第11話 仕事のない午後に、会いたい
神殿の帳面の確認には、時間が掛かっていた。
その間も、店には、小さな仕事が来た。
渡し船に乗りたくない水獣。翼の風で新しい旗を倒してしまう鳥獣。
どちらも、相手の気持ちを聞いたあと、人間側の工夫が必要だった。
毎日、わたしが隣へ立てるわけではない。
決まった合図で話せるよう、飼い主の方が練習する。
相談室は、少しずつ、そのための店になっていった。
休みの午後、エリオットさんと海岸の道を歩いた。
帰還鐘の塔は、岬の向こうで見えない。
フチは、今日こそニナさんの家で留守番だ。
「本当に、仕事ではありませんね」
「今日は、魔獣を連れてきていない」
彼は両手を広げて見せた。
鎧も、剣もない。
こんなに荷物のない彼を見るのは、初めてだった。
波の上を、普通の鳥が飛ぶ。
声は、言葉にならない。
わたしは技能を使わず、ただ潮風を聞いた。
「君は、どうして聖女になりたかった?」
彼が聞いた。
わたしは、母の病気の話をした。
助けてくれた人の服を、何年も覚えていたこと。
自分にもできるようになりたいと思ったこと。
前世の飼育員だった話は、心の中に置いた。
あの頃も、獣医が救う命を、そばで見ていた。
羨ましいと思うたび、自分の仕事が小さく見えた。
二度目の人生でまで、似た場所へ立っていたのかもしれない。
「なれなかったと書いた手紙へ、返事が来るのが、まだ少し怖いです」
エリオットさんは、歩く速さを落とした。
「私も、家へ帰るのが嫌だった年がある」
「隊長になる前ですか」
「二十五の頃だ。海の巡回で判断を間違え、隊員と騎獣に怪我をさせた。家へ帰れば、失敗を聞かれると思った」
彼は、海の方を見た。
もう四年前になる。二十九歳なのだと、その時に知った。
「聞かれたのですか」
「兄には聞かれた。父は、先に食事へ座れと言った」
その言い方で、少し笑った。
わたしも、実家の食卓を思い出した。
母は、返事をどう書くか、迷っているだけかもしれない。
波で濡れた石を避けようとした時、靴が滑った。
エリオットさんが腕を支える。
わたしは立ち直ったが、彼の手が、すぐには離れなかった。
「この先も、持っていていいか」
手を、という意味だった。
わたしは、彼の指を見た。
「はい」
今度は支えられるのではなく、自分から握った。
彼の手が、わたしの手を包む。
仕事で見ていた時とは、同じ大きさなのに、違った。
どう持てば自然なのか、最初は少し考えた。
何歩か歩くうちに、指の場所が決まった。
岬の売店で、冷めた甘いお茶を買った。
片手では飲みにくく、手を離す。
そのあと、どちらからともなく、もう一度繋いだ。
「仕事がある日でなくても、会いたいと思っていた」
彼の声が、風の中で届いた。
わたしは顔を上げた。
「お店へ、何度も来てくださったのは……」
「理由を探していた時も、ある」
耳が、赤くなる。
エリオットさんは、笑って誤魔化さなかった。
「また、今日みたいに歩きたい」
わたしは頷いた。
その返事を、今度は誰へも訳さなくてよかった。
帰り道、髪留めの花が、風で揺れた。
家のことも、仕事のことも、全部が解決したわけではない。
それでも、今日は、彼の隣にいたいと言える午後だった。




