泉の青い夢
一度は深淵に落ちたディーンの意識は緩やかに回復しつつあった。
どれほどの時間が過ぎたのか本人には知る由もない。
ただ、身体には夢見心地のような穏やかさと、凍えるように冷たい水がまとわりついていた。
(ここは……?)
あたり一面には白い霧が立ち込めており、手の届く範囲しか見ることはできない。
だた、そこが泉のほとりであることと、自分の姿が子供の頃のものになってしまっていることは分かった。
突拍子もない状況だが戸惑いはなかった。
それは幼い頃からディーンが幾度なく見てきた夢の光景だった。
(そうか、またお姫様に会いたくなったのか)
にわかに、前方の白のベールの向こうから熱気が漂ってきて、ディーンの身体を撫でた。
この先に自分が求めるものがあると確信して、ディーンは熱の発する方へ向かって歩きだした。
ただ自分が思うより足は重く、もんどりうって大きな音とともに派手に水飛沫を散らしてしまった。
音は一つではなかった。
前方で何かがディーンに反応し、水面を激しく波立てた。
とっさにディーンの身体が強張る。相手も警戒したようで、空気が緊迫した。
お互いに息をのみ、微かな水音だけの沈黙の時間が訪れる。だがそれは一瞬のことだった。
「なんだ、君かあ。脅かさないでくれよ。悪い奴らでも来たのかと思っちゃったじゃないか」
霞の向こうから聞こえたのは、ディーンだけが知っている人物の声だった。
「いや、大人に隠れてこっそり何度もやってくるんだ。悪い子かな?」
「ごめんなさい。でも、やっぱりあなたに会いたくなって。来ちゃいけなかった?」
「いけないなんてことはないよ。ただ、君も物好きだな」
「物好き? なにかおかしい?」
「僕の姿は見ただろうに、君は僕が怖くないのかい? 不気味に思わないのかい?」
「怖いわけないよ。とてもきれいなんだから」
「そうかなあ? 僕の本来の身体とはかけ離れてるんだけど、人の感覚はよくわからないな。でも君が言うのなら、素直に褒められておこう」
ディーンの顔は紅潮し、鼓動も速まっていき、身が縮こまっていく。
少年のそんな様子を感じてか、向こうはまた微笑んだ。
「ふふっ。さあ、おいで、小さな騎士君。そこじゃ綺麗な僕が見えないだろう?」
その言葉に導かれるままに、ディーンは霧の中を進んでいく。程なくして白いベールを抜けた先に、声の主がいた。
そこに佇んでいたのは青い竜だった。
その竜の名前は教えてもらえなかったが、ディーンはこう呼んでいた。
「……お姫様」
子供の幼い声ではなく、変声期などとっくに終えた青年の声で自分がその言葉を発したのを認識して、ディーンの意識は覚醒した。
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瞼を開けたディーンの目に最初に映ったのは、いつもの朝の光景とは違う、清潔感のある部屋だった。
寮の寝室ではない見知らぬ場所だが、すぐに診療所であることに気づき、自分の置かれた状況を悟った。
「よう。気がついたようだな」
「……隊長」
傍らから声が聞こえ、ディーンが体を起こすと、傍らの椅子にヤナクが腰かけていた。
説教とは違って、ディーンを気遣うような穏やかな声色だ。
「起き上がって大丈夫か? どこか痛むところはないか?」
「いえ、特には」
「そりゃよかった。大した回復力だと医者も感心していたぞ。それとも、お守りの加護のおかげかな?」
ヤナクが指さした先に、白い竜の像とディーンのロケットが並んで置かれていた。
「あの子、来てたんですか?」
「やはり気が付かなかったか。なんせ四日も眠り続けていたからな」
「そんなに……」
「酷いもんだったぞ。ここに担ぎ込まれた時は顔は土留め色でまるっきり生気がなくて、かと思えば次の日には酷くうなされて」
自分の病状の説明ではあるが、ディーンには全く実感がない。城壁で突っ伏した後、気づいた時には夢の中、その直後が今なのだから。
「そんな有様だから、あの子も竜王様の像を置いて行ったんだよ。竜王様、騎士様を助けてくださいってね」
ヤナクにしては珍しく、騎士呼ばわりに嫌味がなかった。
「それからは落ち着いたようでな。しかしまたぶり返すんじゃないかと心配だったんだが……」
ここまで穏やかに微笑んでいたヤナクだが、不意に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「可愛い寝言を口にしているのを見て、俺も安心できたよ」
「寝言? ……あ!」
「お姫様と騎士とは、ベタだがいじらしいな」
夢の内容を見透かされていたように感じて、恥ずかしくてディーンの顔が赤くなっていく。
「隊長っ!」
「よせよせ! 安静に、安静に。な?」
恥ずかしさをごまかすように、ディーンはヤナクに食ってかかる。
だが唐突に「あっ?」と、なんとも情けない声を出したかと思うと、その勢いがなくなった。
「どうかしたか? やはり何処が具合が悪いのか?」
「いえ、別に……」
ディーンの態度がどことなくよそよそしく不自然なものへと変わる。腹の下のあたりに嫌な感触があるのに気づいてしまったのだ。
ヤナクはピンときたらしく、片方の眉を吊り上げた。
「処理してくれる人を呼んだほうがいいか?」
「なっ!? 余計なお世話だ!!」
「フッ、わりぃわりぃ」
笑って謝るヤナクではあるが、ディーンをからかいたくなる気質は変わらないらしい。
「冗談はさておき、お前が目を覚ましたのを伝えねえとな」
ヤナクはそそくさと病室を出て行った。
「まったくもう……」
部屋に独りになった後、ディーンはため息をついた。
隊長も困ったものだが、それ以上に自分が情けないと思ったからだ。
「あんな夢を見たからってさ」
脳裏には泉に佇む青い竜の姿が浮かんでいた。
夢の中では鮮明だったはずのその姿も声も、今はすっかりとぼやけて曖昧になってしまっていた。
だがその特徴は思い出せる。
青い鱗に覆われた四肢と指先の鋭い爪。飛膜を持つ翼に、頭の角、そしてしなやかな尻尾。
そこまでは竜らしい姿。
だが最大の特徴は、とてつもなく奇妙なものだった。
「いくらあんな格好だったからって……」
その竜の姿を思い起こすたびに、ディーンは興奮を覚え、同時に自分を不甲斐なく思った。
無理からぬことだった。
なぜならあの竜は、人間の女性の姿をしていたのだから。
青く長い髪と、黄金色の輝きを湛えた瞳。
鱗の冷たさと硬さとは対照的に、柔らかさとぬくもりを感じる胸や腹。
その見た目は、竜の要素を持った女の人と呼ぶのが正確かもしれない。
ディーンはその竜を「お姫様」と呼んだ。
それはディーンの夢の産物などではない。
子供の頃に実際に出会った存在で、あれが現実であったことは、ロケットの中の竜鱗と竜晶が証明してくれている。
お姫様に魅入られたディーンは、それ以来何度も繰り返しお姫様の夢を見た。
「まったく、俺がなりたいのは竜騎士だぞ。お姫様をやらしい目で見てんじゃないよ」
苦笑をしながらつぶやいた後、ロケットを手にして瞑目した。
「俺、あなたの騎士になるには、まだまだ遠いみたいだ」




