青い翅の記憶
事件前夜に撮影された一枚の写真。そこには帽子を深くかぶった人物の姿はほとんど映っていなかった。ただ一つだけ、妙に鮮明に残っていたものがある。胸元で夜の光を受け、小さく輝く青い蝶。それはオオムラサキをかたどった、美しいブローチだった。だが、拡大されたその翅は、ただ綺麗というだけではなかった。左右の模様はわずかにずれ、金具の留め方も少し不自然に見える。まるで、急いで身につけたものを、あとから何度も指で確かめたような形だった。さらによく見ると、翅の縁には細かな塗りムラがあり、工業製品の均一さとは少し違っていた。どこか、手で色を重ねたような温度がある。標本箱の中で静かに留められた蝶を思わせる一方で、子どもの工作のような素朴さもあった。そのちぐはぐさが、池尻の記憶に強く残った。
そしてもう一つ。その青は、ただ明るいだけの青ではなかった。夜の闇に浮かぶにはあまりに鮮やかで、かえって冷たく見える青だった。まるで、誰かの胸元に留められたまま、ずっと何かを見ていたような色だった。
翌朝、警科学捜査研究所。池尻と昆陽は、復元写真の追加解析結果を待っていた。担当研究員が大型モニターへ画像を映し出す。
「写真そのものの画質は高くありません。ですが、AI補正と複数の画像処理を組み合わせた結果、ブローチの形状はかなり鮮明になりました」
画面いっぱいに拡大された蝶が映る。翅を大きく広げた姿。前翅から後翅へ流れる柔らかな曲線、深い青色の模様。池尻は静かに見つめた。
「……オオムラサキですね」
研究員も頷く。
「日本の国蝶です。細部まで忠実に再現されています」
昆陽が腕を組む。
「市販品なんか」
「その可能性は低いです」
研究員は別の資料を表示した。
「アクセサリー専門店や昆虫グッズ販売店の商品も調べましたが、一致するものはありません。翅の模様も左右で少し違います。手作業で彩色された可能性が高いでしょう」
昆陽が目を細める。
「誰かの手作りか」
「ええ。一点物でしょう」
その言葉に、池尻は画面の中の蝶をじっと見つめた。綺麗なはずなのに、どこか標本のようにも見える。生きた蝶ではなく、留められた翅。その印象は、薄い膜のように視界の端へ残り続けた。そして、ふと胸の奥に引っかかるものがあった。この蝶は、ただの装飾品ではない。誰かが「好きだから」作ったものではなく、誰かが「忘れないため」に作ったもののようにも見える。そう思った瞬間、池尻の中で、まだ名前のない不穏さが静かに形を持ちはじめた。科捜研を出ると、昆陽は車へ乗り込みながら言った。
「一点物なら、見たことある人がおるかもしれへんな」
「はい」
池尻も助手席で頷く。
「本と同じです。有名な本なら忘れることもありますけど…世界に一冊しかない本は、読んだ人の記憶に残ります」
昆陽は苦笑した。
「また本の例えやな」
「すみません。でもこのブローチも、誰かの記憶に残っている気がします」
池尻はそう言いながら、窓の外へ視線を向けた。夏の光の中で、公園の木々が静かに揺れている。その青い蝶だけが、なぜか昼間の景色の中でも夜の匂いをまとっているように思えた。まるで、昼の中に置かれてはいけないものが、ひとつだけ紛れ込んでいるようだった。
二人は昆虫館へ向かった。館長をはじめ、学芸員や受付職員、清掃スタッフまで、一人ずつ写真を見せながら話を聞いていく。しかし……。
「このブローチに見覚えはありませんか」
「初めて見ます」
「綺麗ですね」
「誰のでしょう?」
誰も首を横に振るばかりだった。中には、写真を見た瞬間に一瞬だけ表情を曇らせる者もいたが、すぐに視線を逸らしてしまう。池尻はその小さな変化を見逃さなかったが、あえて何も言わなかった。ただ、曇った表情の奥に、言葉にできない記憶が沈んでいるように見えた。誰かが知っている。けれど、思い出したくない。そんな沈黙が、写真一枚を挟んで確かに漂っていた。
午後になると、聞き込みの範囲は昆虫館の外へ広がった。長年ボランティアを続けている男性、毎週昆虫写真を撮りに来る常連客、散歩中の老人、子どもを連れた母親、誰もが協力的だった。だが、決定的な証言は得られない。
