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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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9/30

観察していたもの


池の北側の林で見つかった古い採集用トラップは、その日のうちに鑑識へ運ばれた。池尻と昆陽も昆虫館へ戻り、館長の立ち会いのもとで詳しい調査が始まる。机の上に置かれた器具は、年月を感じさせる錆びや細かな傷が目立っていた。それでも、形はほとんど崩れていない。館長は白手袋をはめ、慎重に器具を持ち上げた。


「これは昆虫を採集するというより、観察用のトラップですね」


昆陽が覗き込む。


「違いあるんか」

「あります」


館長は静かに頷いた。


「普通の採集用なら、昆虫が集まりやすい方向へ設置します。日当たりや花の位置を考えて向きを決めるんです」


 そう言いながら、器具の底に残る固定金具を指差した。


「ですが、このトラップは違います。設置された向きを見ると…」


館長は器具をゆっくり回転させた。


「池の方を向いていたはずです」

「池?」


昆陽が眉をひそめる。


「昆虫より池を向いとるんか」

「ええ。昆虫を採るなら、効率が悪い場所です。それでも、この向きで固定されていました」


研究室に静かな空気が流れた。池尻は器具を見つめたまま考えていた。採集ノート、最後の丸印、何日も続いた「池北側」という記録。そして、池へ向けられたトラップ。一つひとつは小さな断片だった。だが、本を読むように並べていくと、一つの流れが見え始める。


「昆陽さん」


穏やかな声が静寂を破った。


「ん?」

「相沢さんは、昆虫を観察していたわけではないのかもしれません」


昆陽は腕を組む。


「どういうことや」

「このトラップは、昆虫を見る向きではありません。採集ノートも事件の一週間前から、昆虫の種類より場所ばかり記録しています。つまり…」


池尻は静かに結論を口にした。


「相沢さんはこの場所で、誰かを観察していたのかもしれません」


昆陽の表情が引き締まる。


「誰か……か」

「はい。毎日同じ場所へ通う理由としては、その方が自然です」


その日の夕方。捜査本部へ戻った二人は、池周辺の聞き込み資料を確認していた。しかし、有力な証言は見つからない。


「毎日散歩しています」

「犬の散歩です」

「朝市しか行きません」


どれも決め手に欠けていた。昆陽は椅子へもたれかかる。


「あと一歩やのにな」


そのときだった。コンコン、と控えめなノックが聞こえる。


「失礼します」


部屋へ顔を出したのは稲野だった。

「おお。久しぶりやな」

「営業帰りです」


昆陽は笑顔を浮かべる。稲野は照れ笑いを浮かべながら紙袋を机へ置いた。


「差し入れです」

「ありがとう」

「それと…」


表情が少し真剣になる。池尻が顔を上げる。


「気になる話を聞きました。」

「どんな話ですか」

「営業先のおじいさんなんですけど、公園の近くに住んではる人で…夜になると、池の周りを懐中電灯持って歩いてる人を、何回も見たって」


昆陽の目が鋭くなる。


「いつ頃や」

「ここ一か月くらいやそうです。毎日ではないけど、何回か見たって。」

「誰か分かったんか」


 稲野は首を横へ振った。


「暗かったから顔までは見えへんかったそうです。ただ、懐中電灯で地面を探すように歩いとったって」


部屋に沈黙が落ちる。昆陽はゆっくり立ち上がった。


「池尻」

「はい」

「相沢さんが見とった相手、そいつかもしれへんな」

 

池尻も静かに頷く。


「可能性はあります。相沢さんは、その人を見続けていた。そして、何かに気づいた」


昆陽はホワイトボードへ向かい、大きく「池・夜間」と書き込んだ。


「よし、今日から張る」


昆陽の声に、刑事たちが一斉に顔を上げる。


「夜間の張り込みや!池周辺を重点的に警戒する」

「了解!」


部屋の空気が一気に動き始めた。


その頃、鑑識係が公園内の防犯カメラ映像を解析していた。昆虫館、売店前、遊歩道入口、病院側歩道、何十時間もの映像を確認していく、やがて、一人の鑑識員が声を上げた。


「止めてください」


映像が静止する。日付は事件前日の夜、時刻は午後八時四十三分。画面には、池へ向かって歩く相沢研究員の姿が映っていた。


「相沢さんです」


その数秒後、画面の端から、もう一人の人物が現れる。黒い帽子を深くかぶり、ゆっくりと相沢の後ろを歩いている。


「拡大」


映像を拡大する。しかし、街灯の位置が悪い。帽子のつばが影を落とし、顔はほとんど見えない。体格も年齢も判別できない。ただ、一つだけ確かなことがあった。その人物は、相沢と同じ方向へ歩いていた。鑑識員はすぐに昆陽へ連絡を入れる。電話を受けた昆陽は、静かに映像を見つめた。


「……おったか」


池尻も隣に立つ。帽子で顔を隠した人物を見つめながら、小さく呟いた。


「相沢さんは、やっぱり誰かを観察していたんですね」

 

画面の中では、二人の姿が木立の向こうへ消えていく。その先で何があったのかは、まだ誰にも分からない。だが、事件は確実に新しい一頁を開こうとしていた。


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