第十五話 本の話もしてね
『第一便』
いちばん端の箱に結ばれた札を見て、アストリッドは眉を上げた。
「第一便?」
「僕も今、知りました」
隣に立つウィルも札を見ている。
リーベン家の玄関広間には、十二個の箱と三つの鞄が並んでいた。
箱が次々と運び込まれた時には、オイゴット家の者やリーベン家の従僕が玄関を行き交っていた。その中で受け取っていたため、アストリッドも一つ一つの大きさまでは気にしていなかった。
こうして改めて並べてみると多い。
広いはずの玄関広間が、少し狭くなった。
「全部、ウィルの荷物なのよね?」
「そのはずです」
「本だけで七箱ございます」
箱を数えていたサリーが教えてくれた。
「七箱」
アストリッドは右から左へ数え、また左から右へ数えた。箱の数は変わらない。
「これで第一便なの?」
「母に聞いてみます」
「お義母様は、ずいぶん減らしたとおっしゃっていたわ」
「母の考える『ずいぶん減らす』と、普通の人が考える『ずいぶん減らす』は、少し違うことがあります」
息子がそう言うのだから、長年の実績があるのだろう。
衣類と身の回りの品は寝室へ、本は二階の空いている小客間へ運ぶことになった。書斎に近く、窓も大きい。壁際へ棚を入れれば、かなりの冊数が収まる。
かなり、である。
第一便より後のことは、まだ考えなくてよかった。
箱の蓋を開けると、紙と革の匂いがした。判型をそろえて詰めた箱もあれば、隙間へ薄い本を差し込んだ箱もある。どれも紙を挟み、紐でまとめ、長い道中で角が傷まないよう丁寧に包まれていた。
オイゴット夫人は、息子を送り出す支度をしながら、一冊ずつ詰め方まで見たらしい。
人を大切にする時、その人が大切にしている物まで雑に扱わない。そういうところは、なかなか隠せない。
ウィルは床へ膝をつき、一冊ずつ題名を確かめ始めた。
「これは、こちらです。詩集と戯曲は同じ棚に。あ、これは違います。紀行文ですが、後半に民話の採録が入っているので――」
そこまで言って顔を上げた。
アストリッドが隣へ座り、今言った本を手に取っていた。
「民話が入っているの?」
「はい。北東部を旅した人が、宿や農家で聞いた話を書き留めています。地方によって、同じ話でも結末が少しずつ違うんです」
「どう違うの?」
「ある地方では、森へ入った末娘が銀の鳥を連れ帰ります。けれど、もう少し北へ行くと、連れ帰るのは鳥ではなく老人なんです。その老人が実は――」
ウィルは口を閉じた。
「どうしたの?」
「長くなります」
「いいじゃない」
「でも、片づけの途中ですし」
「片づけながら聞くわ」
アストリッドは本を開いた。何度も読んだらしく、革張りの表紙は角が丸くなっている。余白には、小さな字でウィルの書き込みがあった。
「これは、いつ読んだの?」
「十五歳の時です」
「その頃から、こんなに細かく書き込んでいたのね」
「最初は、地方ごとの言葉の違いを調べたかったんです。学院へ入ってから読み直したら、話を聞いた場所と季節も大事だと分かって、青いインクで足しました」
黒い字の間へ青い字が増え、後ろの頁には鉛筆で小さな疑問符まで書かれている。
「これは?」
「三度目に読んだ時です。語り手が本当に土地の老人だったのか、少し疑わしくなって」
「なぜ?」
「ここだけ、王都で出版された別の本と、言い回しがよく似ているんです」
ウィルは別の箱から一冊を抜き出した。頁をめくる指が速い。目当ての箇所を見つけると、二冊を並べてアストリッドへ示した。
「ほら、ここです」
「……本当ね。言葉の順まで同じだわ」
「旅の途中で聞いたのではなく、この本を参考に書いたのかもしれません。ただ、後から自分の覚えている言葉へ直した可能性もあります」
西の堤から届いた手紙を読んでいる時とは、少し違った。声が弾み、次の頁へ移るたびに説明したいことが増えていく。眼鏡を押し上げる暇まで惜しいらしく、少しずつ鼻先へ下がっていた。
アストリッドは、候補者としてのウィルにも、リーベン家の仕事を覚えようとするウィルにも会っている。
本が好きなウィルを見るのは、これが初めてだった。
「ウィル」
「はい」
「時には、本の話もしてね」
頁をめくりかけた指が止まる。
「聞いてくださるんですか?」
「私、あなたが何を読んできたのか、まだほとんど知らないもの。領地や王宮の話ばかりでは、もったいないでしょう」
「では、この本からでもいいですか。最初の三章は少し長いんですが、四章から旅に出ます」
「三章までは飛ばしていいの?」
「いえ。そこを読んでおかないと、七章で戻ってきた人物が分かりません」
「では、飛ばせないわね」
「はい」
ウィルは嬉しそうに本を差し出したあと、急いで引っ込めた。
「でも、これは書き込みが多すぎます。読むなら、もう一冊あるはずです」
「同じ本を二冊持ってきたの?」
「版が違います」
