第十六話 朝食の決まり
屋敷の朝は、主人たちより早い。
かまどには火が入り、パンが切られ、湯が運ばれる。廊下の窓が開けられ、玄関の石床には箒がかかる。主人が新婚でも、牛乳を運ぶ馬車は待ってくれない。
リーベン家で新しい侯爵夫妻として迎える、二度目の朝だった。
「侯爵様がいらっしゃいません」
寝室から出てきたサリーの報告に、エリアは手にしていた布を畳み直した。
「奥様は?」
「お支度をしています。起きた時には、もうお部屋にいらっしゃらなかったそうです」
結婚して二日目の朝、新郎が姿を消した。
言葉だけなら大事件である。
「書斎では?」
「見ました」
「図書室」
「そちらも」
「昨日、本を入れた小客間は?」
「いらっしゃいません」
エリアは少し考え、東の廊下へ向かった。
新しい屋敷で道に迷う者は、たいてい階段を間違える。リーベン家の東階段と西階段は、上階ではよく似ているが、下りた先がまるで違う。
二人がウィルを見つけたのは、一階奥のリネン室だった。
畳んだシーツを抱えたメイドたちに囲まれ、壁に掛かった屋敷の簡単な見取り図を見ている。
「こちらが東階段ですから、食堂へ行くには一度玄関広間まで戻って――」
「侯爵様」
エリアが呼ぶと、ウィルはほっとしたように振り返った。
「よかった。知っている人が来ました」
「何をなさっているのですか?」
「食堂へ行こうとして、ここへ来ました」
事実だけを言えば、そうなる。
「どうして寝室から食堂へ向かって、リネン室へ来るんです?」
サリーが尋ねた。
「曲がるところを一つ間違えたようです」
「三つです」
見取り図を教えていたメイドが訂正した。
侯爵になるには王家の承認が必要だが、自分の家の食堂へ行くには曲がり角を覚える必要がある。後者には、残念ながら書状も印章も役に立たなかった。
「今後は、お呼びください」
エリアに案内され、ウィルはようやく朝食室へ着いた。
アストリッドはすでに席へつき、手紙を読んでいる。
「どこへ行っていたの?」
「リネン室です」
「朝から?」
「食堂を探していました」
手紙から上げた目が、ウィルの顔を見て、その後ろのエリアへ移る。
「道を間違えたそうです」
「三つです」
サリーがもう一度訂正した。
アストリッドは手紙を置き、口元へ指を当てた。けれど肩が小さく揺れている。
「リディ」
「ごめんなさい。でも、階段を下りるところまでは合っていたのよね?」
「そこまでは」
「次から迎えに行きます」
「それでは、侯爵なのに食堂へも一人で行けないことになります」
「今のところ、行けていません」
サリーが椅子を引いた。
新しい主人へ遠慮する期間は、昨日の昼食までだったらしい。
朝食には、焼いたパンと卵、薄切りの燻製肉、煮た林檎が並んだ。ウィルが席へつくと、サリーはその手元を見た。
「侯爵様。上着の内側にあるものを出してください」
「何もありません」
「四角い物が見えています」
ウィルは諦め、本を一冊取り出した。
「読むつもりではなかったんです。ただ、昨日の話の続きをリディに説明するなら、頁を確かめておいた方がいいかと」
「朝食が終わってからお願いいたします」
本は窓際の小卓へ置かれた。
サリーは次に、アストリッドの前へ立つ。
「奥様も、お手紙をこちらへ」
「これは領地からの急ぎのものよ」
「封に『先月分の牧草地報告』とあります」
「よく見ているわね」
「お預かりします」
手紙も本の隣へ置かれた。
「僕だけではないんですね」
ウィルが少し嬉しそうに言う。
「喜ぶところではないわ」
「では、お二人とも召し上がってください」
食卓の決まりは、必ずしも爵位の高い者が作るとは限らない。料理を温かいうちに食べさせたい者の方が強い朝もある。
二人がパンを食べ始めたのを見届けて、サリーはようやく壁際へ下がった。
「今日は、屋敷の中をご案内しましょう」
煮た林檎を取りながら、アストリッドが言った。
「仕事を始める前にですか?」
「仕事を始める前に、仕事をする部屋へ辿り着けるようにしないと」
「それは必要ですね」
ウィルは素直に認めた。
*
朝食後、アストリッドは自分でウィルを連れて屋敷を回った。
玄関広間から東へ行けば応接室と客間、西へ行けば家令室と執務室がある。南側は日当たりがよいため、家族用の居間と朝食室。北側には厨房や配膳室があり、使用人用の階段へ続く。
