第十九話 最近、具合がよくない
アストリッドとウィルが結婚してから、一年が過ぎた。
西の堤は雪解けの増水に耐えた。春先に一度、石積みの一部が動いたが、前年のうちに補強していたため、川下の畑へ水は入らなかった。
夏には北部の道を直し、秋には共同倉庫の屋根を葺き替えた。冬を前に、古くなった診療所の暖炉も新しくした。
どれも、王都の新聞に大きく載るような仕事ではない。
だが、堤は水を止め、道は荷馬車を通し、倉庫は穀物を濡らさず、暖炉は診療所を暖めた。領地で暮らす者にとっては、新聞の記事より役に立つ。
ウィルも、一年前より侯爵らしくなった。
王宮で名を呼ばれても、隣の誰かを振り返らなくなった。議会で意見を求められれば、自分の分かる範囲を答え、領地のことはアストリッドへ確認してから話した。
分からないことを誰に聞けばよいかは、かなり覚えた。
それでも、聞くことをやめなかった。
手紙を読めば、書き手の名と村を確かめる。以前の手紙と語調が違えば、何かあったのかと尋ねる。同じ家から届く便りに別の筆跡が混じれば、書いていた者の体調を気にした。
夏の終わりには、東部の村から届いた手紙を見て、
「いつも書いていた方は、どうしたんでしょう」
とルイスへ尋ねた。
調べると、村の書記を務めていた老人が目を悪くし、孫へ代筆を頼んでいた。ウィルは返事へ、大きな字で書いた短い見舞いを添えた。
翌月、老人本人から、さらに大きな字で礼が届いた。
文学の研究とはずいぶん違う。それでも、生きている人間が書くものを読む仕事は、思っていたより面白かった。
人の手紙には、その年の雨や収穫だけでなく、子供が生まれたこと、娘が嫁いだこと、腰が痛むこと、飼っている山羊が垣根を壊したことまで書かれている。
ウィルは、山羊の名前まで覚えた。
侯爵に必要な知識であるかは分からない。だが次の手紙に「マーサは元気です」と書いてあったので、覚えていて悪くはなかった。
「一年、何とかなったわね」
昼食を終えたアストリッドが、椅子の背へ体を預けた。
食卓の隅には、領内から届いた手紙が二通置かれている。食事中は開かない。それがサリーの決めた規則だった。
「まだ一年です」
ウィルは食後の茶へミルクを入れた。
「でも、大きな問題は起きなかったでしょう?」
「西の堤は、もう一度見た方がいいと思います。北部の道も、雪が降る前に水の流れる場所を確かめたいです」
「そういうのを、大きな問題になる前に済ませたからよ」
「僕一人なら、何が大きな問題になるのかも分かりませんでした」
「私一人なら、あの手紙の筆跡が変わったことを見落としていたわ」
二人でいれば何でもできる、などという話ではない。
二人とも昼食を忘れるし、ウィルは今でも東階段と西階段を時々間違え、アストリッドは夜遅くまで書類を読もうとする。人が二人になれば、間違いがきれいに消えるわけでもなかった。
ただ、片方が見落としたものを、もう片方が拾う。
うまく暮らしている夫婦というものは、外から見ると案外地味である。朝に顔を合わせ、仕事をし、昼食を一緒に取り、夕方には今日あったことを話す。
暮らしている本人たちには、その地味さがありがたい。
「リディ?」
ウィルが茶碗を置いた。
「何?」
「疲れていますか」
「少しだけ」
「最近、少しだけが多くありませんか」
アストリッドの頬から、笑みがわずかに引いた。
「そうかしら」
「昨日も、夕食を半分残しました。三日前は、階段の途中で休んでいました」
「よく覚えているわね」
「領地の手紙だけを読んでいるわけではありません」
よい言葉だった。
言われたアストリッドより先に、壁際のエリアが嬉しそうに目元を緩めたほどである。
ただし、ウィル本人は妻の体調が心配で、それどころではなかった。
「医師を呼びましょう」
「そこまでではないわ。季節の変わり目だから、少し疲れただけよ」
