第1話 聖女にはなれませんでした
枯れた薔薇は、枯れたままだった。
わたしが両手をかざしても、花弁は一枚も起き上がらない。
向かいの席で、ローデリック副司祭がペンを置いた。
「フィーナ・ベルス。聖女候補の登録を、本日で取り消す」
窓辺には、先ほどマリアさんが蘇らせた薔薇がある。
赤く、瑞々しい花だった。
何度練習したかは、この場では採点されない。
「四年も置いてやったのに、結局、治癒の一つも使えなかったな」
「はい」
「その〈通詞〉とやらで花に頼めばよかったのではないか」
脇の書記が小さく笑った。
わたしは、手を下ろした。
花は、喋らない。少なくともわたしには。
母が病気になった時、熱を下げてくれたのは巡回の聖女様だった。
だから、二十歳でこの神殿へ来た。
二十四歳の今も、同じことはできなかった。
「候補者の部屋は空けるように。今日中だ」
「馬舎の引き継ぎは、どうしますか」
「世話くらい、誰にでもできる」
そう言われて、やっと、少し腹が立った。
毎朝、仕事の始まる一時間前に起きていた。
新しい馬がどの桶から飲まないかも、雨の日に誰が脚を痛がるかも、わたしは書き残している。
それを誰が読むかだけでも決めてほしかった。
けれど、最後まで頼んで回る理由は、もうなかった。
「世話の記録は、厩番の机へ置いておきます。お世話になりました」
神殿の白い服を脱ぐと、鞄は意外に軽かった。
給金から貯めた銀貨と、自分の服が二着。母の手紙。
髪を結ぶ紐が、一本見当たらない。
四年も住んだ部屋で、なくしたものを全部探す気にはなれなかった。
港町リースの風は、神殿の門を出た途端、塩辛くなった。
北の家へ戻る馬車は明日だ。今夜の宿を探そう。
そう思った時、港の方で、鐘が鳴った。
音に重なって、悲鳴が聞こえる。
『やめろ。頭が割れる!』
わたしは足を止めた。
道を行く人たちは、悲鳴の方を振り向いていない。
代わりに、海沿いの広場から上がった白い翼を見て、逃げ始めた。
白竜だ。
大型の荷車を二台並べたほどの身体。首には太い金属の環がある。
翼が石畳を擦り、青白い炎が口の端から漏れた。
黒い鎧の騎士たちが、その周囲へ槍を並べていた。
「人を下げろ! 弩を構えろ!」
先頭の男が、低い声で命じた。
灰色の目が竜を追う。腰の剣には、すでに手が掛かっていた。
『鳴らすなと言っている! 聞こえないのか!』
白竜が、鐘のある塔へ頭を振った。
人の耳には、獣の咆哮にしか聞こえないらしい。
わたしは十歳で、前世を思い出した。
日本で二十七歳まで生き、動物園の飼育員をしていた。事故で死んだ日のことは、今も曖昧だ。
十五歳で授かった〈通詞〉は、普通の馬にも犬にも働かない。
魔獣だけが、言葉を持ってわたしに話す。
神殿の馬舎には、魔獣はいなかった。
こんなに大きい声を聞くのも、初めてだった。
「鐘を止めてください!」
気づけば、叫んでいた。
黒い鎧の男が振り向く。
「帰還鐘だ。船へ合図を送っている」
「あの竜は、鐘を痛がっています」
「竜がそう言ったのか」
「はい」
笑われると思った。
男は、わたしの顔と竜の動きを見比べた。
竜が塔を向く。鐘が鳴り、首の環が青く光る。
そのたびに、白い爪が石を掻いた。
「塔へ伝令。鐘を止めろ。船には旗を使え」
騎士が一人、走った。
槍の列は解かれない。
それでも、弩を撃つ合図は出なかった。
最後の鐘が、海の上へ消えた。
白竜は、長い息を吐いた。
『まだ痛い。だが、少し静かだ』
わたしは男を見た。
「まだ首の辺りが痛むそうです。話をさせてください」
「近づけば、噛まれるかもしれない」
「わかっています。先に、近づいていいか聞きます」
男は剣から手を離した。
「三十分。私もそばに立つ」
わたしは、十歩ほどの距離まで進んだ。
そこから、一頭へ意識を向ける。
大きな金の目が、わたしを見た。
「こんにちは。首を調べてもいいですか」
竜が、口を閉じた。
『……人間が、返事をした』
今日、わたしは聖女になれなかった。
その帰り道で初めて、四年間の外側へ声が届いた。




