廃墟のポートレイト
翌日、朝と呼ぶには遅く日が高くなった時間に、ブリジットは屋敷の一室を、恐れ恐れノックした後で開けた。
「お、おおお、おはよう」
『おはようございます、お嬢様』
窓際に開いたまま立てかけられていたスワースが答えた。
だが、その部屋にいるもう一人、横一文字の傷の男はベッドに寝転がされたままで、挨拶は返ってこなかった。
「様子はどう?」
『今は体温も下がり、大分落ち着いているようです』
(それはよかった)
スワースの言う通り、男は安らかに寝息を立てていた。
「もう食べられない……」
男のベタで可愛い寝言が聞こえた。
「いらない……もう無理だよ……」
筋骨隆々としている上に物騒な傷跡と厳つい大人の男のくせして、その穏やかな寝顔は少年のような幼さがあった。
しかし、次の瞬間には、男の息が荒くなり、明らかにうなされ始めた。
「やめろ……。いやだ……。やめてくれ……!」
見ている夢が、穏やかなものから突然悪夢に変わりでもしたのだろうか。
さすがに心配になり、ブリジットが男の顔を覗き込んだその時だった。
「……友達の肉なんて食べたくないんだッ!!」
男が叫んだかと思うと、上体が弾けるように起き上がった。
「きゃっ!?」
いきなりのことに驚いたブリジットは、ひっくり返って尻餅をついて、目が点になった。
男はしばらく激しく息をついて、険しい目をしていたが、やがて周囲を見回すと、自分が見知らぬ場所にいることにきょとんとした様子を見せた。
「あれ、ここは? ん、あんたは……?」
「きの、昨日、た、助け……」
「ああ、そうだった。ありがとうございます」
「ど、どいたしまして」
ブリジットは特に男に怯えたわけではないが、人見知りの性格故にどもる言い方になった。
そのたどたどしさが緊張をほぐしたのか、男の顔が和いだ。
同時にグウゥゥゥ、と男の腹の虫が盛大に鳴った。
「そういやここ二日、食い物にありつけてなかったっけ……」
「じゃあ、これいる……? 朝ごはん……」
ブリジットが持ってきていたパンを差し出すと、男は「ありがとう」と礼を言い、パンを受け取ってほおばり始めた。
その様子を見て、ブリジットはひとまず安堵した。
この男はブリジットの女の手には重く、あの後男をこの部屋に引きずり込むのにはそれなりに苦労したのだから、元気になってもらわないと報われない。
それにこの男は、泥棒だとか悪い人間には見えないことも安心できる要因だった。
「あの、な、名前は……?」
「ラグナだ。あんたは?」
「……ブリジット=シューマッカー」
「シューマッカー……?」
その姓を聞いてラグナはいったん首を傾げて「うーん?」と呻った。
「なっ、何か?」
「いや、なんでも」
「……そう。それで、あんなところで何を――」
ラグナと受け答えを続けながら窓際の“本”に手を伸ばしたブリジットだが、唐突に言葉が止まった。
彼女の視線の先、“本”のパネルにこんな文字が映っていたからだ。
【お嬢様、そろそろ時間ですがどうしますか?】
スワースが声の代わりに文字でブリジットに告げたのだったが、その一文にブリジットは慌てた様子を見せた。
「あ、あの! 私これから用事、で、出かける!」
「出かける? じゃあ俺が居ちゃ困るか」
ブリジットは首をぶんぶんと横に振る。
「休んでていい。それに私以外お屋敷に誰もいない。出ていくにしても、気にしないでいい……」
そう言うとブリジットは慌ただしく部屋を飛び出していく。
その様子に呆気にとられながらも、ラグナはブリジットの背中に向けて言葉を投げかけた。
「いろいろとありがとう。それとパン、ごちそうさま」
+
部屋を出て扉を閉めた後、ブリジットは大きく深呼吸をして息を整えた。