「この扉は?」
「冬の居間よ。暖炉が大きいから、雪の季節は主にこちらを使うの」
「では、その向こうが庭ですね」
「温室へ出る廊下があるわ。母がよく使っていたの」
アストリッドの手が、扉の取っ手へ触れた。
扉を開けると、細長い廊下の先にガラス張りの温室が見える。今は花の少ない季節だが、窓辺には冬越しをする鉢が並び、庭師が土を替えていた。
「きれいですね」
「春はもっと花が多いわ。母は、朝食の前に必ず一度ここを見ていたの」
「リディも?」
「私は、母について歩いていただけ。花の名前は、今でも半分くらいしか分からないわ」
「では、春になったら一緒に教わりましょう」
ウィルは庭師へ目を向けた。
「誰に聞けばいいかは、もう分かりましたから」
庭師が帽子を取って一礼し、アストリッドは笑った。
良いことを大げさに言わない人間がいる。春になったら一緒に花を見る。ただそれだけの約束を、いちばん叶いそうな形で口にする。
庭師に花の名前を尋ねる侯爵なら、少なくとも知ったふりをして鉢を枯らすことはないだろう。
二階へ戻ると、昨日、本を運び込んだ小客間へ入った。七つの箱はすべて開けられ、壁際へ本が積まれている。
「棚を追加しなければなりませんね」
採寸に来ていたルイスが言った。
「ここへ全部入るかしら」
「現在届いている分でしたら」
現在、という言葉に、三人の目が箱へ向いた。
「第一便と書かれていましたからね」
ルイスは現実から目を逸らさない。
「実家の僕の部屋には、あと三つ本棚があります」
「三つなら、こちらにも入りそうね」
「本棚が三つです」
「本が三箱ではなく?」
「はい」
アストリッドは部屋の壁を見回した。
「隣の部屋も空いていたわね」
「客間として使っております」
「お客様より先に、本が泊まりそうです」
ルイスが採寸した数字を書き留めた。
ウィルの本だけを置くつもりだったが、空いている棚の一段に、アストリッドの本も運ぶことになった。
自室と両親の書斎に分かれていた本から、好きなものを選ぶ。旅の記録が三冊、植物図譜が二冊、昔話の本が一冊。それから、母が何度も読んでいた物語を一冊。
ウィルは最後の本を手に取った。
「これも、昨日の本と版が違いますね」
「分かるの?」
「挿絵を描いた人が違います。こちらの版は、少し古いものです」
「母が娘の頃から持っていたそうよ。私も、読んでもらったわ」
「どんな話ですか?」
「海辺の町で暮らす姉妹の話。大きな事件は起きないの。店を手伝ったり、喧嘩をしたり、妹が勝手に姉の帽子をかぶったり」
「面白そうです」
「借りる?」
「いいんですか?」
「ウィルの本を借りたもの。私の本も読んで」
ウィルは両手で受け取った。古い本なので、その扱いは自然と慎重になる。
「読み終えたら、話を聞かせてね」
「はい。先に昨日の本の四章まで読んでいただければ、僕の方もその頃には」
「三章までではなかった?」
「四章の途中で、最初の村へ着きます」
「また増えたわね」
読む本が増え、話すことも増える。
人が一人、家へ入るというのは、椅子や荷物が増えるだけではないらしい。
昼を少し回った頃、玄関から呼び鈴が聞こえた。
ほどなくして、従僕が小客間へやってくる。
「オイゴット伯爵家から、お荷物が届きました」
「母から?」
ウィルが立ち上がった。
「はい。ご長男様と次男様もご一緒です」
「兄たちまで?」
「お荷物が多いため、運ぶ者が足りるか心配されたそうです」
アストリッドとウィルは顔を見合わせ、玄関へ下りた。
開いた扉の向こうには、オイゴット家の馬車が二台止まっている。兄二人とリーベン家の従僕たちが、荷台から箱を運び下ろしていた。
「母さんが、昨日の荷物へ入らなかった分を早く届けろってさ」
長兄が箱を抱えたまま言う。
「急ぐ必要はないと言ったんだが、部屋を片づけたいから今日中に持っていけ、と」
次兄も、その後ろから顔を出した。
「何箱あるんです?」
ルイスが尋ねる。
「九箱です」
昨日届いた本は七箱だった。
アストリッドは、玄関広間へ次々と並べられる箱を見た。それから隣のウィルを見る。
「増えているわね」
「増えていますね」
いちばん手前の箱には、オイゴット夫人の字で大きく札がついていた。
『第二便』




