第2話 白竜は、名前を呼んでほしかった
『白竜、と呼ぶな』
最初に言われたのは、それだった。
黒い鎧の男が横に立つ。
彼の名はエリオット・グレイ。リースの魔獣騎兵隊を率いる隊長だという。
「では、何とお呼びすれば」
『オル。百四十三年、それで生きてきた』
「オルさん」
『さん、とは何だ』
「初対面の相手を大切に呼ぶ時、つけます」
金の目が、細くなった。
怒ったのかと思ったが、彼は鼻から小さく息を出しただけだった。
『よい』
「名前はオルだそうです」
隊長へ伝えると、彼は竜へ顔を向けた。
「オル。剣を抜かずに話したい」
その声を、わたしが渡す。
技能を使っている間は、わたしの言葉も、選んだ魔獣へ伝わる。
人が真似して同じ音を出しても、魔獣語にはならない。
『先に抜こうとしたのは、そちらだ』
「そう言っています」
「その通りだ。人を退かせる必要があった」
隊長は、言い訳を増やさなかった。
わたしは、その返事も渡した。
オルは地面へ伏せた。
爪の間から、石の粉が落ちる。
『首の中で、ずっと鳴っている。鐘が鳴ると、何倍にもなる』
わたしは首の環を見た。
金属は鱗に食い込んでいない。帯の厚さにも余裕がある。
締め付けの痛みだと、早合点するところだった。
「環そのものの内側ですか。身体の中ですか」
『青い石の所。人間の耳には鳴らぬのか』
わたしには、彼の発した声しか聞こえない。
魔力の音まで一緒に聞ける技能ではない。
そのことを話すと、彼は少しがっかりした顔をした。
『不便だな』
「はい。だから、もう少し説明してください」
隊長が、後ろの騎士へ手を上げた。
ほどなく、茶色い上着の女性が来た。大きな鞄を持っている。
「魔獣医のニナです。首を見る許しは、取れています?」
「これから聞きます」
オルは、ニナの手を見た。
鞄から出た器具には、古い噛み跡がある。
『それは、噛まれた手か』
「器具です。ご本人の手ではありません」
『下手な者なら、嫌だ』
わたしは、そのまま伝えた。
ニナさんは、片眉を上げた。
「じゃあ、下手かどうか、まず見てもらおう」
彼女は手を触れず、首の左右を見比べた。
熱を測り、鱗の端を確かめる。
いつ、誰が、環を付け替えたかは、飼育係に聞いた。
わたしは、オルに触れる前の言葉と、触れたあとの訴えを渡す。
『左ではない。もう一枚、下』
ニナさんの指が止まる。
「ここ、少し熱い。傷を治す前に、環を外して調べたい」
隊長は頷いた。
これは鎮声環という信号の術具だ。魔獣の感じる響きを和らげ、人との合図を伝える。
思考を縛るものではないが、相手が拒んでも付けたままにする扱いは、変わらなかったらしい。
「外す間、炎を吐かずにいてくれますか」
『痛くなければな』
「痛んだら、先に言ってください。そこで止めます」
白い顎が、一度下がった。
留め金が開く。
隊長が環を支え、ニナさんが鱗へ当たらない向きに引いた。
わたしは呼吸を止めそうになって、ゆっくり吐いた。
環が、離れた。
『ああ』
オルは、それだけ言った。
長く閉じていた金の目を、今度は自分から閉じる。
翼が畳まれ、広場の端まで出ていた尾が、身体の横へ戻った。
『静かだ』
誰かが、槍を下ろした。
わたしも、その場へ座りたくなった。
技能を使い続けたせいで、耳の奥が重い。魔力の減り方を、ようやく思い出した。
「少し、休ませてください」
隊長は、騎士が持ってきた椅子を寄せた。
わたしは座り、水を飲んだ。水だけで魔力が戻るわけではないが、喉が楽になる。
ニナさんが、オルの首へ薬を塗る。
原因はまだ、環のどこかだということしかわからない。
隊長は、外した環を布の上へ置いた。
「捨てずに調べる。君の名を、まだ聞いていなかった」
「フィーナ・ベルスです」
「フィーナ。助かった」
花の蘇らなかった手に、木の水筒があった。
それを握る指の震えが、少しずつ止まった。




