第十八話 お互いに自由
トラヴィスがいつもの店へ入ると、窓際の席には二人分の食器が並んでいた。
「お連れ様は、後ほどでよろしいでしょうか」
「ああ。先に葡萄酒を頼む」
給仕が杯へ酒を注いでいる間に、店の者が封筒を持ってきた。
「先ほど、こちらをお預かりいたしました」
差出人は、今日ここで食事をするはずだった女性だった。
封を開く。
結婚を控えているため、今後二人きりで会うことは控えたい。これまで親しくしてくれたことには感謝している。
それだけの短い詫びだった。
「またか」
トラヴィスは手紙を卓上へ置いた。
「お連れ様は、いらっしゃいますか?」
「今日は来ないそうだ」
「では、こちらを下げてもよろしいでしょうか」
二人分並んでいた食器の半分が片づけられた。
先日、別の女性からも同じことを言われたばかりである。
自分たちは友人だった。食事をし、芝居を見て、互いの近況を話していただけだ。恋人として約束をした覚えもなければ、結婚を申し込んだこともない。
それなのに結婚が決まった途端、なぜ関係まで変えなければならないのか。
友人なら、結婚後も友人でいればよい。夫は夫、友人は友人である。互いの私生活を尊重すれば、それで済むはずだった。
ただし、女性の方が自分との食事をやめる自由は、どうにも気に入らなかった。
自由という言葉は人気がある。
自分が出かける自由。自分が帰る時間を決める自由。誰と食事をするか選ぶ自由。
相手が自分を選ばない自由まで思い出せる者は、少し減る。
*
「最近、妙なことになっているんです」
数日後、トラヴィスは実家の居間で父と長兄へ訴えていた。
「何が妙なんだ」
「以前から付き合いのあった女性たちが、急に距離を置き始めました」
父は新聞を畳み、長兄は読んでいた手紙から顔を上げた。
「婚約した女性と、結婚が決まった女性だろう」
「それとこれとは別です。私とは友人なのですから」
「向こうは、今後二人で会わないと言っている。それも本人の自由だ」
長兄の返事に、トラヴィスは眉を寄せた。
「友人関係まで婚約者に指図されるのは健全ではありません」
「婚約者に指図されたと言ったのか?」
「そうでなければ、急に変わる理由がないでしょう」
「本人が決めたとは考えないのか」
「これまで何の問題もなかったんですよ」
「相手に結婚の予定がなかった間は、だろう」
長兄は手紙を机へ置いた。
「お前は以前から、妻になった女性の行動を縛るつもりはないと言っていたな」
「もちろんです。夫婦になっても、互いの生活は尊重されるべきです」
「では、お前の妻が、昔から親しい男と二人で食事をしても構わないのか?」
「節度を守るなら」
「毎週でも?」
「毎週となれば、家のこともありますから」
「夜会から帰らず、どこに泊まったか知らせなくても?」
「それは夫婦として――」
「お前がしたいと言っていたことと、何が違う」
「私は、家へ迷惑をかけるつもりはありません」
「妻が家を守り、使用人をまとめ、親戚と付き合い、子供を育てる。その間、お前は好きな相手と食事をする。確かに、お前は困らないだろうな」
トラヴィスの口元が固くなった。
「私は妻にも、好きなことをする自由を認めます」
「家のことをすべて済ませたあとで、か?」
「必要な務めは、誰にでもあるでしょう」
「お前の務めは誰がする」
答えが止まった。
父が長兄を手で制した。
「トラヴィス。お前は、妻にも自由を認めると言う。だが、その自由が自分に都合の悪い形で使われるとは考えていない」
「そんなことは」
「今も同じだ。彼女たちが自分の考えで離れることを認めていない」
「結婚するからといって、それまでの友人を捨てる必要はないでしょう」
「捨てられたくないなら、自分が必要だと言っておけばよかった」
「結婚を申し込めと?」
「違う。相手が離れて初めて惜しむのではなく、付き合っている間に大切にしろと言っている」
「大切にはしていました」
「一人を選ぶほどには?」
トラヴィスは答えなかった。
何人もの女性と食事をした。それぞれの話を聞き、贈り物をし、楽しい時間を過ごした。
誰とも約束しなかった。
約束しないまま、全員がこれからも同じ場所にいると思っていた。
女性たちは、衣替えまで預かってくれる冬の外套ではない。使わない季節にも、同じ棚で待っていてはくれない。
「お前は、彼女たちを友人と呼んでいる」
長兄が言った。
「ですが、会いたい時には来てほしい。結婚しても離れてほしくない。自分以外を優先すれば腹を立てる。それでいて、お前の方からは何も約束しない」
「だからこそ、互いに気楽に付き合えるのです」
「お前だけが気楽なんだ」
「彼女たちだって楽しんでいました」