アストリッドは、まだ蓋の開いていない箱を見た。
本については、尋ねるたびに答えと冊数が増えるらしい。
「奥様、侯爵様。昼食のご用意ができております」
扉のところからサリーが呼んだ。
二人はそろって窓を見た。箱を開け始めた時には朝だったはずなのに、日差しはもう部屋の中央まで届いている。
「今行くわ」
アストリッドは立ち上がり、最初に手に取った紀行文を抱えた。
ウィルも開いていた本を持って立つ。
サリーは扉の前を動かなかった。
「本は、こちらへ置いてください」
「食堂で少しくらい――」
「置いてください」
主人が一人から二人になっても、昼食は温かいうちに食べてもらいたい。
サリーにとっては、爵位よりそちらの方が大切だった。
*
その晩、使用人用の食堂には、婚礼の祝いに出した焼き菓子が置かれていた。
残りといっても、料理人が最初からこちらへ取り分けておいたものである。祝いの日に働いた者が、祝いの菓子を食べ損ねてはならない。
「それで、お二人はどうだった?」
茶を配り終えたエリアが尋ねると、サリーは焼き菓子を一口かじってから答えた。
「お昼は、ちゃんと召し上がりました」
「そこからなの?」
「大事なことです」
書類を読んだまま昼食を忘れる主人が一人でも困るのに、今度は本を読み始める主人まで増えた。しかも二人そろっていると、互いに止めるより先に話が弾む。
「侯爵様がいらっしゃれば、お嬢様も少しはお休みになるんじゃないか?」
向かいに座った若い従僕が言った。
「侯爵様も一緒になって昼食を忘れていました」
「駄目じゃないか」
「ですから、私が見ています」
サリーは二つ目の焼き菓子へ手を伸ばした。二人分を見張ったのだから、二つ食べてもよいということらしい。
「侯爵様は、お嬢様を大切にしてくださるでしょうか」
年若い厨房の娘が、小さく尋ねた。
茶碗へ伸びていた手がいくつか止まった。
結婚式は無事に終わった。王家からの書状も届き、新しいリーベン侯爵は屋敷へ入った。オイゴット家の人々も気さくで、使用人へ無理を言う者はいない。
けれど、結婚式が立派だったことと、その先の暮らしが穏やかであることは別である。長く屋敷に仕える者ほど、それを知っていた。
「今のところは、大丈夫でしょう」
ルイスが茶碗を置いた。
「今のところ、ですか」
「先のことまで分かったように言う家令は、信用してはいけません」
厨房の娘は目を丸くし、料理人が笑った。
「ですが、侯爵様は、分からないことを分からないとおっしゃいます。誰に聞けばよいかも尋ねる。お嬢様がお決めになったことを、自分の手柄のように話すこともありません」
「泥だらけの長靴も、ご自分で脱ごうとなさっていました」
エリアが付け加えた。
「それは普通じゃないのか?」
「玄関の敷物の上で脱ごうとなさいました」
「ああ」
「ですから、脱ぐ場所は教えました」
新しい侯爵には、まだ覚えることが多い。
「お嬢様も、今日はよく笑っていらしたわ」
エリアが焼き菓子を割った。
「本のお話をなさっている侯爵様を、ずっとご覧になっていたの。お嬢様が一冊借りたら、読む順番を三冊分説明しておられました」
「一冊じゃないのか」
「三冊目まで読むと、最初の本について別の見方ができるそうです」
料理人がしみじみとうなずく。
「酒と賭け事よりはいい」
「比べるところが低すぎます」
エリアがすぐに返し、今度は皆が笑った。
先代夫妻が亡くなってから、この食堂でこれだけ声が重なったのは久しぶりだった。
屋敷には、主人が悲しんでいる時にも火を起こし、食事を作り、床を磨き、届いた手紙を運ぶ者がいる。その者たちもまた、悲しんでいる。だから新しい笑い声は、主人たちだけのものではなかった。
茶を飲み終えると、それぞれが夜の仕事へ戻っていった。火の始末をする者、戸締まりを確かめる者、明朝の支度をする者。サリーは二階へ上がる前に、寝室へ本を持ち込んでいないか見てくると言った。
「そこまで見なくてもよいのではないか?」
「五冊ありました」
戻ってきたサリーの腕には、本が五冊積まれていた。
「全部、侯爵様のか?」
「お嬢様のものが二冊です」
似た者同士を選んだのか、夫婦になってから似たのか。まだ一日目なので、その判断は早い。
ルイスは最後に玄関広間の灯りを落とした。
階段脇には、先代侯爵夫妻の肖像画が掛かっている。夫人の胸元を飾っているのは、昨日アストリッドが婚礼衣装につけていたものと同じ黒玉だった。
「新しい侯爵は、少々、本が多い方のようです」
ルイスは、絵の中の二人へ報告した。
「お嬢様は、本日も昼食を忘れかけました。ただ、一人ではございませんでした」
二階から、アストリッドの笑う声が聞こえた。
それに答えるウィルの声は小さく、何を言ったのかまでは分からない。
「どうか、お二人を見守っていてくださいませ」
ルイスは肖像画の前で一礼し、二階へ上がった。




