第二十話 困ったことがあるんだけど
医師は、長椅子に座るアストリッドと、その隣に立つウィルを順に見た。
「具合が悪いのは、どちらです?」
「妻です」
「ウィル、座って。あなたの方が倒れそうよ」
「僕は大丈夫です」
「では侯爵様は、診察が終わるまで外でお待ちください」
「なぜですか?」
「私が奥様へ質問する前に、侯爵様が全部お答えになるからです」
すでに医師は、往診鞄を開ける前から、アストリッドがいつ食事を残したか、何の匂いを嫌がったか、何日前に階段で立ち止まったかまで聞かされている。
「ですが、ほかにもお伝えしておくことが」
「必要なら、あとで伺います」
「僕がいては、診察の邪魔になりますか」
「少々」
医師の返事は早かった。
ウィルはアストリッドを見た。
「終わったら、すぐ呼んで」
「呼ぶわ」
「具合が悪くなったら」
「先生がいるでしょう」
「それはそうだけど」
エリアが扉を開け、サリーが廊下から手招きしている。
新しい侯爵は、妻を何度も振り返りながら部屋を出ていった。
「仲のよいご夫婦ですね」
医師が言うと、アストリッドは困ったように笑った。
「普段は、もう少し落ち着いているんです」
「侯爵様が?」
「はい」
「そうですか」
医師は、それ以上聞かなかった。
診察には、患者の話を信じるところと、少し差し引くところがある。
*
廊下では、ウィルが扉の前を行ったり来たりしていた。
「座ってお待ちになってはいかがですか」
ルイスが椅子を勧める。
「座っていても、何も分からない」
「歩いていても分かりません」
「分かっています」
そう答えて、また三歩進み、向きを変える。
サリーは壁際に立ち、ウィルが何往復したか数えていた。十を超えたところで、数えるのをやめた。
「エリア。何か心当たりがあるんですね?」
ウィルが足を止めた。
「医師に診ていただくまでは、何とも申し上げられません」
「その言い方は、何かある人の言い方です」
「何もない人の言い方も同じです」
「では、サリー」
「私も分かりません」
サリーはすぐにエリアの後ろへ隠れた。
使用人たちは、アストリッドの体調を心配している。
同時に、もし自分たちが考えているとおりならと、口元が緩みそうになるのを我慢していた。
喜ぶにはまだ早い。だが、早いと分かっている時ほど、人は少し喜んでしまう。
「重い病気ではないでしょうか」
「食欲がおありにならない以外は、お元気です」
「病気の始まりかもしれない」
「侯爵様」
ルイスが静かに呼んだ。
「悪い方ばかり考えても、診察が早く終わるわけではありません」
「分かっています。でも、リディはこの一年、ずっと働いていた。僕がもっと早く気づいていれば」
「お気づきになったから、医師を呼んだのでしょう」
「十日も前から具合が悪かったんです」
「十日前の侯爵様に、今日分かったことを教える方法はございません」
ルイスの言うことは正しい。
正しい話は、心配している人間を必ずしも落ち着かせない。今のウィルがよい例だった。
扉が開いた。
ウィルが医師へ詰め寄るより早く、医師が片手を上げた。
「侯爵様。奥様がお呼びです」
「病気は?」
「中で奥様からお聞きください」
「なぜ先生からではなく?」
「奥様が、ご自分でお話ししたいそうです」
「危険な状態ではありませんね?」
「ありません」
その一言を聞いて、ウィルの肩がわずかに下がった。
すぐに部屋へ入る。
アストリッドは先ほどと同じ長椅子へ座っていた。頬には少し赤みが戻っている。
「リディ」
「こちらへ来て」
ウィルは隣へ座った。
「何だったの? 先生は病気ではないと言ったけど」
「ええ。病気ではなかったわ」
「では、疲れ?」
「ウィル。ちょっと困ったことがあるんだけど」
下がったばかりの肩が、また上がった。
「何?」
「家族が増えるんだけど……」
ウィルはアストリッドを見た。
「今、何て言った?」
「家族が増えるの」
「誰の?」
「私たちの」
「どうやって?」
「それを私に説明させるの?」
アストリッドの眉が上がった。
ウィルは一度口を閉じた。
アストリッドを見る。自分を見る。部屋の隅に立つ医師を見る。
医師がうなずいた。
「奥様は、ご懐妊で間違いないでしょう」
ようやく、全部が一つにつながった。
「赤ちゃん?」
「ええ」
「僕たちの?」
「ほかに誰の子だと思っているの」
「いや、そうじゃなくて」
