H-7の意味
科捜研で復元された、たった三文字のファイル名『H-7』それだけが、削除された一週間の記録から残された唯一の手掛かりだった。
翌朝、池尻と昆陽は再び昆虫館を訪れていた。研究室には展示資料や標本管理簿、歴代の展示カタログが山のように積まれている。館長も学芸員たちも協力的だった。館長が厚い台帳を机へ置く。
「標本番号でしたら、全部こちらにあります」
「ありがとうございます」
池尻は頭を下げ、静かにページをめくり始めた。標本には一つひとつ管理番号が付けられている。昆虫の種類、採集場所、登録年月日、貸出履歴。細かな情報が几帳面に記録されていた。池尻はH-7と照らし合わせていく。最初は、単純に標本番号だと思った。だが、ページを追うほどに、その考えは少しずつ薄れていく。
「Hで始まる番号はありますか」
「あります」
館長は答えた。
「ですがHはチョウ類ではありません。甲虫類の分類記号です。」
一覧を確認する。H-1、H-2、H-3、H-4。そこまではある。だが、その先がない。池尻は指先でページの端を押さえたまま、次の行を探した。けれど、何度見ても同じだった。館長が首をかしげる。
「……H-7はありません。欠番ですね」
昆陽が尋ねる。
「展示番号はどうや」
「展示室は別の番号体系です」
展示配置図も確認したが、一致するものは見つからない。研究室の棚、標本箱、保存庫、貸出資料。どこにもH-7は存在しなかった。池尻は台帳を閉じずに、しばらくそのページを見つめていた。番号がない。それは、ただの空白ではない。何かがあった場所から、意図して抜き取られたような、妙な不自然さが残る。胸の奥に、小さな棘のような違和感が刺さったままだった。
「違うんでしょうか」
館長が申し訳なさそうに言う。しかし池尻は静かに首を横へ振った。
「いいえ。違うということも、一つの情報です」
昆陽が笑う。
「相変わらずやな、読めへんことも読む」
池尻は少し照れたように微笑んだ。
「本も同じです。書かれていないことが、大切なこともあります」
その言葉に、昆陽はふっと息を吐いた。何もないように見える場所ほど、何かを隠している。そんな感覚が、少しずつ捜査本部の空気にも広がり始めていた。
その日の午後。捜査本部へ戻った二人は、ホワイトボードへH-7と大きく書き出した。展示番号ではない、標本番号でもない、部屋には重たい沈黙が流れる。昆陽は腕を組み、しばらくその文字を見つめていた。標本でもないなら、何だ。研究資料か、館内設備か。それとも、まったく別のものか。考えれば考えるほど、輪郭がぼやけていく。その時だった。
「失礼します」
稲野が顔を出した。昆陽が手を挙げる。
「お、今は営業中ちゃうんか?」
「今日は病院へ行ってました」
紙袋を机へ置く。
「それで、また少し気になる話を聞きまして」
池尻が顔を上げる。
「どんな話ですか?」
「市民病院の施設管理の人なんやけど、公園って木にも番号が付いてるみたいなんや」
昆陽が目を丸くする。
「木に?」
「そう、木にです。病気の管理とか剪定とか、一本ずつ番号で管理してるらしいんです」
その瞬間だった。池尻の表情がわずかに変わる。ほんの一拍。それだけだったが、昆陽は見逃さなかった。
「……樹木管理番号」
小さく呟く。池尻はその言葉を聞いたまま、しばらく動かなかった。頭の中で、ばらばらだった断片が、ゆっくりと並び始める。H-7、標本ではない、展示でもない。なら、木か。だが、まだ断定はできない。池尻は一度まばたきをしてから、静かに言った。
「……もし」
「どうした」
昆陽が尋ねる。
「H-7が、もし標本じゃなく木の番号なら」
その言葉が落ちた瞬間、昆陽の背筋がすっと伸びた。稲野も思わず息をのむ。誰も声を出さない。ほんの数秒の沈黙だったが、その短い間に、部屋の空気が変わった。昆陽が即座に言う。
「管理事務所や。確認しよう」
一時間後、三人は公園管理事務所を訪れていた。担当職員が古い管理図面を広げる。
「樹木は区域ごとにアルファベットで分けています」
池尻は図面を見つめる。A区画、B区画、C区画。池の周囲にはH区画の表示があった。その文字を見た瞬間、池尻の胸の奥で、何かが静かに繋がる音がした。まだ確信ではない。けれど、無関係ではない。担当職員の指が止まる。
「……ありました、H-7」
三人が同時に身を乗り出す。そこには一本の木が記されていた。クヌギ、場所は…池の北側。採集ノートの丸印。そして採集用トラップが見つかった林。まさに同じ場所だった。池尻は図面とノートを交互に見た。丸印、池北側、H-7。それぞれ別々に見えていたものが、一本の線で結ばれていく。その線の先に、まだ見えていない何かがある。池尻は無意識に息を止めていた。昆陽は思わず息を吐く。