「熱は?」
「ないと思う」
「頭痛は?」
「それもないわ」
「どこか痛いところは?」
「ないわよ」
「では、なぜ食べられないんです?」
「それが分かれば苦労しないでしょう」
アストリッドは茶を飲もうとした。ところが、茶へ入れたミルクの匂いに眉を寄せ、茶碗を卓へ戻す。
ウィルの顔色が変わった。
「やはり、医師を呼びます」
「ミルクの匂いが少し気になっただけよ」
「昨日は肉の脂を嫌がっていました」
「暑かったからよ」
「昨日は涼しかったです」
「よく覚えているわね」
「だから、心配なんです」
ウィルはすでに立ち上がっていた。
「ルイスへ頼んできます」
「待って。今日も予定があるでしょう」
「午後の面会は僕だけでもできます。いや、延期してもらいます。先方にも事情を――」
「まだ病気と決まったわけではないわ」
「決まってから呼ぶのでは遅いかもしれません」
普段は一つずつ確認する男が、妻のことになると三つ先まで心配する。
正しい質問は大切だが、答えを待つ落ち着きも必要である。
「ウィル、座って」
「でも」
「今すぐ倒れそうなわけではないの。落ち着いて」
「顔色も、あまりよくありません」
「あなたの方が悪いわよ」
実際、ウィルの方が青ざめていた。
エリアがそっと近づき、アストリッドの茶碗を下げた。代わりに水を置きながら、その顔をじっと見る。
「奥様。少しお尋ねしてもよろしいですか」
「何?」
「最近、朝に具合が悪くなることが多いのではありませんか?」
「そうね。昼を過ぎれば、少し楽になるけれど」
「食べ物の匂いが気になるようになったのは、いつ頃からでしょう」
「十日ほど前かしら」
エリアの目が、サリーへ向いた。
サリーも何かを思い出したらしく、口を小さく開ける。朝食を運んでいるのはサリーである。アストリッドが卵を残した日も、煮た林檎だけを食べた日も覚えていた。
「どうしたの?」
「いえ、その」
サリーはエリアを見た。
エリアは、さらに声を落とした。
「奥様。月のものは、いつございましたか」
アストリッドの指が、水の入った杯から離れた。
「先月は――」
そこで止まった。
しばらく考え、今度はその前の月までさかのぼる。
「あら?」
エリアの口元が緩みかけ、けれどすぐに引き締まった。まだ決まったわけではない。
サリーは両手を胸の前で組んだ。
ウィルだけが、三人を順に見ている。
「何ですか?」
「侯爵様」
エリアが呼んだ。
「はい」
「やはり、医師をお呼びしましょう」
「何か分かったんですか?」
「診ていただかなければ、まだ何とも申せません」
「何とも言えないのに、皆で分かっているような顔をするのはやめてください」
ウィルの眉間に、深い皺が寄った。
仕事で分からないことがあれば、誰に聞けばよいか分かるようになった。
ところが今は、聞いても誰も答えてくれない。
「ルイス!」
ウィルが扉へ向かって声を上げた。
廊下にいたルイスが、すぐに入ってくる。
「医師を呼んでください。できるだけ早く」
「承知いたしました」
「それから、今日の予定はすべて延期します」
「ウィル、全部でなくてもいいのよ」
「全部です」
「侯爵様の面会は、私どもで調整いたします」
ルイスはウィルを落ち着かせるより、先に医師を呼ぶことにした。家令として正しい判断である。理由を知りたくてたまらない顔はしていたが。
午後、医師の馬車がリーベン家の玄関へ着いた。
アストリッドは居間の長椅子へ座り、ウィルはその隣で、朝から同じ質問を何度も繰り返していた。
「本当に、痛いところはない?」
「ないわ」
「苦しくは?」
「ない」
「目眩は?」
「立ち上がった時に、少しだけ」
「それを先に言ってください」
「さっきも言ったわよ」
扉が開き、往診鞄を持った医師が入ってきた。
ウィルは、アストリッドより先に立ち上がった。