「だから、これまでは来た。今は別の人生を選んだ。それだけだ」
「急に全員が離れるのは、おかしいでしょう」
「全員が示し合わせたと思っているのか?」
誰も示し合わせてはいなかった。
結婚を決めた者が一人。婚約した者が一人。仕事を手伝うため領地へ戻る者が一人。
それぞれが、自分の都合と自分の将来を考えた。
トラヴィスを困らせるために去った者は、一人もいない。
自分が世界の中心にいると思う者は、人が離れた時まで自分が原因だと思いたがる。実際には、皆それほど暇ではなかった。
「このままでは、誰もお前のところに残らないぞ」
長兄の声が低くなった。
「脅しているのですか」
「心配しているんだ」
「同じ家の者まで、私が悪いと?」
「悪いと言っているのではない。お前は、相手に残る理由を何一つ渡していないと言っている」
「私は楽しい時間を」
「楽しい時間だけなら、他の男とも持てる。お前でなければならない理由にはならん」
長兄は椅子へ深く座り直した。
「妻にも約束しない。友人にも約束しない。自分の予定は話さない。相手の予定が変われば腹を立てる。このまま続ければ、皆、自分を大切にしてくれる方へ行く。最後にお前のところへ残るのは、給金を受け取って働く使用人だけだ」
「言い過ぎだ」
父が止めた。
「ですが、間違ってはいないでしょう」
長兄はトラヴィスを見た。
「今なら、まだ相手に会って話を聞ける。お前が聞く気になればだが」
家族が本当に見放しているなら、ここまで言わない。
気分よく暮らすための言葉は、友人でも言える。家族は時々、言われたくないことを食卓へ置く。食べるかどうかは本人次第だが、少なくとも皿は出した。
「それで、今日は何を頼みに来た」
父が尋ねた。
「このまま妙な評判が広がると、今後の縁談に差し障ります。よい家の娘を何人か選んでいただければ」
「どのような条件で?」
「互いの私生活へ立ち入らず、家のことはきちんと任せられる女性を」
「その条件を、相手方へすべて伝えてよいなら探そう」
「すべて?」
「結婚後も複数の女性と二人で食事をする。帰宅時間を尋ねられたくない。自分の私生活へ妻が口を出すことを認めない。家の管理と子供の養育は妻に任せる」
「そんな言い方をすれば、誤解されます」
「どう言えば正しく伝わる?」
「互いの自由を尊重する、でよいでしょう」
「それでは、お前に都合の悪いところが伝わらん」
父は新聞を取り上げた。
「こちらから話を整えて、娘を連れてくるつもりはない。縁談を望むなら、自分で相手に条件を話せ」
「それで断られたら?」
「相手にも、断る自由がある」
家族はトラヴィスを追い出さなかった。これまでどおり屋敷へ出入りでき、生活に必要な金も受け取れる。
ただし、妻となる女性へ事情を隠さない。持参金や家格を餌に、我慢する女性を探してやることもしない。
トラヴィスには、ずいぶん冷たい扱いに思えた。
家族の側から見れば、ようやく普通の扱いになっただけだった。
*
その後も、二通の手紙が届いた。
一人は、婚約者と過ごす時間を大切にしたいので、今後二人きりでは会わないという。
もう一人は、父の仕事を手伝うため、領地へ戻ることになったと知らせてきた。
誰もトラヴィスを責めてはいなかった。
誰もトラヴィスを待ってもいなかった。
その夜、トラヴィスはいつもの店へ行った。
案内される途中、見覚えのある女性が立ち上がった。先日、結婚が決まったと告げた女性である。隣には婚約者らしい男性がいた。
「こんばんは、トラヴィス」
「こんばんは」
「こちら、婚約者のエドガーです。以前からお話ししていたでしょう」
名前を聞いた覚えはあった。
どの家の、何をしている男かまでは思い出せない。
相手の話を聞いていたつもりでも、自分に関係がないところは、ずいぶん抜け落ちていたらしい。
「ご婚約、おめでとうございます」
トラヴィスは男性へ手を差し出した。
エドガーは礼儀正しく握り返した。
「ありがとうございます。彼女から、あなたには長く親しくしていただいたと聞いています」
女性は以前より穏やかな顔で、その隣に立っている。
「では、ごゆっくり」
トラヴィスは二人から離れた。
案内された窓際の席には、最初から一人分の食器だけが用意されていた。
「お連れ様は、後ほどいらっしゃいますか?」
給仕が尋ねる。
呼べば来ると思っていた女性の顔が、いくつか浮かんだ。
「いや。今日は一人だ」
「かしこまりました」
葡萄酒が注がれ、料理の注文を聞かれる。
誰にも行き先を告げず、帰る時間も約束せず、好きなものを頼める夜だった。
給仕は向かいの椅子を卓の奥へ戻し、一人分のスープを運んできた。




