第十二話 夜会もですか
西の堤の補強が終わり、北部から最初の雪の知らせが届いた頃、王宮から一通の招待状が来た。
アストリッドとウィルフレッドの婚約は、すでに王家へ届けられている。服喪中のため公の祝いは控えていたが、次期侯爵となる者を、いつまでも王宮へ紹介しないわけにはいかなかった。
ルイスが、招待状と当日の予定を机へ置く。
「午後三時に王宮へ入り、侍従長の案内で国王陛下へご挨拶。その後、王族と主だった貴族を交えた晩餐会となります」
「分かりました」
「晩餐会の後は、夜会です」
ウィルフレッドの眉が上がった。
「夜会もですか」
「はい」
「国王陛下へご挨拶するだけでは?」
「国王陛下は、ご挨拶のためだけに晩餐会を開かれません」
「晩餐会までだと思っていました」
ルイスが予定表の次の行を指した。
「婚約後、初めてお二人で出席なさる場ですから、最初の一曲はご一緒に踊っていただきます」
ウィルフレッドは予定表を持ち上げ、裏まで確かめた。
「書いてありますね」
「表だけで十分かと存じます」
「僕は、侯爵になる覚悟をしたつもりでした」
「まだなっておられません」
「では、覚悟の段階から足りなかったようです」
口元を引き結んだウィルフレッドを見て、アストリッドがわずかに笑った。
「踊れないの?」
「習いました」
「踊れるのですね」
「最後に踊ったのは、姉が結婚する前です。姉の裾を踏み、兄に交代させられました」
「おいくつの時?」
「十六です」
「それから一度も?」
「踊らずに済む生活は、案外簡単に送れます」
子爵家へ養子に入る話が進んでいた頃も、ウィルフレッドは領地にこもって本を読むつもりでいた。大学を離れてからは社交の場へ顔を出すことも減り、結婚相手を探す必要もなかった。
本人の知らないところで縁談をまとめられた結果、踊らずに済む生活は終わった。
「では、練習しましょう」
「リディが教えてくれるのですか」
「私も侯爵家の仕事を教わっているでしょう。交代です」
その日の午後、屋敷の小広間から椅子が運び出された。
エリアがピアノの前へ座り、サリーは壁際で待っている。待っているだけのはずだが、顔には期待が出ていた。
「見ているの?」
ウィルフレッドが尋ねた。
「何かあった時に、すぐお手伝いできるようにです」
「何が起きると思っているの?」
「転ぶとか」
「転びません」
「裾を踏むとか」
姉の件は、すでに屋敷中へ伝わっていた。
アストリッドは、練習用の裾が短いドレスを着ている。それでもウィルフレッドは、彼女の靴と床ばかり見ていた。
「顔を上げて」
「足が見えなくなります」
「普通は、相手の足を見ながら踊りません」
「どうやって踏まないのですか」
「覚えるのよ」
アストリッドが右手を差し出す。
ウィルフレッドはその手を取り、もう一方の手を腰へ添えた。触れる場所を何度も習ったらしく、位置だけは正しい。
ただし、肘から先に力が入りすぎている。
「ウィル。私を運ぶわけではないのよ」
「分かっています」
「持ち上げる必要もありません」
「持ち上げてはいません」
「そのままだと、いずれ持ち上がります」
エリアが鍵盤を鳴らした。
ウィルフレッドは小さな声で数を取り、右、左と足を運ぶ。一周目は無事だった。二周目も、アストリッドの裾は踏んでいない。
三周目でようやく顔が上がった。
眼鏡の向こうの目が、アストリッドの顔へ向く。
「できるではありませんか」
「まだ三周です」
「三周できれば、四周目もできます」
アストリッドの口元がほころぶ。
ウィルフレッドの足が、半拍遅れた。
「今、間違えましたね」
「話しかけられたので」
「夜会では、踊りながら話します」
「そんな余分なことをするのですか」
「黙ったまま回り続けるほうが、気まずいでしょう」
「僕は、足元を間違えないだけで精一杯です」
「では、私が話します」
「返事は?」
「余裕がある時だけで構いません」
これなら何とかなりそうだと、ウィルフレッドの眉間から皺が消えた。
練習は王宮へ出向く前日まで続いた。
当日、アストリッドは銀灰色のドレスを選んだ。服喪中のため装飾は抑え、胸元には母が使っていた黒玉の飾りを留めている。
ウィルフレッドは黒の礼装に白い手袋をつけ、予備の眼鏡も持った。オイゴット夫人が、自分で上着の内側へ入れたものである。
「膝をぶつけても、眼鏡は壊れないと思います」
「テーブル以外へぶつかるかもしれないでしょう」
「王宮で何にぶつかるのですか」
「お前の場合、行ってみなければ分からないわ」
母親の心配には、長年の観察が含まれている。
王宮では、まず国王へ挨拶をした。
ウィルフレッドは用意していた言葉を途中で忘れることもなく、礼の角度も間違えなかった。アストリッドが隣にいることを確かめてから、自分がリーベン家の一員として努めることを述べる。
晩餐会では、向かいに座った伯爵の名を一度で覚えた。
隣の夫人が北部の織物工房について話すと、先月届いた報告にその夫人の名があったことも思い出した。
「工房へ、新しい織機を寄付なさった方ですね」
「まあ。ご存じでしたの?」
「報告書で読みました」
夫人の目尻が下がった。
「それなら、寄付した甲斐がありましたわ」
ウィルフレッドは軽妙な話で人を楽しませることはできなかったが、相手がしたことを覚えていた。話した側にとっては、そちらのほうがうれしい場合もある。
晩餐会のあと、広間に楽団が入った。
アストリッドとウィルフレッドが中央へ進む。周囲の視線が集まると、ウィルフレッドの口元が少し固くなった。
「練習どおりでいいのよ」
「床が違います」
「平らなのは同じです」
「人が多いです」
「ぶつかるほど近くには来ません」
「そう願います」
曲が始まる。
最初の一歩は合った。
二歩目も、三歩目も。
「一、二、三」
アストリッドが小さく数える。
「聞こえています」
「返事をする余裕があるのね」
「少しだけ」
ウィルフレッドが顔を上げた。
アストリッドの目が笑っている。今度は足を遅らせず、そのまま次の動きへ入った。
「もう数えなくても平気?」
「数えてください」
「聞いていないようですけれど」
「聞いています。リディの顔も見ています」
アストリッドの頬が、ほんの少し赤くなった。
「それで間違えないなら、結構です」
一曲を終え、二人は揃って礼をした。
裾も踏まず、誰にもぶつからず、眼鏡も無事だった。オイゴット夫人へ報告すべきことが三つもある。
帰りの馬車で、ウィルフレッドは襟元を緩めた。
「侯爵になる仕事に、夜会まで含まれているとは思いませんでした」
「これからもありますよ」
「どのくらい?」
「季節によります。王宮の祝宴、議会の晩餐会、慈善会、領地の収穫祭。それから、ほかの家の結婚式も」
ウィルフレッドの眉間へ、また皺が戻った。
「一覧にしてもらえますか」
「ええ。分からないことを書く手帳へ貼れるように」
「助かります」
翌朝、オイゴット夫人の荷物一覧には、夜会用の礼装が三着追加された。




