木が見ていたもの
池の北側に立つ一本のクヌギは、夕暮れの薄闇の中で、まるで何かを黙って抱え込んでいるように見えた。相沢研究員が最後まで記録を残そうとした「H-7」。その幹には、四角く削れたような二つの傷跡が残されていた。長い年月を経た樹皮の中で、その部分だけが不自然に新しく、そこだけ空気の温度まで違っているように感じられる。林は静かだった。だが、その静けさは安らぎではなく、何かが息を潜めている気配に近い。葉を揺らす風の音さえ、どこか遠くで誰かがこちらをうかがっているように聞こえる。昆陽は傷跡へ顔を近づけた。視線は鋭いが、その奥には嫌な予感が沈んでいる。
「これ…虫取りの跡やないんか」
池尻は樹皮へそっと指を添えた。触れた瞬間、木肌の冷たさが指先に伝わる。そこに残る痕跡は、ただの傷ではなく、何かを隠そうとした意図そのもののようだった。
「違うと思います」
「どうしてや」
「昆虫採集なら、樹皮を削る必要がありません」
池尻は傷の間隔を静かに測る。声は落ち着いているが、その目はすでに別の景色を見ていた。上下ほぼ同じ幅、左右の位置も揃っている。偶然にできた傷ではない。むしろ、何度も同じ場所に同じものを押し当てた結果のように見える。
「それに、二か所とも同じ深さです。誰かが同じ器具を固定した跡のように見えます」
昆陽も黙って傷を見つめた。夕闇が濃くなるにつれ、木の幹の影が長く伸び、傷跡をさらに不気味に際立たせる。
「つまり、何か取り付けとったってことか」
「はい」
池尻はゆっくり頷く。
「昆虫を採るためではなく、観察するための機材だった可能性があります。例えば…」
一拍置く。その間に、林の奥で鳥が一声鳴いた。けれど、その声はすぐに闇へ吸い込まれ、返事はない。
「小型カメラ…あるいは定点観測用の記録装置です」
昆陽は腕を組み、大きく息を吐いた。吐き出した息は、胸の奥に溜まっていた不快な確信のようでもあった。
「相沢さんは、ここから誰かを見とった」
「その可能性があります。」
その日のうちに鑑識が傷跡を詳しく調べた。樹皮には古い金属の微粒子がわずかに残っていた。さらに、固定具による圧迫痕も確認される。長く放置されていたはずなのに、その痕跡だけは妙に生々しく、まるで昨日までそこに何かがあったかのようだった。鑑識担当者が報告書を読み上げる声は淡々としていたが、その内容は静かな部屋の空気をじわじわと冷やしていく。
「昆虫採集用のロープや器具ではありません。一定期間、金属製の装置が固定されていたと考えられます」
昆陽が尋ねる。
「監視カメラみたいなもんか」
「断定はできません。ですが、小型機器の可能性は高いでしょう」
池尻は静かに報告書へ目を落とした。紙の上の文字は整っているのに、その意味だけが不穏に膨らんでいく。
「相沢さんは、何日も同じ場所へ通っていました。つまり一度だけ見るのではなく、変化を観察していた」
昆陽も頷く。
「誰かの日課、あるいは待ち合わせ。そういうもんを見張っとったんかもしれへんな」
その言葉のあと、部屋には短い沈黙が落ちた。だが、それは空白ではない。まだ言葉になっていない恐怖が、机の上に薄く積もっているようだった。
翌日、三人は公園管理事務所を再び訪れていた。今度は公園全体の設備図面を確認するためだった。窓の外では、昼の光が白く広がっているのに、事務所の中は妙に薄暗く、紙の匂いと古い空調の音が、閉じ込められた空気をさらに重くしていた。担当職員が大きな図面を机へ広げる。
「こちらが防犯カメラの配置です」
遊歩道、売店前、保育園側入口、市民病院側通路。公園の主要な場所はほぼ撮影されている。だが、図面を見つめるほどに、見えているはずのものより、見えていない部分のほうが気になってくる。昆陽は図面を指差した。
「H-7はここやな」
「はい」
担当職員が頷く。
「その木の周辺は…」
定規を当てながら確認していくうちに、職員の表情が少しずつ曇っていった。何かを思い出したというより、思い出したくなかったことに気づいたような顔だった。
「あれ…?」
「どうしました」
池尻が尋ねる。
「ここだけ、映りません」
「え?」
担当職員は別の図面も取り出した。
「池の北側は木が多くて、昔から死角になっていたんです。カメラを設置しても枝葉で見えないので、現在もこの範囲だけ撮影できません」
