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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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10/30

消えた観察記録


池の北側で見つかった採集用トラップ。それが昆虫ではなく、池の方角へ向けて設置されていたこと。そして、防犯カメラには事件前夜、相沢研究員の後ろを歩く帽子姿の人物が映っていたこと。事件は確実に動き始めていた。


翌朝、県警科学捜査研究所。池尻と昆陽は、相沢研究員が使っていたパソコンの解析結果を聞くため、科捜研の担当者と向き合っていた。担当者はモニターを操作しながら説明を始める。


「相沢さんのパソコンからは、採集ノートとほぼ同じ内容のデータが見つかりました」

 

画面には表計算ソフトが表示される。日付、天候、気温、採集場所、観察した昆虫、紙の採集ノートと寸分違わぬ内容が、電子データとして残されていた。昆陽が腕を組む。


「紙とパソコン、両方つけとったんやな」

「ええ。毎日、帰館後に入力していたようです」


池尻は画面を静かに見つめる。


「几帳面な方だったんですね」

「はい。紙は現場用、こちらは保存用だったのでしょう」


担当者が次の画面を開いた。そこには空白が並んでいた。


「ですが、ここから先をご覧ください」


事件の八日前まで、記録は毎日残っている。しかし、その翌日から、空白、空白、空白。そして事件当日まで、一週間分だけが完全に消えていた。昆陽が身を乗り出す。


「入力し忘れたんちゃうんか」


担当者は首を横へ振る。


「解析しました。削除ログが残っています。誰かが消したんです」


静かな声だった。だが、その一言は部屋の空気を変えるには十分だった。池尻が尋ねる。


「復元できますか」

「一部なら可能です。ですが、かなり上書きされています。全部は戻りません」


担当者はキーボードを操作する。


「削除された日時は、事件当日の未明。午前一時過ぎです」


昆陽の表情が険しくなる。担当者が静かに答えた。


「相沢さんは、その頃には……亡くなっています。第三者が削除した可能性が極めて高いと考えています」


昆陽は椅子から立ち上がった。


「犯人は、何を消したかったんや」


担当者は首を振る。


「内容までは分かりません」


部屋に沈黙が落ちる。その中で、池尻だけは画面から目を離さなかった。削除された七日分、採集ノートには残っていた場所の記録、池の北側、トラップ、帽子の人物、それらを頭の中で静かにつなげていく。やがて、小さく口を開いた。


「…昆陽さん」

「ん?」

「犯人は、文章を消したかったわけではないのかもしれません」


昆陽が振り向く。


「どういうことや」

「採集ノートがあります。紙の記録も残っています。もし文章だけを隠したいなら、ノートも持ち去るはずです」


昆陽は黙って聞いている。池尻はゆっくりと言葉を選んだ。


「でも、ノートは残されていました。つまり消したかったのは文章ではなく、その日に観察した事実。それ自体だったのかもしれません」

 

昆陽は腕を組み直した。


「事実…か。相沢さんが見たものってことか」

「はい。誰を見たのか、何を見たのか。それを消そうとした」


担当者も頷く。


「確かに、その考え方の方が自然ですね」


復元作業は夕方まで続いた。画面には壊れたデータが少しずつ並んでいく。文字化け、欠損、読めない文章、ほとんどが断片だった。昆陽はため息をつく。


「これやと使えへんな」


担当者も苦笑する。


「もう少し時間が必要です。あっ…」


その時だった。担当者の手が止まる。


「一つだけ…完全に残っているものがあります」


モニターに表示されたのは、一つのフォルダーだった。しかし、中身は空だった。


「ファイルは削除されています。ですが、名前だけ復元できました」


池尻と昆陽が同時に画面を見る。その瞬間、池尻には、ただの記号のはずのそれが、なぜか削除された七日分の空白を埋める“最後の欠片”のように見えた。そこに表示されていた文字は、わずか三文字。


『H-7』

 

それだけだった。


「H……7。何の番号や」


昆陽が呟く。昆虫の標本番号か、研究資料の分類か、館内の展示番号か、誰にも分からない。だが、池尻にはその三文字が、単なるファイル名以上のものに思えた。意味を失った記号ではなく、むしろ意味を隠すために、ぎりぎりまで削られた痕跡のように。池尻は画面を静かに見つめた。


「相沢さんは最後に、この“H-7”だけは残していたんですね。…読んでほしかったんでしょうか」


その穏やかな一言に、昆陽はゆっくり頷く。


「そうやな。今度は、この“H-7”を読む番や」

 

モニターには、ただ一つ。意味を語らない三文字だけが静かに光り続けていた。


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