ウィルは立ち上がった。
そのまま二歩進み、何をしようとしたのか分からなくなったらしく、また戻ってくる。
「困ったことじゃないよ!」
「そう?」
「全然、困りごとじゃない!」
アストリッドの手を取り、両手で包んだ。
けれど、すぐに力を緩める。
「痛くなかった?」
「手を握っただけでしょう」
「強すぎたかもしれない」
「大丈夫よ」
「どうしよう」
「何が?」
「何か、僕、嬉しくてたまらない」
ウィルは笑った。笑ったまま目元を押さえ、今度はアストリッドの隣へ座る。
「本当に?」
「本当よ」
「僕が父親になるの?」
「そうみたい」
「リディが母親に」
「そうね」
「家族が増える」
「だから、そう言ったでしょう」
最初に聞いた時には意味が分からず、二度目で疑い、三度目でようやく届いた。
嬉しい知らせにも、理解するまで少し時間のかかる人はいる。届いてしまえば、その後は早かった。
「部屋を用意しないと。どの部屋がいい? 南向きの方が暖かいよね。でも夏は暑いかもしれない。乳母も探す? いつから探せばいいんだろう。家具は――」
「侯爵様」
医師が止めた。
「まだ、ずいぶん先のお話です」
「いつ頃生まれるんですか?」
医師が時期を答える。
「その間、リディは仕事をしても?」
「体調を見ながらでしたら、普段どおりで構いません」
「馬車には乗れますか」
「道の悪い場所は避けてください」
「階段は?」
「ゆっくり上り下りする分には」
「本を読んでも?」
医師が初めて返事を止めた。
「本は、何冊読んでもお子様へ害はありません」
「夜遅くまででも?」
「奥様ではなく、侯爵様の方に問題がありそうですね」
アストリッドが笑った。
「食べ物は、何を用意すればいいですか」
「今は食べられるものを、少しずつ。匂いが気になる時期ですから、無理に食べさせないでください」
「ほかに気をつけることは?」
「まず、侯爵様が落ち着いてください」
「落ち着いています」
部屋にいた全員が、ウィルを見た。
「……努力します」
医師は往診鞄から紙を出し、日常生活で気をつけることを簡単に書いた。
食事は少量ずつ。疲れたら休む。出血や強い痛みがあれば、すぐに呼ぶ。普段の暮らしを何もかも変える必要はない。
「こちらをお読みください」
「ほかには?」
「今のところは、これで十分です」
「次の診察はいつですか」
医師は日付を書き足した。
「質問が増えた場合は?」
「紙へ書いておいてください。次回、順に伺います」
医師はウィルという人間を、短い時間でかなり正確に理解した。
*
診察室の扉が開くと、廊下にはルイス、エリア、サリーが並んでいた。
三人とも偶然そこにいたという顔をしている。
「皆にも話していい?」
アストリッドが尋ねた。
「もちろん」
ウィルは自分で伝えようと前へ出た。
「リディが、その、病気ではなくて、家族が増えることになって」
「奥様がご懐妊です」
医師が横から分かりやすく伝えた。
エリアの両手が胸元で重なり、サリーはぱっと顔を輝かせた。
「おめでとうございます!」
ルイスは背筋を伸ばし、アストリッドとウィルへ深く頭を下げる。
「おめでとうございます。先代様方も、さぞお喜びでしょう」
アストリッドの目が、階段脇の肖像画がある方へ向いた。
「ええ。喜んでくれると思うわ」
「すぐにオイゴット家へ知らせないと」
ウィルが言った。
「まず、お手紙を書きましょう」
「僕が持っていく」
「片道一時間はかかるでしょう」
「馬車なら早いよ」
「あなたは午後の予定を全部延期したばかりよ。明日でいいわ」
「でも、母はすぐに知りたいと思う」
「今日中に使いを出せば届きます」
「では、今書きます」
ウィルは書斎へ向かいかけ、二歩で戻ってきた。
「その前に、リディを寝室へ送った方がいい?」
「私は病人ではないわ」
「でも、休んだ方が」
「侯爵様」
まだ帰っていなかった医師が、もう一度呼んだ。
「はい」
「奥様がお疲れになる前に、侯爵様が周りを走り回るのをおやめください」
アストリッドがとうとう声を上げて笑った。
その日の夕方、オイゴット家へ手紙が送られた。
夜までに、子供部屋の候補が三室選ばれ、乳母を探し始める時期がルイスへ尋ねられ、アストリッドが階段を使うたびにウィルがついてくるようになった。
医師から渡された注意書きは一枚だった。
ウィルが自分で書き足したものは、寝る頃には三枚になっていた。




