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では、一番条件の悪い方を婿にします ~侯爵令嬢が選んだのは、伯爵家の眼鏡三男でした~  作者: さんけい


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19/21

第十九話 最近、具合がよくない

 アストリッドとウィルが結婚してから、一年が過ぎた。

 西の堤は雪解けの増水に耐えた。春先に一度、石積みの一部が動いたが、前年のうちに補強していたため、川下の畑へ水は入らなかった。

 夏には北部の道を直し、秋には共同倉庫の屋根を葺き替えた。冬を前に、古くなった診療所の暖炉も新しくした。

 どれも、王都の新聞に大きく載るような仕事ではない。

 だが、堤は水を止め、道は荷馬車を通し、倉庫は穀物を濡らさず、暖炉は診療所を暖めた。領地で暮らす者にとっては、新聞の記事より役に立つ。

 ウィルも、一年前より侯爵らしくなった。

 王宮で名を呼ばれても、隣の誰かを振り返らなくなった。議会で意見を求められれば、自分の分かる範囲を答え、領地のことはアストリッドへ確認してから話した。

 分からないことを誰に聞けばよいかは、かなり覚えた。

 それでも、聞くことをやめなかった。

 手紙を読めば、書き手の名と村を確かめる。以前の手紙と語調が違えば、何かあったのかと尋ねる。同じ家から届く便りに別の筆跡が混じれば、書いていた者の体調を気にした。

 夏の終わりには、東部の村から届いた手紙を見て、


「いつも書いていた方は、どうしたんでしょう」


 とルイスへ尋ねた。

 調べると、村の書記を務めていた老人が目を悪くし、孫へ代筆を頼んでいた。ウィルは返事へ、大きな字で書いた短い見舞いを添えた。

 翌月、老人本人から、さらに大きな字で礼が届いた。

 文学の研究とはずいぶん違う。それでも、生きている人間が書くものを読む仕事は、思っていたより面白かった。

 人の手紙には、その年の雨や収穫だけでなく、子供が生まれたこと、娘が嫁いだこと、腰が痛むこと、飼っている山羊が垣根を壊したことまで書かれている。

 ウィルは、山羊の名前まで覚えた。

 侯爵に必要な知識であるかは分からない。だが次の手紙に「マーサは元気です」と書いてあったので、覚えていて悪くはなかった。


「一年、何とかなったわね」


 昼食を終えたアストリッドが、椅子の背へ体を預けた。

 食卓の隅には、領内から届いた手紙が二通置かれている。食事中は開かない。それがサリーの決めた規則だった。


「まだ一年です」


 ウィルは食後の茶へミルクを入れた。


「でも、大きな問題は起きなかったでしょう?」

「西の堤は、もう一度見た方がいいと思います。北部の道も、雪が降る前に水の流れる場所を確かめたいです」

「そういうのを、大きな問題になる前に済ませたからよ」

「僕一人なら、何が大きな問題になるのかも分かりませんでした」

「私一人なら、あの手紙の筆跡が変わったことを見落としていたわ」


 二人でいれば何でもできる、などという話ではない。

 二人とも昼食を忘れるし、ウィルは今でも東階段と西階段を時々間違え、アストリッドは夜遅くまで書類を読もうとする。人が二人になれば、間違いがきれいに消えるわけでもなかった。