昆陽は静かに図面を見つめた。紙の上の線はただの配置図にすぎないはずなのに、そこに空白があるだけで、まるで誰かが意図的に切り取った舞台のように見える。そして低い声で言った。
「……なるほどな。犯人は、この死角を知っとった」
昆陽はゆっくり顔を上げる。誰も返事をしない。その一言に、部屋の空気が張り詰める。偶然ではない。相沢が観察していた場所。採集用トラップ。H-7。そして防犯カメラの死角。すべてが一本の線でつながり始めていた。だが、その線の先にいる人物の顔だけが、まだ闇の中に沈んでいる。管理事務所を出たあと、公園を歩きながら池尻が静かに話した。
「昆陽さん」
「ん」
「本を読むとき、作者は読者に見せたい場面だけを書きます。見せたくない場面は、行間になります」
昆陽は少し笑う。だが、その笑いには余裕がない。むしろ、池尻の言葉が自分の中の不安を正確に言い当てたことへの苦さが混じっていた。
「また本の話か」
「はい」
池尻も小さく笑った。けれど、その笑みはすぐに消える。公園の木々の間を抜ける風が、どこか冷たく感じられたからだ。
「今回の事件も同じです。犯人は防犯カメラの行間を選んだ。つまり、映らない場所を知っていた。」
昆陽は頷く。
「せやから相沢さんは、そこを見張っとった」
「ええ。何かがおかしいと気づいていたんでしょう」
池尻の声は静かだったが、その静けさの底には、相沢が何を見てしまったのかという問いが沈んでいる。答えが近づくほど、事件の輪郭ははっきりするのに、真相はむしろ冷たく遠ざかっていくようだった。
その日の夕方、捜査本部では夜間の警戒計画が進められていた。昆陽は地図を前に刑事たちへ指示を出す。机の上の蛍光灯が白く光り、地図の上に伸びる指先の影が、まるで別の誰かの手のように見える。
「死角を中心に配置する。相手は土地勘がある。先回りされへんよう注意して動いてくれ」
「了解」
刑事たちが部屋を出ていく。扉が閉まるたび、廊下の音が遠ざかり、残された空間が少しずつ狭くなるようだった。残った池尻は、窓の外を見つめていた。公園の木々、池、昆虫館。すべてが穏やかな景色に見える。だが、その静けさの中に誰かが隠れ続けていた。昼の光に紛れ、夜の闇に溶け、誰にも気づかれないまま、ずっとそこにいたのかもしれない。相沢は、その存在に気づいてしまったのだ。その時、昆陽の携帯電話が鳴った。
「俺や」
相手は科捜研だった。昆陽の表情が少しずつ変わる。最初はただの連絡を受ける顔だったのに、次第に眉間に深い皺が寄り、何かが確かに動いたことを示していた。
「……分かった。今から行く」
電話を切る。池尻が振り返る。
「何か見つかったんですか」
「ああ、復元データの続きや」
二人は急いで科捜研へ向かった。夜が近づくにつれ、街の輪郭はぼやけ、車窓の外の景色は黒い帯のように流れていく。言葉は少ない。だが、沈黙の中にある緊張は、むしろ増していた。担当者がモニターを操作する。
「削除データの断片から、画像ファイルを一枚だけ復元できました」
画面が切り替わる。夜の公園、ぼやけた木立、手ぶれの激しい写真だった。暗がりの中で撮られたその一枚は、何かを隠そうとしたのか、それとも急いで残したのか、判別できないほど不安定だった。担当者が説明する。
「事件前夜に撮影されたものです。人物の全身は写っていません。ですが…」
画像を拡大する。帽子をかぶった人物の腕だけが映っていた。顔は見えない。服装も暗く判別できない。だが、そこに写っているのが偶然ではないことだけは、誰の目にも明らかだった。しかし、左胸のあたりで小さく光るものがあった。担当者がさらに拡大する。青い翅を広げた蝶の形。金属製の装飾品だった。
「ブローチ…」
昆陽が呟く。その声は低く、ほとんど息のようだった。だが、その一言で、部屋の空気がさらに冷えた。池尻は画面を静かに見つめる。
「オオムラサキ」
その声は穏やかだった。けれど、穏やかであることがかえって不気味だった。感情を抑えた声の奥で、何かが確実に形を持ち始めている。
「青い蝶ですね」
誰かが意図して身につけていた、一匹の蝶。それは事件で初めて現れた、犯人へとつながる確かな手掛かりだった。だが同時に、それは相沢が最後に見たものの一部でもあるのかもしれない。そう思うと、ただの装飾品が急に冷たい証拠品へと変わる。静かなモニターの光の中で、その青い蝶だけが、夜の闇に浮かぶように輝いていた。まるで、まだ終わっていない何かを、こちらへ無言で差し出しているかのように。