『何も急ぎの用ではないのですから、別に話を打ち切る必要はなかったのでは?』
「いや、だって……。知らない人と話すの、これ以上、きつい……」
『人見知りは易々と治りませんね。私とは何も問題なく会話なさるのに』
「スワースは例外だよお」
『まあ私は人じゃないですしね』
「もう、そういうわけじゃないよお」
スワースの冗談にブリジットが笑う。
『それはさておき、あの人を残してよかったのですか?』
「悪い人じゃなさそうだし、泥棒じゃないでしょ。それにこのお屋敷にはもう、誰かが盗る物なんて残ってないよ」
ブリジットはまたフフっと笑うが、今度はその顔には寂しさがあった。
『その点については、私も今はあまり心配していません。それより……』
「何が気になるの?」
『私は夜の間ずっと傍らで、あの男の身体を看ていましたが、何か不可解です』
「何かって、何」
『お嬢様もあの時、あの男に触れて熱を感じたはずです。尋常ならざる、人間の体温とは思えない熱を』
「うん。喩えじゃなく火傷しそうなくらいだった。で、それが何か?」
『いえ、本当に人間なのかと。十分な知がないので何とも言えませんが』
「はあっ。それ、あの人には言ってないよね? 失礼だと思うよ」
ブリジットはスワースをたしなめはするが、同じ疑問は抱いていた。
その上、昨夜の爆音や振動の不可解な痕跡の正体は、まだわかっていない。
しかし自分の頭で考えても、仮説一つ浮かんでこない。
「お姉ちゃんなら、何かわかったのかなあ……?」
その言葉は、ブリジットが考えに詰まった時に出る口癖のようなものだった。
+
ブリジットが出かけてから小一時間して、ラグナはベッドから起き上がり、手足や首を体操のように動かした。
「正常っと」
自分の身体が特に具合悪くはないことを確かめると、これからどうするかを考える。
ブリジットは気にしなくていいと言ったが、このまま礼もせずに出ていくというのはばつが悪い。
(お世話になった人にはちゃんと礼を返せとグリオスは言ってたし)
ひとまずはこの屋敷のことを調べようと、自分が寝かされていた部屋を出て、屋敷の廊下を歩いてみる。
途中でいくつかの部屋を覗き、窓から庭園を眺めてみた。
その結果ラグナが抱いたのは、「あの子は本当にここに住んでいるのか?」という疑問混じりの感想だった。
部屋という部屋は家具や道具類が中途半端に残されたまま放置されて荒れ放題で、庭園は手入れがされず草木が伸び放題だった。
人の気配も生活感もまったくなく、館の有様はほとんど廃墟と言って差し支えない。
本当はブリジットは幽霊とかじゃあないだうろか、などと愚にもつかない考えもよぎるくらいだ。
ブリジットの言う通りに人の姿を見つけられないまま、ラグナは玄関へとやって来たが、そこで視界の隅に人間の姿が見えた気がした。
「あっ、お邪魔してます」
泥棒をしているみたいで後ろめたいから一応挨拶はするが、返事はなかった。
それも当然、それは人ではない。額縁に入れられ壁に飾られた、ある家族の肖像画だった。
描かれているのは片眼鏡の老紳士、その傍らの椅子に座る壮年の女性、そしてブロンドのロールヘアの少女と、少女と手をつなぐ幼子の計四人の人間だった。
その中でラグナの視線は縦ロールの少女に向いていた。その少女が自分のよく知るとある人物に瓜二つだったからだ。
「まさか教授!?」
目を剥いて食い入るように少女を見る。その姿は自分の知るよりも幾分か若かったが、当人であることには確信が持てた。
(そうか。ブリジット=シューマッカーって言ってたな。なら間違いないな。するとこの小さな女の子はブリジット?)
ひとしきり肖像画を鑑賞した後、ラグナは“教授”こと縦ロールの少女をキッと睨んだ。
あたかも友の仇を見るように、怒りと憎しみを込めて――。




