィスは足を組み、上着の裾を整えた。
「前侯爵がお亡くなりになった今、後ろ盾を必要とする場面も増えるはずです。その点、エンゲダー家の名は十分にお役に立てるかと」
「あなたご自身ではなく、エンゲダー公爵家のお名前が、ですか?」
アストリッドが尋ねると、トラヴィスはわずかに目を細めた。
「家名も本人の持つ力の一つですよ。私は公爵家の人間です。それを切り離して考える必要はないでしょう」
「婿入りなさったあとも?」
「もちろんです。姓が変わったからといって、血縁まで消えるわけではありません」
それは正しい。
正しいが、今のところ彼の口から出てくる利点は、ほぼ実家の家格だけだった。公爵家の三男であることは、本人もよく覚えているらしい。
エリアが茶を運んでくると、トラヴィスは軽く顎を引いた。
「そこへ」
自分の前を指して、それで終わった。
エリアはカップを置き、アストリッドの後ろへ下がる。顔には出ていない。出してよいなら、もう少し分かりやすかっただろう。
「もしご縁がまとまった場合、トラヴィス様は侯爵家の仕事にどのように関わるおつもりでしょう」
ルイスが尋ねた。
「無論、侯爵として必要な役目は果たします」
「領地へも足をお運びいただけますか」
「必要があれば」
「春と秋には、長くご滞在いただくことになるかと存じます」
「そのあたりは、管理人へ任せればよいのではありませんか。領地の細かな仕事に当主がすべて立ち会う必要はないでしょう」
「前侯爵は、春にひと月、秋にふた月ほど滞在なさっていました」
「それは前侯爵のお考えです。私は王都で果たすべき役目も多い」
まだリーベン家の婿に決まってもいないので、王都でどのような役目を果たすのかは尋ねなかった。
決まったあとに考える役目も、世の中にはあるのかもしれない。
「では、王都の屋敷で暮らすことをお望みですか」
「基本的には。もっとも、夫婦が常に同じ場所で行動する必要はないと考えています。アストリッド嬢が領地へ行かれる間、私が王都へ残ることもあるでしょう」
「私が領地へ行き、あなたが王都に?」
「そのほうが都合のよい場合もあります。役割を分ければよいのです」
役割を分けるという言い方は、なかなか聞こえがよかった。
領地の仕事はアストリッドが行い、公爵家との社交はトラヴィスが行う。何となく釣り合っているように聞こえる。領地を持つ侯爵が、領地へ行きたくないと言っている点を除けば。
「結婚後の生活について、ほかにお望みはありますか」
トラヴィスはカップを持ち上げ、少し考える様子を見せた。
「互いの私生活を尊重したいですね」
「私生活」
「私もこれまで築いてきた交友関係があります。結婚したからといって、すべてを変えるのは現実的ではありません。アストリッド嬢にも、ご友人やお付き合いがあるでしょう」
「ええ。あります」
「それなら、お分かりいただけると思います。夫婦は互いを縛るものではありません。大人同士なのですから、適度な自由は必要です」
「それは、友人と会う自由ですか」
「無論、それも含みます」
「ほかには?」
トラヴィスは笑った。
パーシバルの笑顔は、話を聞かせるためのものだった。トラヴィスの笑顔は、これ以上聞くのは野暮だと教えるためのものらしい。
「アストリッド嬢は、ずいぶん率直な方ですね」
「今、確認しておくべきことだと思っています」
「では率直に申し上げますが、結婚後も互いの行動をいちいち問いただすような関係は望みません。社交の場では、さまざまな方と親しくする機会があります。そこへ余計な疑いを持ち込めば、夫婦ともに疲れるでしょう」
「結婚前から親しくしている女性がいらっしゃるのですか」
「親しい知人は、男女ともにおります」
「その方々とのお付き合いを、結婚後も変えるおつもりはない?」
「節度は守ります」
何をもって節度とするのか、そこが問題だった。
「私にも同じ自由が認められるのでしょうか」
「もちろんです。ただし、あなたはリーベン家の跡継ぎを産む立場です。誤解を招く行動は慎まれたほうがよいでしょうね」
互いに同じ自由を持つ。ただし妻の自由には、先に注意書きがついている。
平等というものは、配る側に回るとなかなか便利なものらしい。
「あなたは構わないのですか」
「私は公爵家で育ちました。どこまでが許される付き合いかは心得ています」
「私には分からないと?」
「そういう意味ではありません。ただ、公爵家には公爵家の社交がありますから」
侯爵家には侯爵家の社交がある、と返すこともできた。
だがアストリッドは、そのために口を開くのも面倒になった。
トラヴィスはその後、王宮でどれほど顔が広いか、兄がどの役職に就いているか、姉がどの家へ嫁いだかを話した。婿入りしたあとの部屋についても希望を述べ、馬を三頭連れてくるので厩舎を空けておいてほしいと言った。
まだ選ばれていないことだけが、会話からきれいに抜けている。
「本日はありがとうございました」
アストリッドがそう告げると、トラヴィスは意外そうに窓を見た。予定していた話をすべて終えるには、少し早かったのかもしれない。
「私の考えは、お伝えできたと思います」
「ええ。よく分かりました」
「よいお返事を期待しております。リーベン家にとっても、これ以上の縁はなかなかないでしょう」
最後まで、公爵家との縁談を持ってきた人のような口ぶりだ。本人が婿候補である必要は、どこにあったのだろう。
玄関まで見送る必要はないと言われ、アストリッドは応接室に残った。
トラヴィスを乗せた馬車が出ていく音を聞いてから、エリアが口を開く。
「……あの方は嫌です」
「エリア」
「申し訳ございません」
「私も嫌よ」
昨日は、悪い人ではないと思う、と最初に言った。今日はその手間がなかった。
ルイスは、トラヴィスが座っていた長椅子を見た。カップは半分ほど残り、砂糖を包んでいた小さな紙が皿の脇へ丸めて置かれている。
「まだ、この家をご自分の家として見るお気持ちはないようです」
「厩舎の場所だけは、自分のものとして見ていたけれど」
「馬三頭分でございますね」
「先に空けておかないでね」
「承知いたしました」
扉が少し開き、廊下からサリーが顔を出した。
「あの、お話は終わりましたか」
「終わったわ。どうしたの?」
サリーは室内へ入り、片手に白いハンカチを広げて見せた。洗ったばかりだったのだろう。端に小さな青い花が刺繍されている。その花の上へ、薄く靴跡がついていた。
「これ、廊下で落としてしまったんです」
「そう」
「トラヴィス様が踏みました」
「……気づかなかったのではない?」
「下をご覧になっていました」
「サリー、だからといって、お客様を悪く言ってはいけません」
エリアに注意され、サリーは口を結んだ。しかし、ハンカチは掲げたままである。
「踏んだあと、そのまま行かれました」
「分かったわ。洗い直してもらいなさい」
「はい」
サリーはハンカチを畳みかけ、靴跡を見てもう一度広げた。
「三人なら、昨日の方のほうがいいと思います」
「それで決めるものではないわ」
「でも、踏みましたよ」
「見れば分かるわ」
「青い花の上です」
刺繍の位置まで問題になるとは、トラヴィスも思わなかっただろう。
もっとも、踏まなければ問題にはならなかった。
サリーが出ていくと、アストリッドは明日の予定へ目を向けた。
三人目。
ウィルフレッド・オイゴット。伯爵家の三男で、大学では文学を学んでいる。
領地経営に役立ちそうなことは、経歴書のどこにも書いていない。
それでもアストリッドは、今日よりは話が短く済むのではないかと、少しだけ期待した。