「蝶のアクセサリーなら見たことあるような…」
「いや、違うかな」
曖昧な記憶ばかりだった。昆陽はため息をつく。
「一点物やのに、誰も覚えとらん」
池尻はベンチへ腰掛け、公園を見渡した。夏の日差しを受け、池の水面がきらきらと揺れている。その光は美しいはずなのに、どこか落ち着かない。水面に映る木々の影が、風に揺れるたびに細く裂けて見えた。
「昆陽さん」
「ん」
「人は物そのものより、誰が身につけていたかを覚えていることがあります。ブローチを探すより、人を探した方が早いかもしれません」
昆陽は小さく笑った。
「そうやな、読書家らしい考えや」
池尻は頷いたが、その視線は池の向こうの林へ向いていた。あの青い蝶は、誰の胸元にあったのか。そして、なぜ今になって、事件の夜にだけ姿を現したのか。答えはまだ見えない。だが、見えないこと自体が、かえって何かを隠しているように思えた。
その夕方、池尻の携帯電話が鳴った。
「もしもし」
『池尻くん』
稲野だった。
「お疲れさまです」
『今日、市民病院へ営業に行ったんやけどな…そこで公園の話になったんよ』
池尻は姿勢を正す。昆陽も横から耳を傾ける。
「何かありましたか」
『昔、公園で昆虫教室を開いとった先生がおったらしい。子どもらにめちゃくちゃ人気やったみたいで、その先生が青い蝶のアクセサリーをよう作っとったそうなんよ』
池尻と昆陽は顔を見合わせた。
「手作りですか」
『手作りみたいやわ。子どもらに記念で渡したり、自分でも胸につけたり。オオムラサキが好きやったって言ってたわ』
昆陽が思わず声を上げる。
「名前は分かるんか」
『それが病院の人も名字しか覚えてへんのです。“先生”って呼ばれとったみたいで…昔、昆虫館で働いとった女性やそうです』
稲野の声はいつも通り明るかったが、その話だけは妙に輪郭が曖昧だった。誰かの記憶の中にだけ残っている人物。それが、かえって実在感を薄くしているようにも思えた。だが池尻には、その曖昧さが逆に引っかかった。青い蝶を作る人、胸につける人、子どもたちに渡す人。写真の中のブローチと、どこかで一本の線がつながっている気がした。しかも、その線はただの思い出ではなく、長いあいだ誰かが触れずにいた傷口のようにも感じられた。
翌朝。昆虫館の人事記録を確認すると、一人の女性職員の名前が浮かび上がった。十年以上にわたり昆虫教室を担当。子ども向けの観察会や工作教室を数多く企画している。館長が懐かしそうに話した。
「子どもたちから、とても慕われていました。昆虫を好きになる子が増えたのも、あの人のおかげです」
池尻は静かに尋ねる。
「今は、どちらに」
館長の表情が少し曇る。
「……分かりません。三年前だったと思います。突然、退職されたんです」
「急病ですか」
「いえ。、理由は…」
館長はゆっくり首を横へ振った。
「誰にも話さないまま、辞められました」
職員たちも同じだった。
「送別会もありませんでした」
「翌日から来なくなって…」
「気がつけば退職届だけが提出されていました」
昆陽は静かに資料を閉じる。
「三年前、何かがあったんやな」
池尻も窓の外の木々へ目を向けた。青い蝶のブローチ、昆虫教室の先生、突然の退職。それは偶然とは思えなかった。しかも、写真の中の青い蝶は、ただの装飾品には見えない。誰かが大切に作り、誰かが長く身につけ、そして何かを隠すように胸元へ留めたもの。その人物が、もし昆虫教室の先生だったとしたら。なぜ今になって、事件の夜に現れたのか。池尻の胸の中で、青い蝶と女性の輪郭が少しずつ重なっていく。静かだった昆虫館に、また一つ、新しいページが開かれようとしていた。そしてそのページの先には、三年前に閉じられたままの、誰にも読まれていない記録があるように思えた。青い蝶は、美しい記憶の象徴であると同時に、何かを隠したまま飛び去った痕跡にも見える。池尻はそのことを、まだ言葉にはしなかった。だが、胸の奥ではもう、次の頁をめくる音がしていた。
「翅」とは、主に昆虫類が飛翔のために持つ器官や鳥類の翼を指す漢字。