 ただ、片方が見落としたものを、もう片方が拾う。

 うまく暮らしている夫婦というものは、外から見ると案外地味である。朝に顔を合わせ、仕事をし、昼食を一緒に取り、夕方には今日あったことを話す。

 暮らしている本人たちには、その地味さがありがたい。


「リディ?」


 ウィルが茶碗を置いた。


「何?」

「疲れていますか」

「少しだけ」

「最近、少しだけが多くありませんか」


 アストリッドの頬から、笑みがわずかに引いた。


「そうかしら」

「昨日も、夕食を半分残しました。三日前は、階段の途中で休んでいました」

「よく覚えているわね」

「領地の手紙だけを読んでいるわけではありません」


 よい言葉だった。

 言われたアストリッドより先に、壁際のエリアが嬉しそうに目元を緩めたほどである。

 ただし、ウィル本人は妻の体調が心配で、それどころではなかった。


「医師を呼びましょう」

「そこまでではないわ。季節の変わり目だから、少し疲れただけよ」

「熱は?」

「ないと思う」

「頭痛は?」

「それもないわ」

「どこか痛いところは?」

「ないわよ」

「では、なぜ食べられないんです?」

「それが分かれば苦労しないでしょう」


 アストリッドは茶を飲もうとした。ところが、茶へ入れたミルクの匂いに眉を寄せ、茶碗を卓へ戻す。

 ウィルの顔色が変わった。


「やはり、医師を呼びます」

「ミルクの匂いが少し気になっただけよ」

「昨日は肉の脂を嫌がっていました」

「暑かったからよ」

「昨日は涼しかったです」

「よく覚えているわね」

「だから、心配なんです」


 ウィルはすでに立ち上がっていた。


「ルイスへ頼んできます」

「待って。今日も予定があるでしょう」

「午後の面会は僕だけでもできます。いや、延期してもらいます。先方にも事情を――」

「まだ病気と決まったわけではないわ」

「決まってから呼ぶのでは遅いかもしれません」


 普段は一つずつ確認する男が、妻のことになると三つ先まで心配する。

 正しい質問は大切だが、答えを待つ落ち着きも必要である。


「ウィル、座って」

「でも」

「今すぐ倒れそうなわけではないの。落ち着いて」

「顔色も、あまりよくありません」

「あなたの方が悪いわよ」


 実際、ウィルの方が青ざめていた。

 エリアがそっと近づき、アストリッドの茶碗を下げた。代わりに水を置きながら、その顔をじっと見る。


「奥様。少しお尋ねしてもよろしいですか」

「何?」

「最近、朝に具合が悪くなることが多いのではありませんか?」

「そうね。昼を過ぎれば、少し楽になるけれど」

「食べ物の匂いが気になるようになったのは、いつ頃からでしょう」

「十日ほど前かしら」


 エリアの目が、サリーへ向いた。

 サリーも何かを思い出したらしく、口を小さく開ける。朝食を運んでいるのはサリーである。アストリッドが卵を残した日も、煮た林檎だけを食べた日も覚えていた。


「どうしたの?」

「いえ、その」


 サリーはエリアを見た。

 エリアは、さらに声を落とした。


「奥様。月のものは、いつございましたか」


 アストリッドの指が、水の入った杯から離れた。


「先月は――」


 そこで止まった。

 しばらく考え、今度はその前の月までさかのぼる。


「あら?」


 エリアの口元が緩みかけ、けれどすぐに引き締まった。まだ決まったわけではない。

 サリーは両手を胸の前で組んだ。

 ウィルだけが、三人を順に見ている。


「何ですか?」

「侯爵様」


 エリアが呼んだ。


「はい」

「やはり、医師をお呼びしましょう」

「何か分かったんですか?」

「診ていただかなければ、まだ何とも申せません」

「何とも言えないのに、皆で分かっているような顔をするのはやめてください」


 ウィルの眉間に、深い皺が寄った。

 仕事で分からないことがあれば、誰に聞けばよいか分かるようになった。

 ところが今は、聞いても誰も答えてくれない。


「ルイス!」


 ウィルが扉へ向かって声を上げた。

 廊下にいたルイスが、すぐに入ってくる。


「医師を呼んでください。できるだけ早く」

「承知いたしました」

「それから、今日の予定はすべて延期します」

「ウィル、全部でなくてもいいのよ」

「全部です」

「侯爵様の面会は、私どもで調整いたします」


 ルイスはウィルを落ち着かせるより、先に医師を呼ぶことにした。家令として正しい判断である。理由を知りたくてたまらない顔はしていたが。

 午後、医師の馬車がリーベン家の玄関へ着いた。

 アストリッドは居間の長椅子へ座り、ウィルはその隣で、朝から同じ質問を何度も繰り返していた。


「本当に、痛いところはない?」

「ないわ」

「苦しくは?」

「ない」

「目眩は?」

「立ち上がった時に、少しだけ」

「それを先に言ってください」

「さっきも言ったわよ」


 扉が開き、往診鞄を持った医師が入ってきた。

 ウィルは、アストリッドより先に立ち上がった。


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