「当たりやったな」
池尻は静かに頷く。
「相沢さんは、木を記録していた」
そう言いかけて、池尻は一度言葉を切った。違う、それだけでは足りない。木そのものを見ていたのではない。木の向こうにあるものを見ていたはずだ。池尻は続ける。
「いえ、木そのものではありません。その木から見える景色を…」
稲野も地図を見つめる。
「じゃあ、毎日あそこへ行ってた理由は…」
池尻は少しだけ目を伏せた。その理由を、まだ口にしてはいけない気がした。だが、言葉は自然にこぼれる。
「観察ですね」
短い間があった。誰を、何を、その問いが、部屋の中にだけ残る。
「誰かを……」
池尻は穏やかに答えた。その一言で、空気がさらに重くなった。三人はすぐに現地へ向かった。夕方の公園は穏やかだった。犬の散歩をする人、ジョギングをする学生、親子連れ。事件など忘れてしまいそうな風景が広がっている。だが、池尻の目には、その平和さがかえって不穏に映った。こんな場所で、こんな何気ない景色の中で、相沢は何を見ていたのだろう。林へ入る。池の北側、採集用トラップがあった場所。そして一本の大きなクヌギ。
「これか」
昆陽が見上げる。樹齢何十年にもなる立派な木だった。幹は太く、枝葉は池の方へ大きく張り出している。池尻はゆっくり木へ近づいた。何も言わず、幹を見つめる。夕方の光はすでに傾き、葉の隙間から落ちる光が、樹皮の凹凸を細かく浮かび上がらせていた。近づくほどに、木の匂いがした。湿った土と、乾いた樹皮と、かすかな青い葉の匂いが混じっている。池尻は指先を伸ばし、そっと幹に触れた。ざらり、と硬い感触が返ってくる。長い年月を重ねた樹皮は厚く、ひび割れ、ところどころ白っぽく乾いていた。その中に、池尻の視線がぴたりと止まる。ほんの一瞬だった。見間違いかもしれない。そう思うほど小さな違和感だった。
「……昆陽さん」
「どうした」
池尻は一点を指差した。
「ここです」
昆陽が身をかがめる。最初は、ただの傷に見えた。だが、目を凝らすと違った。樹皮の表面が、細く、四角く削り取られている。爪で引っかいたような浅い傷ではない。もっと意図的で、もっと正確な跡だった。木肌の茶色の下から、まだ新しい淡い色がのぞいている。そこだけ、時間が止まったように見えた。さらに少し離れた位置にも、同じような傷がある。二つ、上下に並ぶように。間隔もほとんど揃っている。まるで何かを固定するために、同じ場所へ繰り返し手を入れたようだった。昆陽の顔つきが変わる。
「誰かが…傷付けたんか」
池尻は静かに首を振った。
「違います」
その否定は、思ったよりも早かった。まるで、傷そのものより先に、そこへ至る意味を見つけてしまったように。
「これは……」
もう一度、傷跡を見つめる。指先で触れると、削れた部分はわずかにざらつき、周囲よりも冷たかった。そこだけ樹皮が薄くなり、内側の柔らかな層が露出している。風が吹くたび、その傷口のような部分がかすかに白く光った。池尻は短く息を吸った。次の言葉を口にするまで、ほんのわずかな間があった。その間に、彼の中でいくつもの可能性が消えていく。ただの傷ではない、ただの採集跡でもない、何かを掛けていたのか、何かを向けていたのか。それとも―…。
「何かを取り付けていた跡かもしれません」
その言葉が落ちた瞬間、林の空気が少しだけ重くなった気がした。夕暮れの風がクヌギの葉を揺らす。ざわ、ざわ、と枝葉が擦れ合う音が、まるで木自身のざわめきのように聞こえる。三人は誰も言葉を発しなかった。池の向こうでは、まだ子どもの笑い声がしている。遠くでは自転車のベルが鳴った。けれど、この木の周りだけは、別の時間が流れているようだった。長い年月、この木だけが見続けてきた景色がある。誰が来て、誰が立ち止まり、誰が何を見ていたのか。そのすべてを、この幹は黙って受け止めていたのかもしれない。池尻は傷跡を見つめたまま、ふと息を呑んだ。胸の奥で、何かが静かに繋がる。
H-7、丸印、池北側、クヌギ。
その一本の線が、ようやく形を持ち始めていた。だが、まだ終わりではない。むしろ、ここから先に本当の意味がある。夕暮れの光がさらに傾き、クヌギの幹に落ちる影を長く伸ばしていく。その影の先に、まだ見えていない何かが潜んでいるような気がして、昆陽は無意識に周囲へ視線を走らせた。静かな林の奥で、何かがこちらを見返している。そんな不穏な予感だけが、冷たい空気のように三人の間へ残った。




